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モノ言えば唇寒しオタク論

 

 

松本 晶


  

 

〈ラカンが悪いのか齋藤環が悪いのかオレが悪いのか?〉

 

 この文章の要約をすると、齋藤環氏の『戦闘美少女の精神分析』はオタク論だけど、オタクである私にはちっとも納得出来ない本であった、ということに尽きる。この本でラカン派の?齋藤氏は、その精神分析理論を援用しながらオタクとそれに消費される戦闘美少女という概念を用いて現在の日本のオタク状況を分析しようとしたのだろうと私は理解した。しかし結局、齋藤氏が何か新しい考え方を提供しているとも、また既存の考え方を「正しく」オタクという状況に適用したものとも私には到底思えなかった。しかしその「納得出来無さ」の原因は一体何なのか、つまり彼の理論のバックボーンとなるラカン理論が「間違っている」のか、オタク的状況までに対応していないのか、ラカン自身が言った?ように日本人には精神分析は使えないのか、それとも齋藤氏がラカンの理論を乱用・誤用しているのか、それとも私がこの本を全然理解していないだけなのか(これは私に分かりようのないことだが)、よく分からないというのが本音である。

 それを何とか自分でも確かめようとラカン関連の著書を幾つか読んだりその筋の人に質問したりしたかったのだが、この原稿でそれは出来ず仕舞いであった。だから出来れば今回の文章を様々な人に色々と批判や意見を出してほしいとうのが正直なところである。つまり今回の私のオタクを巡る文章が、ラカン理論批判にまで届くものなのか(>誇大妄想)、それとも単に齋藤氏独自の論理を批判するだけに終わるものなのか(>世間知らず)、それとも私の考え方がおかしいのか(>バカ)、それとも賛同してくれる人がいるのか(>ちょっとハッピー)、是非知りたいし、また議論したいところである。

 しかしこの同人誌の読者層と興味の方向が決して合っているとも思えないし、またこの文章をアップしている私のサイトのヒット数から考えると、以上の希望は空瓶に手紙を入れて海に流して返事を待っているのと殆ど変わらないかもしれない。ただこの本がコミケで出る頃までに、私のウェッブサイトでこの文章の改訂版、あるいは追加版を出すつもりなので、そのときまでに自分の意見が変わるかどうか、我ながら見物であるとは思っているのだが(って楽しみにしてるのが自分だけと言うのがサミシイんだけど >泣)。

1・まえがき

 

 何をもってオタクとするかはさておき、オタク論は現役のオタクにとっては分析する対象として取り扱うために言語化するには困難であり、また逆にオタクでない人たちには世間に流通している物語を相対化しつつ「現実」を捉えるのもまた難しいというわけで、万人にとってかなり鬼門な話しだと思う(さらに誰がオタクと判断するかも謎?)。更に悪いことに?「論」としてオタクを語ろうとすれば、その定義の仕方が前提・公理になるために、そこから展開されるのは単なるトートロジー、都合の良い事実に自分の考えを外挿して自分の偏見を表明するだけになりかねない(自戒)。自分はオタクでないと表明する齋藤環氏の著書『戦闘美少女の精神分析』は、彼が敢えて蛮勇を奮い?精神分析的な方法で現在の日本のオタク的空間へと迫ろうとした書である(題名見りゃわかるだろって?その通り。言葉の勢いでこうなった)。

 私が言うのもナニだが、この著書は様々なオタクにまつわる「事実」を論理的をまとめようとした労作・力作であり、本職の臨床精神科医としての仕事の合間を縫って書かれた(らしい)ことを思うと、怠け者でオタクの私にはその構成力と努力に尊敬と羨望を禁じ得ない(要するに嫉妬少し入ってます)。しかしその陰性の感情を差し引いて考えても、齋藤氏の言説では私(たち)オタクの状況を上手く説明出来ているとは思えないのである。つまり結局この文章では私自身のことしか気にしていないのだが、それは言いっこなしにしておこう。というわけで、現在はまだモヤモヤとした疑問ばかりになってしまったかもしれないが、彼の言説への批判を考えてゆくことで、私にとってのオタク論のアイディアを出したり座標を少し整えていこうかと思う。ちなみにこのスタイル、最初の押井守論のときも同じだったなぁ、混乱してるとこなんかも・・・

 

 

〈序?〉

 既に様々な人たちによって「オタク」像、「オタク」的現象は語られてきており、今ではその試み自体が陳腐なものになりがちであるが、意外なことにそれは今まで精神分析的に語られてきたことはなかったようである。それを「戦闘美少女」というキーワードを使い読み解こうとした齋藤氏の試みは、(偉そうに言わせてもらえば)、私が考えていたことと同じ方向性で大変興味深く、またラカン理論の応用例として色々と考えさせられながら読ませてもらった。つまりオタクの分析にあたり性的な視点をキチンと論争の俎上に載せようとしたことは大賛成である。だから私としては彼を同じ戦線の戦友みたいに思ってもよさそうなものなのだが、実際にこれを読んだあとには、我ながら意外にも細部を含めて全く私とは異なった考察ばかりで色々とかなり感情的に反論したくなったのも事実であった。

 

 そのようにぐずぐずと私が一年間考えているうちに、以下のサイト上であの東浩紀氏が中心になってこの著書を巡る討論がアップされているのを知ったのはつい最近である。

(http://www.t3.rim.or.jp/~hazuma/project/ml-reviews/sentoindex.html)ここで既に東氏からオタクの定義を巡る部分から批評がなされ、それに齋藤氏自らが答えているのだが、あまり噛み合った議論になっておらず(それは同じくこの議論に参加していた竹熊健太郎氏からもせっかく指摘されていたのだが)、最後は世代論みたいな凡庸なところに落ち着いてしまったらしいのだが、その実際の和解の様子?のロフト・プラスワンでの議論はこの原稿を書いている現在ではウェッブにアップされていないので、いかなる顛末であったのか私には知り得ない。というわけで今現在の私としては、自分の考えと比較しながら齋藤氏のこの著書を批評してゆくしかないと思う。

 

〈総論、って言うより漠然とした不満、みたいな〉

 

 などといつまでも状況論を述べていても仕方ないので、まず総論的にいきましょ。この本では、その第6章「ファリックガールズが生成する」が肝心の部分になっていると思うが、その要旨をまとめておこうと思う。齋藤氏は日本のマンガアニメにおいて「戦う美少女」=戦闘美少女という要素が世界的にみてこの国に極めて特異的なものだとした上で、ラカンを援用しつつ分析している。私なりにこの章の前半部分を乱暴にまとめると、

 

(1)マンガ・アニメの空間はハイ・コンテクスト性(要するに「お約束」ってこと?)で、あらゆる刺激の意味が瞬時に過剰に了解されうる高速高密度な伝達性が可能となる。

(2)80年代にマンガ・アニメが性的なものを伝達できることにみんなが気付いた。

(3)オタクの究極の夢は虚構の世界に自律的な欲望の対象を成立させることである。

(4)リアリティの欠如しているハイコンテクスト空間は性的なものを引き寄せることでそれ自身を補完し、また構造や形式のリアリティーを利用できないゆえにコンテクストの切り替え、すなわち多型倒錯的な要素による強度の保持に力点を置くことになる。

(5)その結果、図像という虚構にリアリティを持たせることに検閲(去勢)がかからない日本において、それらの用件を見事に満たす多型倒錯的なイコンとしての戦闘美少女は極めて便利なアイテムとして隆盛(猖獗?)を極めている。

 

 この論理の正否は後に検討するとして、この説明が興味深いのはちょうど今までのオタク論と逆さまなロジックになっているという点である。つまり今までよく言われていたオタク論では、オタク的要素の作品なりキャラがはじめにあって、それに触発された人たちがオタクとなりオタク的空間が形成されたという流れが一般的だったと思う。それに対して齋藤氏の論理の流れでは、要するにオタクはまず虚構空間が必要で、それを成立維持するために「戦闘美少女」というイコンが必要とされた、だから日本のアニメ、マンガにそのようなキャラが蔓延しているということになる。

 しかし彼自身はこれを因果関係というより同時成立的だと言っおり、彼がここで精神分析的に示したかったことはその歴史や起源ではなくて、そのような空間がいま現在の日本で成立しているメカニズムだと言明している。しかしはじめに述べた通りそれは目的論的でトートロジーにすぎないのではないかという疑いが常に付きまとう。つまりそういう空間に親和性の高い者をオタクと定義して、そこに戦闘美少女との関係を説明するために精神分析理論なりテツガクを外挿すれば、確かに論理的には完結した「オタク論」あるいはメタ「オタク」論が一丁出来上がりとなることであろう。

 でもそれでは「現実のオタク及びオタク的空間」の重要な部分を取りこぼしていまいか。いや、それは不正確な反論なのだが、彼自身この著書は「オタク幻想論」、つまりオタクがどう見られているかについての言説だと言っている。はじめからオタクの内部に関しての言説とはカテゴリーが異なるものだと言って、その点に関する批判にはあたらないとしている。ならばそれは単に一般の人々がオタクへ自分のイヤな部分を投影した姿を解説しているだけで、オタク論の名に値するものには全く成り得ないのではないかという疑問が当然出てくるであろう。このような至極最もな指摘は、東浩紀氏からもなされている。しかし齋藤氏自身はこれに正面からまとめて答えていないが、幾つかに散在している発言をまとめると多分こう言いたげであるように思えた。すなわちオタクはすぐれて自己言及的であるから、もしくはそのようにアニメマンガに熱狂しつつそれを自己言及的に冷めた目で見るような一群の人々をオタクと言うのだから、オタクに関する言説=オタク論であり、むしろ現在はそのような言説をなぞり自己演技しているのがオタクなのであり、そのような批判は無意味であると。

 なるほど、自己言及自体がオタクそのものの定義の一部であるならば、トートロジー的説明を批判対象とするのは無効だという反論も道理が通っているようにも見える。しかしこれはよく考えると論理的には無茶な説明である。なぜならこれは第一原因=オタクがなぜアニメマンガに惹かれるかという問題を宙吊りにしているからで、まるで出来の悪いタイムスリップSFのようなストーリーである。その検討はまたまた後ほど行うとして、ひとつだけ先に指摘しておきたいが、齋藤氏は「オタクが自己言及的でなければ(機動戦艦)ナデシコのヒットは説明出来ない」という趣旨の発言をサイト上でされていたが、ナデシコにかなり思い入れのある私としては笑止であるハッハッハ。ナデシコのキモは、少なくとも一部のファンにとって自己言及性の迷路だったエヴァ(最終的にそこから抜け出したかは別の話)に対するアンチテーゼ、すなわち自己啓発セミナー的ではない(つまり隠された素晴らしい本当の自己があるという欺瞞 >ちなみに大塚英志氏とかはTVエヴァの最終回が自己啓発セミナー的であったというような発言をしていたが私は全然そうは思わなかった)オタクの気張らない自己肯定であり、それを巡るルリ萌えと酔狂モードのSFファンなどから成っていたというのが私の実感である。これからも分かるように齋藤氏がオタクを記述するときにはある意味できわめて異質な集団の集まりであるオタクから、自己言及的自己演技的というごく「特殊」な集団を取り出して彼に都合のよい洞察を行ったのではないかという疑いを強く持っている。

 これはくだんのサイトの竹熊氏の発言でも指摘されているのだが、つまり彼はオタク密教と顕教という例でオタクの自己言及度?を示しているが、要するに密教と顕教の割合がそれぞれ個人で色々混在していると指摘している。私はさらにそれが虚構に対する接し方に関しても、各人各様に各作品に関してもモザイク状になっていて、その間の整合性?に関心を払う度合いについても各人各様であると考えている。これは更に大きく出れば、個人が出会う様々な「現実」に対してどのような接し方をするかということと基本的には同じことであると私は思うが、詳しい説明はここではパス。

 また齋藤氏と東氏がこの問題をめぐって「噛み合っていない」と竹熊健太郎氏から指摘される原因は、そのようなレベルの違う記述に関すること以外にも、彼等の専門からも明らかなように、ラカン的構造主義とフーコー・ドゥルーズのポスト構造主義的な脱中心化等の対立があるのかもしれない、もしかしたら。東氏は「斎藤さんの問題は、オタクの病理というより、日本のサブカルチャー一般の、あるいは国際的なポストモダン文化一般の特性として問われるべきだったように思えてなりません」と書いており、その可能性を指摘しているようにも思われる。

 しかし私は更にひねくれて見ているのだが、実はそれは穿ちすぎた評であり、もっと精神分析の土俵で齋藤氏の言説がまず批評されてからの問題であると私は思っている。しかしもしそのようなポスト構造主義的対立がその後々に問題になってくるとすれば、それは齋藤氏がオタクの主体としての作品「解釈」とオタク空間の主観的感覚を軽視しすぎて、ひたすら「構造」を抽出しようとした、言葉を換えて言えば、オタク内部からの言説と外部からのメタ的言説は対立し両立しないものだと簡単に諦めてメタ的立場に居直り、レベルを揃えた記述にこだわるあまり「形式主義」の悪しきパターンにハマってしまったとことではないかと思う。東氏もレベルの揃えた記述ならば仕方あるまいというように簡単に納得?したようだが、デリダ論者としてはマズイんじゃないのかいな、と私には思えた。(またこのような内部、外部、メタ論、オタク論という問題意識は私のなかでは結局は押井守監督の初期作品の「うる星やつら2・ビューティフルドリーマー」の話しと絡んでくるのだが、今回はそれは止めにしてこう)まあ、齋藤氏のこの著書が、今まで市場に山ほど出回っている殆どのオタク論がオタク自身による主体の「解釈」中心であることへのアンチテーゼだと思えばいいのかもしれないのだが。

