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「東浩紀氏の「オタク」論の紹介

――『動物化するポストモダン』を中心に――

 

清瀬 六朗


 今回お届けするのはWWFの「萌え」特集の第二号であり、二〇〇三年夏に刊行した『WWF No.26――「萌え」の構造・非構造』から続く問題意識に基づいて編集されている。

 この一連の「萌え」特集の執筆者の多くが共通して参照しているのが、現代思想家の東浩紀氏の一連の著作やホームページ上での発言である。私たちは、今号の特集のあちこちで、東氏が立てた議論のことばや概念を引用して議論している。

 東氏の名まえなど聞いたこともないという方や、名まえは知っていてもどんな議論をしているかはよく知らないという方は、「動物化」とか「データベース的動物」とかいう用語がいきなり出てきても戸惑うばかりだろう。そこで、東氏がどんな議論をしているかをかんたんに紹介しておこうと思う。

 なお、いうまでもなく、これは私の立場からの整理である。

 東氏の議論は、コジェーヴやジジェクなどという、私が耳にしたこともない思想家の議論を参照しつつ組み立てられている。また、東氏は後期デリダの研究者として論壇に登場した。このデリダも私にとってはまったく理解できないに等しい思想家である。

 だから私の理解の行き届かない点や誤解している点は多々あると思う。また、東氏と私とで関心のありかが違う以上、東氏が強調したい点と私がここで強調する点が大きく異なっているということもあるだろう。また、議論をかんたんにするために、東氏がきっちり区別しているであろうことばや概念をあえて区別しないで述べた箇所もある。

 そのことをお断りした上で、なるべく東氏の見解に沿うかたちで東氏の議論を紹介して行くことにしよう。

 なお、東氏は、最初の単著である『存在論的、郵便的――ジャック・デリダについて』(新潮社、一九九八年)を発表して以降に限っても、比較的早い時期から、「オタク」やアニメ・ゲームに関する文章を発表している。『存在論的、郵便的』につづいて出された評論集『郵便的不安たち』(朝日新聞社、一九九九年)にも、デリダに関する文章などと並んで、アニメなどに関する文章がかなり収録されている。しかし、東氏が「オタク」やアニメ・ゲームをめぐる問題を主要テーマとしてとりあげて、自身の考えを体系的に一冊にまとめたのは『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』(講談社現代新書、二〇〇一年。原型は同年に『ユリイカ』に連載された「過視的なものたち」)からである。そこで、ここでは、この『動物化するポストモダン』を中心に、東氏の議論を紹介していくことにしたい。なお、この紹介文は、私自身が東氏の議論を整理した上でわかりやすいと思った順序で進めていく。第一章から順番に要約していくというかたちにはなっていないことをお断りしておきたい。

 

「ポストモダン」と「大きな物語」

 東氏が、アニメやパソコン用のゲームやその周辺商品、それにそれらの対象に群がる「オタク」たちを分析するのは、そこに現代の社会の特徴が典型的に表れていると見るからだ。その「現代」を東氏は「ポストモダン」と呼ぶ。つまり、アニメやゲームや「オタク」を見ることで「ポストモダン」社会(つまり現代社会)の構造を浮かび上がらせるというのが、東氏がこの議論でめざしていることなのだ。

 この「ポストモダン」という概念は東氏の議論のなかでどういう意味で使われているのだろうか。まずそのことからまとめておきたい。

 「ポストモダン」とは文字どおりには「近代の後に来る時代」という意味である。東氏の議論は、現在の日本はすでにその「近代の後に来る時代」に突入しているという前提で進められる。

 では、「近代」と「ポストモダン」(「近代の後に来る時代」)はどう違うのか? 「近代」はどのように終わって「ポストモダン」に移行したのか? 東氏は「大きな物語」という概念を用いてそれを説明する。

 「近代」とは社会全体を覆う「大きな物語」がある時代だった。「物語」というのは、「読み物」という意味ではなくて、「こういうときにはこういうふうに考えなければならない」とか「こう行動しなければならない」とかいうさまざまなルールや、そのルールの存在を背後で支える世界観・価値観が織りなす大きな体系である。「近代」の「大きな物語」は、国家とか国民とか、あるいは世界とか国際社会とかに、進むべき道を指し示してきた。

