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萌えから妄想する心の構造

 

 

松本 晶


  

 

萌えを巡る議論の衰退

 

 萌えという用語も2004年の流行語大賞にノミネートまでされ、その新鮮さを失いつつある今日この頃ではありますが、皆様如何お過ごしの事でしょう? このコトバもオタクという用語と供に、このテの業界ではすっかり人口に膾炙して、ごく当たり前になってきた状況ではありますが、したり顔で「萌えという言葉も消費され尽くしたワイ」などと語るのは実は私だったりして、我ながらヤな感じなのですが(さらには本稿が「連邦」的な書き方になっているのも何か覚えたての関西弁を得意げに喋っているバカのようで読んでいる方も不快かもしれませんが、本人は蓮見重彦流のつもりだったりするもっとバカの壁以下なのでご勘弁を)、実際のところ東浩紀氏の『動物化するポストモダン』について、たとえそれが否定的に語られたことが多すぎたとは言え、その一時的な「萌え」に関する議論の僅かな盛り上がりの後には、何かあまり有用な言説が見出せないままに荒涼としたオタクの言論空間だけが残ったような気がしたりするのですが、それはコトバの勢いで言ってみただけで、実はそんな言論などはハナから存在しなかったのかもしれません(イキナリの長文悪文スイマセン)。

 というよりも、東氏やWWFを含めたネットや同人の論客の皆々や不肖ワタクシが色々語ってきたことのなかに、私たちが初めて「萌え」という用語を見たり聞いたりした時に感じた、あの何とも言えない胸のモヤモヤとか「つかえ」が取れたような感覚というか、スッキリとした言葉の収まり具合の良さに対応するような的確な言葉をどこにも見出せていなかったように感じるのは私の傲慢でしょうか? 実は言葉で的確に対応できないことだからこそ、重要な概念だというのがオチであるにせよ、それをしつこく言葉でやろうというのが文章書きのサダメですからどうしようもないわけで、そこに拘るからにはマトモな話しでは収まりきらないのは仕方ないにせよ、非言語領域を語るにはそのような力不足を常に意識しつつ考えていかなければならないのでしょう、と言うのは単なる自戒です。そのような自己言及や自己撞着や嘘吐きパラドックスやゲーデル的状況はあとで色々出てくるので(出すつもりなので?)、まあここはヨシとしてください。

 ただ想像するに、きっと東氏なんかは機を見るに敏なので、動物化を語ったあとは、何か皆の賛同がイマイチ得られないんで退散した、とゆーよりも、このような困難な状況を察して? 萌えの消費者を巡る言説を離れ、非言語的な場を求めて対談形式的な作品論とか作家論というような「あっち側」に行っちゃった感じがするわけで、登坂氏(誰? と思う人はWWFバックナンバー買うこと)がコスプレ論に行っちゃったくらいにオジサンとしては非常に寂しいカンジがします。

 というわけであとは地道にうじうじと理論を進めるしかないのですが、ワタシが前回WWFにおいて萌えに対するイキオイをブースターとして書いた萌えと複雑系とカオスのハナシとかも、今見ると何だか他人に了解不可能な統合失調症的な文章であるのがとっても恥ずかしかったりするわけですが、それに懲りずに今回もそれ以上に調子コイてもっと妄想を広げる所存です、ハイ。

 

 というわけで(何が?)、一般に思われているように、萌えが単に二次元的な美少女などへの憧憬、偏愛や執着や性欲の変形、動物的な反応であったとして、ではそのような説明で例えばワタシがキャラ萌えする理由、シナリオ萌えする理由とかが自分の気持ちとしてスッキリと腑に落ちるでしょうか? それに対して「知ったことか」とか「アニオタきもい」等のお叱りを受けるとしても、そのテの「外から見てアレコレ」というような説明だけでは、あまり納得の行く解が未だ出てこないのはよくあることですが、単にそれが内在的説明ではなく外在的説明であるから、という理由もあるでしょうが、それはあまり有用な議論にならなさそうなので、もうちょっと別の考え方が必要でないかと思うわけです。

 で、例えば自分のことで恐縮なのですが、ちょっと前にスパロボ美少女のガシャポンが発売されて、それをコンプリートにゲットしようと考えた時の異常な感覚の昂ぶりは、自分自身の意識だけではとても説明出来ないような、ジブンの中に萌えのオタク的素因があるように感じられました。(余談ですがフォースの御加護もあり、重複たった一個だけで全種もとい全員ゲットしたというカミサマを信じられるような結果でした、合掌:別に仏教系信者ではありません)。ここでちょいと考えましたが、果たして萌えは「意識」の問題だけで考えてよいものかと。むしろ今回のジブンの行動は「意識」の側が萌えているように思えても、「前意識」や「無意識」と言った意識に上らない心的システムのほうが主導権を握っているのではないかと(意識に上らないのに意識に影響するとは論理矛盾みたいな気もしますが)。ではそれをもって「動物化」と言うかと言えば、それは意識の傲慢ではないかと思うわけですが、なぜなら意識以外の領域ではパブロフの犬的な反射的反応しかないというような思い込みは、様々な心理学的実験や心的システムの研究からは否定されているわけですから(ホント?)。

 前回ワタシはこのWWFの「萌え特集」で、萌えとは「意識システム」がそれ以外の心的システムの動きを許している状態であることを述べたわけですから、こりゃ丁度イイというわけで、今回はヤマカンやエセ精神分析なオチだけではなく、脳による情報処理の仮説からもその仮説について整合性のある結論が出そうかな出ないんだろうなぁ、というのが今回のオチでありまふ。というか、結局萌え&オタクの問題は、ヒトの心の動き方や構造についての普遍的問題の応用問題であり、最新脳科学であろうがコンピュータ科学であろうが哲学であろうが数学であろうが精神分析であろうが、そのことについては誰もよく分かっていないんだから、オタクの萌えという心性についてだって皆判らなくて当たり前じゃないかという、実も蓋もない結論でした。

 ならば後は、『濃爆おたく先生』方式よろしく、如何に面白い妄想を広げるかという方法しか思い浮かばないわけですが、単に出鱈目ならば所詮『ボボボーボ・ボーボボ』なんかのデタラメさに敵わないんで、SFと同じように、ある一定の知識と前提に適合しながらどう面白いウソをつくかと言うことになるのでしょう。って言っても、いつもそうしてたわけですが。今回の結論というかお題は、クオリアと精神分析と心的構造とユーザーイリュージョンです。関連書籍ならこれらのキーワードですぐ出てきますので、WWFを見てゼミやら卒論の参考にしているという奇特な方のウワサも耳にしているデスから、そんときは当同人の出典も論文の最後にちゃんと明らかにしてくださいね(禁・無断転用)。

 

前回のあらすじと今回のまとめ

 

 では素直に前回の続きから行きましょう。そのときの私の主張は、心の構造とゆーか働きは複雑系で言うところのカオスやカオスの淵での振動、リミットサイクル、そのようなイメージで捉えうるという漠然とした与太から始まり、そのなかでも情動や感情などは、ある一定のリミットサイクルとかに対応していて(つまり脳の局所説ではなくて機能的な説明)、萌えという感覚は、少なくとも二つ以上の感情(例えば可愛さと性欲と愛情と収集癖的感情:心的補完と慈愛とか色々)、すなわちそれらリミットサイクルの間を間断なく行き来して一つ場所に落ち着かないままに「安定」している、そんな状態なのではないかというチョッカント主義的な妄想を語ってみたりしたわけでした。このタイプの心性の特殊性や優れている? トコロは、心的位相空間内の一つところに落ち着かないので、精神分析学的エネルギー論で言えば低いエネルギー准位で安定せず、そのため慣れや飽きるということに耐性が強く(現実世界での愛情の経年劣化の厳しさはヨメさんいる人ならよく分かることでしょう合掌)、さらに精神分析的には禁圧や抑圧という心的検閲を受けにくいために心的システム上も健康によろしいということと、さらには実際の心的メカニズムをカオスという言葉でかなり誤魔化せる利点がある妄想であって、さらには心的システムがカオスで描写しうるということは最近の科学の本職の人が語っている根拠や論文にもあるというわけで、なんかオタクの陰性のイメージを惹起しにくいというのもお気に入りです。実際は『ラブやん』のカズフサ以上に引く情景だったりするんデスけどね(って誰に同意求めてるか不明)。

 

 しかしこの萌え=マルチ・リミットサイクル論(たった今命名)には、所詮与太だと諦めるとしてもその前提にかなりの難点、というか幾つもの面白そうな問題を脇にどけて、砂上の楼閣に理論(笑)を築いていたように思えます。それとは少なくとも以下の三つの点ですので、まず箇条書きしましょう。

 ひとつめは、最近よく本を書いている茂木健一郎氏が言うところのクオリアの哲学? 科学? (唯心的モナド論と勝手に解釈)と、ラカン派なんかの精神分析のドグマ(唯言語論? と勝手に解釈)の整合性の問題で、テツガクでいうところの認識論に関わること。認識論に関しては哲学のみならず心への情報入力、解釈、判断などのメカニズムの問題が出てくるわけですが、オタクにおける萌えを語るにはそれら全てに関する常識や思い込みを排除しなければならないかもしれないということ。今回は特に「情報」について考えてみました(パクってみましたの間違い)。

 二つ目は意識と前意識と無意識というような心的システムについての問題で、数学から脳科学から哲学やら精神分析やら心理学すべてにわたる問題で様々な切口、側面があるでしょうが、ワタシが最も気になるのは、それら心的システムについての考え方が、狂気も含め心的過程すべてを合理性や整合性でもって考えていてヨイのだろうかという、よく分からない疑問です。特に脳科学を中心として語られてきた様々なモデルも心的過程の本質を全て合理性というか、心的システムも進化的淘汰圧に耐えてきたのだから何らかの必然性があるだろう、というような合目的性にモデルの妥当性の根拠を求めているのですが、そこではヒトの非合理的・意識外の側面を無視してるように見えるのだけど大丈夫? 実は単にそのような広義の合理性が気に入らないという話。というよりもヒトの「意識」システムは生存に対する合理性と心的システムの齟齬があるところに始めて生じると私は考えるわけで、理由は岸田秀的唯幻論(と勝手に私が考えているもの)からくるのですが、意識や時間の概念は悔恨とともに発生した心的システムではないかというチョッカンで、それをどうこじつけていくかが本稿の目的のふたつめです。意識が非合理なシステムであるはずなのに、語るべき主体は合理主義であることを強いられるという矛盾とも関連していますかね?