 

 というわけで我ながらイマイチ要領を得ない総論は早々に切り上げて、この本の各論について考えてゆこうと思う。

 

 

〈齋藤氏の論理の前提の是非について〉

 

 この章は揚げ足取りばかりみたいで、読んでいる方としては面白くないのだろうが、私の齋藤氏批評が根本的に心的装置とオタクの捉え方からして異なることから来るものであることを明らかにする上でも省略できないと感じたので、肝心の部分だけでも記述しておこうかと思う。

 

1 「想像界は倒錯に親和性が高い」(P.221)

 齋藤氏の前提の冒頭のこの記述からして私は反感を覚えてしまった。もし一般的に言われるようにラカンの「想像界」がフロイトの第二局所論的「自我」に対応する部分であるならば、本職の齋藤氏に対して随分と傲慢な言い方なのだが、これはあまりにも雑というか恣意的な記述ではないのか。むしろ一般常識的に言うところの「想像」であれば、倒錯的なものを連想するのは何となく分かる気がするが、ラカンの用語はそういった概念も含んでいるとでもいうのか?(富野的セリフ)

 細かい話しで恐縮だが、フロイトは第二局所論、すなわち「超自我、自我、エス」の心的装置の「仮説」・モデルの以前には「意識、前意識、無意識」というモデルを提唱しており(蛇足だが俗に批判されるように彼はこれを実体的心的概念であるなどとは言っていない)、その二つの整合性を図るために、抑圧され無意識になったものはエスを通じて自我と連絡されるという大変にややこし説明をフロイトは考えていたらしいのである。それを継承すれば確かに意識的、前意識的、無意識的な部位全てに自我が存在することになり、幼児の多形倒錯期以降に抑圧されたその欲動の一部が倒錯性を持ち得るというのは間違いではないだろう。しかし想像界=自我それ自体が倒錯的なものに親和性が高いという記述は、自我の一部の性質の無制限な拡大解釈であるとしか思えない。もしこれが齋藤氏の勇み足でなければ、私はラカンの言説自体に疑義を唱えることになろうが、それは本職の方々に是非聞いてみたい話である。つまり私が言いたいのは局所論的に細かい話しではなくて、「想像界」と言う定義のはっきりしない概念を便利に用いることによって色々な議論のレベルをすっ飛ばしているのではないかということである。

 話しはチョト逸れるが、よく言われることでフロイトのメタ心理学における心的装置の説明は粗雑なフィクションだが、それに対してラカンはそれに言語学的・哲学的思考法を導入し緻密なものへと昇華させたスグレモノ云々ということがあるらしいが、これはヒトの傲慢ではないのか(またも富野セリフ)と私は思っている。つまり、もし心的装置をコンピュータに例えることが出来るとしても(ノイマン型に限らずスペックも作動原理も異なるとしても)、すなわち現在の私たちの理解できる範囲で説明できるとしても、メタ心理学はそのソフトの動作からOSの原理を推測しているようなものだし(ワードの使い方からWindowsやDOSの動作が分かるのか?)、現在の脳科学に至ってはコンピュータの材質の分析(遺伝子発現の差による「出力」の違いのこじつけ)や変更、欠損(トランスジェニックやノックアウトマウス等)や、さらには回路のどこに電気が通ったか(MRI、PET、脳磁図等々)でCPU、メモリ等の作動原理を推測するというとてつもない「愚挙」、そう言って悪ければ遠回りを行っているに過ぎない。いや今や我々は遺伝子というヒトの設計図を持っているのだからそんな低レベルの行為をしているわけではないという遺伝子万能論みたいな似非科学的言説がまかり通っているようだが、それは機械やコンピュータの設計図やアーキテクチャには意識的無意識的なヒトの目的論的思想が乗っかっているのに対して、そのような発動原理とは多分異なる「設計図」であろうと推測される遺伝子・タンパク質生体システムである生物を混同していることから来る「迷信」だと思われる。まして本当にヒトの心的装置が脳を中心とするコンピュータ的なものとして理解できるものなのかは確実ではないわけで、そのレベルにしかいない私たちが、どちらがより精密な記述の「哲学」的だからとか、あるいはより「科学」的だからと言って、ヒトの心的装置、脳を含めた「心」により迫ってるかと優劣を競うのは極論すればドングリの背比べであり、端的に言えば目クソ鼻クソを笑う状態で意味がないと思っている。

 では現在の私たちが何をもって学説の間での「優位性」を考えればよいかと言うと、私は結局はそれがいかに多くのことを無理なく説明できるかという科学経済論的な視点、昔ながらのオッカムの剃刀でしか判断できないと思う。つまり学問体系としていかに精密に見えようが、それは体系内での自己満足を増す効果があるだけで、フーコーが問題にしたように実際それがいかに私たちの「現在」を説明し豊かにしてくれるかということが私には大事に思える。従ってある記述なり説明なり理論がいかに様々な歴史を含めた心的現象を上手くエレガントに=簡明に説明できるかが、その理論の「優位性」として考えるには相応しいと思っている(そう思わない人がいるのも分かる)。その意味で私は今もってフロイトのメタ心理学や岸田秀の「史的唯幻論」の方が、ラカンの言語学的精神分析よりも「優れている」と感じているが、まあそれは全くの蛇足である。

 さて話しを戻し、齋藤氏のこの記述に対する私なりの結論を言えば、想像界が倒錯に親和性が高いという記述はラカンの文脈でならいざ知らず、私たちがオタクについて単純な?フロイト的解釈で考えるにあたっては条件付きで、すなわち抑圧され無意識にある自我のレベルでしか言えないということを確認しておきたいと思う。従って後に齋藤氏が展開する理論においてもこれは条件付きで考えていかねばならない。

 

2 「宮崎(駿)はアニメの無時間性を講談の時間になぞらえる。そこでは時間と空間が、主人公の情念と迫力表現のために著しく歪曲・誇張される。(中略)アニメという視覚表現の時間性、運動性は無時間性を指向しており、これは想像や空想の領域の無時間性の指向と一致する。(中略)アニメはクロノス時間を抑圧しカイロス時間への際限無い没入を指向させる。そのように「瞬間を饒舌に描く」結果「高密度」な物語を可能にさせる。これはマンガ・アニメのメディア空間に固有の性質である。」(P.222〜「漫画・アニメの無時間性」より抜粋)

 

 この部分、齋藤氏には悪いが、あまりにもこじつけが多くて、どこから突っこめばよいのか困ってしまった。まず用語の説明からすると、クロノス時間とは客観的・物理的時間、つまり時計で計られる時間であり、カイロス時間とはヒトが感じる主観的・人間的時間のことだそうである。この分類は記述レベルではよいと思うのだが、そのあとはもうメチャクチャ。この本のなかでも最も根拠の薄く感じる部分である。彼はオタクにおけるカイロス時間の優位性の根拠として、齋藤氏は同じ精神科医である中井久夫氏による精神分裂病者の一時期における時間の感覚の変容の記述を引用しながら、次のような論を展開している。

 

中井氏は分裂病のある時期において「カイロス時間が崩壊し、クロノス時間が保たれる」という相を経るとする。それでは、この逆の事態も起こりうるのではないか。すなわち「クロノス時間が後退し、カイロス時間への無際限の没入がおこる」ということ。すなわち境界例やヒステリーにおいては、あきらかにカイロス時間が優位になっている。(P.229)

 

 ここには何故分裂病の一時期において時間感覚の変容が生じるか、想定される心的メカニズムの考察をすらしないで、哲学的な言葉を弄んで上滑りしているとしか考えられない。つまり岸田秀的に言えば(この記述にイチャモンつけられることは必至だが)分裂病がナルシズムにより駆動される内的自己と現実原則を規範とする外的自己の分裂という状態が本体(原因じゃなくてね)だとすれば、外的自己が優位の時期(つまり分裂し抑圧され意識レベルから後退したゆえに制御しきれない内的自己がそらぞらしい他人の欲動のように感じるために、自分の中にデンパとかで指令された命令が下るように感じる分裂病特有の症状を示す時期)には、外的自己の現実原則に従う時間=物理的時間=クロノス時間だけが保たれるように感じられる病期があるのは理論的に筋が通っているように思える。

 ではその逆の事態がオタクや作品のなかで起こり得るのではないかと簡単に言うが、それはいかなる状況のもとで、どのような心的メカニズムによって生じるのであろうか?分裂病の発狂した状態であるならば、内的自己?無意識?エス?が解放されカイロス時間への無際限な没入が生じるというような「異常」な事態が起こっているのも想定できるかもしれない。しかしそれをアニメ・漫画という作品(人の心的状態ではないのだ、作品は)の特質とどういう根拠で結びつけるのか?象徴界が機能不全を起こしている日本人というような文章の流れを書いていることからすると、漫画やアニメを鑑賞するオタクと境界例、ヒステリーの関係があるというのか?後にラカン的用語でのヒステリーとしての女性性というような議論で、我々神経症者たるヒト自体が女性に惹き付けられる際のラカン的なテーゼが述べられてはいるが、それは別にオタクに特有のことではないわけであり、齋藤氏が述べているのは印象として似ているものをただ漫然と並列しただけではないのか?

 また「クロノス時間が後退し、カイロス時間への無際限の没入がおこる」ことは本当にアニメ・漫画やヒステリー、境界例だけに特有のことなのか?夢中で遊んでいて、もしくは本を読んでいて、あっという間に時間がたってしまったという経験と比べ何らかの特殊性があるのか?そのときに主観的に短く感じる時間性の変容には象徴界・想像界の(暫定的でも一時的ではあってもよから)構造なりが変化しているとでもいうのか?もしそのようなフレキシブルなものであれば、その構造を形成する更なる基底の構造を問題にするべきではないのか?

 アタマの良い齋藤氏に対して実際に以上の質問すればそれらしい答えが返ってくることは予想できるが、このように根拠の薄い事柄を書いてまで齋藤氏が何かを主張するのは、これまた彼の思いこみが先にあって、それを構成するのに適当な材料を掻き集めたのではないかと疑わざるを得ない。つまり彼の思考経路には単にオタクが象徴的な大文字の他者によって規定されている「現実的な時間」から逃げて、倒錯的な想像の世界に没入している、という凡庸な結論が先にあって、それを色々と装飾を施した理論を展開しようとしているのではないかと下司の勘ぐりをしているのだが、まあそれは同人誌だから書けることであろう。

 ここで時間性の変容についての齋藤氏の指摘する内容を仮に好意的に考えてみると、たしかに私も自分が好きなアニメやマンガを見ているときの時間はとても短い。それを単に「楽しい時間だから短く感じる」以上の何らかの原因を考えることは有意義であるかもしれない。しかしそこで展開されるべきだと思うのは、マンガやアニメ、またはそれに類似した理解構造を持つと齋藤氏等が指摘する日本語自体を含めた「特殊性」なのだろうか?フロイト、ラカン、岸田秀氏、齋藤氏全てが認めているように、オタクを含めた我々ヒトはすべて皆神経症者であるという点において心的装置の構成に差はないという前提を共有しているはずである。ならば「クロノス時間が後退しカイロス時間への無際限の没入」が生じることとアニメマンガとの関連をもっと相対的かつ一般的なこととして考察してみる必要があるのではないか?