 しかし、その「近代」の「大きな物語」は二〇世紀に入って大きく揺らぐことになる。その揺らぎは一九一四年の第一次世界大戦で始まった。「近代」に入ってからずっとヨーロッパ社会を導いてきた理念、つまり「大きな物語」が、そのヨーロッパを主戦場とした第一次世界大戦の悲惨な展開で疑われはじめたからである。

 それでも「近代」の「大きな物語」は一九七〇年ごろまでは機能しつづける。一九七〇年ごろになるとその「大きな物語」の崩壊はだれの目にも明らかになり、世界の人びとの動きをまとめる標準的なルールとしての機能を失ってしまった。この一九七〇年ごろを境に、「近代」は終わり、「ポストモダン」の時代が始まったとするのが、東氏の基本的な見かたである。

 なお、東氏は、この「ポストモダン」という時代区分と「ポストモダニズム」という思想を区別する。「ポストモダン」というのはいま書いたように一九七〇年代以後の時代を指すことばである。そこでは近代のさまざまな思想も生き残っている。そのなかで、この時代をリードする気負いを持って登場してきた一群の思想が「ポストモダニズム」思想である。だから、東氏の議論では、「ポストモダニズム」は「ポストモダン時代の思想」のなかの一部に過ぎないと位置づけられている。

 さて、東氏は、「近代」から「ポストモダン」への移行は、二段階に分かれて進んだと考えている。

 第一段階では時代は完全に「ポストモダン」になりきっていない。半「ポストモダン」という状況だ。この段階では、人びとは、「近代」を主導してきた「大きな物語」はすでに信じていないが、それでも何か別の「大きな物語」が存在することを信じている。東氏の議論によると、日本のばあい、「消費社会」という目標がこの時期の社会に共有され、「大きな物語」に代替する「フェイク」(偽物)としての役割を果たした。この半「ポストモダン」の特徴がいちばんはっきり現れたのが一九八〇年代である。バブルの時代であり、浅田彰や柄谷行人といった「ポストモダニスト」たちの言論がもてはやされた時代でもある。

 しかし、その「フェイク(偽物)」としての「大きな物語」が機能していたのは一九九五年までであると東氏はいう。一九九五年のオウム真理教事件で、当時のオウム真理教教団が持っていた「大きな物語」、つまり教義が、SFや伝奇小説から寄せ集めて構成されたようなあまりに陳腐なシロモノだと感じられたことから、半「ポストモダン」社会の「大きな物語」の「フェイク(偽物)」性がだれの目にも明らかになってしまったのだ。時期を同じくして、アニメの世界でも『新世紀エヴァンゲリオン』が放送され、従来のアニメやゲームの鑑賞が前提としていたさまざまな約束ごとがじつは根拠のないものだったということが暴露されてしまった。『エヴァンゲリオン』は、一つの物語を非常に精緻な精度で描写すると見せかけておいて、テレビシリーズの最後で「これは作り物の世界だ」ということを作り手自らが暴露してしまった作品であると東氏は位置づける。『エヴァンゲリオン』は、「大きな物語」が存在するように見せかけてはいるが、その「大きな物語」らしきものは、綾波レイという病弱の謎めいた少女、碇シンジという精神的自立を達成できていない少年、そして「死海文書」をめぐる知識などに対するさまざまでバラバラな関心を引きつけることだけを目標とした仕掛けに過ぎなかった。しかも、その正体を暴露したまま、この作品は映画版の制作・上映や関連ゲームの発売へと展開していくのだ。

 こうなると「大きな物語」など存在しないということが社会的な了解事項になってしまう。これが「ポストモダン」の第二段階である。第一段階が半「ポストモダン」であり、「近代」とは違うけれども何らかの「大きな物語」の存在がともかくも信じられていた時代であったのに対して、この第二段階は「近代」から「ポストモダン」への移行が完全に終わった段階という位置づけになる。

 そして、この第二段階の「ポストモダン」時代の実像をよく表現しているのが、この時代の「オタク」たちのあり方だと東氏はいう。そこから東氏は「オタク」や「オタク系文化」の分析へと進んでいく。

 

