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空談寸評特別篇

 

押井作品いろいろ



『トーキングヘッド』


実写映画/1991



へーげる奥田


 なんでも、《ポストモダン》とか《脱構築》とかいった《現代思想用語》をネタにいろいろ語ることを得意とする連中というのが、だいたい25歳ぐらいを境とする世代の一部にいるという。1〜2年ぐらい前だろうか、インターネット上のどこかのページで読んだ記憶がある。それからすると「その手の連中」は現在だいたい26〜27歳ぐらいだろうか。たしかに、ごくまれにではあるがそういった書き手を何度か見たような記憶もある。

 私が学生だったころ、「ニューアカデミズムブーム」というのがあって、誰もかれも『構造と力』とかを読み、ソシュール曰くとかドゥルーズ/ガタリがどうのとか言い、記号論とか言語学に言及していないものは学問にあらず、などといった雰囲気があった。現在30歳そこそこの奴らは、その当時小中学校ぐらいだったろうから、いまネット上にいるのはそのへんにかぶれた世代ではなくいわば「第二世代」ぐらいなのかもしれない。

 どうも《ポストモダン》とか《ポスト構造主義》とかその手の用語が好みでない。まあ好き嫌いを言っても意味がないのだが、当時私は何だか意地になって《近代》ばかり読んでいた。早い話よくわからなかったのだろう。

 今でも、《ポストモダン》などといった、《現代思想》というものが、人類にとっていったいどういう形で役に立つのかもうひとつよくわからない。ただ、この『トーキングヘッド』を《了解》するための役にはあるていど立つのかもしれない。……どうもこの《 》は疲れるな。

 おそらく、この『トーキングヘッド』は、「押井守の実写映画はわけわからん」とか「押井守は原作モノだけ作っとれ」とか言われる原因の最右翼にいる作品であろう。『うる星やつら』時代のメガネを思わせる「私」の饒舌は、よくまああれだけのセリフを憶えられたものだと感心する押井守の脚本とあいまって、「論文映画」のイメージを強固なものとしている。

 セリフの内容自体はそれほど難解ということはない。現代思想とかの考え方や用語をある程度知っていれば、それほど理解に苦労する話ではない。

 問題は、この作品の楽しみ方だ。

 個人的な好き嫌いを言わせて貰えば、実はわりと好きな作品である。「論」の内容とかうんぬんではなく、こういう暗くて幻想的というかメチャメチャというか、こういう雰囲気が大好きなのである。

 だから好き嫌いを言ったって意味ないって。

 押井作品に幾度となく語られてきた「虚構論」、それは世界認識の形式である「表象」や「物語」への言及である。人間は表象という構造をもって世界に触れ、物語という意味づけによって世界を読む。これに対する言及はある意味で一種の自己言及だ。これが異化効果を生む。

 押井作品のうちこうした「表象」のカテゴリーの作品は、あるときは作品の「形式」をもって語り、またあるときは作品の内容の「意味」からこれを語る。前者の典型は『パトレイバー劇場版1』であろうし、後者では『御先祖様万々歳!』が典型だろう。この『トーキングヘッド』は、最も単刀直入にこれを語り、また映画を制作してゆくプロセスの映画として映画を語るという形式においてこの知的構造を語っている「形式論理学的作品」としての側面も顕著だ。いわば「意味」と「構造」の両面から表象のエピステーメーについて語っているのだが、語りすぎだっつーの。

 この作品を見て喜んでいるのはたぶん押井守シンパの中でもかなり右翼に属する理論武装派の一部か、相当な熱狂的原理主義者だけではあるまいか。私は――まあ単なる変わり者であろう。いいじゃないですか。好きなんだから。




1999/12



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