 ラカンが時間や歴史をどう解釈し理論つけているか不勉強な私は知らないのだが、私が最も気に入っているのはやはりここでもフロイト・岸田秀ラインによる「時間と歴史は後悔と悔恨のなかで生まれた」(正確な表記忘れた)という記述である。つまり神経症者として「現実」ではなくそれぞれの「幻想」の中を生きるしかないヒトだけが(客観的)時間や歴史を捏造したのであり(それは言葉の発明という事態と同じことかもしれない)、つまり過去を悔やむからこそ歴史を作りその流れを客観的時間として認識・というより想定しているわけであり、その意味で客観的なクロノス時間とは所詮私たちにとってはじめからよそよそしい時間として立ち現れる方が当たり前であると思う。(「現実」にきっちり沿って生きてゆける他の殆どの動物とかは時間の概念を持つ必要ななかったし、それぞれの時間、つまり「ゾウの時間ネズミの時間」で生きてゆけるわけである)むしろクロノス時間をイデア界での「正しい」時間として認識しなければならないとする西欧的思考を「正常」「日常」とすることのほうが強迫的でヘンなのではないかという疑問を持っていた。つまり「実際に」我々が感じる時間はしばしばカイロス的なのであり、それがマンガ・アニメのなかで再現されるように描かれることは、我々が楽しい時間や危機一髪で走馬燈のように過去を想い出すときに示されるように、心的に活性化された状態を過ごすときを再現しているのと相同的なのかもしれない。それはヒトを惹き付けようとする表現メディアでの「手法」の一つに過ぎず、西欧ではそれが「抑圧」されているだけではないのか。事実、劇場番『攻殻機動隊』にインスパイアされた『マトリックス』にはアニメ的時間の引き延ばしが頻用されており、その「封印」されていた表現方法にこれまた感化された映像がそれ以降数多く認められるようになった(しかしアメリカではパロディCMとかで多くパクられていて、そのインパクトを中和しようとする力が働いているのが見て取れるのだが、誰かそういうメディア論やってくれないかな)。

 

 このような考え方について当初私は精神分析的なバックグラウンドしかないのかと思っていたのだが、最近読んだ中島義道氏の著書のなかで彼は、西欧哲学におけるカント、ヘーゲル、ベルグソン、ショーペンハウアーに至る時間理解の根本である「現在中心主義」、あるいはハイデッガーによる「先駆的決意性による本来的時間理解」という未来本物論というドグマは「ホンモノの時間と主観的な偽りの時間」という二項対立的形而上学ではないかということを指摘している。またフッサールの純粋直感による客観的時間の認識というのもその意味ではあまり変わるところがないとも彼は書いているのだが、それはすぐ竹田青嗣氏あたりが反論しそうなので保留。とにかく主観的なカイロス時間をニセモノとしてイデア的な客観的時間が粛々と「現実的」「物理的」にヒトの認識とは関わりなく、それこそ神さまが定めた時計のように流れているとして、それとしばしば食い違う主観的時間を信用せず、多くの人々とは遠く隔たった時間感覚を持った人々を狂気の世界として理性的世界から排斥してゆこうとした「特殊」な歴史こそがフーコーが『狂気の歴史』なり『監獄の誕生』で指摘したことではなかったのか(ホント?)。またそのような形而上学という主体の哲学に疑義を唱えたのがフロイト・ラカンの精神分析ではなかったのか?ちょっと聞き囓ったことを分かったように書いて申し訳ないが。

 「クロノス時間が後退しカイロス時間への無際限の没入」という状態をラカン前中期の構造主義的な心的装置的用語でかつ大雑把な言い方で敢えて語れば、象徴界における大文字の不可能なもの=外部?によって心的システムを統合することが出来ない状態だということで、そのような時間認識は不安定で父権的西欧概念からは「正しい」「理性的な」状態であるとは認められないのだろうが、それは心的装置の安定化の一つの方法に過ぎないのであり、それが普遍的だとか優れているとかを詐称する必要はないはずである。齋藤氏はそれについて言及することを注意深く避けているようではあり(そこをハッキリ言わないところがまたイヤなのだが)、いやむしろこの著書の最後ではオタク的な生を肯定しているが、それは結局「外傷的現実に接する可能性のある性に向き合う可能性」という注意深く形而上学的判断を隠した価値判断を推奨しているだけで、実はこの言の後には、オタクが性という身体的で「外傷的現実に接した後の象徴的なものの生成」しそうだからオッケーみたいなことを考えるとしか思えないので(つまり現在を本当に肯定しているのではなくて、未来という時間をホンモノとするようなハイデッガー的な思考とかが)信用出来ないというのが正直なところである(蓮見的長文でスマン)。

 また聞くところによれば(って2ch情報 >笑)ラカンも晩年には、不可能なものの男性的な処理(否定神学)の他にも、不可能なものが複数であるような女性的システムについて考えていたらしく(再度不勉強でスマン)、女性的原理だからオリエンタリズムだと単純化できないだろうが、少なくとも「クロノス時間が後退しカイロス時間への無際限の没入」をオタク及びオタク的作品の特徴とすることは、西欧的時間の特権化の裏返しに過ぎないのではないかと思う。それはまるでかつてマルクス(本人?)が史的唯物論的な社会の発展説をもって、その段階から「遅れている」ことをもってアジア的停滞と言う用語を使用したのと同じ傲慢さを感じるのである。

 以上ラカン的用語を敢えて用いて書いてみたが、確かにこのテの用語を使うと何か高級な概念を扱ったような気になるのだが、これはやはり排他的自己満足の世界だという気がしてならない。なぜならこれらの用語では、フロイトの書くような事実と論理を踏みしめて思考しているなかから得られる心的装置や歴史の理解を欠いており、単に生物的実体のヒトを無理に無視して論理が上滑りしているようにしか思えないが、やっぱヒルベルトプログラムの形式主義とかに憧れていたんすかね、ラカン大先生は?時代的に合ってるかどうか知らないけど。

 

3 そのメディア空間は「高密度」なだけではなく「高速度」=速読を可能にさせる。その理由は様々なマンガの一見複雑なコード(キャラクターそのもの、その表情、漫符、擬音、スピード線、等々)が「多重性、複数性」、すなわちポリフォニックなコードとして作用せずに、むしろユニゾン的に作用して、単一の意味と単一の情緒を伝えるものとして働くからである。この結果マンガ空間は過度に意味付けられた冗長性の高い表現空間として機能することになる。しかし一方でマンガはある程度以上複雑な物語は描けず、「文芸的」なものを表現するには限界がある。マンガをはじめとするサブカルチャーの強みは「パラディグマティック(水平的)な多様さ」であり逆に弱みは「サンタグマティック(垂直的)な弱さ」である。

 

 これも雑、雑過ぎないか(笑)。齋藤氏の指摘「アニメの多重コード系列とユニゾン的同期性」であるとか「漫画はある程度以上複雑な物語を描くことが出来ない(中略)多くの漫画が典型的人物しか描き得ないとすれば、それはキャラクターが単一の意味を担うコードとして配置されなければないらないからだ」というのは、アニメや漫画という言葉を最近の若い人たちだとか文学とか人格分類とか言い換えても同じことで、極めて一面的だったり恣意的な物言いではないのか。確かにある一定のレベルの論をつくるためには事実を取捨選択しなければならないのは分かるし、また実際に少年マンガや最近の美少女ものアニメ(そんな分野とか分類とかがあるか知らないが)をボンヤリと見ていたりすると、なんとなくその言い方に納得してしまいそうになるが、これもそういう漠然とした常識的な認識を難しい言葉で言い換えただけではないか?つまり少年ジャンプ系のマンガで散々指摘されてきたこととかを。また確かに最近のアニメは絵の質とか漫符の導入とか動きとか進歩したが、ストーリーは陳腐で、多様なキャラの存在が物語りの深みに全く貢献せず、典型的な配置をされ、ある一定の目的のために存在しているというようなマンガやアニメはいくらでも存在すると思う、あんましそーゆーの見たことないけど。だから最近の幾つかのそういう作品を具体的にピックアップして以上述べたような論を展開するならばよかったのであると思う。

 しかし実際そのような作品でメジャーに人気のある作品を探すのは意外と難しのではないか。実際にアニメに関する齋藤氏の「分類表」を見ていてその条件によく当てはまると思えたのは『守って守護月天』とか魍魎鬼以外の『天地無用』シリーズの幾つかの作品とか『セイバーマリオネットJ』の大多数の回とか『ウェディングピーチ』とかくらいかではないのか。

 齋藤氏が言うような「その要素がユニゾン的に動員されて単一の目的の伝達に特化している」ことが大多数の視聴者・読者たちにとって感じられるような作品があるとしても、所詮それはマイナー集団のなかで消費されるのであり、その集団をオタクというならそれまでだが、私が問題にしたいのは、ヤマト、ガンダム、エヴァのブームの時のようにもっと様々な集団が感化される作品では、一見それが「サンタグマティックな弱さ」を持っているように見えて実は「読み」によって=「多数のタイプの読者」によって「複雑」と成り得るではないかということである。いや、と言うよりも、テクストの「複雑性」を何をもって判断するのか、その傾向を示すだけの根拠どいうものが客観的基準をもって判断されうるのかという問題である。つまり齋藤氏の認識は、解が単純に決められない3次以上の多元方程式的現象は複雑で、そうでなければ単純であるというような極めて短絡的発想であって、たとえ出力がごく簡単で決定論的な数式で表されるとしても、非線形なものであればカオス的な振る舞いを導き出しうるという思考にはほど遠い(かなり数学的にアヤシイ >笑)。また特に現在のアニメのように多数の制作者が関わらなければ作り得ない表現メディアにおいて、いかに監督なり誰なりが「単一の意味と単一の情緒を伝え」ようとしても、作画背景音楽声優効果等々が明らかにその意図を複数化しうるような様々な異化作用をもたらす場合があり、またそれはずっと少ない人数で制作しうるマンガであっても(編集流通読者のレベルまで含めるとずっとしばしば)起こりうるのではないか。

 実際、齋藤氏の論の「有用性」と考えると、この記述は肝心な作品を説明できないことになる。具体例を挙げるとキリがないので、ひとつだけ。そんな高尚でも現代風でもない作品、『アルプスの少女ハイジ』(笑)。まるで呉智英的な唐突な例えだと笑うなかれ(笑)。ご存じのようにこの作品では複雑なコードどころかシンプルな絵柄、ストーリー。にも関わらずの各キャラの紡ぐ複数の視点的な物語(典型的な名作劇場的なものだけでなく見る歳や立場で随分違う印象を憶える筈である)では、齋藤氏の述べることとは全く別のことが生じている。ハイジの神経症的としか思えない明るさとか(実際あとで夢遊病とかになったりするし)、デーテおばさんの弱い狡い優しい自分勝手でハイジを思いやる性格とか、おじいさんの意固地さと優しさだけじゃなくてその底に不幸さだけではない闇とか、そのほかクララにしてもその父親、お手伝いさん、使用人(たしかセバスチャン >笑)にしてもをこんな簡単なフォーマットで複雑な表現ができている作品の存在だけで齋藤氏の論述は破綻していることが明白になってしまう(ちょっとオーバーだけどね >笑)。

 それに対して齋藤氏は、エヴァにおける庵野秀明氏の「登場人物は全て僕の分身」みたいな発言を見て反論されるかもしれないが、それは単純過ぎる。また齋藤氏はこの著書のなかでミハイル何たらのドストエフスキー評を引き合いに出して文学の複数主体性を言い立てているが(P.238)、これは西欧的形而上学的主体の絶対性を疑わないところから来る楽観的な文学論であり、もし権威がお好きなら対抗馬としてロラン・バルトを持ち出すのが良いかもしれない。つまり文学作品を読むことは、そこに唯一不変な複数の主体の存在を見つけて正解とすることではなく、制作者の意図に関わらず生じてしまう意味の複数性を例証することであり、例えばその意味でエヴァはテクストとしての登場人物を敢えて監督の分身としう単数性としながら視聴者などによる意味の複数性の生成への挑戦(これは丁度コピー・引用だけをなるべく使って結果独自な作品を制作したことと裏腹)したことは確かに文学としては「現代的」なものであるという指摘は成されるべきであろうが、それをもって逆に「サンタグマティックな弱さ」としか捉えられない方が「単純」だと私は思う。

 つまりサブカルの特徴を一括して「パラディグマティックな多様さ」と「サンタグマティックな弱さ」という凡庸にして常識的な指摘をされているが、これは各メディアが越境出来ないような特性などではないと私は信じている。アニメにせよマンガにせよ映画にせよ文学にせよ、各作品にあるのはその傾向だけであり、寧ろその傾向、つまりそのメディアの不自由さを乗り越えようとするところにそれぞれエポックメーキングな作品が出てくるのではないか?そして不自由さに密着する作品群のなかでそのような特異点?がそのジャンルの牽引力になるのではないのか?つまりそのメディアの特性にぴったりと密着した作品(齋藤氏が言うようなマンガ。アニメの特性を体現したかのような)が大多数を占めるとしても、その特性に不自由さを感じそこを超えようとした作品の系列が文学を文学たらしめ、映画を映画たらしめ、そしてオタク的作品をオタク的作品たらしめてきた原因だったのではないのか。

 齋藤氏はマンガアニメはそのメディア自体の文脈性が高く(=ハイ・コンテクスト性であり、その順番はアニメ > マンガ > TV > 映画 > 写真というようになる)それゆえ表現内容の範囲を狭く限定する。画面あたりの情報量が少ないほどハイ・コンテクストであり、クールな(精密度が低い)視覚メディアである、と主張している。コンテクスト性の説明に色々周到な説明をされているが、しかしこの最終的には非決定的でしばしば主観的に過ぎない問題を、画素や計算不可能性や一期一会性と複雑性文芸性と結びつけるのはこれまた安易過ぎると私は思う。ここでCGアニメ論に入ると面白いのだが、それはまた別の機会に。また齋藤氏のような作品論においては結局は「文芸的」あるいは「外傷的現実」性といった複雑さを称揚する鑑賞の正解発見モデルという旧態依然たる態度(それを口では?否定しているが)、よく言っても作品をテクストとして解釈するという一方通行的読解モデルなのであり、どんなに「単純」な物語からも豊かな意味と解釈と鑑賞を得られるような「作品」の存在を私たちは実際に見てきたと思っている。

 

 

