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空談寸評特別篇

 

押井作品いろいろ



『機動警察パトレイバー2』


劇場版アニメ/1993



へーげる奥田


 実は、いま過去の自分の文章をいろいろ見てみたのだが、この作品に対する言及はたぶんこれが初めてである。なぜなのか自分でもよくわからないし、おそらくは「たまたま」というところなのだろう。だが、せいいっぱい自虐的な見方をすると、たしかにこの作品は従来の押井作品群とやや「毛色が違う」といった感覚があり、そのためかいままで自分が依拠していた方法では容易にとらえることができないような気がしたせいではなかろうか。そのため、自分では意識せぬままこの作品に言及するのをためらうような気分が自分の中にあったのかもしれない。

 他人の書いた批評のたぐいもいくつか読んだが、感心するような評論はほとんど見ることはなかった。せいぜい、湾岸戦争においてよく指摘された「戦争の非現実化」の問題がどうしたとか、その程度のたいへんストレートな見方を提示しただけのものばかりである。たしかに、この作品中に述べられた状況はその後多く実際に起こった。オウムによるサリンの散布、東海大地震による都市建築物の瓦解、そういえば荒川の逮捕容疑は「破壊活動防止法」であった。公開同時、これらのどれひとつをとっても、「フィクションの中の出来事」にしかすぎなかった。自分のこと気づかないものだが、おそらく今のわれわれと当時のわれわれでは世界に対する認識は相当に変化している。

 こういうおいしすぎるネタをいくつも出されては、どうしても目はそちらに向く。これについて語るとき、話題はそういった方向に向きがちという要素はたしかにある。ただ、そういった状況を差し引いても、おそらくこの『パトレイバー劇場版2』という作品は、論じるにおいて非常にむずかしい作品なのかもしれない。

 そこにあって、野田真外氏の『親愛なる押井守様。』は、ほとんど唯一の「感心した『パトレイバー劇場版2』評」であった。「他者」と「外部」の物語をもって為した語りは、なぜ従来の方法ではこの作品以降の押井作品を語ることが非常に困難なのかをかなり明快に説明している。これは、押井学(なんてものがあるかどうか知らないが、世には「ドラえもん学」などというふざけたものが実在するそうであるからこちらも勝手に名乗る)的見地から重要な一歩であるといえよう。

 しかしそれは、押井守シンパにとってはある意味においてやや悲しい「解釈」の提示であった。そこで、ここでは我流の解釈を試みてみたい。

 この『パトレイバー劇場版2』は、やはり押井作品群中にあってひとつの転換点となった作品なのではなかろうか。世界の意味や実存に言及した「存在論的系列」の作品群から、さまざまな物語論を展開した「構造論的系列」の作品群に移行した時ほどはっきりと見て取れる変化ではないかもしれないが。

 先に述べた「エピステーメー」に則して言えば、『パトレイバー劇場版2』は「表象」というエピステーメーの総括であり、次のエピステーメーへとシフトするはざまの場なのかもしれない。そう思う根拠たるやはなはだ薄弱なものがあるのだが、それまでは人間と世界との現実的通路としてのシステムである「表象」という点に強く言及していた押井作品が、この作品において「表象をもって世界を観る者の主体」へとその描写を移しつつあるように思えるためだ。

 言葉と物との関係が切り離され、それぞれが別個に等価の秩序を形成していくという認識論的変化が起こった16世紀のヨーロッパと同じような状況が、現代の世界でも起こっている。さまざまな分野における情報化によって、「表象」は独自の世界を形成し、そして人の心は「表象の世界」に住まう。だが同時に身体的レベルでの人間は「物」としての世界に在り続け、喰い、行為し、感覚する。「物の世界」にいた柘植はこの「表象」の世界に住まう「心だけになった人びと」に、忘れられた身体の存在を気づかせたかったのかもしれない。それだけを言うなら「そういう物語」にすぎないストーリーだが、押井作品がいままで取り組んできたライトモチーフをふまえてみればそれは興味深い変化といってよいだろう。

 フーコーが提示した次のエピステーメーは「人間」であったが、形こそ違え、押井作品の次のエピステーメーも「人間」という方向に進展していくのかもしれない。





1999/12
 

 


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