 三つめは数学的な問題であって私にはとても歯が立たない分野ですが、要するにニューロンの活動から意識をモデル化できるか、そしてそれがモデル化できたとして、それが私たちの心的過程の「理解」「納得」に何らか有用なものとなりえるのか、という問題です。以上について書いて見ようと思いますが、例によってキット途中で果ててしまいそうな予感デス。

 

なぜ萌えを考えるのか語るのか

 

 さてその前にチョット寄り道、というかもう一度目的をハッキリさせておきましょう。と言うのも、だいたい私は萌えの話しをしていた筈なのですが、なんでこんな認識論だとか意識とカオス、情報の問題とかを書いているのかについての言い訳です。 それは萌えの問題の一番の根底は(当たり前だとは思うのですが)、なぜ私たちオタクは(実はオタクに限らないのですが暫定的にオタクに限定しておきましょう)実在のニンゲンから遠くデフォルメされた形状や仕草にさえ、なぜ惹かれて止まないのかという疑問にあると思うからです。そのことを分析するためには、まずそのようなアニメの映像や音声なりマンガ絵などを認識するにあたって、私たちはそれを心的構造のどのレベルで認識し情報処理しているのか、すなわち意識、前意識、無意識、さらにそれを超えて感覚それ自体のクオリアなどの、どのレベル、と言うかどのような単位で認識し理解判断行動しているのか、そしてそれらの間の関係や仕組みはどうなっているのかという、何だか当たり前すぎて疑問にもならないようなことから始めなければならないと思うからです。そしてそれらを統合してひとつの私という人格を形成するにあたって、ここではオタクという人格を形成する「方法」はどんなものなのか、という問いにまでつながってくる壮大なモンダイになりそうだと私は考えているからです。さらに以上の問題を更に越えて、アニメ絵だけではなく、ヒトがものごとを認識する方法とはどんなものなのか、アニメと実写を異なった方法で認識しているのか、それとも実は同じ心的過程なのか、というような問いが思い浮かんだりして、これはヒトの心的構造や外界の認識メカニズムの解明と深く関わりそうなヨカーンがするわけです。

 つまり私はオタクの世界や情報の認識方法や人格を特別視して今回の萌えに関する考察を行おうとしているわけではありません。精神分析の理論を信じるならば、ヒトは生まれながらに全員が多型倒錯であり、また全員が神経症者であるわけで、オタクの萌えに病理的な側面を強調することに私は基本的に反対です(勿論、オタクの中に境界例を超えてヤバい人たちがいることを否定するものでもありませんが、それが「一般人」と比べて比率的に多いとか質的にヒドイのか、となどについては不明です)。ただ、ヒトの認識について考えるときに、普通のヒトが他のヒトに惹かれる際のメカニズムは何? みたいな問題でコレをやろうすると、何だか普通で当たり前過ぎて分析の端緒がつかめなかったりするわけですが、これが「オタクはどうして萌えキャラに惹かれるのか? 」というような愛の極北(笑)みたいな形になれば、それがヒトのヒトたる所以を象徴するような事例であるからこそ、そこからヒトの認識の普遍的な要素が見えてくるのではないかと思われます。ガクモンはいつも例外や説明できないこと奇妙なことがらを包括することによって進歩してきたのですから(大上段すぎー)。

 ただ、正直言ってこれはあまりにも大問題であって、現在の私たちが持ち合わせている手持ちの知恵や知識で簡単に結論が出るようなものではないと思われます。しかしウレシイことに最近になり意識や認識の仕組みについて解明されてきている「事実」と、オタク萌え現象に通底するものがイッパイあるために、ついその妙チクリンな組み合わせに嬉し恥ずかしでこの稿を書いてしまっている、と言うわけです。つまり? それらを援用することで、萌えやオタクに関する言説について、以前は単に直感的におかしいとしか思っていなくて、情緒的にしか反論できなかった事柄に対して、ある程度の「根拠」を挙げながら反論出来たりするんで、結構有用ではないかと思います。

 例えば、東氏提唱するところの動物化の理論の根底には、二次元のアニメ絵や萌え絵と呼ばれる絵には「情報量」が少ないハズだという無言の前提、すなわち簡単なパターンの組み合わせであるからキャラの絵の情報量は少ないという思い込みがあるように思えますが(情報量が多いのならば、それに反応するパターンが決まっていたとしても、その選択の組み合わせは膨大になり、そのような「複雑」な意思決定行為を「動物化」とするには無理あると思われるから。それでも更に、萌えでは入力に対して出力が一意に決まってくるように見えるから動物的だと言われるのなら何をか言わんやデスが)、では本当に二次元の絵の「情報量」は「普通にヒトを認識すること」に比べて少ないのでしょうか? これはアタリマエのように思えますが、実は情報、コミュニケーション、脳での情報処理、意識や心的構造全てが関連するような、かなりムツカシイ話になると思うのです。ただ、オタク以外は萌え絵に過剰に反応することもないので、この問題意識に気付かないだけであり、ここにこそ萌えとオタクを語る意味合いがあると私は考えています。というわけで言い訳は終わりにして、本論に入りましょう。

 

 

オタクにおける萌えと情報:

 

萌える情報論 (1)

 

 まずしょっぱなの「情報」に関してで、萌えに関する視覚情報、物語情報ですが、まず萌えアニメなどは実写や芸術的絵画等に比べて情報量が少ない単純なポンチ絵で、内容も単純でワンパターンなのに、何でそんな虚構に惹かれるのかこの卑しい動物め(英語でアニモーby田丸センセ)、というのが一般人的な文脈だという気がしますが、これが前提からして間違っているのではないかというのがここでの私の主張です。その理由として、まずその情報と情報量と意味というものの概念に関して、混乱と通俗化があるというのがこの文章のオチです。これらについてキチンと定義もせずに使用しているために(って情報なんてコトバは当たり前で定義が必要だなんてフツー思いませんヨネ)、動物化の議論がスッキリしないのではないかと思うわけです。その誤解が実際にどんなものかについては後に述べてゆきますが、そのような事態は私のような学問のシロウトだけではなくて、情報やらエントロピーを用いて認識論を考える現在の学者さんたちにまで及んでいるような気がします。ですからそのような学問を援用してアニメやマンガに関する「情報」を論じる人々があまりにナイーブに印象批評をしているように感じられるわけです。

 と言いつつ、かく言う私も混乱したまま情報とエントロピーの概念を教え込まれていたようで、今は理解しているような口ぶりをしていますが、実際は重要な正書や原典原著にあたっているわけではなく、単なる理系崩れの素人読みですから、以下の説明はかなり怪しいので、まあ誤解だらけでもがんばって整理してみましょう。元ネタは数冊の本とネット検索のソース(情報)ですので、そこんとこヨロシク。

 

 もともと「情報理論」で有名なクロード・シャノンというエライ人がいたわけですが(『攻殻』のマンガとかでシャノンの云々という書き込みがあったことを憶えているヒトもあるかもしれませんが、ググったら『スクラップド・プリンセス』って何コレ?)、このヒトがまず「情報」という一見数値化できない概念を数学的に厳密に扱えるようにと、コレを乱雑さの程度であるということと「定義」して、「エントロピー」の概念を持ち込んだというわけです(1948年の論文:日本語でもググるとPDFで落とせます、英語の論文ですが・・・)。平たく言うと情報を記述するのに全くランダムでエントロピーの大きい系は「情報量」が大きくて(すなわち圧縮できない)、逆にキレイに整っている秩序だった系は圧縮可能なので少ない情報量に変換できることから(もっと短く記述できるから)エントロピーも小さく情報量も小さいというわけです。データを圧縮したり転送したりするネットのインフラとかを造っている人たちには欠かせない大事な理論であり、美しく数学的にも厳密かつ有用なモノらしいのですが、その理論は常識で言うところの「情報」=有用なものという概念とはほぼ正反対になるというのがココのミソです。よく言われる例えとしては、猿がデタラメに打ったタイプライターの文章の方が、シェークスピアの戯曲の一節よりも「情報量が多い」という定義になるわけです。つまりシャノンの定義する情報理論においては、最もランダムで「有用な情報」を含まないように見える系が最も「情報」が多いということになるわけです。逆に全く整っていて面白みのない系(例えば文字列ならば同じ文字を延々と並べたものとか)にも大した有用な情報が含まれているように思えませんが、これは低エントロピー(整った系:例えば生物はエネルギーを使って熱力学第二法則に局所的に逆らいつつエントロピーを低下させ身体を維持している云々)にもかかわらずコレまた「情報が少ない」となるわけで、じゃあ有用な情報って何? という文句も出てこようというものですが、要するにシャノンの情報の概念は意味や有用性とは関係ないモノということになります。エントロピーという尺度で数学的に記述しうる「情報」の概念は通信やコミュニケーションのうえでは重要ですが、日常の自然言語で言うところの情報の意味や重要性という概念とは一致するものではないわけです。

