WWFNo.26のページへ戻る
 

座談

「動物化」って何?

―― 東浩紀氏の「動物化」論を読む――

 

へーげる奥田 ■まつもとあきら ■清瀬 六朗 ■鈴谷 了 ■岩田 憲明 ■雨読

(発言順)


■奥田

 経緯としましてですね、今回の企画立案者であるところのまつもと氏の案として、まずはテーマとなる本をみんなで読んだ上で、その周辺をめぐっての話をしよう、ということになったんですが。東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、二〇〇一年)と、東浩紀・笠井潔の往復書簡『動物化する世界の中で』(集英社新書、二〇〇三年)なんですけど、私、字がいっぱい書いてある本てニガテでして。

 という訳で、買った本もまだほとんど読んでないんですが、よく考えたらそれ以前に私はポストモダンとかそのへん全然知らないデシタ。アイゴー。

 そういう状況ですんで、ワタシにわかるように今回のテーマとか、ポストモダンとコミックマーケット的文化圏との関連性とかを教えてくれるとキモチがよいなあ。なんかこう、Q&A的にとか。どうでしょ?

 

■まつもと

 では、まず、『動物化するポストモダン』の第一章の内容をサマライズしてみたいと思います。

 (1)日本文化の一要素としてオタク系文化は無視できないマスである。

 (2)オタク系文化の構造にはポストモダンの本質がよく現れている。

 (3)オタク系文化日本的な要素がしばしば現れるのは、オタク系文化がもともとアメリカに起源を持つサブカルチャーであることを隠蔽するためである。本文には「オタク系文化の根底には、敗戦でいちど古き良き日本が滅びたあと、アメリカ 産の材料でふたたび擬似的な日本を作り上げようとする複雑な欲望が潜んでいるわけだ」とあります。

 (4)ポストモダン的で最先端的であることと、日本的であることを意図的に混同した言説がオタク系文化の担い手の中で飛び交っていた。

 (5)オタク系文化と「日本」の関係は二つに引き裂かれたアンビバレントなもので、アメリカとの敗戦の経験を呼び起こしアイデンティティの脆弱さを思い出させるおぞましい感情と、ポストモダン的で日本が最先端というフェティッシュな感情を惹起させるというもので、これが過剰な賞賛と敵意の原因である。

 で、ワタシのツッコミですが、(1)はYES……ですかね?

 (2)については、ある文化にある思想が現れているというのは、単なる読みの問題ではないかなということですね。レヴィ‐ストロースの『野生の思考』なんてえのが構造主義の走りになったなら、その原住民の文化は構造主義的だとでもいうんでしょうか?

 (3)手塚治虫まではそうだっただろうが、それ以降、まさにオタク的な要素が出現するに至り、これは当てはまらない、というのが私の素直な感覚です。

 (4)東氏は「オタキング」(岡田斗司夫)氏の言説とかに対して言ってるみたいだが、オタク的「退行」はヒトの文化の流れひとつの必然だとワタシもマジで思っています。

 (5)それは勘違い的な深読みのし過ぎでは? 岸田秀の反米論の悪いパクリ方? 企業のオヤジ的なヤツラにオタクが賞賛されるのは、最先端に乗り遅れまいとする勘違いな焦り。敵意は日本人の8割を占める(ウソ)ヤンキー系の香具師からのもっと深い感情、つまり性的な嫌悪感ではないかと。

 

■奥田

 まず、ワタシは「オタク系文化」なる呼称を認めていませんし、これはいまだ完全に定義されていないようにも思います。ワタシの用語(案)を言えば、これは「コミックマーケット的文化」。定義は、ややトートロギーだが、「コミックマーケットに集まってくるような文化ジャンル」ですな。オタクという言葉はその語源から見てどうも承伏しかねる、と未だにこだわってます。

 で、コミックマーケット的文化にその「ポモ」(「ポストモダン」)の本質が現れているのではなく、現代の文化現象を言語化した段階で、「現代の事象を言語化」しようとしたポモの思考の網に引っかかったということであり、逆にそれができなかったらポモなんかイミねー、という感じなのではなかろーか。

 アメリカは占領政策で、従来的な日本の思考方式の解体を徹底的に推し進め、アメリカ式思考法を積極導入したわけですが、これによって現代日本人の思考形態はかなり徹底した価値相対論、またプラグマティズムに支配されていますな。これは、似た状況にあった他国と比較してみれば容易にわかることで、たとえば南ウリナラ(韓国――編集者註)では、常に日本文化を「複写文化」「反射文化」「雑種文化」と評価してきました。これはウリナラビトの反日特性もあるのだが、その根底に、「ひとつの文化の背後には一貫したイデオロギーのようなものがあるべきだ」という一種のドグマギーが含まれている部分が重要ですな。で、その「背後のイデオロギーのようなもの」には、それを言語的に定義しやすいものと、非言語的領域にあって定義しづらいものがある。「儒教」で「東方礼儀」(最近の説では東方礼儀国というのは日本のことではなかったかとも言われてますが)なんていう感じでわかりやすいキャッチフレーズがあるウリナラと違い、日本の雑多な要素を切り取って構成するタイプの「無節操な文化」の「背後のイデオロギーのようなもの」はとても定義しづらい。

 まあそういう抽象的なレベルの話は、話のタネ以上の意味を持ちそうもありませんな。ちっと酔いが覚めたらまた考えてみます。

 

■清瀬

 「戦後日本文化の基底をなしているのはアメリカによる占領であり、表面的な反米論や、(産業界などで『プロジェクトX』的に)アメリカと争って勝ったというイメージ自体が、まさにその本質を補完しごまかすための飾りに過ぎない」という議論は、「カルチュラルスタディーズ」系と呼ばれる他の研究者の講演でも聴いたことがあり、この批評もその系統を引いているのだと思います。

 私自身は「日本文化が第二次大戦敗戦で根本的に変わった」というとらえ方自体にかなり懐疑的です。あえて言えばそういうとらえ方自体がアメリカ合衆国の罠にはまってるんじゃないかと思ったりもする。