「オタク」と「萌え」

 この「オタク」や「オタク系文化」分析では、東氏は主として二つの先行業績を参照しつつ議論を進めている。一つは大塚英志氏が一九八九年に発表した『物語消費論』(現在は角川文庫『定本 物語消費論』)、もう一つは斎藤環氏の『戦闘美少女の精神分析』(太田出版、二〇〇〇年)である。また、一九九四年に『制服少女たちの選択』(講談社)を発表して論壇の注目を集めた社会学者の宮台真司氏、一九九六年に『虚構の時代の果て』(ちくま新書)を発表した大澤真幸氏、現代美術の分野で「オタク」に関心を持ちつつ作品を発表しつづけている村上隆氏などの業績も参照されている。ただ、ここでは、これらの人たちの業績を東氏がどう引用しているかということはいちいち紹介しない。

 「オタク」ということばは、実際の社会ではさまざまな意味で使われるが、東氏は主としてアニメやパソコンゲームやその関連商品に群がり、それを独特のしかたで愛好する男性を指して使っている。また、アニメ、パソコンゲームなどその「オタク」たちを引きつける「サブカルチャー」を、東氏は「オタク系文化」と呼んでいる。

 では、具体的に、現在の「オタク」たちはそういう「オタク系文化」をどのように享受しているのだろうか。

 『エヴァンゲリオン』以後の「オタク」たちはすでにアニメやゲームの「物語」を相手にしてはいない。「物語」の背後にある世界観のようなものを相手にしてもいない。現在の「オタク」たちが関心を持っているのは、自分の精神を(多くのばあい性的に)興奮させる「要素」だけである。それは「猫耳」であったり「メイド服」であったりする。「猫耳」に興奮する「オタク」は、物語はそっちのけで、またどの作品に出てくるかもお構いなしに、ひたすら「猫耳」のついているキャラクターを追い求める。「メイド服」でも同じである。それが現在の「オタク」たちの行動様式だ。そういう自分の追い求める要素に興奮するのが「萌え」という現象であると東氏は定義する(そうして「萌え」を喚起する要素が「萌え要素」である)。逆に言うと、現在の「オタク」は自分が「萌え」る対象を物語も商品形態の違いもお構いなしに追いかける。『エヴァンゲリオン』以後の「オタク」を特徴づけるのはこの「萌え」という現象であるということになる。

 その「萌え」現象が「オタク」のあいだで一般化したことを如実に表現するのが、ブロッコリー社の宣伝用キャラクターであるデ・ジ・キャラット(でじこ)であると東氏はいう。

 デ・ジ・キャラットは、猫耳、メイド服、猫しっぽ、手袋や「〜にょ」という口癖など、あらゆる「萌え」要素の集合体としてデザインされており、しかも何の物語も背負っていない。このデ・ジ・キャラットが「オタク」たちに広く受け入れられたことは、「オタク」のあり方が、いまや自分が「萌え」られる要素をひたすら追い求めて「萌え」るというだけのものになったことをよく表している。現在の「オタク」にとって、物語や世界観などはどうでもよいのであり、「萌え」要素がすべてなのだ(この東氏のデ・ジ・キャラット論に対する私の見かたは『WWF No.26』の「座談 「動物化」って何?」で表明したのでここでは繰り返さない。なお、この部分の私の発言で、二九頁に「「デ・ジ・キャラット」という名まえがない段階」という表現があるが、これは「「でじこ」という略称が使われていない段階」のまちがいである。お詫びして訂正したい)。

 ただし、パソコンゲームの一種であるノベルゲームの分析を通じて、東氏はこの断言を微修正するような註釈を加える。東氏によると、ノベルゲームというのは、『To Heart』や『Kanon』のような、絵を見るよりもテキストを読むことに主眼のあるゲームであり、その多くは複数の女の子キャラが登場するなかでそのうちの一人のキャラとの恋愛を楽しむ「ギャルゲー」として発表されている。

 ノベルゲームをプレイする「オタク」たちはけっして物語に無関心ではないように見える。むしろ物語に接して「泣ける」ことを求めている。これは、『エヴァンゲリオン』以後の「オタク」は物語を求めていないという議論と矛盾するのではないだろうか。しかしそうではないと東氏はいう。ノベルゲームの「物語」に「オタク」たちが求めているのは、やはり「萌え」要素である。つまり、ノベルゲームに「オタク」たちが求めているのは「萌え」要素を集め、「物語」というかたちを借りて構成したものに過ぎない。「オタク」がそこで求めているのは、「近代」の人びとが「物語」に求めていたものとはまったく違うのである。

