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空談寸評特別篇

 

押井作品いろいろ



『攻殻機動隊』


劇場版アニメ/1995



へーげる奥田


 押井守が嫌いな人びとは多い。インターネットのサイトで、『攻殻機動隊』の悪口のページを見たことがある。主旨としては、なんでも士郎正宗の原作はサービス精神にあふれた作品なのに押井守のアニメはサービス精神がなくてダメだという。どうやら長いセリフで「難解」なことを述べるのがいたく気に入らないらしい。長いセリフでいろいろな蘊蓄を語ることにおいては士郎正宗もじゅうぶんにその特徴を持っていると思うのだが、とにかく「押井守憎し」のこのひとにとってはそんなことはどうでもいいようだ。

 いろいろな人にインタビューしてみると、やはりこの長ゼリフで「難解なこと」を語るシーンが耐えられないというケースが多い。われわれシンパにとってはそこが魅力であり、積極的に耳を傾けるシーンなのだが、多くのひとびとにとってはそれは「耐えるもの」であるらしい。

 少し前、脳科学の実験で人が活動するにあたって脳のどの部分がどれくらい働いてるかを動的にモニターするというのがあった。それによると、人間は何かを積極的に行う場合よりも、何かを我慢する場合や何かに耐える場合のほうが、脳の前頭葉を激しく働かせる必要があるという。押井作品の長ゼリフを「耐えるべきもの」として認識しているひとにとっては、それは本や漫画の文章のように主体的に読み飛ばすとこのできない、苦痛への忍従を強いる性質のものにほかならないのだろう。

 たしかに、原作をある程度忠実になぞりつつ構成してはいながら、士郎正宗版『攻殻機動隊』とは雰囲気がだいぶん異なる。もっとくだけたキャラクターだった素子はかなり堅い人物になってしまい、おそらくはそれもまた押井守がきらいな人びとの怒りの琴線にふれたことだろう。ただこれは押井守の演出ポリシーうんぬんという以前に、「劇場版」であるという要素が多分に影響していると思われる。もしこれがTVシリーズであったらキャラクターの雰囲気はまた違ったものとなっていたはずだ。

 さておき、この『攻殻機動隊』は、少なくとも私見においては従来の押井作品とはやや毛色の違った作品だ。むろん原作の再現と映画作品としての構成を優先し、押井守シンパでもなんでもない人びとにもきちんと対応するような作りにするための努力が見られるという部分は差し引いての話である。

 先の『パトレイバー劇場版2』で、押井作品のエピステーメーが「表象」から「人間」へとシフトしたのではないかと書いたが、この『攻殻機動隊』ではその傾向がより一層顕著だ。たしかに、世界と人間や認識の問題に触れてはいるのだが、従来のような構造論といった論点から、やはり主体たる人間へとその描写の中心点がシフトしているような印象を受ける。

 押井作品において、「記憶」はずっと以前から重要なアイテムとして語られてきた。あるときは郷愁をさそう小道具として、あるときは認識論的切断の異化効果を意図したギミックとしてそれは使われてきたが、この『攻殻機動隊』においては、「記憶」を人間の基本的な構成要素として重要視している。

 世界や構造の問題を分析的・還元的な方向からアプローチし、「開示」という方法をもって語るのは押井作品の常套なのだが、ここで問題なのは、還元の対象が「人間」に向かったという部分である。まあ、たまたま素材としての『攻殻機動隊』がそういう側面をもった作品であるという事情が主因なのだとは思うのではあるが。しかしそもそも、この『攻殻機動隊』をかくのごとき作品にしつらえるといった技は、究極のブリコラージュ師たる押井監督にしかできまい。

 押井作品がこれからどういった傾向に行くのかはなかなか予測することが難しい。しかし最近の押井監督の「勢い」を見るにつけ、その戦闘意欲は変わらず旺盛であるように見える。たぶん、まだまだ心配は無用だ。とりあえずは『人狼』がはやく見たいし、『G・R・M』も一応まだ完全に消えていないと聞く。シンパとしては当然以降の活躍にも大いに期待するものである。うむ。




1999/12
 

 


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