 岡田斗司夫氏の言説と『セイバーマリオネットJ』だけからの「オタク文化=江戸文化」という「オタク」自己イメージ論は端的に論証不足だと思います。

 東氏の議論は私には難解で、かなり浅い読みによるもの言いになっているような気がしますが、とりあえず私の抱いている感想は以上のようなところです。

 

■鈴谷

 正直なところ私も『動物化するポストモダン』に正面からコメントするのが結構難しいなぁと思っていました。

 この本全体の印象からいえば、第一章というのはどちらかといえば「これは現代思想の本なんだぞ」というための「刺身のつま」であって、実際の現象に即して書かれた二章が本当の「お題」なんだろうというところです。

 「現代思想論」としては遺漏があるけど、「オタク論」(といっていいのか?)としては頷ける部分もある、というのが大ざっぱな印象です。

 

■まつもと

 で、この本の要約はもう簡単で、要するに九〇年代以降のオタクは、大きな物語(共同幻想でも可)が失われた八〇年代にあった物語消費すら必要としなくなり、萌え要素を様々な作品からデータベース的に引き出し参照することで満足するようになってきた、これぞリゾームだかHTML式だか知りませんがポストモダン的だね、ってゆー話だと思います。

 また根本的な問題として、このデータベース理論では、その萌え要素はなぜオタク心を擽るのか、とゆー疑問には何も答えていないわけで、実は東氏も村上隆と同じで、実は萌えが分かっていない、てえよりか萌えたことが最近無いと見たのですが……。

 

■清瀬

 「動物化」というのはコジェーヴという哲学者がヘーゲル哲学読解の中で持ち出した議論なんだそうです。つまり、環境に違和感を感じて働きかけていくのが「人間」であり、環境に何の疑問も持たずに順応するのは「動物」だということです。ま〜あ、この分類のしかた自体がかなりキリスト教文化圏的ですね。

 そして「オタク」というのはこの「動物」のほうに属する類型で、東氏によれば、「オタク」が環境に順応して起こす反応が「萌え」だというようなことらしいですな。

 ところで、東氏は「萌えたことが最近ない」というまつもとさんの発言、なかなか頷けるところがあります。

 というのは、『メガゾーン23』とかに対する、内容に即したていねいな分析と較べて、『セイバーマリオネットJ』を除く『エヴァンゲリオン』以後のアニメ作品に対する分析が非常に表面的で、データ的にもまちがいが多いんですよ。

 とくにそれがよく現れているのが、東氏が話を「データベース消費」へと持っていく議論の流れで重要な役割を果たしている『デ・ジ・キャラット』の分析ですね。ここにはとくに誤りが多い。もっとも、『デ・ジ・キャラット』の世界観をうち立てた四コママンガ『げまげま』は、ブロッコリーの店頭で配布している『フロムゲーマーズ』に連載している作品ですから、よっぽど熱心にゲーマーズに通ったりしてないと手に入れにくい。そういう点では、ちょっと東氏を責めるのは酷な気もするんですけどね。

 私だって、ここでこんな議論ができるのは、『ニュータイプ』誌が『げまげま』五〇話まとめて復刻してくれたからで、それ以前だったらなかなか難しかったですね。

 まず、『デ・ジ・キャラット』でのでじこの「生意気でうかつ」という性格について、東氏はアニメ化に際してつけ加えられたと断言してるんですけど、コゲどんぼ先生が『げまげま』の連載を始めた初期から存在します。なんせ「デ・ジ・キャラット」という名まえがない段階から、のちにでじことなるこのキャラは「ウカツ者」と呼ばれてるんですから。

 だから、『デ・ジ・キャラット』の展開について、東氏は「特定の作家や制作会社が制御しているものではない」としていますが、『デ・ジ・キャラット』の主要キャラクターやその性格はコゲどんぼ先生が作り、基本的に制作会社としてのブロッコリーが制御していると考えるのが妥当だと思います。他の「作家」がつけ加えた要素もありますが、それは基本的にコゲ先生が『げまげま』で確立した世界観に乗って作られていると言っていいでしょう。全体に、コゲどんぼ先生の存在を無視して『デ・ジ・キャラット』を語れば作者不詳の物語なってしまうのは当然だと思いますね。コゲ先生が作者なんだから。

 この部分の後半で引用されている「綾波レイに似たキャラクター」論でも、『機動戦艦ナデシコ』がオタクの自己言及的作品だという文脈で引かれるほかは、それぞれの作品の内容に即した説明がほとんどありません。このへんで引用されている作品なんか、詳しく見ればある程度の「作家性」は読みとれるはずなんですね。けっきょく、東氏は『エヴァンゲリオン』以降のアニメ作品にはぜんぜん馴染めず、個別の知識を蓄えるほど「萌え & 燃え」られなかったんじゃないかと思うんです。

 で、そういう場所から見れば、「オタク」たちがなぜこのへんの作品に「萌え」ているか理解できず、ただ「動物」的に反応しているだけだと見えてしまって当然だと思うんですよ。ちょっとこのへんはねぇ、九〇年代のアニメに好きな作品がたくさんある私にはすごい違和感を感じる部分ですね。

 

■奥田

 いまだに「ポストモダン」がよくわからない。そりゃそうです、「モダン(近代、と訳していいとしたら)の先に立つもの」といった意味ですか? まあ近代の次に来るものとか言いたいとは思いますが、いつまで「近代の次」とか言ってるデスカ、という気がします。いつになったら Contemporary になるんだ、と。ちなみに学生時代に使った『連想単語記憶術』では、「簡単パラリとわかる現代の計算機」とか記憶します(Contempo-rary=現代の、同時代の)。

 

■清瀬

 いまの話について、東氏の定義によれば、一九六〇〜七〇年頃を境にしてこっちが「ポストモダン」時代なんだそうですよ。

 ただ、資本主義が高度に発達して、文化が多様化して、それを、わりとフォーマットの決まった「近代」的な批評では扱いきれなくなった時代が「ポストモダン」というのだったら、一つは、それって批評家の都合で決めた時代区分なんじゃないの、ということっすね。

 それから、もう一つ、「資本主義」なんてまさに「近代」的なもので、それが高度に発展して生み出した時代というのはやっぱり「ポスト近代」じゃなくて「近代そのもの」という枠で解釈するようがんばってみるべきなんじゃないか、というのが私の感想です。

 経済というのが文化を規定しているというのは言えると思うんで、生産力とか、社会のなかで扱えるモノとか情報とかの流れの量とかが制限されている時代というのは、どういうモノを生産するべきかとか、どういうモノや情報を流通に載せるかとかいうことについてわりと社会的な合意が強く存在する。それが社会の規範を作り出す。そういう面があると思う。

 そういう規範の制約が強かった時代が「近代」で、生産力が上がり、社会で流通させられるモノや情報の量が飛躍的に増えて、そういう制約が弛んだ時代が、東氏のいう「ポストモダン」なのかな、と思ったりもするわけです。

 経済は奥田さんの専門分野なんで、こういう捉えかたについてなんかコメントいただけますか?