 東氏によると、「物語」すらが「萌え」感情に従属するようになった時代が、第二段階の「ポストモダン」時代、つまり一九九五年以後の時代なのだ。

 

「動物化」

 このような「ポストモダン」時代の「オタク」の特徴を東氏は「動物化」と名づける。これは先に名を引いたコジェーヴという思想家の議論を引用したものだ。『動物化するポストモダン』という本のタイトルも、この「オタク」たちのあり方についての東氏の見かたに由来している。

 東氏のいう「動物化」とは何か?

 人間は環境と対立しながら生きるものである。環境から与えられるものに即座に満足して環境に順応してしまったら、それは人間の生きかたではなく「動物」の生きかたに過ぎなくなる。ところが、「ポストモダン」社会では人間が「動物」と化してしまうという現象が起こる。「萌え」要素をひたすら追いかけ、その「萌え」要素を手に入れると満足してしまう現在の「オタク」は、まさに「動物化」した人間の典型である。

 もう少し詳しく紹介しよう。

 「近代」社会が終わった時点で、人間は「環境と対立しながら生きる」という生きかたができなくなってしまう。その後の「ポストモダン」の第一段階では、人間は、環境と何も対立していないのに、あたかも対立しているような振りを無理やりにでも作り出すという行動をとっていた。それが「大きな物語」がまだ存在すると信じていたころの「オタク」の行動原理である。この行動様式を東氏は「スノビズム」と呼んでいる。しかし、「スノビズム」の時代は「ポストモダン」の第一段階の終わり(一九九五年、社会的にはオウム事件、アニメ界では『エヴァンゲリオン』の放映)とともに終わり、現在は完全に「動物」の時代になっている。それが東氏の議論の流れである。

 しかし、「オタク」は「動物」とは違うような行動をとるように見えることがある。

 「動物」は環境から与えられたものにすぐに満足してしまう。「オタク」に置き換えて表現すれば、自分の追い求める「萌え」要素を手に入れるとあとはひたすらその要素に「萌え」るばかりである。しかし、現実の「オタク」を見ると、必ずしもそうではない。掲示板で議論を繰り広げたり、頻繁にオフ会を開いたりしている。そのようなオタクの活発な活動を見ると、自分一人で「萌え」にふけっている「動物的オタク」像は成り立たないように見える。

 けれども、東氏は、そのような「オタク」の「社交性」は見せかけのものに過ぎないと言う。それはコミュニケーションの「まねごと」に過ぎず、「オタク」たちは気に入らなければいつでも「降りる」自由を留保しながらその「社交」に参加している。これは「近代」的な人間どうしの人間関係とはまったく違うものである。したがって、「オタク」の「社交性」をもって、「オタク」が「動物化」していない証拠と見なすことはできないと東氏は言うのである。

 

「データベース」と「小さな物語」の二重構造

 この「オタク」の動物化という実態を鍵にすれば、「近代」から「ポストモダン」への社会の構造の変化を明らかにすることができる(東氏の議論の進めかたはじつは逆で、ここの議論を片づけたあとに「オタクの動物化」の議論に進んでいる)。「近代」には「大きな物語」があって、それが社会をまとめていた。「ポストモダン」ではその「大きな物語」がなくなった。では、「ポストモダン」社会にはそれにかわるものとして何があるのだろう?

 それは「データベース」だと東氏は言う。「ポストモダン」社会の背後には、「萌え」要素や、他の要素と組み合わせれば「萌え」要素になる「萌え」原型要素がいっぱいに収録された「データベース」がある。そして、それが「近代」社会の「大きな物語」に相当するというのである。

 「近代」社会では、その社会の一つひとつのものごとが、社会全体をまとめる「大きな物語」と照らし合わせて理解されていた。そこでは、どんなささいなものごとでも、「大きな物語」の大きな幹から伸びた枝葉の先に位置づけられるという了解が通用していた。これを東氏は「ツリー・モデル」と呼んでいる。