 しかし、そこいらへんを意図的だかうっかりだか確信犯的だかで誤解して説いた後続のエライ人たちがいたために話は余計混乱したらしいです。それは情報制御、サイバネティックスの創始者であるノーバート・ウィナーたちの一派ということですが、かれらによれば情報量=その系の秩序の尺度であり、逆にエントロピー=その系の乱雑さ無秩序の程度、というようにシャノンの概念とは正反対のことを述べているそうなのです。この考え方は常識的には分かり易いうえに、一世を風靡したサイバネティックスの影響で? 情報が多い=有用というような「おおきいことはいいことだ」的な誤解が生じ、それが私たちの考え方のなかにしっかり根を下ろしているのではないかと思います。そうでなければ、これほど現在情報、情報と、いかに電脳社会だとしてもネコも杓子も言うわけがないと、そう思うわけです。

 ではなぜこんなことを長々と書いたかと言えば、しばしばアニメ絵と現実の画像との対比で、前者には情報量が少ないゆえに(というわけで圧縮してDivX化してP2Pで出回るという有難い、否タイヘンに迷惑なこともバンバンできるわけです)、そこに含まれる有用な内容も小さい、だからアニメは単純だと、ソレにマジで反応するオタクは動物化だと、そのように物事を単純化する人たちが多いからです。また逆にシャノンの教えの通り、情報量が少ない=低エントロピー=秩序立った系であるということから、圧縮しやすい「単純な」絵柄ほど「クール」になるというのも逆方向の単純化とうわけです。萌えの動物化理論に限らず、ゲームやアニメをその絵柄だけから単純でお子様向けと決め付ける人たちはまだまだいっぱいいるわけで、そのような印象を単に記述レベルに落としただけのことを真実かのように語るのは如何なものかと思うわけです。とりわけ問題なのは感覚器を通した入力と心的システムの中で行われる過程の複雑さ深さ、そして最後に出力としての思考、意識、行動など、これらは全て必ずしも「線形」になっているわけではない、つまり比例関係にあるわけがないのは、学問なんか考えないでも、よいアニメのひとつでも見れば分かりそうなものですが、数値的なモノの物心化に知らず知らずのうちに影響されているエラい人たちにはそれがわからんのですヨ(ガンダム的台詞)。つまり本当は情報理論の助けなど借りなくても、非線形性は判るとは思うのですが情報至上主義のヒトたちにはこのようなプレゼンをしないことには納得してくれそうにもありません。ここで「心は数学物理では計り知れない別の原理で動いているのだ」というような古典的心身二元論とか、ラッダイト運動的なエセ自由意志尊重の立場と誤解されるとイケないのでシツコク書きますが、心的システムを数学的に再現しようとすれば、線形モデルによる単純な系を用いた議論では有用なモデルが出てこないだろうと思うわけです。

 さらにややこしいことに、では情報量についてシャノンの定義だけを考えたとしても、ある系の情報が圧縮可能か否か、エントロピーの高低はどうなのか、ということについては、その情報を見る側のコンテクストに依存して初めて決まるわけで、極端な話、例えばある数列なり文字列なりが単なるランダムなのか、それとも何らかの暗号なのかは解いてみないと判らない(一般的に解く手続きは存在しない)という事態と同等なわけで、その答えとしては有限の時間内にどんな数列文字列でも数学的なアルゴリズムでは答えが出ないものが含まれ得るというわけで、結局のところそんな系ではエントロピーが定義出来ないために情報の大小の判定が出来ないということになってしまうわけです。これはまさしく、チューリングマシンの停止問題そのものであり、遠くは? ゲーデルの不完全性定理に関係するというわけです(ホントなのかオレ)。

 

萌える情報論 (2): 論理深度(萌え絵の情報意味量は少なくない)

 

 では情報の意味について語るのにあたり、もっと適切な概念はないのでしょうか? 情報量も実際のところとても大切でしょうし、現在ワタシが妄想するには情報量と有用度の少なくとも二つを軸にして出来る仮想平面上の位置が重要になってくるかと思いますが、今回は深く考えてません。ただ、もうひとつの軸になる、その系の「有用性」とは実際はどんなモノか、定義出来るシロモノなのかということが問題になります。ここで私が言う「有用性」とは、その情報なりメッセージなり作品なりが、私たちの心的システムに影響を与える度合いの大小として今勝手に定義して述べているわけですが(萌え話ですから例えばある作品やキャラクターの萌え程度とでも思って下ちい)、ちょっと考えれば有用性などという主観的な尺度に依存する概念に定義など不可能だと思われます。しかし情報の概念をもっと常識にあった形にするためには、このような曖昧模糊な話しと何とか整合性を持つ概念が必要になってきます。

 その候補のひとつが、例えば論理深度という概念になるかもしれないそうです(伝言形でスマンです)。これはまだ数学的にも定義的にも全然洗練されておらず論理的にも穴だらけの未完成な概念だそうですが、これをつい10年ほど前に提唱したチャールズ・ベネットによればそれは以下のようなものだそうです。すなわち「メッセージの価値とは、その発信者が行ったであろう数学的作業あるいはその他の作業の量」であり、今回私がかなりパクっている『ユーザーイリュージョン』の著者であるノーレットランダーシュはそれを「送り手がメッセージを仕上げるのに苦労すればするほど、論理深度は大きく」ものであり「出来上がるまでに、どれだけの時間が費やされたか」がそれに大きく寄与するというわけです。

 つまり有用な情報とは今ある情報全体の量ではなくて、「不必要な」部分を捨てたあとの情報の持つバックグラウンドであり、シャノンの定義する情報の概念から言えば不必要な? 部分を除いた情報量の少なくなったモノこそが有用な意味を伝えうるというわけです。そこで不要な情報を捨てる基準となるのは発信者のコンテクストであり、そのコンテクストは情報そのものが語られていないというネガとしてメッセージに含まれるゆえに、情報量が少なくてもその論理深度が大きいという場合も生じるわけです(当然そうではないこともあるし、情報を選択するのは心的過程に入力される前でも後:脳内でも可能か?)。その語られていないコンテクスト、ネガの情報をノーレットランダーシュは情報:informationに対して、外情報:exformationと命名しています。あんまりカッコよくない名前で流行りそうもありませんが。とにかくここでのミソを繰り返せば、情報の意味や重要性は今そこにある情報量(だけ)に依存するのではなくて、むしろ外情報という、エントロピーを低下させる時に捨てられ今直接見えない情報量こそが重要であるという考えです。現存の情報はむしろ影絵だというわけです。ただ情報をひどく減らしてしまった場合でも外情報を推測する手段まで回復不能(解凍不能?)となってしまい、その有用性は減ってしまうのは明らかですから、それだけでは上手くない理論です。それでそこいらへんの事情もさらに考えた上に定義された尺度がモノゴトの「複雑さ」としての熱力学深度となるわけですが、それは後述デス。

 ここで大きく出れば、その情報発信者のコンテクストの生成には心的過程の収まりのよい位置が関係してくる筈ですから、そのフレーム生成にはヒトの神経活動の複雑系・カオスやカオスの淵でのリミットサイクルの共鳴や引き込みが関係していることが予想されますので(ヒドイ決め付け)、色々こねくり回せば論理深度が情報と心的カオスから定義されそうな気がします。でもそれを数値化したりモデル化したりするのはとても難しいでしょうし、またそれが厳密に数学的に記述されても、それが実際に人の心を理解するのに役に立つどうかは怪しいものです。

 

 ではそれが萌えの観念とどのような関係にあるのでしょう? 視覚情報に限って考えて見れば、例えばアニメ絵は実写に比べれば「単純」な絵柄であるゆえに圧縮可能な視覚情報量の少ない対象です。しかしそれを生成するのにあたり「抽象化」しながらも「萌え」るラインやペンタッチだけを精製するのには多くのコンテクストを参照にしつつ決定される洗練された技術が必要なことは、絵を少しでもかじったことがあるものなら誰でもわかるはずです。その意味で萌え絵はいかに情報量が少なくとも、逆に論理深度という意味情報が深いものでありうる、と言うことが出来るかもしれません。

 さらにちょっと蛇足ですが、齊藤環氏はオタクや萌え絵について、著書『戦闘美少女の精神分析』のなかでアニメ絵のハイ・コンテクスト性をもってしてこれを単純で情報量が少ないゆえに感情惹起や伝播能力や速度には優れるが、ある程度以上の複雑な物語を成しえないというような記述をしていたわけですが、私は以前それに対してあまり根拠なく感情的に? 反論してみました(WWFサイト上の『モノ言えば唇寒しオタク論』を見てくだちい)。今考えると、彼の考え方もやはり情報量と意味の関係を誤解したところで、印象だけからアニメ絵の単純性を言い立ててしまったのでしょう。コンテクストに沿って入力された情報がそのままコンテクストの予想の範囲に落ち着くとは限らないのは、非線形システムのような複雑系における初期値に対する鋭敏性からも導かれると思いますので(ホント?)、その可能性をハナから無視しているから、あーゆー雑な結論に達したのかもしれません(バタフライ効果のこと、ちなみに医学系で論文書いているヒト程、線形の思考が強く、科学の定義を狭く考える傾向にあります)。

 また萌えに関する東浩紀氏(余談ですが東氏の名前の浩紀ってアタマ良さそうに思えますよね、名は体を現す、のとおりで、ワタシももうチョット賢そうな名前にすればヨカタでつよ)の「動物化」の理論で最も批評されるのは、萌え絵などは一定のパターンの組み合わせなのだから、単純作業で幾らでも生成可能だと思ってしまったところでしょう(大きな理論を作る者は物事を大雑把に捉えることも必要ですが、どこを単純化するがまさに勘の必要な作業ステップです)。でも彼の言うとおりだとすれば、同じような要素を使って強烈に萌える絵を描ける人と、萎え〜な絵になってしまう人の違いを説明できないわけで、その精妙さを省いたのが「オタクの動物化」理論なのだと思われます。しかし後述しますが、実写を私たちが脳内で処理する過程で生じる脳内の情報処理後のイメージはアニメやマンガ絵に近いのではないかと思われ、すなわちそれを認識するために脳内で行われるのと同じくらいの作業ステップがアニメ絵の生成に必要だと私は考えます。ですからオタク的素養の無いひとの場合には、その萌えと萎えの微妙ながらも決定的な差が脳内変換できないものと思えます。