 

■奥田

 私の知ってるポストモダンのイメージというのは、一九八〇年代の「ニューアカデミズム」なんですねー。当時、東氏は一〇代だったみたいですが、私は二〇代ちょいぐらいで、大学では経済学ほっぽっといて哲学の本ばっかり読んでいたっスね。そしたら何だか記号論とか構造主義とかその手のものがやたら流行っていて、どいつもこいつも記号論とかそういう感じだった。あと、構造主義的言語学。ソシュールとかあさだあきらとかドゥルーズとかクリステヴァとか、なんかそんなところが大流行だったですねえ。

 哲学――ってこういうジャンルは「哲学」ではないと思うんですけど――はもうなんか言語とか構造に触れないとダメ、みたいな空気がありましたねー。私は意識的に無視してカントとかニーチェとか一辺倒でしたけど。大学出て社会人になってからはもっぱらハイデッガーとかフーコーとかいわゆる「現代」もちょっと読んだけど、やはり「そっちの方」には行く気がしなかったですねー。

 結局自分の理解としては、「ポストモダン」というのは、人間に関する「哲学」の後に来るものとしての「反人間」、あと体系的学術の後に来るものとして「反体系」と、そういう方法を標榜するのが「ポストモダン」だと思っていたんですよ。

 だから、この領域はとても非生産的だと思っていたっスね。

 だって、思想とか哲学とかなんてしょせん人間が人間についていろいろ考えるための方法論にすぎないのに、そのためのツールにすぎない言語とか構造についてもっぱら語るような領域なんて、単なる要素論じゃないんか、と。

 それが、「ポストモダン時代」? ナニソレ? じぇんじぇん意味わかんないニダ! チョッパリは反省しる!! ということでして。

 本当に時代はそんな新しい、なんだか従来と異質な世界になったのか? おまえら、単に「リゾーム」だとか「ノマド」だとか「シニフィエ」だとかそういう用語を使ってみたいだけと違うんか、と。そんな気がしたんですけど。

 で、あと聞きかじったのは、「『大きな物語』の喪失」とかいう現象が影響している、みたいな感じですかねえ。ここで言う「大きな物語」が何を表しているのかはよくわかりませんが、たぶん「物質的な経済至上主義による幸福の達成を無条件に信じていた図式の崩壊」とか、「マルクス主義的な歴史的必然としてあった『理想の国』の夢の破綻」とか、そういうアレでしょうかね? で、なくなってしまった「大きな物語」の代わりに、マスコミとかそういったいろんな機関が、でっち上げのフェイクの物語をリリースして糊塗しているような時代が「ポストモダン」ていう感じですか?

 いや、このへんホントにそうなのかよくわかんないですし、清瀬氏の説明にあるように『資本主義が高度に発達して、文化が多様化して、それを、わりとフォーマットの決まった「近代」的な批評では扱いきれなくなった時代が「ポストモダン」』というふうなのかもしれない。

 たしかに、現代が過去のどの時代とも異質の時代であろうことは事実だと思います。ただ、それを「ポストモダン」の一言で命名しつくしちゃっていいのか、という疑問が強く残りますな。

 「過去の状況に対する理論で現在が説明できなくなる現象」は、考現学的な要素の強い経済学では全然珍しいことではありませんな。たとえば、労働市場の説明として、高い賃金を支払う労働条件のほうが労働者はよく働く、という前提みたいなものが古典派経済にはあったんスけど、じゃあある労働者の賃金を三割カットしたら七〇%しか働かなくなるかっていったらみなさんだったらどうですか? 賃金減ったぶんだけ怠けますか? それとも馘になっちゃかなわんということで逆にキアイ入れて働いて、あわよくばもとの賃金に戻そうとしますか? じゃあ、そういう現象の起こる現代は労働市場における「ポストモダン」か、と言われたら、別にそういうこっちゃないんじゃないデスカ? という気もします。

 古典派にしろ新古典派にしろ、致命的な過ちとして、「学」をスタティックな「体系」に納めようとした部分があります。経済現象はダイナミックなものであって、物理学現象みたいな再現性があるものでもなければ、「○○史」とかみたいに分類だけしていればいいようなものでもない。ガルブレイスの言葉で、「ある理論を打ち破るのは、より優れた新しい理論ではなく、その理論で説明のつかない事象の出現である」というようなのがありますうろ覚え。文化の多様化によって従来の理論で説明できなくなったというのは、その理論の設定が甘くて、一般的なことを説明していたのではなく特殊な状況を説明していたにすぎないのか、あるいは分析対象となる現象が今までと異質になっているか、はたまた理論が最初っから間違っているのかのいずれかです。説明できなくなったからっつっていちいちなんか奇妙な時代が到来したことにされちゃ困っちゃいますし。

 あと「大きな物語」とかですが、ちょっと気になることが。そもそもその「ポストモダン」の時代って、日本のことなんですかねえ。韓国とかにはありますよ、とびきりでっかい物語。ウリナラのウリ民族は世界で一番優れた民族であってウリナラが世界の宗主国ニダ!! とか。なんか日本の一九七〇年代ぐらいの感覚でしょうかねえ。とすると少なくとも韓国はポストモダンじゃないんでしょうか?

