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短評


柊あおい『星の瞳のシルエット』に寄せて





清瀬 六朗





 ひとはいったいなぜ天体観測なんかしようとするのだろう?


 中世の雰囲気は幸福だったのかも知れない。

 ヨーロッパ中世には、天上は地上とはまったくちがった世界だと考えられていた。

 天上は完全であり、地上は不完全である。

 地上のものは、人間を含めて、生成と消滅とをくりかえす運命から逃れることはできない。だが、天上のものは、生成することも、消滅することもなく、永遠である。

 地上のものは、火・土・風・水の四元素のあいだで生成消滅をくりかえし、しかも、火と風は上に、土と水は下に、それぞれの「あるべき場所」を求めて直線的に運動する。だが、天上では、いまある姿のまま、天球は天球の軌道で、太陽は太陽の軌道で、惑星は惑星の軌道で、永遠の円運動をつづける。天上には澄みとおった第五の元素があり、これは地上の四元素のような運動とは縁がない。

 地球は球体ではあるが、その表面は凹凸に覆われていて、とても完全ではない。しかし、天体は、きれいに研磨されたような完全な球体であり、それゆえにまぶしく輝いている。地球は月のような近くの天体にすら光を届けることができないが、月は地球の夜を明るくするほどの光を地球に届ける。

 地上世界は不完全で、天上世界は完全である。しかも、地上の天上に対する不完全さは絶対的なものである。地上世界が努力して不完全さを克服すれば、天上世界の完全さに近づける――そんな生やさしい不完全さではないのだ。地上世界はどのように努力しても天上の完全な世界に近づくことはできない。

 地上世界の人間にできることは、その天上世界の光をただ受けて、天上世界の完全さにあこがれて生きることだけなのだ。

 そうだと知りながら、どうして人間は天を観測してきたのだろうか?


 人間は最初から永遠不滅の世界に住んではいない。

 だが、聖書には、人間は最初は楽園に住んでいたと書いてあるではないか?

 人間は最初から永遠不滅の世界には住んでいない。しかし、人間は最初はそのことを知らない。

 あるとき、とつぜん、自分が住んでいる地上世界が生成と消滅を繰り返す不完全な世界だと気づく。そして、そのときになって、その気づいた瞬間より前の世界は永遠で完全な世界だったかのように思い出そうとする。そう気づく瞬間より前には、地上世界は、事実として天上世界と同じように永遠で完全だったとでもいうように。

 そして、天上世界を観測することで、すこしでもそれまでと同じ世界を取り戻そうとする。

 過去はもう見ることはできないが、天上世界ならば観測することができるから。

 天上世界のかけらでも手にすることができればそれは奇跡だけれど、完全な天上世界をただ観測することならば、奇跡でなくてもだれにだってできるから。

 人間は、天上世界を観測しても、かつてあった楽園を――完全な世界を取り戻すことなどできるはずはないと知っている。

 望みなんかないってことを知っている。

 でも、それを知っていなければ、あこがれはあこがれとは言えない。夢は夢とは言えない。


 中世の雰囲気を壊したのは何だったのだろうか?

 望遠鏡である。

 望遠鏡は、手の届かぬものだった天上世界の星を、手の届くものにしてしまった。それまでは天上世界をあこがれて見るだけだったのに、せめて天上世界のかけらを分かち持つ奇跡を手にすることができるだけだったのに、望遠鏡は天上世界と地上世界を直接につなげてしまった。

 あとから考えれば、べつに望遠鏡そのものは必要なかったのである。望遠鏡がなくても、ニュートン力学が先にできていれば、肉眼で見える惑星の動きを観測することで「地動説」は確立できたかも知れない。最初から天上世界の星は手の届くものだったのだ。しかし望遠鏡ができるまではだれもそのことに気づかなかった。気づかなかったばかりか、それを否定しようとしつづけた。

 ガリレオ・ガリレイは、その望遠鏡での観測に基づいて、コペルニクスの地動説を確立した――とされる。しかしじつはガリレオの地動説の根拠は誤っていた。これはしかたのないことだ。ガリレオは現在の中学・高校で習う物理程度の力学も知らないのだ。ガリレオの時代には、まだ、モノが転がり落ちる運動を重力加速度gを使って説明することすらできなかったのである。