 ここで当然出てくる疑問は、論理深度の考え方では努力した方がエラいみたいなカンジになって、幾ら情報を捨てる作業ステップをたくさんしていても、有用な情報が精錬されていなという場合、つまり労多くして実りが少ないような場合でも、見かけ上の論理深度が深くなってしまい、スマートに少ないステップで情報を捨ててキレイな結果を出した場合よりも「有用」であるということもありうることでしょう。それを避けるためには熱力学深度という概念、すなわち情報を捨てるのに要した作業ステップではなく、「おそらく利用されたであろう熱力学的資源と情報資源の量で決定」される概念を持ってくればヨイらしいですが、これは後ほど絵柄の複雑系的解釈のときにまた考えてみましょう。

 

 話しが冗長になったので繰り返しまとめますが、もし以上のことが正しければ、アニメ絵やマンガ絵は情報量が小さいものの論理深度という情報の「意味」の尺度では、必ずしもその値が小さいわけではないということになります。しかしここで私は論理深度の深い(大きい?)ものほど、心的過程に与える影響が大きいということと同値であることを当たり前のように書いてしまいましたが、これまた検討を要する問題です。なぜなら寸鉄人を打つが如く必要な線のみを残して洗練され論理深度の深くなっている秀逸な絵は、確かに萌えや審美の念を呼び起こすという意味で心的活動を高めるように思えますが、視覚入力という意味で本来の「情報」のなかに含まれていない外情報が中心となって萌え感情を引き起こしているのかについては単なる推測の域を出ない仮説に過ぎず、むしろそれだけでは上手く萌え現象を説明できそうもないと私は予想しています。なぜなら初めは誰も萌え絵に関するコンテクストなどはもっていなかったわけですから、その発生とまた個人における萌え絵に対する反応性の始まりは説明できないことになってしまします(個体発生は系統発生を繰り返す?)。というわけで、例えば他の説明もあるんじゃないかというわけで、それが複雑系とカオスの話になってきます。そこで再び出てくるのは「熱力学深度としての複雑系」という落語のオチのような都合のよい結びつきです。

 

萌える情報論 (3)

 

 しつこく繰り返しますが、論理深度が外情報やコンテクストに依存する量? であるとして、さらにそれを萌えの源泉とするならば、萌え絵それ自体にはたいした情報は含まれていないという言い方も出来てしまうかもしれません。しかし実際萌えるキャラを目の当たりにしていると、それ自体に何らかのオーラというか湧き出てくるような微妙な情報の集積があるように思えてしまうのは、単なる私たちオタクの物神論的な心の働きに過ぎないのでしょうか。しかし実のところも過剰な感情移入以外にも萌えの対象になるモノについては論理深度以外にも何かあるのではないかと私は考えています。それは先ほども述べた、アニメ絵マンガ絵と、脳内で情報処理された視覚情報の相同性(の予感)が気になるからです。

 マイ結論(単なるチョッカン)から言えば、アニメ絵マンガ絵が感情を引き起こすのにきわめて高効率的パッケージであることは、例えば『フランダースの犬』『火垂の墓』『ONE』『カノン』などの泣きアニメ、泣きゲーによる感情惹起の具合で明らかであるかと思われますが(笑)、その理由は、ある程度抽象化されデフォルメされたイメージが、脳内で情報処理される途中の「イメージ」すなわち不必要な情報を捨て去り低エントロピーで論理深度が深くなったモノに類似しているために極めて効率よく感情惹起に働くのか、もしくはその処理過程を大きく近道してイメージの喚起力を高めるからではないかと、そう妄想しています。これは一応いくつかの事実をベースにしています。それについて脳内の細かい情報処理のメカニズムをとりあえず単純化して、とりあえず「情報量」だけについて注目して考えてみましょう。

 (追記:前回ワタシは萌え絵の精妙さを、その線分や色使い、瞳のハイライトの入れ方のちょっとした違いがバタフライ効果的に拡大されて認識されるが故に、それらの絵が単純であるという常識について反論したわけですが、それは今でも変わりありません。今回はそれとは少し違った角度から萌え絵の情報についてのハナシです。)

 

 

 ヒトの体性神経を含めた脳への情報の入力の合計は、どんな計算をしたんだかよく分からず申し訳ないのですが(多分神経線維の数とか神経パルスの頻度からだとは思うのですが)、通信でいうところのビットレートで言うと、毎秒約一千万ビット=10Mbps(現在普及しているDVD映像も最大10Mbpsくらいであることを考えると多いような少ないような気がしますが、実はトンデモない膨大な情報量)くらいになるそうです。そのうち視覚情報はその中の9割以上を占めているらしいのですが、それら情報の処理に作動するのは1000億個のニューロンであり、さらにそれぞれがシナプスを介して約1万個のニューロンと連絡しながら行われるわけで、脳血流の結果などからは短時間の間にはその一部(10%程度?)しか働いていていないとしても、まさに想像もつかない膨大な処理が行われているようなのです。ではそれらを処理して出来上がった「意識」、つまり私たちがさまざまな活動を統括していると信じ、自らを認識できる感覚知覚の情報流はどのくらいのモノでしょうか。色々な心理学者たちの実験結果によれば(時間の分解能や弁別能、コンテクストによらない簡単な認識能など)、最大で40bps、正確には多分10bps前後にしかならず、入力のたった百万分の一の情報しか意識には登ることが出来ないそうです。ただ意識は瞬時にアレからコレへと様々なものに移り変わることが出来るために一定時間内には様々なことを認識できることから、意識がそんなにビットレートの低い現象であるとは思えないのでしょう。

 しかし人が瞬時に認識できる情報流がこの程度だとすると、このように意識が出来上がるまでにはとてつもない情報の取捨選択と圧縮が起きているわけで、そのメカニズム自体も大いなる謎と驚異の対象ですが、ではそんなに少ない情報しか利用できない「意識」だけで、果たして「私」の行動(ここでは萌えの感情など)を制御していけるのでしょうか? つまりこれには少なくとも二つの問題があり、ひとつは情報が圧縮される過程で意識にあがっているのは本当に重要な情報が「正しく」選択されているのか、それとも意識の制限時間上から適当に理由付けされたいい加減な回答を心的システムから貰っているのではないかということと、もうひとつは情報が圧縮された後の過程において、萌えに限らず色々な複雑な感情が意識システムだけで駆動出来るのかという疑問です(我ながらマズイ言い回しでスマンです)。

 以上の疑問と西欧の伝統的な意識中心主義に対して、最近の脳科学や心理学はこのように考えているようです。すなわち人の行動を制御しているのは「意識」システムだけではなくて、意識に上る前に多くのビットレートの情報を認識している「前意識」や「無意識」(精神分析における用語と一致するかどうか判りません)がかなり高度な判断や作業まで行っていて、意識システムはそれらの行動を正当化するための後付の理由みたいなものであり、せいぜい最後に行動の禁止権を持つ付帯システムである疑いが強いということです。これらは脳稜という左右の脳を連絡している神経線維の束を切断した患者の実験結果や、サブリミナル効果:域下知覚の研究(CMに入れるカットの研究だけではありません)、神経パルス的には意識が行動決定の0.5秒後に(前ではない)現れているということを「証明」した巧みな実験結果、等々などから来ています。またこの考え方は精神分析や構造主義の考え方とよく馴染みます。つまり意識は心的システムのほんの一部であり、意識が全てを決定しているなどとは人の傲慢であると。誤解を避けるために繰り返しますが、これは人の自由意志や意識を貶める議論ではなくて、「意識」以外の心的システムの重要性を述べているものです。意識しないで行動を決定する心的システムなど想像もつきませんが・・・

 さらには最近の歴史学者が意識はヒトの発生と供に当たり前に昔からあったものではなくて、「人間」や「理性」のような概念と同様にたかだか数千年前に起源をもつ歴史的産物であるということを文献的に考察しており、意識中心主義はますますもって西欧の一つの文化に過ぎないことが疑われはじめています。ただそれだけではなくて、意識システムは自己同一性を保障すべく、様々な外乱や内部衝動の長期的な調整役を行っているのかもしれません。つまり自転車に乗ることやアニメキャラに萌えるのは意識でどうなる問題ではないので(初めて自転車に乗れた時のことを考えて下さい)、意識以外の心的システムが主たる役割を行っていると考えるのが妥当かもしれません。それをマイケル・ポランニーに倣って暗黙知と呼んでもいいかもしれません。意識以外の心的システムをそう定義してもいいくらいです。しかし自転車に乗るべく自転車を買いに行ったり、アニメを録画して見たりするのには、長期の展望を見据えられる意識システムが主な役割を果たしている、というようなカンジの役割分担があるかもしれませんが、これはまだ内省による印象判断に過ぎませんので、例えばの話に過ぎません。長期的な計画も意識の仕業であるのか、もっと検討が必要です(ロール・プレイングにより長期的な思考、信念も左右されてしまうことですし・・・)。

 

ではMy萌え理論のバージョンアップ(あるいは出がらし)

 