 しかし「ポストモダン」の社会ではこの「ツリー・モデル」は通用しない。「データベース」は「太い幹が枝分かれしていちばん末端の枝葉まで伸びている」というような構造をしていないからだ。そこにはたんにデータが横並びに並んでいるだけである。この「ポストモダン」社会では、人びとはその「データベース」から適当にデータを選んで引っ張り出してきて、それを適当に組み合わせ、その人一人ひとりにだけ通用する「小さな物語」を構成しているのだ。そういう「ポストモダン」の人類の行動の典型が、「萌え」要素を「データベース」から引っ張り出してきて組み合わせ、自分だけの「小さな物語」を作って「萌え」ている「オタク」たちなのである。「オタク」の行動様式はこのような点で「ポストモダン」社会のあり方を代表しているのだ。

 「オタク」たちは、同じ「データベース」から要素を拾い出してきてそれぞれの「小さな物語」を作るので、その「小さな物語」は、互いに違っているけれどもどれも似通っているという特徴を持ってしまう。このような「小さな物語」相互のあいだで、どれが「オリジナル」でどれが「コピー」かという性格づけを行うことはできない。その「小さな物語」を作った人たちが自分の作品を「オリジナル」だと思っていようが「コピー」だと思っていようが、「データベースから適当な要素を引き出してきて組み合わせる」という作業の結果として生まれたという点ではどれも同じであり、決定的な違いを見出すことはできないからだ。このように「どれがオリジナルでどれがコピーかを確定できない似たようなもの」を東氏は「シミュラークル」と呼んでいる。「ポストモダン」社会は「シミュラークル」で埋め尽くされた社会である(なお、前掲の「座談 「動物化」って何?」では私の編集上のミスで「シミュラークル」と「シュミラークル」という表現が交じってしまった。お詫びしたい)。

 東氏は、ここにまとめた「ポストモダン」社会の構造を、「近代」の「ツリー・モデル」に対比して「データベース・モデル」と呼び、またその「データベース・モデル」の社会に順応してひたすら「萌え」要素のみを追求して生きる「オタク」の生態を「データベース的動物」と表現している。それは、東氏によれば、「オタク」だけではなく、「ポストモダン」の人間に共通するあり方なのである。

 

 以上、『動物化するポストモダン』に基づいて、東氏の「オタク」論をまとめてみた。

 じつは、ここにまとめたのは、三章構成のこの本の第二章の内容にすぎない。しかもかなり端折った紹介である。そうしたほうが東氏の議論の全体像を掴むには有利だと考えたからだ。

 だから、ここで触れていない話題も多い。たとえば、「オタク」の特徴として東氏が強調している「解離的な人間」というモデルの紹介は全面的に飛ばしている。セクシュアリティーの問題についても飛ばしている。第三章では、ここに紹介した内容を踏まえつつ、前半でHTMLの構造についての議論が、後半で『YU‐NO』というゲームに関連させながら多重人格論が繰り広げられるのだが、その紹介も省いている。ここで飛ばした部分のなかには今号収録の座談会で話題として採りあげているものもあるので、そちらも参照していただきたい。第一章は、第二章の分析への導入部分としての性格を持つ部分だが、この紹介文では第一章の紹介も全面的に省いた。なお、先に触れた『WWF No.26』収録の「座談 「動物化」って何?」の二六頁に松本(まつもと)晶氏による第一章の要約と評価が掲載されているので、興味のある方はそちらを参照していただいきたい。

 最後に、東氏の主要な著作のリストを掲げておく。なお、ここには、私が、一頁も読んでいなくても(さすがにどの本も一行ぐらいは読んだ)、ともかくいちおうは手に取ってみたことのある本に限って挙げている。

 ここに挙げた本のうち、『存在論的、郵便的』と『動物化する世界の中で』を除く本では、どれも「オタク」や「オタク系文化」が分析対象として重要な地位を占めている。そこに東氏の「オタク」問題への関心の高さを見ることができる。また、論文集や対談を含めてではあっても年に一冊のペースで単著を出版しつづけるというのは、けっして楽なことではない。そのペースを持続していることに、東氏のこの問題への情熱を感じるとともに、知識人としての誠実さをも見る思いがする。私は東氏の「オタク」論の議論の内容にはかなり大きな異論を持っているが、その知識人としての情熱と誠実さにはまったく敬服するほかないと思っている。

 

 『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』新潮社、一九九八年

 『郵便的不安たち』朝日新聞社、一九九九年

 『不過視なものの世界』朝日新聞社、二〇〇〇年(対談集)