 以下同じような口調で進めて行こうかとも思ったのだが、残念ながら精神的に保ちませんでした(笑)。というわけで、以下架空対話モードに移行します。自分でもAとBがどのような人物か考えもせず自動筆記みたくなってしまいましたがそれは勘弁。

 

 

<メディアと想像界>

 

A というわけで実はこの本を購入した去年からずっと何かを書きたいと思っていたんだけど、既に下記のサイトであの東浩紀氏らによって齋藤氏との対論があって(それも去年の日付だし)、悔しく思ってるんだけどね。

B それは不遜というものだな。キミなんかが自分の意見を「公表」できるのは例のチンケな自分のホームページ以外は、このWWFにお願いして載せてもらうしかないくせに(笑)。まあとにかく、上記に続けて齋藤氏がメディアと「想像界」について語っている部分について考えてみようか。彼は色々とメディア環境の変化について述べたあと、神経症的主体である我々主体の構造は何も変わってはいない、変わったのは欲望の対象が変化したことと、主体構造つまり「象徴界」と「想像界」の関係の安定化である、と述べているけど。

A えー、ここいらへんはマクルーハンとか引用しているんで全然信用してないんだけど、正直理解不能。具体的に述べていることからだけ考えてゆこうと思う。

B そうかい(そんなんじゃダメじゃん)。それならその後に彼はこう言ってる。メディア手段の多様化は内容と形式の貧困化をもたらした、戦闘美少女史で明らかなようにそのジャンルには作品数に比して物語設定の系列は遙かに少ない、ということだけど、これについてはどう思う。

A それ、単なるノスタルジーじゃないの。それを本当に例証したいならば現代以前のメディア史において、どんなにそれが豊かであったかを言う必要があると思うんだけど。それについてはこれまたよく知らないから断言しないけど、だいたいこの言い方は過去にユートピアを見る思想の一種だと思うんだ。また現在の日本のアニメを「戦闘美少女」とやらの軸に沿って分類したら13種類にしかならなかったということらしいけど、この分類の仕方が悪いことを差し引いたとしても、これを少ないと言うのかい?十分多いじゃん。

B 確かに誰かが言ってたけど物語だか神話の類型だって分類すれば十数種に分類されてしまうって言うしね。まあ多い少ないみたいな不毛な話しはどうでもいいから、じゃあ先を続けよう。彼はさらにこう言ってる。画像情報の貧困化は「アニメ絵」の普及という形式において最も顕著なものとなる。つまり余裕のない現場で生み出されたのが眼と手の表現だけを入念に描き込み他を省略する「アニメ絵」であり、そういった現場の必要上から生み出されたものだと。メディアミックスとしての展開にもこの重くない画像は有利でありそれほど動かさなくても作品の制作が可能なことから、このような絵柄が広まったとしているけど。

B 必要に応じた広まった作画というところがあんまりにも目的論的分析で辟易するよなー。齋藤氏はどうやっても「アニメ絵」に惹かれるという私たちオタクの心情を「主観的」レベルというか内在的には理解したくないみたいで、その後もサイト上で、オタクがアニメ絵に「欲情」するのは何かそうういう絵に反応するように「訓練」されたとか、ある特定のモノ(水平線とか垂直線とか顔とか)に反応するニューロンのこととか荒唐無稽なことを言ってたような気がする(確かめろよ)。ラカン的には主体の自由意志なんて幻想で象徴的なものによって動かされている(私のいないところで私は考える、だっけ?)というように言いたげだけど、もしそうだとしても、ニューロンが反応するのと主観的にそれに惹かれることの間には深くて昏くて大きな川があるという基本的科学&哲学の認識もない発言じゃないかな。私の考えでは、これはフロイトが言明しているような自我のエス依存性(省略し過ぎな言葉でスマンが)みたいな概念を押し進めたつもりかもしれないけど、注意深いフロイトは西欧的形而上学的誇大妄想自己(つまり理性バンザイみたいな)主体の概念には無意識という挑戦状を叩き付けたわけだけど、それが即主体の哲学全否定とはしていなかったと思うな、山勘だけど(笑)。またアニメ絵の問題についてはそれだけで多くの考察が必要だからいずれやりたい分野ではあるが、難しいな・・・歴史的(笑)な側面と発達心理学と人の他者の認知の問題とかの分析と総合が必要そうだし。

B 何だ、結局キミも分からないけど文句は付けたいという典型的なオタク的評論家じゃないか。まあいいや。齋藤氏はさらにオタクの究極の夢は虚構の世界に自律的(現実の性のコピーでないという意味か)な欲望の対象を成立させることである、そのようなリアリティを獲得するためにはその虚構自体が欲望されることが必要だった、と言ってるけど。

A 前半はいかにもトートロジーだけど、それはどうでもよろし。後半の主張だけど、どんな集団でもその集団はそこに特有、というか特殊な共同幻想=虚構を永続させたいと思うわけだし、そのためには構成員各人の私的幻想を吸収するための、つまり各人の欲動(性欲でもいいけどそれだけじゃなくて自己保存欲動でも死への欲動でも可だろうし)を共同化させるメカニズムがあるのは当たり前で、オタクがそのことに関して特殊だという指摘はおかしい。つまりオタク的な欲望の対象だけが特殊であり現実的ではない虚構だという認識から来るものだと思うけど、コレは結局のところ正否を別にして結論が先にある議論であることは確かだな。こんなふうに彼の論理っていうのは結論がまずありきで、そこにラカン的言説を外挿していいるだけだという疑いをどうしても捨てきれないんだよな。

B さらにどうーゆー文脈か知らないけど(多分オタクの問題は日本的問題だとした場合の議論なんだろうけど)、西欧的空間と対比されることにおいての日本的空間とは、そこから脱出しようとするあらゆる表現行為をむしろその場を強化してしまうような悪循環の中に封じ込める「虚構」の世界であり、アニメマンガ空間もそれに包含されるのではないか、ということなんだけど。

A 齋藤氏がアレだと思うのは、こういう言説を引用しておきながら、それに対する自分のはっきりした評価を述べていないことなんだよなー。ここは大きく出てこう言っておこう。つまり進歩主義のために無限に第一原因を求める西欧の神の代替物の探求を良きこととするのに疑問を持たず、マルクス的ダーウィン的単純進歩主義をよしとし、アジア的停滞なる概念を是正すべきことと考えるならば以上のような日本特殊論もいいけど、むしろ文明とはヒトの社会の安定を蝕む伝染病であるという視点からすれば「虚構」が破綻しないようにする文化の在り方は寧ろ「良きこと」ではないのか?と。

B それに関連して齋藤氏の言説を続けようか。西欧における図像表現は象徴的去勢を被るが日本においてはせいぜい想像的去勢を被るくらいである。西欧では虚構空間は現実空間の優位性を侵犯してはならないというという禁忌が存在する。そのために虚構があまり魅力的になりすぎないように慎重に去勢されるということである。それはプラトンからの伝統であるイデア > 現実 > 芸術という頃からの伝統を持っている。そこには図像画像が性的魅力を帯びるべきではないという強迫観念が見て取れる、ということなんだけど。

A ここは珍しく?賛成賛成大賛成。去勢を受けるということは、その前に欲動の存在を認めなければならないわけで、すなわちヒトはもともとその発達段階の口唇期・肛門男根期の多型倒錯的なものが心的体制の底にあっていつでも噴出出来るようになっていて(象徴界とか鏡像段階のことを考えるとラカンはそうは思っていないみたいだけど)、それを去勢しないと西欧社会を支えるの何らかを脅かすことになるんだろうね。それがキリスト教的なものとどう関係するかとか、なぜ日本ではそれが抑圧されないのかというのは面白い問題だよね。あと欲望を無限に解放するのが資本主義の原点だとすれば、かろうじて図像の欲望を抑圧していた西欧に対して、資本主義が伝わったその結果極東の日本で「虚構」に抑圧をしないオタク的なミームが生じてその欲望を解放して、それが逆に西欧に逆伝染してゆき、それだけではなくイスラム世界にまで感染してゆく(アメリカやイランで生じたポケモン排斥運動?とか)のを見るのは、日本人のオタクである私から見ると興味深い、って言うか痛快だよなー。

B いや、そんな人ごとみたく言ってないで、オタク的なるものと日本での抑圧の無さの関係とかについて、キミはどう思っているんだい?

A うん、例えばロラン・バルトが日本の文化?と言うか記号を評してこう言っていたらしい。「なぜ日本か、それはエクリチュールの国だからである。(中略)西欧の記号支配が私にひき起こした嫌悪、いらだち、拒絶とはもっとも遠い記号の作業に出会った国である。日本の記号は強い。すばらしく、節度があり、組み立てられ、誇張されているが、決して自然化も、合理化もされていない。日本の記号は空虚である。そのシニフィエは逃げ去り、そのシニフィアンの底には、神はいず、真理も道徳もない。」(『表象の帝国』より)これはまさしくマンガ・アニメのようなオタク的文化についての解説でなくて何だというんだろう。実際は歌舞伎だとか石庭とか見て言ったコトバらしいけど。つまり図像的なものに限らず、日本ではシニフィエ=コトバで表現される内容=ホンモノ=イデア=神様?の存在なしにシニフィアン=記号そのものが流通することにもともと慣れている社会じゃないのかな。それは言霊問題、つまりコトバの表象自体が逆に現実に侵食するという思考みたいな。

B そんなことを言うとは(呆)、〈空虚な中心〉としての皇居とか言って天皇制とかと絡めて論じようとでもいうのかい(笑)。だいたいこのバルトの評もアンチ・西欧主義のオリエンタリズムの産物だとか、今では何て凡庸な分析だとか言われるぞ。ではそれを正しいとして、その原因というかメカニズムについてキミはどう考えてるんだい。

A まあバルトみたいな人にも日本人自身にもそういうユートピア思想の変形という意味合いが無いわけではないだろうけどね。原因と言うと難しいというか、これまた一つの可能な説明でしかないのかもしれないけど、西欧では神様というそれこそ大文字の他者(笑)だか外部だかが各人の私的幻想を一点に吸い取って個人の心的体制と社会に安定を与えているわけだけど(受け売り)、日本では各人の私的幻想はもっと小さな集団の間での対幻想のネットワークが私的幻想を吸い取って安定させているとされているよね(ホンマかいな >岸田秀理論とラカンの折衷で専門家とかウルサ方が一番嫌いそうな組み合わせ >笑)。だから西欧では他の神様=虚構を認めることは自分の虚構への脅威になりうるのに対して、唯一神ではなく世間という他者の承認を得ることで自己を確認する日本ではいくつもの並列された虚構の存在は問題にならないのか、それとも虚構の力を脅威と感じていないのかもしれないのかも。まあこの件についてはまだ齋藤氏が述べているから、まずそれを見てみよう。

B と言うわけで齋藤氏は日本的空間においては虚構、図像、画像が性的意味を帯びリアリティーを獲得することに抑圧が働かないと言っている。

A う〜ん、他のことに関してはいざ知らず、性的な記号にはまだかなり抑圧のメカニズムが働いているからこそ、「虚構」的なマンガ・アニメのキャラに欲情するオタクの存在への嫌悪があるんじゃないかな?というかこれは以前書いたことがあるんだけど、オタクが性的な局面で嫌われるのは(女)性の商品化という人類文化の基礎だからこそ隠匿されている「真実」を白日のもとに晒す作用があるからじゃないかと思ったりしたんだけど。だから女性に敏感に嫌われる(笑)。さらにその女性の視線を内在化した男にも等しく嫌われる、と。エヴァがあれだけ蔓延したのは、齋藤氏の言葉を借りれば、その虚構が欲望されるために性的な要素だけが使用できるわけではなかったという側面もあるよね。ぶっちゃけた話し、一般人でも次が気になるようなドラマってことや、不安を共有してくれるキャラの存在とか。その意味では貞本さんの絵って絶妙だったんだよねー。

B なんかラカンのテーゼである「女性は存在しない」ということに関係しそうな話しになってきそうだけど。まあこのテーゼにしてもキミの女性の商品化ということに関しても、最近はジェンダーの問題とか言ってヤケにいい子ちゃん的で女性運動家迎合的な思想家が多い気がするよなー。

A うん、そう思う。そういう意味ではそういった過激な?ラカンのこの発言とかをこの著書で取り上げた齋藤氏はエライよな。

B あと彼は、マンガやアニメのようなハイコンテクスト空間はリアリティの欠如を性的なもので補完しようとする、そしてその構造や形式のリアリティーを利用できないゆえにコンテクストの切り替えによる強度の保持に力点を置くことになる、と言っているけど、これはどう。

A このことを言いたかったための今までの牽強付会なのかなぁ。とにかくこんな小難しい言い方をしなくても、要するにアニメやマンガはそれだけではウソっぽいから女のコとかハダカとかメカとかで華を添えないと読者や視聴者が付いてこないし、リアルな物語が展開できないから今までのそのジャンルの「お約束」を一時的に破ることで興味を持続させようとする、ってことでしょ。これが当てはまる作品も確かに多々あるだろうし、またこの説明を正しいとして、一体これは何か新しいオタク論の地平を開くようなものがあるのかいな?だいたいオタクは虚構それ自体を欲するって言った齋藤氏が何で虚構をリアリティで補完するための目的を考えなきゃならないんだろ?自家中毒起こしてるよん。