 では以上のような事態と萌えの間にどんな関係があるのかということですが、まず前回の萌え本で私が述べたことを簡略化して、なおかつ今回の情報の考え方を適当にミックスして、しつこく載せてみます。つまり? 私が提唱する「複雑系的萌え情報理論」(前回ともう名前違うぞ)では、脳の活動が自己組織化されたニューラルネットワークから生まれる弱カオスであると考え、アトラクタと呼ばれる安定平衡点、リミットサイクル、トーラス、ストレンジアトラクタ等を用いて無意識や感情を解釈しようとする妄想です。つまり「意識」はそれらから生み出される低エントロピーで自我イメージを保つのに有利な比較的一定し安定した心的「システム」の一部と考えるわけです。この考え方の利点は生物学、情報理論、精神分析、構造主義等から都合のよいものを引っ張ってこられること、都合の悪いところはカオスで誤魔化せる(笑)ことです。この説明例になるのが「萌え」という感情であるというのが私たちオタクにとってはミソとなります。つまり従来の精神分析の考え方ではエネルギー論的なナルシズムとリビドーの安定や備給が基本になっており、そこから局所論的な議論がなされるわけですが、この考え方では、無意識の性質や、反復脅迫や、心的外傷後ストレス障害(PTSD)におけるフラッシュバック、死の本能というトンデモ、そして肝心の「萌え」や、その基礎にあるオタクの心的構造について、科学経済論的にスッキリした説明をするのが相当困難であると思われるからです。

 従来の安定な心的状態とはアトラクタのなかの安定平衡点かリミットサイクルに相当し、心的な相空間、状態空間の一定の場に留まるものと決め付けて、つまりナルシズムやリビドーが満たされて充足した状態とは、平衡安定点のようにその安定点から動かないでいる状態や、ある一定の軌道をぐるぐる回っているリミットサイクルというイメージとするわけです。「意識システム」はそれらの「無意識システム」が安定した結果だけを圧縮された形(低エントロピーな情報)として選択して提示されることにより、心的システムの安定を知らされるわけです。

 しかし人間安定してばかりというわけにもいかないので、従来の精神分析のように平衡点かリミットサイクルを目標とした心的システム、局所論的発想だけでは、幾つかの無理があったのだと思われます(基本的には大成功? だと思いますよ)。そしてここで妄想は飛躍しますが、「意識システム」よりはかなり多くの情報を処理しているであろう「無意識システム」はカオスの淵であるからこそ可能な計算万能性に近い性質を持つために情報処理が得意であり(ってすごい決め付けの妄想)、その基本はトーラスやストレンジアトラクタと、アトラクタになりきれない? 弱カオスの集合体であり、そこでは外部内部からの「情報」の入力から言語的な転移、同一化、鏡像反転常に行われている場として考えられ、これは数学モデルを考えるならばアトラクタにおける要素間の引き込み等で上手く説明が付けられるんじゃないかと気楽に考えますが、以上について私、詳細は知りません(無責任)。

 この妄想に従えば、萌えはストレンジアトラクタのうちローレンツアトラクタの位相空間における図式化からイメージされるように、異なったふたつの中心の周囲を行ったり来たりしながらも一種安定した軌道を通る感情の弱カオスで、ふたつの中心とは、リビドーを満足させる「感情軌道」とカワイイという感情(対象に投影されたナルシズム)を満足させる「感情軌道」と考えられます。「萌え」はこの二大欲動を同時に満足させるだけでなく、双方どちらかの「感情軌道」にも落ち着かないので、どちらかに満足しきって平衡安定点に落ち込んでしまい、その心的弱点である倦怠と飽きることを避けられるわけで、これが「萌え」という心的状態の最も素晴らしい?? ところであり、従来どんな充足の感情も免れ得なかった「退屈」からくる更なる衝動の充足の必要、強迫的な次の衝動を探さなければならない必要のない感情であるために、人はオタクという人格からなかなか離れられなくなるのだと思うわけです。

 従って「萌え」が「意識システム」に上るに際して従来とは異なった圧縮方法が用いられるために「意識」にも特別な感情として認識されるのではないかと思うわけですが、その詳細はわかりません全然。今考えている候補はふたつ、何らかの「安全な」感情として意識への検閲のフィルタリングを通るのか、それとも意識システムが従来の平衡安定点的な感情と認識しか許さないものではなくなってきたかの何れかかもしれません。後者をメタ心理学的説明に変換すると、我々オタクは現実の女性もTVやグラビアのアイドルもコスプレ少女も「虚構」のギャルゲー少女も、実際に我々の性欲動の備給先になるという萌えという「現実」を抑圧せず虚構に惹き付けられる身体(我々にとって最も身近な「自然」である)からの敗北を受け取りつつ自我のメタ的コントロールによって自我の安定を図っていると思われる、となります。これを無意識の心的カオスに沿って翻訳すれば、意識システムが無意識を含めた心的システム全体を一つのアトラクタの集合として安定させるために、一部の無意識をもメタ的にコントロールする方法を見つけたのが「萌え」であるということになる。ここからむしろ演繹的に想定されるのは、このように心的システムをアトラクタの集合として、階層的なアトラクタが更に存在し、それぞれの階層において安定を得るための心的構造の再構成が不断に行われているという、これまた現代の脳科学の主流? の階層的モジュール説ではなく、解釈学的カオス的脳モデルにおける機能的アッセンブルを思わせる。ただしこれは「意識システム」以外のことであり、意識は基本的には線形が馴染むような気がします。まあ意識のない意識や暗黙知と萌えの問題はまだまだ面白そうな関係なのですが、今回それにあまりかまっている余裕はなさそうなので、とりあえず先に進みましょう。

 

萌える情報論 (4)

 

 以上だいぶ話が逸れたような気がしないでもないですが、実は関係大有りだと見栄をまだ張ってみましょう。つまり言いたいのはただひとつ(なら最初から簡単にゆえよオレ)、外部からの入力情報を主に処理する「無意識システム」の作動原理はカオスである可能性が高い、ということです。では入力情報はどのようなモノが特に心的システムに効率よく、より大きな影響を与えられるのでしょうか? もうここでオチが読めたと思いますが、情報量が単に多いだけでも、逆に整理されすぎて低エントロピーなだけでもダメで、論理深度あるいは熱力学的深度の高い情報が最も心的システムに大きな振動を与えられる(振動の引き込み等)であり、そのひとつとして低情報量ながらも論理深度の高い萌え絵があるということになります。(「意識システム」は線形でもカオスでもないとワタシは想像しています。)

 そのような系として他にも、共同幻想という物語があり、宗教という麻薬があり、芸術という心的体制に揺さぶりをかける作品があり、そしてオタクにおける萌えがあると、このような荒唐無稽が今回の私の妄想の帰結です。

 さらに線画は意識のビット数にきわめて近く、そのため情報があらかじめ処理されて咀嚼しやすくなっているのではないかという思いつきもあったりするわけですが、視覚情報としてのビット数の計算どうするのというツッコミに耐えられないんで取り下げます。それに伴う重要性というか内容の豊かさは外情報に依存しているために一意に決定できないわけで、そのコンテクストを持つオタクに特に鋭敏なエントロピーの低下が認められると、そう考えています。ただしオタクだけに限らず、顔の情報処理における脳内の働きを先取りしてコンテクストに嵌り易くしているのがマンガ絵やアニメ絵ではないかと考えたりもするのですが、数学的な基礎を知らないので、そこらへんはまあ聞き流してくだちい。ただ、定量的は無理として少し定性的にでもここらへんのことを考えておかないと全く説得力がないので、さわりだけでも試みてみましょう。

 先ほどから述べている情報の意味の重要性の指標として論理深度にかわる熱力学的深度(Thermodynamic depth)というものを挙げましたが、この概念はまだまだ問題の多い概念であることを各方面から指摘されており、ネットで検索してみてもあんまり追随者はいないみたいで(印象デスヨ)、将来的にも生き残れるのかまだ不定です(1988年の論文ですからねぇ)。これは基本的には巨視的なエントロピーと精密なエントロピーの差として計測され、つまり微視的に見て平衡状態からどれだけ隔たっているか、どれだけの「歴史的ステップ」「生成論的ステップ」を経ているかということの指標になるそうですが、根本的に主観的なものに依存せざるを得ない(巨視的エントロピーに依存するため)、物理学的数学的には評判が悪いようです(文献を引いても英語ばかりで不明なのですが、Diveとかε‐マシンとか全然内容は判らないけどその値を求める手続きはあるものの、所詮その最小値を示すことしか出来ないみたいです? つまりその値は計算値よりも大きくなりうるわけで、それを数学的に求める手続きは今のところ存在しないようです)。

 ただ萌えに関して言えば、ちょっと使える概念かなと思ったりします。例えば同じような彩色で線画を基本とするアニメ絵でも、かたや『サザエさん』、一方では『月詠』などの絵柄を比べた時に、オタク的素養の全くない人にとっての双方の映像エントロピーはコンテクストを知らないが故に双方とも単なる「アニメ」ということで微視的なエントロピーで見ることしか出来ないので(シャノンのエントロピー的な単なる情報として)ほぼ等しいものとなることでしょう(かなりツラい仮定)。それに対して、オタクはその膨大な歴史を経た(オーバーですが)コンテクストを利用しているために、『月詠』はオタク的な秩序に則った微視的測定によっては? エントロピーが著しく低下した系と認識されることから、その間の差異が萌えという熱力学的深度として定義出来るかも知れません。もちろんこれは思いつきの与太ですが、ちゃんと考えてみないとまだ言えないことではあるものの、歴史的変遷の判っているアニメにおいては定量化できるのではと思ってしまうほどですが、詳細は今回パスです。また似たようなものとしてコルモゴロフ・エントロピーといわれる物事の「複雑さ」をビット数として定量化するような概念もあり、萌え絵の分析として使えるのかなど、面白そうなものがまだまだ転がっているので、これらは次回までの宿題ということで、これ関係の話はオシマイにしておきましょう。

 

認識論における萌えの概念:

 