 とりあえずそんな疑問を呈してみたりして。

 

■鈴谷

 ポストモダンの定義が恣意的なものである、という部分はある程度私も同感です。

 ただ、東氏がそこで時代を区切りたいというのは、何となく次のような要素から来るんじゃないか。一つは(書中でも触れられていますが)社会主義による体制変革がほぼこの時代に不可能だとはっきり認識されたこと。もう一つは資本主義の成長が無限の幸福でありその幸福の実現を一義として人生を送る、という考え方が通用しなくなった(公害の頻発等)私が一九七〇年に区切りを設ける意味をあえてあげるなら(哲学的じゃなくて卑近なレベルに落としましたけど)そういうことなんだろうと思います。

 で、補助テキストである森川嘉一郎の『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』(幻冬舎、二〇〇三年)だとその辺がもっとストレートに出てくるんですね(万博のパビリオンとか、超音速機とジャンボ機の対比とか)。

 こういうまとめ方をすると乱暴ですけど、「それって『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』で言っていることちゃうの?」とツッコミ入れたくなってしまいました(なぜかいわゆるオタク論にこの作品は出てこない)。

 んじゃ七〇年代以前に「萌え」のかわりになっていたものっていったい何なの?という部分がきちんと説明されていないんじゃないか、と思うんですね。

 

■清瀬

 ポストモダンの区切りについては、東氏個人がというより、「現代思想」というジャンルに属する論者全体が、その「現代思想」に都合のいいように時代を切っているのではないか、という感じを私は持っているのですね。もっとも、東氏が自分に都合のいいように「現代思想」を紹介しているという可能性もありますけど。

 社会主義による体制変革と、それによって理想的な社会が作れるという理想が、この一九七〇年頃に失墜したということは言えるかも知れません。また、同時期に、フランスのパリでの一九六八年学生運動というのがあって、これが新しい時代の幕開けだとして重視する「現代思想」系の論者もいるのですが、これは「現代思想」に疎い私にはよくわからないんですね。

 資本主義については、東氏の議論は公害などの「成長の限界」についてはあまり問題にしていないと思います。でも、資本主義的な成長を「幸福」にそのまま結びつけられる状況でなくなったことが、さまざまな「サブカルチャー」が重要な意味を持ちはじめたことに関係しているという点では、やはり東氏の時代の転換点の位置づけとも重なる問題ですね。

 私も一九七〇年頃に産業先進国共通の社会の大きな転換の時期があるという認識には賛成なのです。ただ、それを「ポストモダン」と言ってしまったところで、それを「近代」から断絶させられるわけではないんじゃないか、というのが私の感じていることです。ここで「近代」と「ポストモダン」を切ったところで、それは完全に断絶しているのではなく、密接に関連している。すくなくともその前後で「資本主義」という社会のあり方は変わってないのだから。

 だから、「近代」思想は「ポストモダン」思想を語る上でまだ役に立つし、「ポストモダン」を説明する思想は「近代」にもある程度まで適用可能だと私は考えている。その意味で、鈴谷さんが提起された「では七〇年代以前に萌えの代替役を果たしていたのは何?」という疑問に、東氏ならどう答えるのだろうかということには興味がありますね。

 ついでながら、先にもちょっと言ったように、私は日本について一九四五年の敗戦による転換をあまり大きくないと考えていますので、東氏がこの転換を絶対的な断絶のように見て議論を立てていることには強い違和感を感じています。もちろん一九四五年の敗戦でアメリカ文化が大量に入ってきて、私たちの生活のいろんな分野を一変させてしまった。しかし、生活のなかにはそれ以前の文化がまだけっこう色濃く残っていたと思うし、逆に、戦前ですでに西洋化されてしまっていた部分もある。室町時代や江戸時代から引っぱってきた文化も、明治から来た文化も、一九二〇年代に始まった文化も、戦時下に形成された文化も、アメリカによる占領で入ってきた文化と同じように生き残っていたのが一九四五年以後の日本の状況だと私は思っています。

 全体に、東氏は、一九六〇〜七〇年の「近代/ポストモダン」境界にしても、一九四五年の敗戦にしても、「断絶」の要素を強調しすぎなのではないかというのが私の感じているところです。

 

■まつもと

 東氏はポストモダンをどう考えているかですが、「このようなゲームの構造は、明らかに、いままで検討してきたようなポストモダンの世界像(データベース・モデル)をきれいに反映している」。

 このように書いている以上、彼の理解では近代は大きな物語の世界、ポストモダンは断片化された小さい物語やそれすら存在しないデータベース的な世界……っていう理解をしていそうです。

 それとややこしいのがテツガクの流れで近代のテツガクがコギトの哲学とすれば、そのあとに来るのが構造主義やらポスト構造主義やらとなるんでしょうが? それとポストモダンの関係って??

 奥田氏の言うようにリゾーム、ノマド、シニフィエなんて訳のわからん用語やポストモダンが「無意味な差異の戯れ」という標語にはもう飽き飽きです。

 さらにでも東氏や宮台氏は現在の日本はそのポストモダンですら古い懐かしい用語になっているなどと称していますが、それはウソだな。

 

■清瀬

 東氏は、一九六〇〜七〇年ごろに社会は「ポストモダン」に移行したけれども、その「ポストモダン」社会の哲学とか思想とかのすべてが「ポストモダニズム」になってしまったのではなく、「ポストモダニズム」は「ポストモダン」の時代の思想のごく一部に過ぎないと説明しています。で、「ニューアカデミズム」というのがこの「ポストモダニズム」なのだと。したがって、「ポストモダニズム」=「ニューアカ」以外にも「ポストモダン」時代の思想はいくらでもあるという立場ですね。

 

 でじこ「ややこしいにょ〜」。

 うさだ「ややこしいわね〜」。

 ぷちこ「とてつもなくややこしいにゅ!」。

 

 あと、まつもと氏が言及されている部分で、東氏は「近代」の哲学とか思想とかについての明確な像をきちんと出してないように思います。東氏は自分の属している思想分野を「現代思想」と表現しているわけですが、じゃあその「現代」ってなんなんだ、という疑問もあります。

 

■鈴谷

 東氏と宮台真司が『動物化するポストモダン』を題材に対談した内容が以下のウェブページに出ています。

 http://www.miyadai.com/texts/animalize/index.php

 七〇年代以前に「萌え」の代わりになっていたものは何か、という点についてたぶん彼らが想定している答えは「政治運動」か「生産的経済活動」じゃないかと思うんですね。特に前者は「選挙に行く行動と即売会に並ぶ行動」の比較という比喩を用いている点でもある程度意識されたものでしょう。