B 結局、以上の齋藤氏の記述は現状認識なだけで、では本当に知りたい問題は何かと言えば、なぜオタクが虚構の女のコに惹き付けられるかという問題に逆戻りするわけだよね。

A 正直言って彼の説明、つまりリアリティと自律性を獲得するために性的なものが吸収されるに至ったというのは大変苦しいものに感じられるよな。何故かと言うと、私たちオタクにとっては「虚構的空間」がリアリティを持ったり自律的に存立することはどうでもよくて、それよりも先に虚構の性に惹き付けられているというのが実感で、また実際に「萌え」は虚構的としてのリアリティですら必要ないし(例はいっぱいあるけど各人の好みで考えてみて)、現実に存在するものに依存するような自律的でない虚構の少女であっても十分我々の「対象」と成りうる(コスプレイヤーとか声優をオカズの対象にするのがその典型かなぁ >違うって)。

B 具体例をあげてゆくとどんどん生臭くなるからヤな感じだけど、コレは避けて通れぬ道だからな(笑)。齋藤氏は受け手の欲望の「異性への傾向」という「正常」な傾向と、オタクとしての「多型倒錯的欲望」の両立は総補的であると言っているけど、コレって要するにオタクだって実際の生身の女のコとえっちゅするのと同時にエロ同人誌でもヌけるってことでしょ。

A うん。彼はそれをオタクの性に対する多重見当識みたいなことを言ってて、そのとき「受け手の性がヘテロセクシャルなものであるほど、想像的な「表現された性」はそれを乗り越え逸脱する必要がある」という説明してるんだけど、これは「想像的なもの」というキーワードで誤魔化しをしているようにしか思えないなぁ。この肝心な部分の説明がラカン理論の外挿しただけのように見えて、肝心の理論の筋道が追えない。私の考えとしては、本能が壊れちゃってるヒトの性欲動が取り付く先は極端な話し何でもアリなわけで、それが「虚構の少女」と「現実の少女」で並立しうるのは我々日本人殆どの男性にとっては当たり前ではないのか。実際にエロマンガ雑誌がこれだけ隆盛を誇っていることからオタクだけがそれを消費しているとは考えにくいしね(笑)。むしろキリスト教的戒律がまだ生きている西欧では生殖に結びつかない性を嫌悪する伝統が生き残っているために、その「並立」を抑圧しているのだけではないのかなぁ、ここらへんは専門家にでも聞いてみないと分からないけどね。

B そうなると、齋藤氏のその後の説明、つまりそのために多型倒錯的なイコンとしての戦闘美少女は極めて便利なアイテムだったというのはもともと不必要な説明なわけだ。

A だってこれはロリキャラとかツルペタ指向以外のオタクの現実の例を全く説明しないもの。例えば性器期的性欲動の対象として相応しいような成熟したオネエ様キャラとか少女でない巨乳(もとい、巨乳だとこれまた逆のベクトルなだけなので美乳にしておこう)キャラへの嗜好について彼はどう説明する気なのかな。コンテクストの強度を保つために様々な倒錯的な振る舞いをする戦闘美少女というのは後付の理由、よく言っても付帯する条件にすぎないのではないか?またこれによれば全く「普通の女の子」が萌えの対象になるギャルゲーとかのキャラの人気は全く説明できない。彼はそういうゲームとかをやったことないんじゃないのかな。つまりどんな意味でも戦闘することは必要ではない。そこにドラマ上戦闘する環境があり女の子を絡めるために必要なだけであり、例えばマクロスのリン・ミンメイは戦闘とは敢えて逆のベクトルを発生させるドラマの目的のために歌を歌うだけであったし。このような説明方法は結果的には似たいような結論を導き出すかもしれないが、齋藤氏のは無駄な労力を使う説明方法っぽい。いずれにしろ、これは各オタク世代により、もしかしたら各個人によって様々な理由があって唯一の方法で説明できるか不明。しかしここでは多くの人気を長期間に渡って持続したキャラの人気を説明出来るかどうかが一つのメルクマールになるかもしれないね。

B えっ、結局世代論になるわけ?それは痴的怠慢〜

 

 

〈サブカル vs オタク〉

 

A で、本当はまだまだ書きたいことが山ほどあるんだけど、飽きてきたから、ここでちょっと例の東浩紀氏と齋藤氏とのサイト上での対論

(http://www.t3.rim.or.jp/~hazuma/project/ml-reviews/sento1.html)で取り上げられた問題について考えてみよう。まあ今まで述べたことと重複する部分もあるんだけど、それはゴカンベン。

B 飽きたって・・・。まず東氏は(1)オタクという共同体の問題―オタクという集団について語るのは有効か? (2)セクシュアリティの問題―性の問題をどこまで特権化するべきか? という二つの問題を齋藤氏にぶつけているけど、これはどう思う?

A (2)は後で触れるとして、(1)の問題提起はちょっとあざとい(笑)。流石アタマがイイ東センセだな、二通りの問題をわざと?混同して問うている(試してるのかな?)。まず一つはオタク自体が90年代になってサブカルと融合したのではないかということと、も一つは、もともとサブカルとオタクの対立という80年代の構図自体が表面的なものであって、オタクがこざっぱりしてみれば結局区別がつかないんじゃないかというもう少し本質的?な問題。

B でも竹熊健太郎氏に後で指摘されてるように、齋藤氏の論旨はこれと噛み合ってない。つまりこれに対して以下のような反応をしているんだよね。

 

(齋藤氏)

80年代のサブカルシーンを代表する雑誌が月刊『宝島』だったとすれば、90年代のそれは『QJ』ということになりますね。宝島はほとんどアニメには言及せず、「おたく」に対立していたのは事実です。しかし『QJ』に至って、これらはほとんど等置されるようになった。あるいは『スタジオボイス』も然り。その意味では、東さんの指摘する「融合」は事実かも知れません。

 

しかし例えば、庵野秀明監督が、アニメフォーラム等でのエヴァに関する書き込みを読み、「ぜんぶ予想できることばかりで、こいつらはもうどうしようもない」と腹を立てたという話は有名ですよね。あまつさえ彼は、そうした発言者に向けて「現実に還れ」という意味の挑発を繰り返した。この、彼の怒りの対象こそが、現代の「おたく的言説空間」ではないでしょうか。私はそういう言説空間はまだあり得ると思うし、そうした言説の主体としての「おたく」も、まだ存在していると思います。

 

東さんや伊藤さんのように、境界的―「境界例的」じゃありませんよ(笑)―な感性や知性のあり方が、今の先端であるということには完全に合意します。ただ、東さんは、すでに部外者としての視点からアニメを観ていませんか?(中略)私が想定する「おたく」とは、例えばリナ・インバース(あるいは「なる」とか?)に萌えることができ、なおかつそうした自分が社会的にどう見られるかを理解している成人男子という存在です。

 

A つまりオレらオタクは庵野監督に腹を立てられるようなどうしようもないヤカラの集団で、現在の先端の境界的な感性知性を持った(齋藤・東ライン等)とは違うって言いたいんかい?

B 年寄りのくせにキレるなよ(笑)。

A だいたい現役オタクの私から見れば、クイックジャパンもスタジオヴォイスも別にアニメ文化を育てようなんて気はなくて、エヴァがスゴイってんで特集したんじゃないのか?結局これはサブカルがオタクに摺り寄ってきた以外のナニモノでもないわけで、融合などとは片腹イタイ。それを80年代負け組のオタクが復讐心でその勢力の逆転を吹聴している、ある意味痛ましい、なんて言ってるけど(これは竹熊さんの発言だけど齋藤氏にすり寄ってわざと言ってる気がする)。正直、我ながら誇大妄想的だとは思うけど、オタク的なものはこれ以降も世界的に広がりそうな勢いの根元的な概念であると私は考えている。それに対して「サブカル」などと持て囃された軽佻浮薄な流行りは所詮バブル経済に寄生した仇花であったということを薄々分かっているからこその負犬の遠吠えだと思うんだ(ゼイゼイ)。まあ実際はオシャレなサブカル系の仲間入りだっていい気になってたこざっぱり系オタクもきっと多数いるんだろうけど。ところでサブカル系って、ナニ?その実体がさっぱり分かんないんだけど。

A ガクッ、分からんのにそこまで言うか(呆れる)。やはり単なる「負け組」怨念の復讐ってぇのが当たっているのかも。まあ確かに実際、庵野監督だって、そのテの文句は実は自己批判だということを明言してるし(『スキゾ・エヴァンゲリオン』だか『パラノ・エヴァンゲリオン』だかで)、東氏もこの後に自分は部外者じゃなくて現役だとゆー発言して境界的な感性知性の「同類」であることを否定してるしね(笑)。ひょっとしてオトモダチになれるかも、『うる星やつら』ファンだったみたいだし。

A とにかく齋藤・東双方ともねじれた具合にずれたことを言っている。オタク自身でもオタク的空間でもいいけど、議論する前にコミケでも秋葉原にでも行ってみれば一発でオタクが「実在」するのが分かるんじゃないのか(笑)。って、それはホントはちょっとそれは極論ってゆーか、議論のレベルのすり替えで申し訳ないけど。

B 齋藤氏の擁護をするわけじゃないけど、その後流石にヤバイと思った彼はウェッブサイトでの対論でこうも言ってる。

 

私はあくまでも、彼ら普通のオタクの特性として、「虚構コンテクスト」への親和性と「多重見当識」を指摘しました。(中略)話の混乱するもう一つのポイントは、議論における抽象レヴェルの混乱にあると思います。(中略)私はわれわれとオタクとの間に、いかなる構造的な差異もないと考えます。(中略)違いがあるとすれば、神経症という構造内の違い、例えば強迫神経症と不安神経症の違い、のような差異です。これらは構造的には同一ですが、現象的には異なっている。(中略)新人類とオタクを同一にみなすことは、ある抽象平面では十分に可能です。しかし、こうした素朴な現象の記述レヴェルに留まるなら、いまだ類型分類は可能、というのが私の立場です。

 

B だから彼も別に新人類(笑 >死語)が優位でオタクがダメって言ってるわけじゃないんだろ。

A いや、齋藤氏はこんな感じで発言の中心がグラグラぶれるんだ。東氏が言ってるのはまさに、オタクと新人類がこだわる対象は違っていても「虚構コンテクスト」(後述)への親和性と「多重見当識」も双方に共通する特色だって指摘して、そのレベルでの記述を問題にしているのに、記述レベルの違いだと言い張っている。さらにそれではなぜ「戦闘美少女」でなければならなかったのか、という疑問についても答えていない。

B でもその説明はこの著書でかいてあるんじゃないのか。繰り返せば

 

リアリティの欠如しているハイコンテクスト空間は性的なものを引き寄せることでそれ自身を補完し、また構造や形式のリアリティーを利用できないゆえにコンテクストの切り替え、すなわち多型倒錯的な要素による強度の保持に力点を置くことになる。

 

  ということで虚構空間に「戦闘美少女」が要求される理由を説明しているんじゃないのか?

B まずこの記述の内容がはっきりしない。もし虚構空間なるものが操作概念としてでも存在するとして、それが自律的に存在するとはどういうことか?彼は「受け手の単純な欲望の投影を離れて、その表象空間内で「自律」する欲望のエコノミーが存在している」ことだと言っているが、そんな抽象的な概念にするほどのことか?それは作り手側の経済面から要請される再生産ということ以上の意味があるのか?もう少し広く解釈しても、オタクという消費者とそれに対してオタク的作品、グッヅ、環境を提供する制作者を含めた「空間」を指すならば、それは単にメカと美少女を要求する集団がいてそれを作る売り手がいて、飽きられないため「多型倒錯的」に見えるような目先の変え方をしたキャラが登場する、というオタク市場と思想の現状認識に過ぎないのではないか?これはメカニズムの説明ではなくて、誰でも感じていることを衒学的抽象的に言い換えただけじゃないのか?結局なぜ性的なものじゃないとダメなのか、なぜ「戦闘美少女」かという問いには答えていない気がする。これには、当たり前だけど、欲動の主体と作品の分析と歴史からしか有用な答えが得られないと思う。

B たしかにこの記述だけならそうかもしれないが、さらに齋藤氏はこう続けているわけだけど。

 

受け手の欲望がヘテロセクシュアルなものであるほど、想像的な「表現された性」はそれを乗り越え、逸脱する必要がある。(中略)戦闘美少女というイコンは、こうした多形倒錯的なセクシュアリティを安定的に潜在させうる、希有の発明である。

 

  ということで、オタクの多重見当識、すなわち「虚構」の世界での多形倒錯的な趣味(ロリ、フェチ、同性愛、両性具有等)が日常に侵犯することなく、「通常人」と変わりなく成熟した異性を恋愛の対象としていることを説明していると言っている。ただここでは「戦闘」という概念を説明してはいないけど、後にそれはラカンお得意のファルスの議論で出てくるけど。

A オタクの多重見当識というけれど、今時、ただ一つの見当識でやっていける人がどれだけいるのか極めて疑問だし、さらに問題はその前の説明。「受け手の欲望がヘテロセクシュアル」ならば「想像的な「表現された性」はそれを乗り越え、逸脱する必要がある」というのは「想像的なもの」というラカンのお得意の用語で誤魔化された気がするんだ。これをひとつ「普通」の言葉に翻訳して考えてみようか。

B 簡単に考えると、フツーの人が想像の上では現実よりもっと過激な倒錯した性を望むってこと?