 それはガリレオの地動説の根拠の根拠が正しかったわけではない。ガリレオの功績は、天上世界でも地上世界でも働く法則は同じであるという観点を論証しようとしたことにある。天上は永遠不滅で、地上は生成と消滅を繰り返す不完全な世界であるという見かたを覆した――覆せる可能性を示したことにある。

 ニュートンがこの過程を仕上げた。天上でも地上でも空間としてはそれは均質だ。その均質な空間のどこをとっても、働く物理法則は同じである。そのことをニュートンは明らかにした。

 天上は完全で、地上は不完全だとか、天上の物質は不滅だが地上では生成と消滅を繰り返すとか、そういう区別は消滅した。ここでいわゆる天動説の世界観が消滅したのである。

 それまでの天動説では地球は世界の中心であり、宇宙の中心であり、不動のものだった。月も太陽も惑星も天球もすべて地球の中心を中心にして回転しており、地球だけが動かずにじっとしていた。

 たしかに天動説で考えると奇妙なことはあった。地上世界と天上世界では地上のほうが宇宙の中心に近い。ところが、宇宙の中心に近い地上世界が不完全で、より遠い天上世界が完全だという。また、地球の中心からいちばん遠い遠い天球は24時間できちんと回転する。ところが、より近い惑星や太陽や月にそれより長い周期の動きがあってより複雑な回転を示す。24時間で回転しながら、月は1か月、太陽は1年、木星は12年で土星は30年という固有の奇妙な周期を持っている。宇宙の中心に近いほうがどうも奇妙な性格を持っている。

 それでも、ともかく、中世の雰囲気のなかでは、地球は世界の中心だった。

 ところが、ニュートン物理学は、地球の中心も、地球の表面も、「天上」のどこの場所も、いずれも物理的空間としては均質であることを明らかにしてしまった。

 宇宙に中心はなくなったのである。


 のちの時代から「スコラ哲学者」と呼ばれる当時の哲学者がこのような世界観を受け入れようとしなかったのも当然である。宇宙の中心は永久に地球の中心であって他にはあり得ないというのが、スコラ哲学者にとって唯一の真理だったからだ。

 したがってこの唯一の真理の護り手たちは地動説を認めることを拒んだ。事実によってその説の誤りが示唆されても受け入れようとしなかった。ときには、自分が地動説を否定するために提出した根拠によって、かえって地球の中心が宇宙の中心でないことを論証されてしまうこともあっただろう。だが、詭弁や知らないふりなどあらゆる手段を駆使して、この哲学者たちは、地球の中心が宇宙の中心であることを固く信じつづけようとした。

 哲学者たちにとっては、じつは、たいせつなのは地球の中心が宇宙の中心であるという「事実」ではなかった。それを自分が唯一の真理として信じていることがたいせつなのだ。もしかすると、地球の中心が宇宙の中心であるというのは、ずっとむかしのたんなる思いつきだったのかも知れない。もし、むかし宇宙の中心が太陽だという思いつきをしていれば、スコラ哲学者たちはガリレオの地動説の「論証」を笑顔で迎えられたかも知れないのだ。

 自分はほんとうはむかしから地球以外に宇宙の中心があってもいいと知っていた、地球を宇宙の中心だとたまたま思いこんだために自分はずいぶんまわり道をしてしまったのだ――とっくに気付いているはずのそのことを自分で受け入れたとき、哲学者たちはふたたび世界と和解することができる。そう気づくことで哲学者たちは地動説的な世界と和解することができたにちがいない。

 そのことを受け入れた哲学者は自分が「まちがった」天動説にとらわれていたことを後悔しただろうか? そうとも言えないのではないか。地球の中心が宇宙の中心だという思いこみが唯一の真理だと信じ、それが脅かされることに必死に抵抗していたその時期を、「うれしかった」と回想し懐かしむ資格がだれよりもあるのは、この哲学者自身ではないだろうか。それは最初から天動説の「誤り」を知っていた者には許されない祝福にちがいないと思う。


 コペルニクスやガリレオが望遠鏡での観測をもとに見出した地動説的な世界観を裏づけたのがニュートン物理学である。そして、その物理学の発展を裏づけるために、現在の中学・高校の数学がある。今日では「受験生」といういやな響きのことばを作り出すことにしか役に立っていない学問は、かつてはそういう世界観を担った大きな存在だったのだ。