 

■清瀬

 なるほどねぇ。一九七〇年ごろまでの「政治運動」に代替するものとして一九九〇年代には「萌え」が出てきたと。本を読んだ印象だと、東氏はどうも一九七〇年前後以前の「政治運動」を理想化しすぎているんじゃないかって気が少ししますけどね。

 

■奥田

 『動物化する世界の中で』、六〇ページぐらいまで読んだんですが、なんかコンワクしていますですな。

 ナニ? 結局ポストモダンってどゆこと? みたいな。

 上で鈴谷氏が紹介してくれたサイトとか読んだらもっと混乱しています。だって、同じポストモダンつっても、その現実的実態についての説明が、東氏、笠井氏、宮台氏でそれぞれ違うみたいな感じだし、同じ人でも文脈とかで違ったりする。

 結局なんですか、ポストモダンというのは世界の学術の場での統合的な定義としてはなんと説明されているっスか? それとも、「なんにでも変形する便利なコトバ」なんスかねえ。人によって違う定義のコトバで議論したってダメじゃんとか思うんですが……って、その定義自体が議論のネタなんだろうな。

 まあ、ちょっと腰据えて情報集めてみるかなあ、とも思いますけど、どっぷり浸かりたくない気もします。

 あと、内容としては、シミュラークルという概念なんか押さえとく必要がありそうですな。ナニソレ? と思いましたが、なんにしてもカタカナでシミュラークルとか書かれちゃうと辞書も引けないし大変困りますな。なんでもオリジナルのないマボロシのような思考空間に漂う Simulation の Simulation としての営為、みたいな意味らしいが正しいのかどうか。

 もう少し読み進める必要がありますな。

 

■清瀬

 シミュラークルということばの意味は私にもよくわかりませんが、東氏の使っている意味を『動物〜ポストモダン』から拾ってみます。

 東氏は、『エヴァンゲリオン』が流行したあたりから、「オタク系文化」(とりあえずアニメとかゲームとか)のなかでは「オリジナル」と「コピー」の区別があいまいになってしまい、原作者が作ったものもファンが勝手に作ったものもたいした違いのないものになってしまったといいます。

 つまり、アニメ版の綾波レイ、マンガ版の綾波レイ、某ゲームの綾波レイ、そしてH系同人誌に描かれた綾波レイのあいだには、どれがオリジナルでどれがコピーだと区別する根拠があいまいになってしまった。

 したがって、「オタク系文化」の市場にあふれるのは、オリジナルとコピーの絶対的な区別のできない、または、区別しても意味がない「似たようなもの」の群れである、と。

 その「似たようなもの」のことをシミュラークルと呼ぶ。

 ……というようなことだろうと思うんですがね。

 

■奥田

 ちょっとこのへんで話を戻しますが。清瀬氏の発言で、「そういう規範の制約が強かった時代が「近代」で、生産力が上がり、社会で流通させられるモノや情報の量が飛躍的に増えて、そういう制約が弛んだ時代が、東氏のいう「ポストモダン」なのかな、と思ったりもするわけです」とありました。

 なるほどねえ、という感じですね。「衣食足りて礼節を知る」的現象というべきか。

 言説の経済という概念もあって、これはこれで非常にに重要ですが、ここで言うのは比喩としての経済ではなく、普通の経済財の経済学という観点の話をしましょう。

 経済価値というのは、古くはみんな労働価値説だったっスね。アダム・スミスとかリカードゥあたりの古典派経済学の時代は。つまり、モノには価値があるが、その価値はヒトが働いてモノに込めた付加価値が基本だよ、ということですうろ覚え。読んだの二〇年ぐらい前なもんで。

 マルクスは、その労働価値説をヘーゲル流に解釈して取り入れたもんだから、自分とこの流派こそ正統派経済学だと言ってる訳ですな。

 まあ、人間の労働こそ価値の源泉であるという考え方には心情的には賛成したい。経済現象をあくまで人間の側に引き寄せておく根元的な思想という形としては理解できるんですが、世の中いろいろ複雑なもんで、どうしても問題が起こる。つまり、労働価値説では貨幣の発生の論理を無謬的に説明するのがむずかしいんスよね。だってねえ、レアなトレーディングカードでもクズカードでも製作工程は同じだし。それを入手するのに手間がかかったのだとか言っても、たまたま運がよかっただけじゃんという感じですしねえ。

 でもって、メンガーとワルラスとジェヴォンズがほぼ同時期に発見したんだかあみ出したんだかデッチUPしたんだかの限界主義が出てきたんですが。「消費財の価値は最終単位の効用の大きさによって決定し、生産財の価値はそれによって作られるであろう消費財の予測される価値の大きさによって決まる」というアレですな。限界効用逓減の法則とかって誰でも覚えてるでしょ。

 これは事実、大きなパラダイムシフトだったと思うっスが、結局世の中の経済財が豊富になって、最低限生きていくだけの財の分配の問題を論じていればよかった時代から、娯楽だとか儀礼だとかいった「顕著な消費」とかを社会的な規模で行ったりして、ヒトが個人的に遣うカネの規模をはるかに超えた規模の「貨幣」を論じなくてはならなくなったというような状況が、世界解釈の方法としての経済理論を変貌させたと考えられるんじゃないかというわけなんですが、現代日本ではやはり似たような状況が起こっているということですね。

 つまり、今までは、財の効用はあたりまえのものとして想定できたのだが、現代では必ずしも想定した効用が消費者に受け入れられるとはかぎらない。第一段階では、そんなら「この商品によってアナタはこうした効用を得られますよ」ってなことを説得してやればいいじゃんかということで、広告的プレゼンテーション文化が異常に肥大したってのがバブルなんでしょうねえ。これはこれで、「説得に成功すればビジネスになる」というサクセスモデルがはっきりしていた時代なのかもしれません。

 現在はそういうモデルが希薄になっちゃっていて、みんなだいたい欲しいモノは持ってるし、まあなんとなく現状維持すればいいかあ、みたいな感じの状況かもしれんですが、そういうのが「ポストモダン的」という時代なんでしょうかねえ?