A それならなんだかどうでもいい話しじゃん。

B ではフロイト的な文脈から考えてみようか。ヒトの異性へのTrieb; 欲動(欲望ではなくて)自体はもともと多形倒錯的でそれが性器期以降は異性に向かうのは本能ではなくて文化の産物ということになるけど、それを「想像的な「表現された性」」が乗り越えるということは、空想の産物のアニメキャラのセクシュアリティにはそういう文化の「制約」を被らないからということか?それだとここでの「想像的な」って普通の意味?それともこれもラカンの「想像界」=「自我」と関係あるのかな?つまり人の欲望は既に象徴界からの去勢を受けているから欲動そのものではない、みたいな。

A もし欲動ならエスから来る性欲動を、自我が想像する「表現された性」が逸脱する「必要」があるということで、とても奇妙なことになる(なぜならフロイトの第二局所論的モデルを支持するなら、自我はエスという奔馬に振り回される騎手であり、自我は理性的に振る舞いエスと対立するが、エスの無意識な欲動に振り落とされないように、それがあたかも自分の意志であるかのふりをしてエスの望みに従うしかないから >中山元によるフロイトの『自我論集』解説より)。でも確かに欲望であればちょっと納得できるけど、それは最初のベタな説明と何ら変わりないじゃん。というわけで好意的に考えれば自我が主体の欲望を先取りするような形で欲動を表現するような状況が「想像」上の虚構では生じることを言っているのかもしれないが、それならば同じ「神経症者」たる「一般人」とオタクで何の差があると言いたいのか。それとも一般的な欲望の構造について記述しているだけなのか?結局、このテの記述は私みたいなラカン嫌いにはとても曖昧で高級に見せかけるだけのハリボテ概念に感じられる。

B ふむふむ。それでも齋藤氏はさらにヒステリーとしてのファリック・ガールズという概念でそオタクのメカニズムを説明しようとしているのじゃないかと思うんだけど、これはどうだい?

A その前に齋藤氏がそこで「虚構」に対するスタンスを表明しているんだけど、これがまた何か一捻りしててヤなんだよね。このイヤさはむしろ存在論をキチンとやっている哲学系の人に評価をしてもらいたいんだけど(他力本願だけど)、その記述を引用すると、

 

本書では日常現実を含む「虚構としての現実」が複数存在しうる可能性を、常に前提としている。ここではわれわれの日常も、虚構のリアリティも現実の一部とみなされる。(中略)これは観念論でも可能世界意味論でもない。不可能な「物」の領域としての「現実界」を想定するとき、それはまさに不可能であるがゆえに象徴界ないし想像界を触発し、意味のレヴェルにおいて複数の想像的現実として顕在化するだろう。(中略)そこでは唯一の潜在的な現実、すなわち「外傷的な現実」こそが、想像的現実を複数化する。私の言う「(想像的)現実の複数性」とは、その起源ないし潜在態としての「現実界」を想定しなければ、単なる「唯幻論」の変種に過ぎない。

 

だそうだ。私はコレ、二つの意味でマズいと思う。ひとつは「現実界」を不可能な「物」の領域としておきながら、その舌の根の乾かないうちに唯一の潜在的な「外傷的な現実」こそが想像的現実を複数化すると言ってそれを特権化している。外傷的=自我(=想像界?)にとってネガティブなモノだから都合良く捏造されたものじゃないと言いたいのか、それとも何か身体論的裏付けでもあるのか知らないが、これは根拠のない形而上学的な前提ではないのか。ラカン理論のそこいらへんが「否定神学的」と言われる所以なのかもしれないけど、ラカンがそれ程単純な言い方をしているとは信じられない。またこれを単なる「公理」として話しを進めるならいいのだが、まるでそこがこの理論の優れているところだと吹聴してるみたいな感じでイヤ。

B あともうひとつキミが気にくわないのは、遠くから当て擦り的に岸田秀的「史的唯幻論」への批判をしているところだろ(笑)。岡田斗司夫氏と同じく岸田秀のミーハーファンだからな、キミは。

A イヤ、その通り(笑)。本当はラカン対岸田秀の構図を理論とその支持者双方のレベルですると面白いのだが、ここではオタキング氏による岸田秀の著作の解説を引用して全てオシマイにしておこう。

 

岸田秀の文章は、高度に抽象的な概念を取り扱っているにもかかわらず、大変分かりやすい。(中略)ところが信じられないことに、この世にはその文章を誤読するヤツがいる。誤読と言っても、別に高度なレベルでの話をしているのではない。例えばこうだ。

「岸田秀は唯幻論なるものを唱えている。『すべては幻想に過ぎない』というのが彼の主張だ」そんなこと、岸田秀は言ってないって。(中略)しかしプロの評論家ですら、いまだにこういう要約をして悦に入ってる人が多い。なぜ、こんな誤読が生じるのか。答えは簡単。みんな、岸田秀の本を読まずに批判しているのだ。(中略)言葉の印象だけで、「すべては幻であると言ってるに違いない。けしからん!」とショートしてしまったおっちょこちょいなのだ。

 

  齋藤氏も読んでないのだろうけど、それを名指しで批評するまでのおっちょこちょいではなかったから、あのように「さり気なく」批判したのかも。読んでいてあの文句だったらちょっと問題。実は竹田青嗣氏等に岸田秀の史的唯言論とラカンの理論は似ているというようにも指摘されていることだし、近親憎悪の可能性が高いな。以上蛇足でした。

B 長い蛇足だったな。結局コレが言いたいだけだったんじゃないのか?まあいいや、ヒステリーとしてのファリック・ガールズの話しに戻ろうか。

 

〈鍵概念の根本の分析してる?〉

 

A まず齋藤氏は精神分析でしばしば用いられるという「ファリック・マザー」(=「男根を持った母」=「権威的に振る舞う女性」)という概念のアナロジーから「戦闘美少女」を「ファリック・ガール」として捉えることが出来ないだろうかということを提唱している。しかしこれは精神分析のことを囓ったことのない人たちにはエライ唐突な話しだし、私もこの本を読むまでは知らなかった。その思考経路を辿るためにも、フロイトのメタ心理学から考えてみたんだけど、要するに「ファリック・マザー」とは自我発達の極めて早期の段階で幼児がナルシズム的全能感を投影した母親のことなんだろうと思うけど、だからこそその後の心的問題にも「使える」鍵概念になりうるんだと思うわけだ。では「ファリック・ガール」が自我段階の何らかの概念に対応しているのかと考えてみたけれど、結局私には思いつかなかった。

B つまり先ほどからキミが主張するように「ファリック・ガール」というのも齋藤氏が自分の論理を一貫するためだけに捏造した空虚な概念ではないかと言いたいのかい?

A 現段階ではそこまでは断定してないし、もし私たちのオタク世代だけでも構わないが「男根を持った少女」的なものが自我形成に関わっていることを上手く示す理論(つまり何らかの現象を上手く説明できる)として提出されればそれがオタクの自我体制にも大きな影響力を持ち得ることを認めるにやぶさかではないんだけど・・・

B 両性具有的な「男根・ファルスを持った少女」なんて陳腐なイメージはエロマンガ、エロアニメに幾らでも見つかるじゃないか。いかにもキミが好みそうな(笑)。もしこれが自我体制の発達の段階で影響を与えるようなことがあれば、齋藤氏の論理は成り立つことになるのかな?

A だから齋藤氏もこれはイケルと思ったんだろうね。いや別にそんなに直接的な図像じゃなくても成り立ちうるからね。でも実はそこがナットクいかないんだ。もしそのような図像なりイメージを幼児期なり少年期に原光景的に見たヤツが、最近のオタクならいざ知らず、おおざっぱに言えば昭和30年代生まれ前後のオタク第一世代予備軍の子供たちに実際にマスのレベルでそんなことがあったと考えるのは無理がないか。齋藤氏はそのイメージがそれこそテレビアニメやマンガのヒロインから来たのだと考えているのかもしれないが、戦う=ファルスという短絡から来るこれまた結局トートロジーなわけだし。もし彼の仮説が正しいとしても、問題はでは何故そのイメージがオタク予備軍を魅了し人生の方向まで決めてしまう程の影響力を持ち得たのかという視点がないからダメなんだ。

B 結局、「戦闘美少女」が魅力的なのは虚構空間を保つためだ、という目的論的な分析は、因果関係を衒学的な用語で隠しただけだから空疎に映るわけなんだろ。

A 彼がオタク論に関して主観的視点を排して分析したいという方向は分かるが、その動機にやはり「戦闘美少女」に魅せられるオタクへの彼のアンビバレントな態度が見え隠れするんだけど、それはどうでもいいや。再度言うけど「ファリック・マザー」は(少なくともフロイト理論上では)生物学的な人間の心的発達を基礎にしているから説得力を持つんだが、つまり出生時にヒトは主観的に全能感を持ち客観的には全くの無能であるという状況(L・ボルグのネオテニー理論から帰結されるような)がナルシズムの基礎になると考えられているから、その後の発達段階もそれなりにナットクでいるんだ。でも「ファリック・ガール」にはそのような裏付けがない。「男根を持った少女」がどうにかしてその発達段階の類とかに組み込めるかというと・・・これはマジで「本職」の方からの助言が欲しいとこだね。

B そんなの自分で調べろっつーの。だいたいラカンはフロイトの精神分析理論を脱生物化・脱心理学化したかったらしいから、ラカン派にとってはそこはあまり問題にならないんじゃないか(笑)。個人的には欠点だと思うけど。それこそラカンのテーゼの通り言語化されている無意識ならば「ファリック・マザー」が「ファリック・ガール」との音韻的意味的相同性から何らかの通底するイメージを作り出すかもしれないし。

A それはラカンの提唱する「シニフィアンの連鎖」という無意識の言語構造のシニフィエ版かい?ここいらへんは心的システムを複雑系のアトラクタに準えて説明する人もいるみたいだし(ラカン自身は実体的説明だからイヤがるだろうけど)まあ実際に「男根を持った少女」のイメージがオタク的空間に流通しているわけだから(ヤだねぇ、このヘタレな言い方)、そこには何らかの心的メカニズムがあるのだろうね。例えば、「美少女が戦う、傷つく」という図像やストーリーは単純に己の性的欲動を少女に投影することで直視したくない醜い自己を消去出来る上に欲動の相手と同じ欲動を共有すると錯覚することで男女が未分化だった全能感の自我体制の残滓にもリビドーを備給することが出来る便利なアイテムなんだ、みたいな説明とか。だからその少女の男根=ファルスは全能感の代理物だと言えるかもしれないし、そうではないかもしれないんで・・・

B ちょっと昔にはそーゆーウソともホントともつかないヘタレな恣意的分析モドキが跋扈してたよね。前半は触手系エロの解説そのまんまだし。

A お恥ずかしながらそのとおりで、だから生物学的背景の無いこのテの分析はイヤなんだよね。まあだからここは保留だね。とりあえずは「ファリック・ガール」という概念を使ってみて全体として筋が通った豊かな理論が得られるかどうかを問題にするべきだろうね。

 

 

〈アニメ、ちゃんと見てる?〉

 

B ではそういうことにして「ヒステリーとしてファリック・ガールズ」という部分をさらに具体的に考えてみようか。はじめに齋藤氏は、『風の谷のナウシカ』のクシャナが外傷をもった「ファリック・マザー」の代表例だとした上で、外傷を持たない「ファリック・ガール」の例としてナウシカを挙げているんだけど、どう思う。

A 具体例になると途端にこーゆー半端と言うより無茶な分析をするから信用できなくなっちゃうんだよなあ、このヒトの話しは。齋藤氏はナウシカがトルメキア兵による父親殺害という外傷らしきエピソードの前から戦闘能力大であり、なおかつ物語り後半でオームを守って戦う部分にはいかなる外傷の痕跡もないということで、彼女は「ファリック・ガール」だと言える?じゃねえよ(怒)。

B おお、ナウシカで百万回泣いたキミの怒りが沸き出すわけだ(笑)。

A ってゆーか、このテのオブジェクトレベルでの物語内での「事実」すらキチンと見ていないズレた評には、それを確認するのという最低限のコトをこちらで再度行わなければならない上、さらにそれがいかに鑑賞されたかというメタレベルでの考察、さらにそれにより敷衍される思想まで、こちらで全部やらなきゃならないからハラが立つんだ。物語を批評するにはまず最低限物語をよく見ろよな〜、コンチクショー面倒くさい。

B 単にメンドーなのがイヤなのか?(呆れ顔)じゃあ「最低限の事実」確認ってえのは何だ。

A ナウシカに心的外傷の描写がないということだけれども、余程エキセントリックな鑑賞態度でなければすぐに彼女の外傷の痕跡、ってゆーか直接の描写まで幾らでもあるんじゃないか。明らかなだけでも幼児期に飼っていた?オームの幼生を取り上げられ(殺された?)記憶はどうだ?そこには個人的動機が感じられないとか齋藤氏は無茶を言うが、動物とか飼ったことあれば即わかるだろうし、少なくともエコオヤジ宮崎駿大センセイはそう信じているゾ、きっと。それでまた仲良くしていた虫たちの森の毒で村人たちの肢体が硬化してゆき死んだことは当然あったろうし。もしかしたら母親だってそうじゃなかったのか、なんて想像だって出来るぞ。多分齋藤氏はナウシカの悟ったような平静な表情にそのような外傷性の無さを見るのかもしれないが、ソレあんまりにも単純過ぎませんか?ヒトが無表情であるときにその裏に押さえられた感情が渦巻いているのは精神科のセンセイとして基本じゃないのイヤねぇ。だいたい典型的な外傷のなさそうな面妖本の格好のネタである格ゲーのキャラとかを例に出してこないで、わざとナウシカってゆーようなキャラを例として出してきた賢しさがイヤだ。つまり反論があってからも齋藤氏は「いや、ここでは敢えて外傷がありそうなキャラを挙げ、その外傷の無さを示したかった」みたいな返事することをあらかじめ考えてるみたいで。

B そうなんだけど、齋藤氏が言いたいのは、物語上でどんなに「外傷性」が見とれるキャラであろうが、多重見当識を持つオタクはその内面性?を感受するのとは異なる方の見当識によって「外傷のない少女」というパッケージで消費してしまっているという事態を言いたいんじゃないのか?