 なんかサワリのつもりの情報論的萌え話が意外と長くなってしまい、もうワタクシ疲れましたし枚数も使いすぎですが、ダイジョーブですか奥田氏?(と言ってさらに余計な字数をかせぐ自己言及的な? ワタシ)。でもここでようやく一つ目の問題点に戻って認識論、つまり人が認識する「外界」についての話に移れそうです。毎回この言い方してますけど、「現実」だとか「外界」は権利的にしか存在しないが、ハナシを進めるためには想定せざるを得ない「前提」「公理」であって、実際にそのようなモノが存在するかは永遠の謎なのである、みたいな言い方よくしてますが、実際わかりにくいですよね。ぶっちゃけ言えば、私たちが認識していると思っている一見ゆるぎない現実の「リアル」な物理現実の世界は、本当にそこにあるのかと厳密に問いただすと、実はYESなどと簡単に答えられないものではなくて、なんとなればそういう素朴な考えは昔から「素朴実在論」と言われていて、よーく考えると色々まずい点があるわけで、例えばそれとは真っ向から反対の「唯我論:外界なんかはなくて総ては私の心が生み出したものだ」という無茶苦茶だけどそれなりに筋が通ってしまう話しの前では、素朴実在論は論理的にとても分が悪くて、よく行ってもお互いの水掛け論にしかならないところにしか落ち着かないようです。その意味で、生産性ないからダメという意味でとりあえず「唯我論」を脇にどけといて、まあ「外界」や「現実」があると仮定して、それについて議論しましょうや、という意味で「物理現実」は「権利的」にしか存在しないといえるわけです(これでホントにいいんすか? ALL)。ここら辺りのギロンは『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』の夢邪気の話しでも聞いてもらうがヨイでしょう。

 このような不安定な前提のもとにではありますが、ではヒトというか私たちがどのようにして外界やら現実を見ているのか、情報を得ているのか、認識をしているのか、という問題に入ってくるわけですが、これも一見当たり前、なんで疑問の余地があろうかとフツー思うわけです。だって目の前にあるものをそう見てるだけじゃないかと、たまに錯覚したりすることがあっても、それはちょっと見えにくかったりしただけで、明るい日の光ももとで正しい知識をもって見ればなんだって正しくそのものを認識できると。でも古代の哲学の頃からこれ関係は「認識論」とゆー大変ややこしい問題を孕んでいて、現在に至るまで様々な人たちのアタマを悩ましてきたことなのです(らしいです)。

 まずそんな「私たちが見て認識しているもの=現実世界」という一見何の問題のなさそうな常識に異議を唱えてきたのは古来から哲学の人たちだったようなので、一般凡俗の我々にもそれを明示する形で示してきたのが、錯覚と文化人類学でしょうか。まあ人の認識が「言葉」というか人の文化や思い込みによって色々異なっていて、常識明白だと思っていたことが、文化文明によって著しく違っていたり、またモノの見え方が文化によって著しく異なることも、そんな常識にハテナをつきつけてきたわけです。

 さらにはヒトのモノ真似を機械にさせようと思った60年代の人工知能学者たちは、「見る」ことの出来る機械を作るために、まず視覚としての入力してきた光の情報から世界を認識させようとしていたわけで、はじめそんなの外の世界の光子をビットマップ化すれば簡単だとタカをくくっていたところ、そのようなヒトにとって「アタリマエ」のことをアルゴリズムとして機械にやらせようとした時の困難さというか不可能性(これはマシンパワーが足りないとかの問題ではなくて)に愕然としたわけです(らしいです)。例えばフレーム問題とか不良設定問題とかを目の前に、ヒトの認識が目の前のことを光度や色彩の情報としてメモリに落としていくとアタリマエに考えていたのに、実はヒトの視覚ひとつとってもそのような単純な機械化モデルとは全く違うことを生物は行っているのだということが明らかになってきたから(らしいの)です。

 

意識の起源と発生の現場・・・って誰か見たんかい(CV嘉門達夫)

 

 さらに「外界」は実在するのかも、はっきりしないとして、ではそれを認識するジブンたちの側はどうなっているんだという問題もあります。中学生だか高校生の教科書に必ず載っていてちっとも判らなかったデカルトの「我思う、故に我あり」という有名な言葉がありますが、これをもって普通は認識しているこの私たる主体には疑いの余地がないみたいなことを言われたわけですが、これがまた問題になってきます。私もよく分からないで言ってますが、まず近代西欧までの彼らの認識では認識の主体は意識であって、それ以外に何もあろうはずがないという、結構今でも私たちに通用する考え方をしていましたが、どうも西洋ですら近代以前は違っていて、ヒトが生きてゆくに当たって主体的判断で動いていたわけではなくて、それは神様がお達しをくれるのであって意識というのはあまり重視されていないようだったらしい、のです(二分心論だそうです)。まあコレくらいの考えならまだ納得も出来ますが、紀元前には何と、「意識」という概念、とゆーか私たちが今で言うところの「意識」とうものすらヒトにはなかったのではないかと主張している人もいるくらいらしいのです。

 ちょっとトンデモの匂いのする話しで、孫引きでしか知りませんが、先ほど述べたように、ジュリアン・ジェインズ氏とやらが言うには、3千年以上前の人類は今の人が言うところの「意識」なんてものは持っていなくて、なんとなれば「自意識」や「私」という概念はたかだか2千年くらい前から発生したばかりの歴史的産物であり、それ以前の人類は認識や行動の原理が今とまったく違っていて、神様に導かれるがごとく行動していたということらしいです。別に文字や言語を持っていなかったわけではなくて、「意識」というのはヒトの心の構造としてア・プリオリなものではなくて、ひとつの在り方に過ぎないということです。これは手前味噌ですが、前回私が意識とは心的構造の上に成り立っているひとつの「意識システム」であるということにも通じていますが、多分私も無意識のうちにどこかでこれ関係の説を読んでいたのかもしれません。

 しかしそれにもかかわらず、私たち自らを振り返り認識するのが意識のある私であり、主体に決まっているだろうと思いがちなのですし、科学、人文、心理学ですら意識中心の認識論という点ではあまり違いは見られません。しかしまずそこに異議を唱えたのが精神分析を創始したフロイドでしょうか(それまでも無意識の存在を仄めかす人たちは結構いたそうですが、まあ教科書的にここはゴカンベン)。つまり認識するのは意識ある主体ばかりでなく、前意識や無意識の領域も外界を認識しているのであって、それに人の行動は結構影響されるというようなカンジの理論なわけです(全ての感覚入力や内部の情報がどこを経由してそれら心的システムのどの領域でどう認識解釈されるかなんてコトは当然不明なので、あくまで操作概念として話を進めましょう)。しかしその精神分析であっても、それら前意識や無意識は、意識から禁圧や抑圧された部分がそうなるのであって、認識の主体はあくまで「意識」の側にあるという考え方も出来たりするわけです、フロイドがホントはどう考えていたかは知りませんが。さらにその正当な後継者と見做されるジャック・ラカンにいたっては「無意識は言語のように構造化されている」というよくわけの分からないドグマでもって人を煙に巻くような気がするのですが、これは無意識であっても、その根底には言語というフィルターというかフレームがあって、それ自体が言語の構造であるというようなことを言っている気がするのですが(間違っていたらゴメン、ってゆーか実際何を言いたいのか教えてエロイ人)、それならば人が外界を認識するゲシュタルトの形成には直接の入力というものはなくて、何らかの意味での「言語」のフィルター(というより言語という印画紙あるいは画面)が必ず関わると彼は考えていたのでしょうか? 『精神分析への抵抗』の著者である十川幸司氏とかは、それについて判断を保留しつつ言語の側から心的構造を見てみようという決意が精神分析なのであって、それがこの分野の限界であり同時に強みであると言っているような気がしますが、これも何だか私にはよく分かりません、正直。要するに西欧の意識への認識は精神分析やその後の構造主義などを介して意識以外のヒトの心的構造の役割を見出したものの、人が世界を認識するフレームの基本となるのは、やはり他者だ、言語だ、意識だ、神(一神教のGOD)のご意志なのだ、コレでいいのだと、そう言っているように私には思えます。

 

 それに対して、茂木健一郎氏の言うところの「クオリア」ですが(最近養老孟司氏とツルんでて何かイイよなぁ)、要するに彼は言語以外の感覚も含めた全ての入力の総体をクオリアと定義してみて? それを認識する主体としての生物としての人の「意識」や脳の仕組みはどうなっているんだという問題意識で議論をしているわけですが、彼は西欧の伝統にわざと知らん振りして? 以上述べた伝統的な認識論と全然逆のことを主張しているように思えます。つまり外界の認識に「言語」というフレームは必ずしも必要なくて、否むしろ日常の殆どの感覚器からの入力は言語で収まりきらない「クオリア」が圧倒的であることを主張しているように思われます(かなり簡略化してますが)。ここで言語は必要ないとか言っているわけではなくて、例えばクオリアには少なくとも二つあって、「感覚的クオリア」という無意識あるいは意識前の意識振動で比較的ナマの入力から派生する内的感覚であり、もう一つが「志向性クオリア」であり「感覚的クオリア」を統合する? 言語レベルの意味も含む意識、メタ意識のようなものであると主張しているように思えますが、実は詳細は不明(別著『脳とクオリア』は読みかけ)。ここで彼は脳内ホムンクルスという古代の思想(意識による「全体」の見渡し)を、脳科学がモデル化できたときこそ初めて、意識の科学が本当にその第一歩を踏み出すことが出来るのだと言っているようです。これは西欧の思考の意識中心主義に対して多神教的な異を唱えているようにも思えますが、認識における多神教的な色合いって何? と聞かれても答えにつまるようなチョッカンにすぎないので詳細はパスします。ただライプニッツの唱えたモナド(単子)なんかを、むしろ唯心論的、唯情報論的なものとして捉えると、以上あげたクオリアの考え方に近いかもしれません。これは私の独創的な考えでもなんでもなくて、検索かけたりすると様々な人たちが既にこのふたつの概念の相同性に気付いているようです(書籍もありますた、佐々木能章氏の『ライプニッツ術』)。さらにフッサールの現象学における「ノエマ・ノエシス」の知覚ノエマとの相同というか違いは何か、みたいなことになるとキリがないので、今回はパスです。誰か教えてくれればもっと助かります(はてなダイアリーとかウィキペディアしか見てないという知的怠慢でスマンです)。

