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空談寸評特別篇

 

押井作品いろいろ

 

 

『天使のたまご』

 

オリジナルビデオアニメ/1985

 



へーげる奥田



 この作品が公開された当時、よく酒を飲んでは小難しいことを議論してた友人「うしみつ君」がまず感想を述べていたのを今でもよく覚えている。うしみつ君は私に『とどのつまり…』の本を寄贈してくれた人で、東洋哲学を得意とする論客だった。

 「あれは夜の話なのだ」と彼は言った。日が沈んでから日が昇るまでの話で、水没する都市とか、あとなんかキリスト教的なイメージの話だった、というような内容だった。いまでこそ押井守といえば聖書からの引用などキリスト教的なモチーフを多用することで有名だが、当時はまだ「うる星やつらの押井守」という感覚であって、それがキリスト教的なイメージの作品というのはどんなものだと気になったのを覚えている。

 そういえば、たしかこのころ私はカントあたりをよく読んでいたのだが、全体的にはフィヒテとかD・ヒュームとかショーペンハウエルとか、「この世界は人間の感覚の産物だ」といった系統の哲学に心酔している時期だった。この点からも『天使のたまご』は非常に座り心地のよい作品だった。また一方、時代は「ニュー・アカデミズム」全盛の頃で、右も左も「記号論」とか「ポスト構造主義」ばかりであった。私はどうもそういった流れが気に入らなかったのだが、そんな中で唯一読む気になったのがM・フーコーであった。やはり、関係するあらゆる文献に述べられたことはないのだが、『言葉と物』などにかぶれた目には、この『天使のたまご』の中にフーコーの「考古学」の雰囲気が非常に強く感じられたものだ。方舟の回廊は知の考古学に説かれるエピステーメーの移りゆきを思わせ、ラストシーンは砂浜の相貌のごとく消え去る「人間」というフーコーの不気味な予言を感じさせた。

 以前書いた拙文においては『天使のたまご』を、フーコー言うところの16世紀的エピステーメーである「類似」の作品ではないかと述べた。いま観てみてもなんとはなしにそういった印象を得る。いや、フーコーのいうエピステーメーの変転を、押井作品群の傾向にあてはめると意外にしっくりと感じるのだ。根拠は、何もない。責任は、持たないネ。

 キリスト教はまた、現代を魚の溶ける時代と説いたという。人の受け売りで裏をとっていないので確証はないが、キリスト死後、時代は魚座の支配となり、二千年の周期で次の星座が支配を受け継ぐ。現代はちょうど魚座から水瓶座へと支配が移る時代なのだそうだ。作中そこかしこに現れる水の入った瓶、静かにふりしきる雨―そういえば、古代ローマにおいては、太陽が水瓶座を通る時(2月下旬)が雨季に相当するとされたそうである。これは広辞苑に書いてあったからたしかだ。

 一部ではやたら眠くなるとか退屈きわまりないとかいった悪口をよく聞いたが、こういった観点で観ていたせいかそんな感想をいだくことはなかった。そう、思想史とかをやっている人間が観ると、むしろけっこうエキサイティングですらあるのだ。個人的には、押井作品全体でベストを決めるとしたらこの作品を候補ナンバー1にあげるであろう。もっとも、ずっと後で行われた押井作品オールナイト上映会では『天使のたまご』のときに何度か眠りこんだという証言を複数の友人から得たが、あれは単に深夜で眠かっただけで、べつだん当作品のせいではない。

 このころだったと思うが、雑誌「アニメージュ」で、押井守と故・光瀬龍との対談を企画していた。いまでも捜せばその小冊子は自宅のどこかにあるはずである。この対談の中で光瀬龍は、やはり実存哲学についてふれていた。私の立場からみるとむしろ意外だが、『天使のたまご』に関するコメントとして実存哲学に触れたのは光瀬龍氏だけである。いや、たぶん他人の書いた評論を読むのが嫌いな私の単なる不勉強だとは思うのだが。

 ちなみにこの当時、当WWFは「ナンバー5」を編集していた。「アニメ等に内在する哲学的部分の追求」を標榜していたWWFの興味が押井作品に移りつつあった時代である。この『天使のたまご』については従って、何度となく評論を画策し、そのたびに潰えた思い出がある。当時はやはり、「押井守が自分にだけわかる暗号で作品中にメッセージを隠したのだ」的な思いこみが強かったらしい。まあ、こうした思いこみも作品を追求する求心力の源として有効だとは思うのだが、ほどほどが肝心だ。

 高校の時の後輩(女性)の、「単純に絵がきれいだから好きなんですけど」という感想を聞いて、なるほどといやに感心したものである。

 しかし、今ならもっと完成度の高い評論が書けるかと問われれば……やっぱり考えてしまうな。うん。

 

1999/12


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