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空談寸評特別篇

 

押井作品いろいろ

 

 

『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』

 

劇場用アニメ/1984

 



へーげる奥田



 押井作品のファンの言を見ても、この『ビューティフル・ドリーマー』によって押井守ファンになったというケースは多いようだ。実のところ、結果的には私自身もこの作品で「押井守」という監督の存在に着目することとなった。

 ただ、私の場合は若干状況が違った。私はむしろ、この作品に関する一本の評論によって押井守という監督を知り、その魅力を知ったのだった。1985年12月、登坂正男氏によって発表された『ゲーデル・エッシャー・バッハ・BD』である。登坂氏の得意とする構造主義的分析を試みたこの評論は、確かに多くの方面に影響を与え、また押井守作品の解釈方法にひとつのエポックをもたらしたと言っても決して過言ではない。

 実際この作品は、初期の押井作品の魅力のエッセンスが存分に込められた名作だ。私の目から見るとそれはハイデッガー流の現象学‐実存哲学系の色がきわめて強く見えた。むしろ、それ以外の見方をする余地はないように思えた。

 たしかに、押井監督自身のいろいろなコメントなどを見ても、ふしぎとハイデッガーなどの実存主義系の思想系譜についてふれている部分はほとんどまったくない。しかしこの頃制作された他の作品(『とどのつまり…』や『天使のたまご』など)を見ても、かなり直截的な形で実存哲学を想起させるような要素が随所にみられ、自分の見方はまず間違いないもののような確信をもったものだった。

 こういう思いこみは、(殊に若い頃は)よくあるものだ。ご多分にもれず私もその轍を踏んだと言えよう。すなわち、押井監督は何か思想的なメッセージを作品に込めていて、その「暗号」を自分だけが読みとっているのだとかいう一種オカルトじみた思いこみである。もっとも押井守作品に関しては、「そういう楽しみ方」もアリだとは思うのだが、あくまでもこれは「娯楽作品」であり、観て楽しむことを主たる機能として期待されたパッケージソフトであるという事実を忘れるべきではない。

 とはいえ、この『ビューティフル・ドリーマー』によって得られる知的興奮には非常に魅惑的なものがある。これもまたひとつの「娯楽」の形と考えてよいと思う。なによりこの作品は、のちの押井作品全体を特徴づけ、またこれによって世に押井守ありという大きなアピールとなったことは特筆するべきことだろう。

 物語は、一話完結形式のテレビシリーズアニメであった『うる星やつら』の、その形式自体を逆手に取って言及対象とした一種の自己言及的構造を特徴とするものだ。いつものドタバタとたかをくくっている視聴者の感覚に、一種の「懐疑」と「驚異」の念を想起させてゆくその「持って行き方」は見事というほかない。このあたりに、『存在と時間』あたりのハイデッガー的な世界概念の描写が一種の手法として使われているという確信はいまもって捨てていないが、べつだんそれが「押井守の言いたかったこと」では決してない。「存在」に目を向け、「世界」の意味を考え、物語の根底に立ち戻って得られる根元的な感覚、その異化効果もまた「おもしろさ」を演出する手法なのである。

 きわめて多角的に評価できる作品ゆえに、観る人の押井作品に対するスタンスをはかるにふさわしい作品だ。反面、「おまえらにはわからないだろう」というたぐいの妙な特権意識を観る者に持たせることとなった作品でもある。不幸なことに、「押井守シンパ」がしばしばアニメ界全体から何となく異端視され、ときに嫌われる傾向をもつという状況の遠因はこういうところにあるのかもしれない。

 蛇足的につけくわえるが、この作品を観る際、部屋を暗くし、モニタの照度をしぼって再生したものだ。押井作品の多くは「夜」を舞台に展開する。そこにあって、暗い部屋に浮かび上がる映像はその異化効果をきわだたせるものがあった。自宅で何人かの友人とともにディスクを上映したとき「おれはこんな目が疲れる見方はしないんだけどなあ」などとぶつぶつ言っていた友人が、暗闇に浮かび上がる夜の描写の美しさに息をのむ気配を感じ、ひそかにほくそ笑んだ。さらにどうでもよいことだが、この当時私の手元にあったソフトは「VHD」という今や誰も知ることのないビデオディスクシステムのものであった。結局レーザーディスクで買い直す羽目になったのだが、そろそろDVDで買い直すことになりそうである。

 

1999/12


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