 

■岩田

 私も最近地域通貨などを通じて経済の問題と関わっているのですが、確かに効用と労働との関係は分りにくくなっていますね。あの娘が好きだから恥を顧みずアプローチし財布を絞って彼女にご馳走をするということであれば、目的とやっている努力がすぐに結びつきますよね。たとえ、結果的に無駄な努力であったとしてもそれなりに理解できるわけです。けれども、今の社会では多くの人たちが給料をもらうために残業も厭わず仕事をするわけですが、その多くは組織維持のための労働で、人さまのお役に立つどころか、国民の税金を「搾取」し、挙句の果ては環境破壊というのもよくある話です。某特殊法人などはその手の典型ですね。

 ここでは「ポストモダン」なるものがテーマとなっていますが、実はこの言葉の中にも私は似たようなものを感じ取っています。正直、「ポストモダン」って何と聞かれれば答えに窮し、東さんか宮台さんにお聞きくださいというところなのですが、言葉はちょくちょく耳にしても、またその手の本を読んでみても、正体が分らないというのが本音です。取りあえず、「モダン」というと<主体――客体>の枠組みを前提に実証主義的に因果関係を詰めていくというイメージだけはあるのですが、これも単なる印象に過ぎません。「モダン」と一言でいってもいろいろな見方があるわけで、カントやヘーゲル、そしてマルクスも含めて、近代の名のある哲学者たちは「モダン」と格闘し、その行き過ぎを押さえようとして、妙にロマン的な方向に走ったりしていることもわけです。そんな知的営みも含めて「モダン」と一括され、「ポストモダン」といわれても私としては「ちょっと…」と言いたくなるところがあります。よく「西洋キリスト教文化は…」という文句で「西洋」と「東洋」とを十羽ひとからげで論じされることがありますが、だいたい「キリスト教」は東洋出身の宗教でもあったりするわけで、「東洋」もしくは「西洋」という言葉で括られるほど、事は単純ではないわけです。

 古い話になりますが、かつてマルクス主義が華やかかりし頃「弁証法」という言葉がよく聞かれました。何か「科学的」という冠をつけていたことも多かったのですが、実際ヘーゲルの論理学と格闘した私に言わせれば、未だ文学的表現の域を出ていないのではないかというのが正直のところです。このことについては三浦梅園資料館の開会行事の講演で取り上げさせていただいたのですが(「哲学に対する2つの偏見から」http://www.oct-net.ne.jp/~iwatanrk/tmTH.html参照)、何だかの言葉を口に出来れば知って得るつもりになるということもあるようです。かつては、このことが具体的な権力闘争と結びつきましたから、被害も甚大でした。

 正直、私としてはこの「弁証法」と同じ弱点が「モダン」/「ポストモダン」の議論にも見受けられるような気がしてなりません。「モダン焼」のように具体的に知覚し、食べて味わえるものであれば良いのですが、抽象的概念となればそうはいかないわけです。専門的な立場から言えば「その手のことはすでにカントの批判哲学や後期フッサールの思想において云々」と言えるところもありますが、それ以前に思想を論じるための古典的教養が下地にあるのかということが気になります。これはアニメについてもそうなのですが、最近のアニメの作り手は押井さんや宮崎さんなどの先輩たちの作品はよく見ていても、それ以前の古典的名画やその背景にある文学・芸術・思想・科学的知識などの広がりに欠けた気がしています。深い穴を掘るためには広く掘りはじめなくてはならないのですが、そうではない。実際は細い枝の先のようにその限界が見えているような気がしています。また、昔の話になりますが、かつて「弁証法」という言葉を口にしていた人たちの多くはマルクスによってかつての哲学者たちは乗り越えられたと信じ、それ以前の思想の古典などはほとんど読んでいなかったようです。それどころか「実践」に忙しく、ご本家のマルクス・エンゲルスの本もあまり読んでいなかったのではないでしょうか。

 ま、思想は苦手という人も多いでしょうし、実践から多くのことを学ぶというのも真実ですから、このこと事態は悪くは思っていないのですが、問題はその「実践」と言葉とが乖離してしまっていたことです。先の効用と労働ではないのですが、ここでは言葉が実践に生きる思想ではなく、実践を丸め込む『呪文』に化していた感があります。

 ところで、この手のアカデミズムにおける流行についてはこの実践がらみでどうも馴染めないところがあります。最初に触れたように私は現在、地域通貨の活動に関わっているのですが、聞くところによると東京では柄谷さんという人が「ナム」とか「Q」とかいう地域通貨をはじめたそうです。ところが、いつの間にか本人が終了宣言をしたようで「一体あれは何だったの?」という感じを持っています。地域通貨には結構『路地裏』の感覚が重要で、その意味では押井さんの立ち喰いの話などは結構参考になるのですね。アニメでも思想でも同じことなのですが、言葉(抽象的概念)を通じて鳥の視点を持ちつつも、常に路地裏を這いまわる犬の感覚を失ってはいけないわけです。

 私にしては珍しく取りとめのない話になりましたが、ひょっとしたらアニメキャラ同様、人は思想に「萌える」、つまり特定の何かに異常に魅力を感じ興奮してしまうことがあるのかもしれません。確かにこの「萌え」によってアニメ界では視聴者を、思想界では読者を獲得できるのかもしれませんが、アニメや思想を作る立場の人はそれに甘んじていてはいけないでしょう。「萌え」はきっかけ、その後その「萌え」をどう具体的にしていくかが問われるべきだと思います。ま、一般のアニメファンが人工的なキャラに萌えてそれからどうなるの……というところはありますが、その萌えの背景には何らかの現実があるわけで、いずれはその「萌え」は現実に反映されてくるのではないでしょうか。私の場合、「弁証法」に対する「萌え」はオートポイエーシスや複雑系の概念と結びつき、少しずつ思想として具体的な形を取りつつあります。

 