 だが、ニュートン物理学の数学が「受験生」ということばの響きに埋没したとき、どうにも解きがたい問題があとに残る。

 ニュートン物理学が論証したように、天上世界と地上世界とが同じ世界だとしよう。天上世界と地上世界のあいだには何の質的なちがいもないとしよう。

 では、それはどう同じなのだろうか? 天上世界と地上世界は、かつて考えられていた天上世界のように永遠不滅の完全な世界なのか、それとも、かつて考えられていた地上世界のように生成し消滅する不完全な世界なのか、どちらなのだろう?


 「永遠の世界」と「生成し消滅する世界」という区別がなくなった以上、そのどちらかを選ぶという選択そのものが無理かも知れない。

 ただ、天上世界にも「生成し消滅する不完全な世界」という性格があることはいっそう確からしくなった。

 ガリレオの時代には、大気上層の現象と天文現象との区別がつけられなかった。だから天上世界が不変でないという確たる証拠は出せなかった。彗星や新星が予測できないところに出現したとしても、それは天上世界の現象ではなく、地上世界の最上部の現象だと言われればそれまでだ。いまから考えれば新星が月より地球に近いなんておよそばかげた話だが、当時の望遠鏡ではそれを反駁する証拠は見つけられなかったのである。

 ところが、現在では、星の死滅のしるしである超新星爆発が一年にいくつも発見されている(1996年8月3日〜1997年8月2日で150個)。また、オリオン座大星雲やへび座散光星雲M一六などを写したハッブル宇宙望遠鏡の映像からは、恒星や惑星系が生まれつつある様子がつぎつぎに見出されている。宇宙が現在の五分の一程度の大きさだったころの昔の銀河さえ観測されている。星は永遠ではないという証拠を、私たちはガリレオの何百倍何千倍も提出できるのである。

 だが、一方で、天上世界は地上世界では考えられないような確実さをいまでも見せてくれている。太陽活動には一定の周期がある。流星群も、一定の時期の、それも一定の時間にめぐってくる。太陽や月や惑星の動きは数千年前まで遡ることができるし、数千年後まで予測することができる。

 人間の地上世界では考えられないことだ。


 ニュートン物理学の宇宙観が現在になってゆらいでいるのはよく知られている。だが、ニュートン物理学がゆらいでも、それが地球の中心から追放した「宇宙の中心」はいまだに取り戻せていない。むしろそれは遠くに遠ざかっていくばかりだ。

 コペルニクスやガリレオの世界観では、宇宙の中心は太陽であると考えられた。しかし太陽は銀河系宇宙の端に存在するありふれた恒星のひとつにすぎないことがわかった。太陽系を超える銀河系が発見されたときにも、最初は太陽系はその中心近くにあるにちがいないと考えられていた。そのうちに太陽の位置は銀河系の周縁であることがわかった。銀河系はこの宇宙に唯一の「島宇宙」ではないかという説があった。しかしいまではその銀河系もおとめ座銀河団を構成する一銀河にすぎない。

 地上の人間世界は、時代を経るにつれて、宇宙のなかでは「ごくあたりまえのなんでもない場所」になっていったのだ。さらに、ニュートン物理学を超えた物理学を用いて組み立てられた宇宙起源論は、この宇宙がただひとつの宇宙であるという保障さえ取り払ってしまった。

 「自分の属している世界が宇宙の中心に近い特別な場所だ」という中世の哲学者にとって真理を、じつは、地動説的宇宙観も受け継いではいた。宇宙の中心は天動説のいうような地球の中心ではない。だがそれは太陽なのではないかと最初は思われた。ニュートン物理学の考えかたを受け入れても、事実として人間は宇宙のなかで特別の場所のすぐ近くにいるのだという思いこみからは自由になれなかった。

 しかし、研究を進めるうちに、太陽も、銀河系も、それどころかこの宇宙すらも、なんら特別な場所ではなくなってしまったのだ。それは、いまや、どこにだって存在するもののひとつにすぎない。


 ニュートン物理学を超えた物理学である量子力学は、まったく別の方向での発見をももたらした。

 ニュートン物理学では、物理現象は客観的なものであり、だれが観測しても同じように起こるものとされていた。しかし、量子力学は、観測者自身が、その観測者が観測している物理現象の一部であることを明らかにした。