 『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』講談社現代新書、二〇〇一年

 『網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』青土社、二〇〇三年(編著)

 『動物化する世界の中で―全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評』集英社新書、二〇〇三年(笠井潔との公開往復書簡集)

 

 東氏のホームページ http://www.hirokiazuma.com/

 

 

附録 東氏の近著の紹介

 

『動物化する世界の中で』

 東氏とミステリ・SF作家であり評論家でもある笠井潔氏との公開往復書簡をそのまま本にしたものである。

 東氏と笠井氏は二〇歳ちょっとの年齢差がある。笠井氏が一九六〇年代末に二〇歳を迎え、東氏は一九九〇年代初頭に二〇歳を迎えている。本の前書きによると、この公開往復書簡は集英社のホームページで公開されていたもので、全部で一六通、奇数が東氏から笠井氏宛、偶数が笠井氏から東氏宛である。

 ただし、大の大人がどんなふうに大人げないケンカをするかということに興味があるという人以外には本書はお勧めしない。全編がディスコミュニケーションの嵐だからだ。東氏と笠井氏は、何を議論するかという段階でなかなか合意できず、ほとんどのばあいに実際に議論する段階に行く前にすったもんだしていて、そのまま終わってしまうからである。

 ただし、エンターテインメントとして読めばそれなりにおもしろい。思想をネタにこんなケンカを繰り広げること自体が最近ではすっかり少なくなってしまったわけだから。

 公開往復書簡は二〇〇二年二月に始まり、一二月に終わっている。九・一一大規模テロ後の状況がいちおうテーマになっているのだが、それをあくまで現在のアクチュアルな問題として語りたい東氏と、一九六〇年代後半から七〇年代初頭の自分の体験に即して思想的に語りたい笠井氏のあいだで議論がまったくかみ合わない。また、東氏は、この本では『動物化するポストモダン』で見せた「サブカルチャー評論家」的な側面ではなく、現代社会の問題を真っ正面から議論する硬派な批評家としての面を打ち出したかったようである(その意味では、この本は『動物化する世界の中で』というタイトルより、連載時のタイトルの『哲学往復書簡』のほうが合っているように思う)。ところが、笠井氏のほうは、自分がサブカルチャー分野の作家と現代思想の批評家を兼ねているために東氏に指名されたと考えており(東氏もそういう意味の発言をしている)、サブカルチャー批評の方面に何度も話を振ろうとする。それで東氏が苛立つ。そのまま最後まで対立ととりあえずの修復を繰り返しながら行ってしまうという展開だ。双方の最後の手紙に書かれているとおりにこの二人があとで仲よくスキー場のゲレンデで再会できたかどうかは謎である。

 往復書簡は東氏の側が九・一一テロ後の状況をどう捉えるかという問題を提起して始まる。このなかで、一九八〇年代の言論を牽引したポストモダニストたち、とくに代表的な知識人としての柄谷行人が、九・一一テロ後の状況にまったく対応できていないという「衰弱」ぶりを指摘する。それに対して笠井氏は自分の体験から語りはじめる。戦後民主主義とも在来型マルクス主義とも異なる社会主義思想家ルカーチに傾倒し、そのルカーチ主義の挫折を経験したという体験である。笠井氏はそれを通じて九・一一テロ後の状況についてアプローチすることを考えていたのだろう。けれども、東氏はそのあまりの迂遠さに戸惑い、第五信で笠井氏に強い調子で議論の軌道修正を迫る。なお、この第五信で、東氏は「大きな物語」は「イデオロギー」のことではないということを強調し、笠井氏の議論がヘーゲル‐マルクス‐ルカーチという弁証法や社会主義の議論に行きがちなことに異議を唱えている。ただ、このあとの議論の流れのせいもあって、東氏の言う「大きな物語」とは何なのかという積極的な規定は十分に語られないまま終わる。