A それを言い出せば、どんなキャラクターだって各人の主観によってそれらしく消費されてしまう、というバカみたいな相対主義に陥るじゃないか。たしかにどんなキャラをも面妖同人誌のネタにしてしまうオタクの特性の一面はあると思う。それならばそうやって改変されたキャラとそれを消費するオタクの分析について、というように限定するならまだ話しはわかる。しかしそれよりもオタクが成り立っているマスのレベルで消費されているのは心的外傷を持つことが多いアニメのヒロイン(後述)なのであって、それについてどうやったらそういう話しが出てくるのか不思議なくらい。むしろ齋藤氏がアニメヒロインに憧れるオタクに対して嫌悪感を抱き(むろん嫌悪感とは自分のなかにある欲動への反動形成であるというのがフロイト的な精神分析の基本だろう)それをアニメキャラに投影したのが、外傷のない「ファリック・ガールズ」ではいのか?それが「戦闘美少女」を要請するオタク的空間の十分条件とはならないだろうし、もちろん必要条件でもないと思うし。

B まあ面妖本のネタにされることが少ないナウシカについては別として、キミとは違い齋藤氏は殆どの「戦闘美少女」が外傷を持たないという前提で話しをすすめているんだと思うけれど、それについてはどう思う?

A 「戦闘美少女」の実例で考えてみると、彼によるその系列の分類ってえのが13種類になって、その当否はともかく、それにすべて類型されるから日本のマンガ・アニメはバリエーションに乏しいっていうことを後で書いているんだけど、13種類もあったら十分バラエティに富んでいるというべきではないかい?だいたいこのテの言い方ってダメダメな還元主義者の言い方のパロディそのもので、たとえば音楽はドレミファソラシの7音階に全て分類されるから類型的なのか?DNAは4塩基からしか成り立っていないから単純なのか?それによってコードされるタンパクは20種類しかないから生物は単純であるなんて言うのか?これも結局日本のマンガ・アニメは類型的な作品ばかりであるという結論を言いたいがための論理の捏造じゃないかと思うな。

B 分かった分かった。どうも話しがどんどん逸れていって肝心の本論に辿りつかないな・・・話しを戻して女性キャラの外傷の有無を見ておこうか。

A ハーイ。もうメンドーくさいんで、齋藤氏の分類表に従ってそこに出てくるキャラで、これに外傷ないって言ったらウソになるだろ、ってえのを抜き出しまーす(もうヤケ)。紅一点系の『ガンダム』の・・・ってのっけから紅一点じゃねえじゃんウソツキがぁ。コレだから本気でアニメみてないヤツはもう(ブツブツ)。まあいいや『ガンダム』のフラウ・ボウ、セイラさん、ミライ、ララァ・・・殆ど女性キャラ全員外傷のカタマリじゃねえか(怒)。『銀河鉄道999』のメーテル、『伝説巨神イデオン』ああ、これも紅一点じゃないのに(泣)。富野キャラは全員外傷アリに決めつけても当たらずとも遠からず。紅一点と言うなら、せめて普通にツッコめる『ザンボット3』くらいにしといてよ・・・それでなんで『超電磁ロボ・コンバトラーV』の南原ちづるちゃんとか、『勇者ライディーン』の桜野マリちゃんとか、ヒッジョーに大事な安彦キャラがないわけ?そうだ『UFOロボ・グレンダイザー』のグレース・マリア・フリード様とかもいないし(シクシク)。ここで既に果てそう・・・

B (無視無視)『マクロス』のリン・ミンメイや『パトレイバー』のノアとかテレビシリーズや初期作品では「外傷の無さ」をウリにしたヒロイン制作サイドが意識した作りだけど、どうかな。

A それが興味深いところで、劇マクやパト2になってのミンメイやノアの描き方の変化なんだけど、外傷の無さは結局カモフラージュでしたというオチ?に変化したわけだが、話し出すとまたこれだけで長くなるから、これ覚えてたら後でね。次に魔法少女系だけど、実はワタシ苦手なんす。本当は言及できるだけの資格なし。詳しくないのよ。

B げげ、ロリ界のホームラン王でしゅとまで言われた魔法少女系だぞ。

A うん、確かに見たものだけに限って話せば、『魔法使いサリー』『ミンキーモモ』『クリィミーマミ』『カードキャプターさくら』などのこれら殆どのキャラが「外傷」の無さを特徴としているように見えるんだけど、これこそ部外者的に見た者からの主観の問題じゃないのかな?特に怪しいのが『ミンキーモモ』とか『赤ずきんチャチャ』とか・・・。あと確実に違うのは『魔女の宅急便』。しつこく言うけど宮崎キャラはハイジの頃から既に表面上わざと外傷が無いように振る舞わせていますオシマイ。変身少女系では『キューティーハニー』、永井豪原作だし確か父親を殺されてるんじゃなかったっけ?

B チーム系(何とかならなかったのかこのネーミング)の『ダーティーペア』『プロジェクトA子』『逮捕しちゃうぞ』とかは確かに外傷の痕跡をなるべく消去する作品の方向だよね(もういいやこの言い方で)。

A スポ根系はもともと男が主人公でも外傷の生成過程を描くのが目的だから?これはパス。次・・・・宝塚系?・・・マジ?別に分類までしなくても(笑)。ベルバラのオスカル、外傷アリ、ウテナも有り、ってことでオシマイ。服装倒錯系??・・・マジ?別に分類までしなくても(笑)。どーでもイイぞコレ、らんま1/2とかあるから。ハンター系?・・・マジ?もうこの辺りでヤになってきた。美夕に外傷なくてドースルの、劇場版『攻殻機動隊』の素子にも有り、オシマイ。

B もうサクサク行こうか。同居系(何とかならなかったのかこのネーミング)の『うる星やつら』『天地無用!』『守護月天』とかは確かに外傷なさそう(もういいや・・・)。ピグマリオン系『銃夢』『あずみ』『lain』有り。巫女系『ナウシカ』『もののけ姫』有り。異世界召還系・劇場版『エスカフローネ』有り、混合系??『トップをねらえ!』タカヤノリコ、『エヴァ』キャラ全員、『ナデシコ』ルリルリ有り有り。以上オシマイ。

A ってことで分かるように、齋藤氏はちゃんとアニメを見ていないということが判明したということで決着。外傷の有無ってゆーのは全然キーワードにはならない気がしてくるな。ただエポックメーキングな作品に関してのヒロインの「外傷の無さ」については確かに注目するべきかもしれなくて、その取り扱いはもっと詳しい分析必要で、『美少女戦士セーラームン』『うる星やつら』などはそれぞれ一冊以上の本を必要とするしね〜。

B また口ばっかで・・・結局予告してもやらないんだろ。

A 根性も時間もアタマもありません(泣)。

 

 

〈ヒステリーって・・・その1〉

 

B まあ「戦闘美少女」という概念はオタクの形成というか作品全体の傾向を代表するものとしては極めてアヤシイ概念だということになったけど、ただ実際に外傷のないように描かれる少女は確かに面妖本のネタになることは多いのは事実のように思えるけど。

A それは賛成。だから各論として「ヒステリーとしてのファリック・ガール」というお題であれば語るべきことは沢山あると思うが、彼の出してくる例がまたまた的外れ、というか読みが単純過ぎ、と言うかなるべくオタク絡みの作品やその指向性に関して無理矢理単純な記述で済まそうとするんで話しが合わなくて困るんだよな。

B それは例えばエヴァの綾波レイの記述だろ。ちょと長いけどそのまま引用しよう。

 

ファリック・マザーが「ペニスを持つ女性」なら、ヒステリーとしてのファリック・ガールは「ペニスに同一化した少女」だ。ただし、そのペニスは空洞のペニス、もはやけっして機能することのない、がらんどうのペニスにほかならない。そのことを端的に証すのは、すでに何度か言及してきたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のヒロイン「綾波レイ」である。彼女の空虚さは、おそらく戦う少女すべてに共通する空虚さの象徴ではないか。存在の無根拠、外傷の欠如、動機の欠如・・・・。彼女は、その空虚さゆえに、虚構世界を永遠の住処とすることが出来る。「無根拠であること」こそが、漫画・アニメという徹底した虚構空間の中では逆説的なリアリティを発生させるのだ。つまり彼女は、きわめて空虚な位置に置かれることによって、まさに理想的なファルスの機能を獲得し、物語を作動させることができるのだ。そしてわれわれの欲望もまた、彼女の空虚さによって呼び覚まされたものではなかったか。

 

A ペニスファルス男根と連呼するのはさすがラカン派(笑)。それはいいとして、この記述を庵野監督に見せたいよな。きっと「予想通りの読み方しかしてない」って文句言うに違いない(笑)。エヴァ放映当初からハマっていたオタクの私として言わせてもらうけど、レイの空虚さは、オタクが根拠のない空虚さにリアリティを持つことで消費する少女をあえてトレースすることでメタ的に演じているというレベルと、それがオタクへのメタ的回路を開く触媒として作用しうるという間接的な働きと、またそれと相同な「消費」のされ方=いくらでも交代が効く社会システムの構成要員としての視聴者の「現実」というレベルにさえ響いてくる、という少なくとも三つのレベルでヒトを惹き付けていたわけであり、いやむしろその重層性があるからこそオタクは安心してレイちゃん萌え萌えにのめり込めたわけだと思う。それに加え素でもレイに惹かれるのは、やはり人格のコピーという存在論的な空虚さのために生じる心身両面の外傷性に尽きると思うが(というか心身一元論と二元論の葛藤というか)、それは包帯レイが最もコアなファンを持つことからも明らかではないのか(ここまでダイレクトな表現もないが、後に齋藤氏が書いているようなファリック・マザーとしての外傷性に惹き付けられるのとはまた意味合いが違う)。確かに齋藤氏の指摘するような「単純な」ファンなり事態は一部で生じていたのだろうが、それだけではエヴァはあの沢山の人々の熱狂を引き起こすことなど出来なかったと私は考えている。

 それが「逆説的なリアリティ」というものだと齋藤氏は反論されるのかもしれないが、結果的に同じように見えても私としては、特記するべきなのはオタクにおける多重見当識が自己の統一性という覇権を争い葛藤するのではなく(多重人格とか)、お互いの安定のために相乗的に働くという面白い事態が生じていたと思われるんだけどなぁ。言葉を換えて言えば、意識的にかどうかは分からないけど、レイの例のように視聴者も巻き込むような自己言及的なキャラの存在があってこそ初めて、オタクである私たちはその対局にあるノー天気な萌えに没頭できるわけで、これは単なるテレ隠しなのか心的装置の安定に必要なのかはよく分からないけど。

B ってわけで、これもまたキミ的な押井監督のBD的(『うる星やつら2・ビューティフルドリーマー』)解釈だよな。

A 前から言うように、ワタシ的には押井守氏と庵野秀明氏の認識ってよく似ていると思うんだよね。作品の方向としてある意味正反対に見えるし、付いてるファンもお互いに嫌っているみたいだけど(笑)。ああ、また話しが逸れて行く・・・

 

〈ヒステリーって・・・その2〉

 

B じゃあ最後にヒステリーとしての、って言う部分について検討してみようか。彼はまずこう言ってるよ。つまり「「恋愛」の名において女性へと欲望が向けられるとき、そこで我々は常に女性をヒステリー化しているとみなすことができる。」(P.264)

