空談寸評特別篇
押井作品いろいろ
『とどのつまり…』
コミックス原作/1984
通常版の『空談寸評』でも書いたが、同人誌用の書き下ろしということでここにも書くのだ。
見ればわかるが、『ビューティフル・ドリーマー』とほぼ同時期に連載開始となったコミックスだ。実のところ、「アニメージュ」連載当時にはぜんぜん読んだことがなかった。私がその手の雑誌を読むようになったのはもう少し後の話である。
当時身の回りにはその手の趣味の者がややいたもので、「これって哲学的じゃない?」といった趣でわざわざ連載誌のバックナンバーを持ち寄って見せてくれたり、ついにはワイド版コミックスを寄贈してくれる友人すらいた。持つべきものは友である。ひと昔前だったらこの手のマイナーなコミックスを再入手するためには、私立探偵よろしく古本屋の捜査を行わなければならないのだが、幸運にも最近インターネット上でデータ形式での販売が開始された。まあ、どうもこの企業の販売方式はひどく面倒くさくて購入する気があまり起きないのだが、ないよりはよほどマシである。どんどんこういった形でマイナーな作品も公開してほしいものだ。
さておき。
数ある押井守作品のうち、ハイデッガーないしはサルトルあたりの実存主義的傾向がもっとも強いのが、この『とどのつまり…』だ。正直に読むと、やはり「それ以外の見方」ができなくなってきそうなほどである。まあ、別の見方をする人にとっては、テレビシリーズ『うる星やつら』の武装思想犯風のノリがものの見事に炸裂しているあたりが見どころなのではないかと思うのだが。
ひとつ指摘すると、のちの押井作品によくみられるようになった、「ある物語をモチーフとする物語」という構成も、この『とどのつまり…』が「はしり」ではないかとも思う。この作品ではルイス・キャロルのアリスシリーズをモチーフとしているが、この手法はのちのちまで押井作品に現れることとなる。
「物語」の世界に時間をあたえ、「進展」をもたらすのは多くの場合主人公の「動機」だ。少なくとも、物語を作る立場になってみればそれは不可避の選択肢として、必須の方法としてあらわれるはずだ。しかしてこの物語の主人公は「動機」をもっているのか? 実は持っているのだが、なんともこの主人公、一切のプロフィールが白紙というやな設定なのだ。確かにこのへん実存哲学の香り漂う風情なのだが、押井作品全体に現れる物語論についてのひとつの原型が伺える。いまとなっては少々説教くさい観が否めないが、まあいいってことよ。押井守だし。
なんてな見方もいいのだが、作品全体に見え隠れするあの暗澹とした空気が好きだ。世界全体が揺るぎ、夢なんだか現実なんだか不確実な、雨降る夜に風呂上がりのソーメン喰ってる自分自身の存在を疑うような感覚。大学時代の頃たしかにそういった感覚が現実だった時期があった。こういった感覚は誰もが一生のある時期に必ず覚えるものなのだろうか? それとも哲学に傾倒するといったひずんだ時期を持つ者だけの病的な感覚なのか?
ともかく、私にとってはそういった感覚を懐かしく思い出す一作なのである。
1999/12