 この第五信に応じた形で、第六信と第七信では九・一一後の戦争の「変質」をどう捉えるかについて議論が交わされる。しかし、第八信で、東氏がいったん拒否した「否定神学」の話題を笠井氏が持ち出したことでまた議論がややこしくなる。第九信では、東氏がこの「否定神学」の議論を自分の著作に対する批判と受けとめていちおうの回答を示す(笠井氏の第八信を読むかぎりでは必ずしも東氏への批判には読めないのだが)。その上で再び「現在の問題」を語ろうと呼びかけたのに対して、第一〇信で笠井氏が「生涯一ガキ」として生きることを決意したなどと言う自己表白をやって、さらに話を探偵小説論のほうに振ろうとしたものだから、ついに第一一信で東氏がブチ切れ、第一二信にかけて泥沼のケンカが展開される。第一三信は東氏の笠井氏への「質問」という形を借りたかなり思い切った批判となり、第一四信で笠井氏がそれに答えていちおうの関係修復と相成る。第一五信は東氏側の自己表白、第一六信で笠井氏が現在の社会についての見かたを素描的に示して終わる。

 どっちがケンカの原因を作ったかというと、どっちもどっちで、笠井氏のほうもなんとか東氏の提起する問題に答えようとしているのだけれども、かなり前に提起された問題にあとのほうの書簡で答えたりして東氏を苛立たせる。しかも「ここではサブカルチャー評論家としては語りたくない」という東氏のスタンスをなかなか理解せず、それがまた東氏の神経を逆なでしている。しかし、東氏のほうも、笠井氏が提起した弁証法やルカーチ主義の話、一九六〇〜七〇年代論、あるいはサブカルチャー論について議論するのを頭から拒否しているようなところもあるし、往復書簡の一回分という紙幅の制限はあるのだろうけど、呼びかけるわりには自分自身の「現在の問題」論が十分に展開できていないように読める。また、自分の文章の読者がどんな層かということに異様に気をつかう東氏と、「評論の文章なんてだれが読むかわからないものだ」と気にしない笠井氏のあいだのすれ違いも大きい。

 ただ、「九・一一テロ後の世界を語る」というテーマがこういうぐちゃぐちゃのケンカになってしまい、それを包みかくさずに本にして出したということには私は意味があると思う。「九・一一テロ後の世界」について、政治情勢論とか「文明の衝突」論に論点を絞って議論する本はたくさん出た。もちろんそれには意味がある。しかしそれだけでは語りきれないこともある。では、「それだけでは語りきれないこと」をどう語ればいいのか。それを試みたときに、もしかすると「どう語っていいか最初からまったくわからない」とか「どう語るべきかの合意が最初から存在しない」という事態に直面するのかも知れない。少なくとも、東氏と笠井氏は、往復書簡をはじめる前には「このテーマならこんな方向に話を持っていけばいいだろう」という見通しを持っていたであろう。しかし実際にはじめてみるとじつは二人がぜんぜん別のことを考えていたわけだ。

 「世界の語りかた」自体が、みんな何となくわかっているようでいて、じつはわからなくなっている。みんな同じような方向で考えるだろうと思っていて、実際につき合わせてみるとそれがぜんぜん違う方向だったりする。そういう「現在の世界のかわらなさ」について警告してくれる本という意味では、この「大人げないケンカ」の記録を読むことにも多少の意味はあるかも知れない。

 

 

『網状言論F改――ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』

(東浩紀 編著/永山薫、斎藤環、伊藤剛、竹熊健太郎、小谷真理)

 

 この本は、斎藤環氏の『戦闘美少女の精神分析』(太田出版、二〇〇〇年)から始まり、東氏の『動物化するポストモダン』をあいだにはさんで行われた討論の記録である。全体は「プレゼンテーション」・「鼎談」・「後記」の三部分から成り立っている。

 最初に東浩紀氏が記しているところによると、最初のきっかけは、東氏のホームページ上で行われた『戦闘美少女の精神分析』をめぐるネット上の討議である。掲示板形式で行われた討議の記録は現在(二〇〇三年一一月現在)も東氏のホームページに掲載されている。このネット上の討議は「『戦闘美少女の精神分析』をめぐる網状書評」というタイトルで、「網状言論」と通称されていた。

 二〇〇一年九月、ネット上の「網状言論」参加者が集まって池袋で討論イベントが開かれた。これが「網状言論F―ポスト・エヴァンゲリオンの時代」というイベントである。これの「改」版がこの『網状言論F改』という位置づけである。