■清瀬

 奥田氏の「広告的プレゼンテーション文化」という指摘はそのとおりだと思いますね。そういうのと「萌え」文化みたいな現象はやっぱり関係しているんだと思います。

 で、ちょっと訂正があります。

 私は前の書き込みで東氏が「資本主義の発達でポストモダンの時代が到達した」というように論じているというふうに書きました。東氏の基本認識にはそういうことはあるだろうと思います。ただ、東氏は、そういう経済的背景は認めつつも、経済要因だけで説明するよりは、思想独自の流れとして「萌え」文化なんかへの流れを認識しようとしているみたいですね。これに対して、私は「そういうふうに話を持っていくんだったら、もっと単純に経済決定論的に議論できるんじゃないの?」という感想は持っています。

 岩田さんが「モダン」についてご指摘されている点は、じつは東氏の批評に対して私も感じている点です。つまり、「近代」とされる時代に生きた人間たちのすべてが、その生まれてから死ぬまでのすべての局面について、「近代」的な枠組みですっきり説明できるような行動をとってきたわけじゃないですよね。

 前に取り上げた問題で、「ポストモダン」の人間が「オタク」行動をするかわりに、その前の「近代」の人間は政治運動をやっていた、というような図式を立てたとしても、じつは、「国会前がデモ隊で溢れかえっていても、後楽園球場も満員だった」と言われるように、みんながみんな政治運動をしていたわけじゃない。政治運動に参加していた人たちでも、ファッション感覚で、とか、ただ周囲に流されて、とかいう事情で参加していた人も多いと思う。

 東氏の「オタク」批評は、現在の「オタク」についてはできるだけ現状に即して分析しようとしている姿勢が目立つのに、「ポストモダン」時代の前についてはちょっと図式的すぎる気がします。

 地域通貨の実践のご経験からの発言も参考になりますね。ちなみに、東氏の柄谷行人への批判は『動物化する世界の中で』の最初に出てきます。私はこっちの本はあんまりまともに読んでいないのですけど。

 

■雨読

 さきほど出た「シュミラークル」という言葉についてですが、SF作家のフィリップ・K・ディックが、よく好んで使った言葉に「シミュラクラ」 simulacra というのがあります。この作家の場合は、本物と見分けのつかない偽者(シミュラクラ)の不安というのが、作品のテーマやキーワードになってます。

 映画『ブレードランナー』や原作の『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』で言いますと人間界に逃げ込んだアンドロイドが、シミュラクラです。

 この作家の場合、単なる二元論ではなくて、フェイクのような人間と感情豊かなシミュラクラなどが出てきて、何が本物で何が偽者か最終的にはわからなくなるという展開になります。いや、いまいるこの世界までが、虚構の中なのではないかというところまで小説は突き進んでしまいます。

 というわけで、いつもストーリーが破綻していると評されていましたが、私はこの現実感が虚構に突き崩されるという感じが好きで愛読してました。飛躍した喩えになるかもしれませんが、人間ではなく二次元や3Dのキャラクターに萌えるというのも、ディック的イメージではないのでしょうか。

 で、フィリップ・K・ディックと「シミュラクラ」についてですが、東氏が、ディックのガイドブックである『フィリップ・K・ディック・リポート』(早川文庫)に評論を書いています(「神はどこにいるのか : 断章」)。「筆者なりの表現を使えば、ディックは、近代の狂気とポストモダンの狂気、精神病と人格障害、全体化と断片化、物語とデータベースのあいだで苦闘した作家ということになる」と書いています。これは、「動物化するポストモダン」のキーワードと共通のものがあります。

 シミュラクラについては、こうのべている箇所があります。「ディックが描く作品世界は、オリジナルかコピーか判断のつかないシミュラークル(シミュラクラ)、現実的な基盤を欠いたまま流通する空虚な記号に満ちている」

 『動物化するポストモダン』の第一章で、『メガゾーン23』や『セイバーマリオネットJ』という作品を取り上げています。筆者は、虚構や仮想現実を扱った作品に特に注目しています。要約すると、オタクというのは現実とは違う虚構性にリアルさを感じるということでしょうか。そして、萌えというのは、約分すれば、現実の女性より、虚構性のキャラクターにリアルさを感じることなのだろうか。そういう風に思われるのは、東氏が大塚氏の「アニメ・まんが的リアリズム」という概念を挙げている(八一ページ)からですが。

 どこを切っても金太郎じゃないですが、オリジナルかコピーか判断のつかないシミュラークル(シミュラクラ)の概念ばかり気になってきました。これこそがポストモダンというのでしょうか。なにやら書いていて迷路にはまった感じですが……。

 

■清瀬

 なかなか興味深いご指摘ですね。私はSFの素養がほとんどないので、東氏の評価が正しいのかどうかはわからないところはありますけど。

 東氏の図式をまとめると、

 近代の狂気:     精神病  ―― 全体化 ―― 物語

 ポストモダンの狂気: 人格障害 ―― 断片化 ―― データベース

ということになるんでしょうか。

 精神病というと、最近、木村敏さんの『時間と自己』(中公新書)って本を読んだんですよ。離人症、精神分裂病(統合失調症)、鬱病、てんかんなどの精神病がどういう特徴的な時間感覚とかかわっているのかを論じた本で、難しいんですけど、けっこうおもしろかったですね。けっきょく「近代」社会で持たなければならない時間感覚と、そうでない時間感覚とのズレが、こういった精神病を引き起こしているって話で。で、そのことと考え合わせると、「ポストモダン」では当然に「近代」とは時間感覚が変わるって話になるのだろうから、「狂気」のあり方も変わってくるって話になるんですかねぇ、東氏の議論を突きつめていくと。そういう方向も考えるとおもしろいっすね。

 東氏の「シュミラークル」概念については、「オタク」と東氏が考える人たちが「虚構性によりリアルさを感じる」ということに関係があるんだろうと思いますが、同時に、東氏は、その人たちが「何が現実であり、何が虚構であるかを区別することにあまり意味を見出さない」ということにも注目しているみたいですね。だから、現実世界に存在するオリジナルと、そのオリジナルをもとに作り上げた虚構性の大きいコピーとの区別もあいまいになる。だから、「ポストモダン」の世界は、オリジナルとコピーの区別のない「似たようなもの」=シュミラークルの大群が支配することになるってことなんだろうと私は解しています。

 ところで、東氏は、「ポストモダン」の時代になると、人間は「スノビズム」化するか「動物」化するかしかないという説を紹介したあとで、オタクは「動物」化した「ポストモダン」人だという類型で話を進めています。

 で、「動物」というのは、環境にただ順応し反応するだけの存在で、「萌え」というのはまさにその「動物」現象であるというのが東氏の解釈です。

 これに対して、「スノビズム」というのは、環境に対して、攻撃したり反対したりする必要がまったくないのに、わざと対立相手を見つけ出して攻撃したり反対したりして見せる行動様式だというのが東氏の整理です。

 で、奥田氏の議論をずっと読んできた身としては、奥田氏の観る「オタク」はむしろこの「スノビズム」型の行動様式をとる人びとではないかという気がするんですけど。

 このへんどうですかねぇ?