A うーん、ラカンもだけどジジェクだとかナシオだとかも全然読んでないから?この「ヒステリー」って用語のこの特殊な使用法はイマ3くらい分からないんだよね。まあ誤読でも構わなければ(こらこら)私の理解をさらけ出してみようか。読者の方もご存じのように、ヒステリーとは、フロイト的に簡明に言えば、抑圧された欲動が身体症状として現れる=体のどこどこが悪いせいで何々が出来ないという無意識的な疾病利得を得る神経症の一種だと思う。だから齋藤氏がここで言っているのは、「恋愛」というのは己が欲動を直接女性へ向けることを抑圧し、齋藤氏の言うところの?「不可視的な本質」を捏造し相手の女性に投影して、直接の身体行為へと移れないことで逆に欲動の満足を得る心的状態であるということだと私は理解してる。よってその後で彼が言うように、

 

「ヒステリー化」とは、まず、ここでなされる「可視的な表層」と「不可視的な本質」との、それ自体は無根拠な乖離と対立化の手続きを意味している。

 

  と言うことは投影のメカニズムと併せて考えれば理解出来なくもない。しかしその後の論理がとてもついてゆけない、と言うより何か譫言にしか聞こえんぞ、次々と根拠の無い仮定を事実の如く積み重ねてて。

B ではそこでの彼の論理展開を要約してみようか(P.262〜264)。

 

「空虚であること」によって欲望やエネルギーを媒介する女性は、私を含む一部の力動精神分析者によって「ヒステリー」と呼ばれるだろう。(中略)ヒステリー化によって男性が女性に見る「女性の本質」とは「外傷的なもの」に等しい。攻撃的な成人女性に魅了されるとき、我々は外傷を持つファリック・マザーをヒステリー化したと言える。同様にファリック・ガールも欲望の視線によってヒステリー化を被るが、そこに惹かれるのは「完璧な実在性の欠如=虚構性」であり「外傷性の無さ」である、と。

A まだ続くから、まずここいらでツッコミを。先ほどのヒステリー化の定義とヒステリーそれ自身の定義の関連が私には理解できましぇん、誰か教えて。それと「女性の本質」とは「外傷的なもの」に等しい、何故ならそれを示す痕跡は大衆文化のなかにいくらでも見つかるから、って彼は言うけど、要するに「傷ついた女性を庇護したい」>「征服欲」がヒステリー化において抑圧されている欲動ということになるわけなんだろう(違うかもしれないが)。ではそれを正しいと認めるとして、では今度は逆に「外傷性の無さ」を特徴とするファリック・ガールへ欲望が向けられる時には、なぜ「外傷的なもの」がなくても欲望され得るのか?なぜ「完璧な実在性の欠如=虚構性」がその代わりになるのか?というよりそこに欲望の視線が発生する理由は何か?実は後の記述で分かるんだけど、ここで欲望される原因に素の性欲動とかを目的論的に持ってきて混乱しているし。正直言って論理メチャクチャじゃないかいな。誰か分かる人いたら整理してくれ。またなぜこの過程をファリック・マザーの場合と同じくヒステリー化と呼ばなければならないのか?こういった当然の疑問に何も答えていない。下司の勘ぐりをするに、おそらく齋藤氏は彼なりの結論が先に来ているので辻褄合わせのために論理が混乱しているのだと思う。つまりその結論とは

 

われわれはこの世界においてすでに、すみずみまで完璧な虚構存在として、ファリック・ガールを受容し愛してきた。そしてその欲望を可能にしたものが、まさに彼女の非-実在性にほかならないことは、ほぼ確実といってよい。(P.265)

 

  だとぅ。ちっとも確実じゃないし、全然よくないぞ。これは彼の単なる独断であり宣言であるわけだと思うな。

B まあいいや(良くないけど)。次に続く彼の論理を行ってみよう。

「日本的空間」では西欧のそれとは異なり、虚構に「現実の尻尾」残しておくことに必要性を感じない。その虚構は主観の位置転換を要請するという意味での「もう一つの現実」であり、その維持には性欲が必要である。なぜならそれが最も虚構化に抵抗するものだから。

A ここはそんなに反対をするところはないんだけど、やっぱ齋藤氏はオタクは虚構を必要とする欲望する、っていうのが第一条件になるという前提から離れられないみたいだね。これを捨てれば論理的にもっと一貫して身軽になるのに。だからここでも「性欲が必要」とか目的論的臭いことを言ってるんだけど、これは卵と鶏の話しとしてもいいし、逆に性欲を維持するために虚構が必要と言ってもいいことなんだけど。

B ちょっと言いたいことを言い出したな。まあキミの考えはあとで聞くことにして、さらに齋藤氏の言い分を続けよう。彼が虚構の戦闘美少女に関して重要なのは「受け手であるわれわれ自身が、彼女と性交渉を持つことが出来ないという事実」であり「けっして到達できない欲望の対象であるからこそ、彼女の特権的な地位が成立する」ということだけど、これは面白いんじゃないの。

A うん、これも全く賛成なんだよね。どうせ信じてもらえないだろうが、私も同じようなことを数年前の文章に書いたんだけど、ではなぜ齋藤氏は「現実の女性」と「虚構の女性」をわざわざ明確に分けて鏡像的に反転した正反対なものとして考えなければならないのか、それが分からない。つまりもう一度まとめると、彼は虚構の美少女が現実の女性をヒステリー化するのと同じ手続きで我々を魅了しているけど、現実の女性が外傷性という不可視な本質を捏造され「恋愛」の対象とされているのに対して、虚構の美少女は丁度それと鏡像的に反転された姿、すなわち外傷の無さという不可視的な本質とか深層とかいうことが全くないことをもって魅了すると言うが、それは現実と虚構を問わず双方で生じていることではないのか?齋藤氏の言い分と丁度逆転というか交差する例を挙げれば、テレビのアイドルのファンと現実のコスプレ少女とか声優とかの追っかけオタクたちが面白い分析の対象になることだろうに。またここで敢えて無視されているのが、「プラトニックラブ」だの「恋愛」だのという性行を抜きにした男女間の関係は近代の発明した産物であって、ヒトの心的体制の原理的なものとはレベルが異なるものであるかもしれないという疑問。娼婦が人類の最も古い商売の一つであり性の商品化は文化の前提であるという面からすれば、根元的問題であるという認識も成り立つかもしれないけどね。ちなみにこれは蛇足。

B だから齋藤氏の言説は、最近の人気のギャルゲーとかで日常の女の子(戦闘もしまければ外傷性のカタマリみたいな)が「萌え」の対象として登場してくる事態を説明しきれないよね。

A そうそう。別にそこでは女性が「現実」とか「虚構」とかいった区別をもって我々を魅了しているわけではなくて、我々オタクは現実の女性もTVやグラビアのアイドルもコスプレ少女も「虚構」のギャルゲー少女も実際に我々の性欲動の備給先になるという「現実」にリアリティを感じる故に、そこに抑圧を持ち込まない振る舞いを選択する。むしろその区別を言い立てようとしたり逆に虚構少女の「貞操」を守ろうとしたりするのは、虚構に惹き付けられる自分の恐怖をコントロール出来ていないということの言明でありことを知っているから、「萌え」という身体からの敗北を受け取りつつその自我のメタ的コントロール感を感じているんじゃないのかな。つまり敢えて理解してないラカン流に言えば、原理的に両者の判別不可能な他人の欲望のコピーや認知不可能な現実界からの身体論的な欲動を生じさせるの性欲動に対して「現実」の女性だけに欲望し「虚構」の女性を虚構の側に押し込める身振りを象徴界からの恐怖に負け抑圧したと認識し、それを解放しているフリをして自我のコントロール感を得ているというメタ的象徴界を想定した気になっているのがオタクなんじゃないかな。だんだんオレも言ってることが譫言になってきたけど。

B なるほど、そこいらへんがキミがオタク論として考えていることかい?はっきりしないし、今まで述べられてきたオタク論とそれほど違いがあるとは思えないんだけどね。

A ううむ、確かにそこを自覚していたからこそ、昔書いた文章を封印したわけだけどね。つまり中森明夫が言った「オタクはメディアを親として育った」って言うことに全てが込められているんで、それ以上の説明は不要だとも思っていたんだよね。つまり心的発達の段階でテレビアニメというメディアの存在が両親の代わりをしたり両立したり相反するものとして現れてきたりということで、様々なことに上手く説明が付けられると考えていたんだよね。でも今回、マジで齋藤環氏に感謝したいのは、ではその「現実」「虚構」の区別なしに女性に惹き付けられるという事態を、単に欲動の備給というフロイト的なエネルギー論的なものから進められる可能性を反面教師的に教えられたことだね。断片的で思弁的だけど。だから今回の文章は暫定版ってことで、いつかまた私のウェッブサイトで再会ということでご勘弁を。

B ううむ、お後がヨロシクないようで・・・

 

 

追加または蛇足:ラカンの日本での受け取られ方ってどう?

 

 ある事情でラカン関係の本が取り寄せられず、例の2chの哲学板と心理板をのぞいてみたところラカン好き好きニンゲンを発見(http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=950266631、http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=950266631)。丁度いいので前者のスレッドで「蝉寝る」というハンドルネームのかなり鋭そうなセンセイの発言を引用させてもらいました。

 

人間が動物とことなるのは、言葉を喋るという、その一点のみ。 そして言葉は、人間にとって最初の、大いなる他者なんだ。 判る?誰も「自分専用の言葉」をしゃべれないし、そんなものは通用しない。 言葉という他者を受け入れなければ、人間は人間になれない。 しかし、言葉を受け入れると言うことは、自分の存在の中心に他者をインストールすること。言い換えれば、自分の主体の核心を、他者に向けて開放すること。さらに言い換えるなら、それは主体の内部に空虚、欠如を抱え込むことだ。人間の主体は欠如している。これがラカン派精神分析の公準。

 

ならばこの公準自体が随分と恣意的というか哲学とかやってる人にはお馴染みで自慢するほどの前提ではない気がするんだけど。つまりこれは主体が全知全能という前提だった西欧形而上学のコギトの哲学の人にとってみれば自分のなかに自己の(主体の?)コントロールが効かない部分があって、それが何と主体がコキ使っている筈のコトバだったり意識できない意識?である無意識だったりする、というフロイトやラカンの指摘(断言?断罪?)はコペルニクス的転換を要するような驚くようなことだったんだろうけど、我々日本人はもともと他人とか世間とかの目を気にしながら、それをまた拠り所にしならがら自分を形成しているわけだから、自分のなかに他者がいたところで、時々うっとおしいとは思いつつも、それが「主体の内部に空虚、欠如を抱え込む」なんて深刻には思わないんじゃないのかという疑問がひとつ。それがひらがな、カタカナ、漢字表記という言語を使う日本人に特有のことなのかは知らないけど、「無意識は言語のように構造化されている」という有名なテーゼを吐いたラカン先生はそれをもって日本人は精神分析できないとおっしゃったとか。この事態を我々日本人が単に論理を突き詰めないだけのゴマカシと考える人がいるかもしれないけど、心的体制の維持ということが幻想のなかを生きるヒトにとって「生き残り」に必要なだけなんだから、別に論理を突き詰めることで破綻する心的体制でもちっとも構わないわけで、また別の考え方をすれば、アリストテレスなりカントなりヘーゲルなりフッサールなりヴィトゲンシュタインなりゲーデルなりがずっと考えてきたことで、ものすごーくバカ単純に言えば「カミサマ」を持っているひとたちの議論なので、私たちの問題として考えるには上手い翻訳がないといけないんじゃないかという素朴な疑問。その後に蝉寝るセンセイは、デリダ・東(浩紀)ラインを例にだして、象徴界の穴(不可能なモノ?)は一つじゃないと上手く行かないというカタチで八百万の神さまを信じる心的体制の説明の難しさ?不可能性?を暗示(私の理解が足りないだけで明示?)していましたが、それはこれからの私の宿題。でもきっと答えが出ないんだろうな。

 

また別の発言者さんが、

 

精神分析はいわば「無意識」を《非在の中心》とする

「否定神学」なのではないのか? ということ。

 

という問い(煽り?)に対して蝉寝るセンセイは

 

「否定神学」うんぬんは、仕方ないこと。それは言葉を語る存在にとっての宿命であって、どうにもならないんだ。(中略)言葉の構造は、ファルスというゼロ記号によって支えられているんだ。 つまり、言葉そのものが、否定神学的構造に支えられているってことになる。(中略)動物には、否定と言うことがわからない。それは、動物が「記号」しか扱えないことを意味している。言葉は象徴界に属し、記号は想像界に属する。 人間を人間たらしめる象徴界そのものが、否定神学的構造を持っている以上、言葉を使って思考する極限が、ラカン的否定神学になってしまうのは仕方がない。だから、思想はラカンで事実上終わっているんだ。

 

とブチ上げてますが、それにはラカンよりもゲーデルの方が役にたちそうと個人的には考える私は柄谷行人の尻尾に過ぎないのかしらん(二十年以上遅れた議論?)。それに純粋な記号なんて普通の動物と違う我々には認識できないんじゃないの。全ては多少なりともコトバであり象徴が入ってるのでは?そうか象徴界の優位性って結局岸田秀氏の史的唯幻論のことだったのか(笑 >妄想なのでコレについては文句不可)。

おしまい。

(2001/08)

 


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