 本書の「プレゼンテーション」に寄せられた原稿は、基本的にこの「網状言論F」イベントでの報告原稿である。ただし、斎藤環氏は、九・一一テロの影響でハワイに足止めされ、電話回線を通じて音声のみの参加となった。そのため、斎藤氏の原稿だけは、このイベント後に書き下ろされたものである。

 二〇〇一年九月ということは『動物化するポストモダン』刊行の二か月前である。したがって、この「プレゼンテーション」の段階では、参加者は『動物化するポストモダン』の内容は知らない(ただし原型となった『ユリイカ』での連載は出ていた)。なお、そのため、東氏は自分の「プレゼンテーション」で『動物化するポストモダン』の内容を要約して語っている。非常にすっきりしたまとめになっているので、『動物化するポストモダン』の内容がよく掴めなかったばあいにはこの本の東氏の「プレゼンテーション」を読むのがいちばんよいと思う。

 「鼎談」は、『動物化するポストモダン』が刊行された後の二〇〇二年三月に行われたもので、参加者は東氏と『戦闘美少女の精神分析』の著者の斎藤氏、それに小谷真理氏の三人である。「後記」はこの鼎談に参加しなかった三人のうち永山氏と伊藤氏が「プレゼンテーション」と「鼎談」の内容を踏まえて書いたものだ。

 つまり、時系列上に整理すると、この『網状言論F改』に収められた文章は、斎藤氏の『戦闘美少女の精神分析』刊行‐「プレゼンテーション」‐『動物化するポストモダン』刊行‐「鼎談」‐「後記」の作成されたことになり、後のものは前のものを参照しながら書かれている。『戦闘美少女の精神分析』への書評から始まったという経緯もあって、『動物化するポストモダン』では傍論としてしか触れられていない「オタクのセクシュアリティ」という問題が全体を貫くテーマの一つになっている。また、それと関連して、しばしば話題になっているのが「児童ポルノ」などに対する規制の問題である。

 「プレゼンテーション」では、東氏の「オタク動物化」論に続いて、まず、永山薫氏が「エロ漫画」の観点からオタクのセクシュアリティの問題を論じる。つづいて、斎藤環氏が精神分析の観点から見たセクシュアリティの問題について論じる。この文章は『戦闘美少女の精神分析』の補遺・続編のような位置づけと考えていいだろう(私は『戦闘美少女の精神分析』を読まず嫌いで読んでいないのでよくわからないのだが)。伊藤剛氏はマンガの構造といった観点から論じ、物語を背景に持たない「キャラ萌え」の出現までの過程を論じる。竹熊氏の文章は「第一世代オタク」の実体験を踏まえた自己分析である。小谷真理氏は、「オタク」的なもの・「やおい」的なものを理解できるフェミニストとして東氏に招請されたとのことで、斎藤氏の本へのコメントを中心にフェミニストの立場から議論を展開している。『動物化するポストモダン』は、事実上、男性オタクだけを対象とした分析であり、ジェンダー的な偏りがあったのだが、この本では小谷氏の議論などで女性の「オタク」あるいは「やおい」についても語られていて、「『動ポモ』補完計画」の意図もいちおうは達成されている。「鼎談」と「後記」はこの「プレゼンテーション」を踏まえてさらに議論を発展させたものと考えてよい。

 あくまで東氏の「オタク動物化」論との関連で読めば、この本からは東氏の「動物化」論がどういう背景から出てきたかが理解できて興味深い。『動物化するポストモダン』では、新書という性格から来る制約か、議論を急ぎすぎている部分がいくつも見受けられる。たとえば、『動物化するポストモダン』では『AIR』というギャルゲーが採りあげられているが、内容についてほとんど紹介されておらず、それが議論が浅いような印象を与える。しかし、この本ではその内容が詳しく紹介されており、ここを読むと、『動物化するポストモダン』でのギャルゲー論がどういうところから出てきたかをうかがうことができる。「鼎談」には『動物化するポストモダン』の疑問点を他の二人の参加者が東氏に問うている場面もある。そこを読めば疑問が氷解するかどうかは別として、東氏がどう考えているか、あるいはどう考えていないかがここから読みとれる。

 この本を『動物化するポストモダン』の副読本として読むのも一つの読みかただと思う。もちろんそれにはとどまらない内容をこの本は含んでいるけれども。

 

 

(終)

2003/12

 


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