 

■奥田

 私の考えている「オタク」という種類の人びとは、「オタク」という名辞が成立した当初の意味であり、それは「自己の能力や所有物等の誇示」という顕著な性行を特徴としています。ここでいう「スノッブ」(スノビズム的な人?)にきわめて近いものと思います。

 一方、一般的に広義の「オタク」と言われる人のうち、機械的な嗜好パターンをとるように見られている人という、「萌え人」とでも称するべき人びとは、動物というより昆虫的という気もします。「動物的」という概念はヘーゲルの頃のものだそうですが、デカルトなどの記述にも見られるように、この当時、動物は単純な機械的行動をとる存在だと思われていました。しかし事実はそうでなく、私は「デカルトは犬とか飼ったことなかったんかねえ」と思ったものです。

 ある販売戦略に、機械的・統計的に反応するという状況を責めるのなら、より機械的な「昆虫的」という概念の方が実情を正しく表しています。この表現は、私は喫煙害問題における喫煙者の性行を描写する際にしばしば使います。

 ただし、ある販売戦略に「昆虫的」に反応するという性行は、観察母体を非常に大きくすれば、多かれ少なかれ、どんな集団にもどんなジャンルにも現れてくる現象だと思います。まあ、そういってしまっては議論にならないのでしょうが。

 「萌え人」と「オタク」(スノッブ)とは、別の概念(当然その特徴は特定の個体で重複したりもします)として考えなくてはならないのでは、と思いますがどうでしょうか。

 

■まつもと

 清瀬氏の話にひきつけて言うと、近代の狂気が物語からの逸脱している者を制度の維持のためにそう名付けて隔離するようになったとすれば、まさに今現代の狂気として断片化だのデータベース化だの言われているのは、これまた現代の物語の維持のために「発明」された考えれば、現代の物語を逆照射するものであっても、それ自体は相対化されなければならないのでしょうが、東氏にはその視点はあるのでしょうか?

 で、その現代の物語とは(東氏含めそんな大きな物語はなくなったと信じてはいますが)理性と科学信仰に他ならないと思うのですが。

 そんなものはとっくに無くなったと信仰しているヒトとか、科学は信仰や宗教じゃないと言うヒトはやはり信者なのでしょうけどね。

 で、何が言いたいかというと、オタクだの萌えだのはその様な「「物語」に関する物語」というメタ物語からはみ出す存在で、それを断片化だデータベース化と狂気として隔離して、新たな心的構造の存在に恐怖しているんではないかと。

 それからシュミラークルは多分ボードリヤールだかが言い出したんでしたっけ? この分類自体も、シュミラークルの時代の前にはオリジナルとコピーがあったという形而上学的ユートピア思想の尻尾だと私は理解してるんで。はじめからオリジナルもコピーも無いと言うのが簡潔ではないかと。オリジナルは「実体」と同じく権利的には存在し得ても、所詮我々には到達できないイデアではないかと。

 奥田氏の「昆虫化」について。まさにそれが当を得た表現ですよね。で、私も昆虫化がオタクや萌え人に特有の行動パターンだと言うのはヘンだと思っています。それは単に現代における(一見)脱物語化している人たちに対する嫌悪をオタクに投影したフィクションではないかと思っています。昆虫化はDQN化といえないかとも思っているのですが。もしくはポストモダンというコトバにかこつけたオタクの英雄視のネガではないかと。

 オタクが現実の女性より、虚構性のキャラクターにリアルさを感じること、というように東氏の意見を集約されましたが、確かにそう言いたげで、実際に彼の盟友である?斎藤環氏も同様のことを『戦闘美少女の精神分析』で言っています。ただこれは前々回のWWFの原稿に私が書いたように、単なるオタクに対する印象だけを語ったものではないかと思うのですが。

 一般人も恋愛時の女性の理想化とか、アイドルへの傾倒とか、「現実の女性」に対する感情ではないですよね。って言うかヒトのオトコはオスではないので、女性に動物的に本能に従ってエレガントに接することなど不可能で、いちいち対幻想とかをを創らなければ接することすら出来ないというのが精神分析の帰結だと思うのですが。萌えはそれに対する諦念の上に成立する新たな感情の形式ではないかと私は勘ぐっています。

 でも、以上の私のカキコが東氏への批判ばかりになっていて大変申し訳ないってゆーか、彼のスタンスはマジで立派だとは思います。

 実際に私たちのようにシュミじゃなくて本業としてオタクだの萌えだのに言及しなきゃなんないわけですから。だからこそにはなるわけですが、その学問的なレベルというか整合性についてはキビシク言われてしますんでしょうが、では私たちの意見はどうなんだ、実はこうなんだ、ということが今回の萌え本で色々ブレーンストーミングされればイイナ、とは考えております。

■清瀬

 私も同様で、東氏のお仕事は前向きに評価したいな〜というのが基本的なスタンスです。

 けっこう批判的なことも書いてますけど、外部の論理で決めつけるのではなく、東氏のいう「オタク」の論理から「データベース消費」とかの概念に到達しているわけで、これは研究する姿勢としてはほんとに立派なものなんじゃないかと。

 「オタク」についても、「近代/ポストモダン」についても、私はけっこう見かたは違うと思うんですけど、東氏の方法自体については評価している、というか、私自身も模範にしたい部分があるな〜と思っているわけで。

 

2003/08

 


WWFNo.26のページへ戻る