 

 心的システムに対する以上ふたつの説明に対して、もう一つの説、双方を包含する何とも都合のよいモノがあれば以上二つの実り多い思想をイイとこ取りして上手く使えそうですし(全てのことを説明しすぎる理論は怪しいという経験則はありますが)、それがオタクの萌えにも関係してくるのではないかという妄想で本稿をシメたいと思います。実のところ今回の主なネタ本は先ほどから随分と引用させてもらっているトール・ノーレットランダーシュ氏の『ユーザーイリュージョン』からです(訳本は紀伊国屋書店からですが、いつもながら高すぎ)。生意気なことを言わせてもらうと、この本では私が考えていたことを全部先取りされちゃったキブンで、まあ所詮それは気分に過ぎなくて、ここで述べられている説は、今現在入手できる情報をもとにすれば、いずれ誰かは思いつくもものなのでしょうが、やはり先に言ったもの勝ちというか、初版の1991年の段階でこのようなことが既に言われていたとは、まあ悔しいというかスゴイというか、ですね。それに多分私も忘れているだけで、ここらへんを元にした言説って色々あるのでしょうから、そういうものからの影響でデジャヴを感じるんでしょうねぇ。以下、「」のなかは殆どこの本からの引用ですんでヨロシク。

 

錯視とゲシュタルトと萌えキャラ

 

 教科書とか心理学関係の本とか読んだことのある人なら誰でも見たことのある錯視ですが、コレがよく分からないという人はまず「錯視‐視覚の錯覚 ILLUSION FORUM、http://www.brl.ntt.co.jp/IllusionForum/basics/visual/ なんかを見ると楽しい錯視がイパーイ載ってますんで参考に。このサイトにあるように錯視には色々あって、ミュラー・リエル錯視、ポンゾ錯視、ハーマン格子、エーレンシュタイン図形、カニッツァ三角に始まって、有名な錯視絵の「婦人と老婆」「アヒルとウサギ」「ルビンの壺」等、名前は知らなくても見たことのあるものばかりです。

 このような図形などから推測されている視覚のメカニズムを神経科学とゲシュタルト心理学をゴチャ混ぜにして語ると、ヒトは視覚情報を網膜に届く光子情報そのままCCDに入力されるみたいにナマで認識しているわけではなくて、網膜細胞からしてそれら情報にエライ加工を施し、そこから視神経線維の到達する視床のLGN(外側膝状体)では、「目の前に存在するものに関する仮説を検証するための、裏付けを提供している」という認識方法をとっている可能性が高く(なぜならそこに入力する神経線維のたった2割が視神経からで、残り8割は大脳皮質から来ている)、さらにそれが後頭葉の視覚中枢に達するに至っては、「部分を知覚する前に全体性を経験し、個々の構成要素に気付く前に形態[ゲシュタルト]を見ている」ということにまで処理されている可能性があるそうです(一般に認められている仮説かワタシは保障しましぇん)。

 このように「意識する事柄は意識される前に意味を獲得している」という立場のゲシュタルト心理学が主張することが正しければ、もともと私たちの認識している画像は、現実、実写、映画、アニメ等々に関わらず、もともときわめてハイ・コンテクストなシロモノであって(もしくはハイコンテクストなモノに押し込む)、それらの違いを、現実や虚構というレベルや単純・複雑というような絵柄の二分法などに求めるのは本質的ではなくて、むしろそれらの情報量と論理深度・熱力学深度の差による分類が妥当ではないかと思われます。あるいは無理矢理コンテクストを変換する手間が省けるぶんだけオタクがズルをしているから一般人から嫌われるという可能性が高いと私は思っていますが、コレはまた別問題? とにかく、錯視が教えるように、そのコンテクストは視覚の神経機構がもたらす生物学的なゲシュタルト(身分け構造か?)が大きな役割を果たしていますが、それだけではなく文化社会的ゲシュタルト(言分け構造?)もそれに影響大であることは文化人類学のさまざまな成果が示しています。ですから、構造主義やポスト構造主義の人たちが、萌えにハマるオタクをもってして動物的反応などというのは、自らのよって立つ学問の基礎を否定する行為だと思わざるをえません。

 ホンモノの? 動物は自らのゲシュタルト世界にしか生きられないわけで、それは生物学的物理学的限界そのものです。ではヒトにおいてはゲシュタルトから外れた入力情報、すなわち感覚的クオリアは意識では認識されないのかと言えば、前述した通り志向性クオリアの前にある感覚クオリアなどというものが幻想でなければ、意識や無意識の状態によってはそれを歪んだ形であれ受容できるのではないでしょうか。その方法論が芸術作品であり、クオリアの新しい感受方法や消費方法を示すものだと私は思います。ぶっちゃけ、感覚クオリアは意識システム以外の心的システムにより認識されると単純化して考えられないかと現在ワタシはそう妄想しています。ただしそれは生物学的なゲシュタルトを超えて認識するものではないことは容易に想像できますが、では志向的クオリアはどのように関与してくるのか不明です。もしこれが意識・前意識・無意識を問わず心的システム全域に遍在するのであれば、精神分析の理論が説くような言語が心的構造の基礎になっているようなシステムの在り方も無理ではないかもしれません。

 別にこれでゲシュタルト心理学が精神分析的メタ心理学とモナド・クオリアを包含するものと考えているわけではありません。それら全てを以上述べてきた情報萌え理論カオス風味(また名前違う)と整合させられる何かがあればヨイわけですが、これ以上これら内部で整合性を考えてもあまり有用な心的モデルのために必要な考察の決定打は出てきそうにありません。ならば、その他の心理学の問題を持ってきて、それを無理なく説明できるような萌え理論であれば、最強ということになるかもしれません。茂木氏もノーレットランダーシュ氏(えぇい長い名前うっとおしい)も揃って指摘している現在の心理学、脳神経学上の大きな問題のひとつは「結びつけ問題」と呼ばれるものだそうです。

 

萌えと結びつき問題

 

 もともと結びつけ問題とは、脳のなかで様々な情報が分散処理されていることが明らかになってから出てきた問題で、簡単に言えば、脳に入ってくる入力は全て神経パルスでありどれがどれと区別をつけるのすらタイヘンでそれだけでもメカニズムが不明なのに、その上にそれらの刺激は視覚、聴覚などそれぞれ脳の異なる領域に送られて、例えば視覚であればさらにその要素に応じてそれぞれ反応する細胞に分析され細分化されるわけですが(線、形、光度、色彩、コントラスト、位置等々:なぜならそれぞれに対応するニューロンがあることが知られており、それらは中枢ではなくても少なくともフラグとしてくらいには働くであろうことが推測されるから)、今度はそれらをひとつのモノのイメージとして再合成、再統合して意識に認識されるには一体どのようなメカニズムがあるのか、それが一千億個のニューロンでどのように行われるのかと言う問題です。コンピュータとかそのアーキテクチャに関わる人たちならば何かよいアナロジーを思いつくかもしれませんが、何せ脳内の情報はすべて一過性の脱分極による活動電位とその合成によるニューロンの状態だけですから、基本的に違う領域で受け取った入力を同一のゲシュタルトから受け取ったものか否かについて判断するには、余程巧みなメカニズムを使わないかぎり不可能に思えます。

 これに対して、フランシス・クリック(DNAの二重螺旋構造のワトソンのカタワレのヒトです)とクリストフ・コッホは1990年ころに提出したのが、意識の源としてのニューロンの同期発振説らしいです。つまり同一の対象(ゲシュタルト)から刺激を受け取る全ての領域の細胞が同時に約40Hzで振動し、それが各領域の全ての情報を結びつけ一つのイメージに統一し、またこれが意識の源泉であるという考えです。これはワタシが考えていた心的システムのアトラクタの振動とよく似ている気がしますが、私は意識ではなくむしろ前意識や無意識の活動がそうであって、意識システムはチョト違うと考えていますが、まあ大同小異でキニシナイです。しかしその後に実験的にネコの視覚でこのような事例が観察された以外はあまりよいリピートが出来ず、意識が科学的に解明できたのではないかという期待は叶えられなかったようです。常識的にチャチャを入れると、ネコが獲物とか敵を狙って見ているときの集中力は並大抵ではないことはネコ飼った人ならよく知っていると思いますので(予防注射しても気付かない)、もしこの仮説が正しいとしてもその他の事例でのリピートは困難であろうことは容易に予測できます。さらにワタシとしては、ニューロンの発火の振動だけを見ていてもそれだけでは「同期」は判らず、むしろ嗅脳で認められたカオスのように、ニューロン発火のスペクトル分析においてカオスの発生の同期を位相空間的において分析する必要があるのでしょう、などと判ったようなクチをきいてますが、実はワタシ全然わかりません。ここらへんにマジで興味ある理系の方がいたら是非お助けキボンヌです、いやマジで。