 もちろん観測者自身が物理現象の一部だからといってただちに観測者が世界の中心になったわけではない。だが、観測者は、世界の中心としての重苦しさの一部を引き受けなければいけなくなってしまった。

 観測者はもう完全な傍観者ではいられない。観測者は物理現象から逃避することができなくなってしまったのである。自分では何も影響を与えずそっとしているつもりでも、ただ観測者としてそこにいるというだけで、観測者は世界に影響を与えている。


 人間は天上世界のあこがれを達するために天上世界を観測し、その観測のために望遠鏡を作り出した。

 望遠鏡を使うことで、人間は天上世界と地上世界の境界などないことに気づいた。その境界は人間が勝手に作ったものであることを知った。ニュートン物理学は天上世界と地上世界のちがいを理論的になくしてしまった。ニュートン物理学は人間をたったひとりで無限の宇宙の大海の前に立たせた。

 それから時が経って、ニュートン物理学を追いつづけるうちに、人間は、こんどは観測者と観測対象のあいだにも境界がないことに気づいてしまった。人間は観測されるどんな物理現象にも影響を与えてしまっている。人間は、そこにいるだけで、何かを思うだけで、まわりの世界に影響を与えずにはいられない、そういう存在だ――そのことに人間は気づいてしまった。

 人間は世界の中心の損な部分だけを引き受けてしまったのだ。人間は、地球の中心が宇宙の中心だとか、太陽が宇宙の中心だとかいう論理をいっさいあいだにはさまないで、宇宙全体と向き合わなければならなくなってしまう。

 なんて重苦しい世界なんだろう?


 そんな世界で、どうして人間は天上世界の観測をつづけるのか?

 答えは、たぶん、むかしからすこしも変わらないだろう。

 永遠不滅の世界をそこに見出すためだ。

 宇宙は生成と消滅を繰り返す世界だと知っても、なお、その生成と消滅を観測しつづけることで、その向こうに永遠不滅の世界を見出すことができると確信しているからだ。

 しかも、その永遠不滅の世界は、唯一の真理を体現した完全な世界でなければならない。確率や都合あわせで語られる世界であってはならない。ただひとつの真実がその世界になければならないのだ。

 むくわれない作業だ。

 現代の宇宙物理学が見出しているのはまったく逆のできごとである。この宇宙自体が、その誕生のときに、物質と反物質のバランスのわずかな狂いのおかげで辛くも生きのびた危うい存在であることまで明らかにしてしまった。天上世界も地上世界におとらず偶然の積み重ねの産物にすぎないことが明らかになってきている。

 そのむこうに永遠不滅の世界を見出そうと観測をかさねるたびに、永遠不滅の世界は加速度をつけて私たちの手の届かないところに逃げてしまう。


 しかし――その目的が不可能だとわかっていないで、何のあこがれだろう? 何の夢だろう?

 永遠不滅の、完全な、唯一の真理を体現した世界をそこに見出すために、人間は、天上世界の観測をつづけている。

 そうして、絶対に実現することのない天体観測者のその夢を分かち持っている者たちのあいだにだけ、思い出のまぶしい季節の空は拡がるのだ。

 あれはほたる狩りの季節だっただろうか?

 それとも、ペルセウス座流星群の夜が明けたあとに訪れる天体観測の季節の一日なのだろうか?


(終)




 ※


 柊あおい『星の瞳のシルエット』集英社りぼんマスコットコミックス、一九八六〜八九年(連載『りぼん』昭和60年12月号〜平成元年5月号、「お稲荷さん大パニック」昭和六三年九月号別冊付録)。

 ――『星の瞳のシルエット・番外編/ENGAGE』集英社りぼんマスコットコミックス、1994年(掲載『りぼんオリジナル』平成3年秋号)

 ――『星の瞳のシルエット・番外編/ENGAGEII』集英社りぼんマスコットコミックス、1997年(掲載『平成八年りぼんティーンズ増刊号』)


 ※※


 なに?

 「『星の瞳のシルエット』に寄せて――って何も寄ってないじゃないか?!」って?

 うーむ、それじゃこうしよう。


 次の頁から強引に寄せちゃいましょう!!





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