 ではこの結びつけ問題やアトラクタの同期振動(と勝手に話を進めていますが)と私が勝手に考えている説と、萌えとの間にどのような考察が成されるかと言えば・・・スイマセン、何もイイこと思いつきません。息切れネタ切れです。繰り返せば、無意識は神経パルスの複雑系的なアトラクタとして考えられる、したがって無意識のおける音韻の相同性やアナグラムが有用となりうるわけです(ソシュールやフロイドにも通じる)、程度しか今は思い浮かびません。くわえて、意識はそのようなカオスの上で作動するシステムであり、色々なアトラクタの振動のなかから数少ない注目する対象にスポットライトを当てるが如くして同調するものが意識に上ると、その仕組みを取り仕切るのがゲシュタルトであり、ラジオの周波数同調みたいに考えてもいいかもしれません。萌えはそのようなアトラクタ間の振動を「意識システム」に「自覚」させられるようなよい圧縮方法であったのかと今は思っていますが、ちょっと考えの練り込み不足で、これ以上の展開は今は無理です。ただこれらの考え方は、たとえば体の他の機構、複雑な対象を扱わなければならない免疫システムにおける抗体産生のメカニズムにも似ている気がするわけで、つまり自前で遺伝子を再構成することで抗原のセットを山のように作っておき、有用なものだけを増幅して使用するわけです。そのアナロジーで言えば、萌えが優れているのは、よりたくさんの同調するアトラクタのセットが存在するからかもしれません。以上のことが明らかになったとしても、やはり残る問題は、まぜアトラクタの同期や同調や遷移や活性化が「快」として認識されるのか、興奮するのか、ウレしいのか? という問題です。外在的かつ分析的な解説としてはA10神経によるドパミン放出などを挙げる人がいますが、内在的理解や全体的理解が伴わない説明は空疎になりがちなのでかジブンを納得させる説として受け入れるにはもうちっと分かりやすい「翻訳」が必要だと思っています。と思っていたら、例の本にある文章には参ってしまいましたんで、是非とも引用させてもらいます。

 

「地球上のどんなパレットよりも人の心を魅了するのは、空だ。雲と海と夕陽が一体となって水平線上に描き出す光景のなんとすばらしいことか。(中略)たえまなくうねる海の水面が映す自然の色彩は、深く、不可思議なほど繊細かつ複雑で、豊かな明暗を持ち、刻々と移りかわっていくのではないか。目が仕事を与えられるとき、処分する情報があるとき、そして感覚を目で消化して経験へと変容させる過程が、パリパリした野菜や新鮮な魚を味わうように喜ばしいものであるとき、私たちは歓喜するのではないだろうか。」

(『ユーザーイリュージョン』238頁より抜粋)

 

 内在的な説明ってこうでなくちゃなどと思いつつ、萌える対象も同じことが言えるのかもしれません。すなわち、情報の処理は私たち大脳が肥大した生物にとっては、それ自体が快楽なのかもしれず、外在的な解説しちゃえば、進化的に淘汰圧がかかったのは、状況を予測するためのよりヨイ情報処理が生き抜く能力だったのでしょうが、定方向進化の勢いは止まらずに情報処理自体を目的とした方向にドライブがかかったままなのかもしれません、実体論的でヤな説明ですが。アニメや漫画の絵は実写や現実と異なり、ある程度消化され修飾され咀嚼された情報であるために、脳内の情報処理ステップを飛び越え、比較的感情のアトラクタに影響を及ぼしやすかったり、逆に物足りなかったり、また場合によっては下痢してしまったり(一部の人に対する『火垂の墓』とか)するのかもしれません。これについては、別に難しいことを考えなくても今まで結構言われていたコトではないかと思いますが、これを更に進めると、言語と意識の発生にまで考えが及んだりするのでイイかもしれません。すなわち、私はソシュール研究家? の故・丸山圭三郎先生の影響とかで、あまり何も考えずに「意思は言語の発明と同時発生的で、それらが生まれた時に種としてのヒトは[人間]を生み出すもととなる[人類]になった」などと思っていたわけですが、意識はもしかしたら更に後悔の念、慙愧に耐えない状況に至って初めて生まれてきたのだとすれば、その両者の発生にタイムラグがあってもおかしくないかもしれません。それは例えば「意識」のない形での人類の歴史というものの真偽の検証などが必要になるかもしれません。しかし時は現代のニッポンに至り(笑)、萌えは新しい意識システムの方法として、他の心的システム(前意識、無意識等)を巻き込みながら、それらの情報処理の快楽を共演、否饗宴している状態なのかもしれない、などと思って・・・否、強く妄想したりしています(無理矢理まとめっぽく仕立ててみましたが・・・しまらねぇ〜)。今言えるはここまでくらいでしょうかね。

 

 さて、実はまだ予定の一章を終えただけで、ホントはまだ残り二つの問題それぞれについて一章ずつ書きたかったりするのですが、もうダメぽ。力が完全に尽きました。最後のほう、記述もタンパクになってきたし・・・。ただ残った部分についても、印象に基づいた結論(つまり単なるチョッカンですが)だけでも書いておかないと忘れてしまうので、チョットだけサワリをば。

 残っている問題の二つ目は意識と前意識と無意識と狂気をも含めた心的システム、心的過程が、本当に(内在的にはすべて)合理性や整合性や目的あるシステムとして可動しているのかということ(単なる問題の捏造している気もするのですが)。ワタシ的には答えは否。理由はたくさん。ひとつ、ヒトの非合理的・意識外の側面を無視してるのが気に入らないという話。ふたつ、ヒトの「意識」システムは生存に対する合理性と心的システムの齟齬があるところに始めて生じるという我流にアレンジした岸田秀理論を妄信しているから。みっつ、アトラクタが基本にある心的システムでは、主体として統合される前の要素は基本的にランダムな振動の坩堝だというイメージ(エスやイドからの印象?)があるから。それが進化的な淘汰圧にも耐えているのは、カオスの淵における「マシン」の計算万能性などによるかもしれないという妄想も考えてます。よっつ、合理性だけの心的システムを持つ個体が集まった集団は、特定の淘汰圧で全滅してしまう脆さを持つので、進化的にそのような集団は滅殺されてきたはハズだから(進化論的トートロジーだし、また今がその途中なだけかもしれませんが)。というわけで、タナトスや蕩尽でないところからワタシは非合理性を信奉するわけで、それは酔狂好きなオタクとも関連があるかなと、そう妄想したりするわけですが、これまた色々問題の多い部分なので、今はこれだけしか言えません。

 

 三つめは数学的にニューロンの活動から意識をモデル化ができたとして、それが私たちの心的過程の「理解」「納得」に何らか有用なものとなりえるのか、という問題。これは数学という意識システムが、そこにおける最も純粋な上澄みからとれた優れたツールであり、それを用いたモデル化は予想に優れた力を発揮してきたかもしれませんが、自己言及的に意識を含めた脳システム、心的システム全体を「説明」しなければならにとき、それに加えて視覚的に全体を見渡す無意識システムの暗黙知がないと、脳のシステムの記述は無駄になりかねないと言う予想。これは思考の線形性と非線形性とかにも関係しそうなヨカンですが、現時点では全く不明。ただ単にワタシのように数学ができない人の嫉妬と反発に過ぎないかもしれません。

 

 というわけで、以上について萌え特集でなくても、これの続きが出来ればまたの機会のWWFで書いてみましょう(実行したためしがないですが)。それよりも可能なら来年はウェッブサイトを再立ち上げしたいですんで(鬼に笑われる)、そこにでも書きましょうかね(無責任な言動に疲れを感じて欲しい)。なんか正体不明のミラーサイトだけ残ってるみたいだし。で、最後にちょっとまたいいコトバを見つけてしまったので、これまた引用で終わりたいと思います。要はカオスで萌えを実行しろと言うのですね、ハイそうですか(違うって・・・)。

 

「人間的な意味を勝手にカオスにつけたり、カオスを人間の技術力によって分析したりすればカオスの本性は失われる(中略)カオスは分析では理解できない何かをふくんでいる。分析よりも[見る]ことにより、また[構成]することにより理解されるものではないか。むしろカオスの本性を十分に明らかにするためには、[カオスを使って]何かをさせるとか、カオスを[情報プロセッサー]とみてカオスに何か計算させるとかいった工学的手法がより適切であると思われる。それにより[カオスの力]が引き出せるかもしれないとわれわれは考えているのである。」

(金子邦彦、津田一郎 『複雑系のカオス的シナリオ』より抜粋)

 

蛇足

 

 さてここで終われば、私の文章にしてはとてもキレイ? なのですが、性格悪い私としてはやはりイヂワルに否定的なことが色々浮かぶので蛇足が続いちゃうわけです。それは何かといえば、以上のような神経やら心的システムや入力出力の話しをすると、当然のことながらマトゥラーナ、ヴァレラの「オートポイエーシス」なんかに言及しないわけにいかないデスよねってことです。コレ有名なわりには、まず出力も入力もないシステムだとか言うことからして既に理解不能なんですが、この概念を意識システムを潜水艦のなかから外を観察している人に例えているモノがありました。たしかにその中にいるヒトにとっては入力出力は内部で完結していて、それの「結果」としてたまたまある方向に動いたり敵を撃沈したりミサイルを発射したりするわけですが、もしこれが記述レベルで「正しい」としても、あんまり実りの多い概念になりそうもありませんねぇ。最近思いついたのは西欧の人って自分の学説が極端でないと目立てないから異説を唱えるのが好きなんじゃないかと思うくらいですよ。オートポイエーシスがそうだとは言って・・・ますが。また日本においてこの研究で有名な河本英夫氏の本とか読んでも、心的システムについて精神分析との関連をこう述べたりしてます。

 

 「記号(言語のことをここでは述べている >オレ注釈)と意識の動きには質差があり、どのように記号を詳細に用いようとも意識の動きにはついには到達できないのである。意識の動きを欲望する主体だとしてみる。するとこの主体と記号表現(ラカンのいうシニフィアン)の間には埋めようもない裂け目が残る。この裂け目がラカンのいう「無意識」に相当する」

(『オートポイエーシス2001』195頁より抜粋)

 

 だそうですが、今回述べた私の考えとはかなり離れているので、とても承服とゆーか理解できないデス。ラカンがマジでそんなふうに意識システムを単純化しているとは信じられませんが(いい加減に原著にあたれよオレ)、フロイドでも既にこのような単純な発想はなかったでつよ、確か。ではホントのおしまい。

 

(2004/12)

 

 


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