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残照のカントリー・ロード

― アニメ『耳をすませば』試論 ―



 ・執筆:清瀬 六朗 (HTML化も)



 初出:『珊瑚舎通信』96年春「さよなら晴海」号

 ・今回は、このときに発表した文章に手を加えずに、とりあえずそのまま HTML 化して掲載します。未熟な部分が大幅に残っていますが、どうかご勘弁を(^^;。



 去年の夏はほんとうに暑かった。

 猛暑というのはあんまり心地よいものではない。けれども、きれいな青い空から照りつける強い陽射しと、微風と、体を浸す汗の感触には、何をもってしても替えがたい「夏らしさ」がある。

 学校は夏休みだ。冬休みや春休みはあんがい早く終わってしまうが、夏の休みは長い。部活や塾に通っていればともかく、そうでない中学生には「いますぐやらなければならないこと」が何もない日々がえんえん四〇日つづくのである。冬や春とちがって日も長い。日が暮れてからも暑いから、その時間に外に出るのがおっくうということもない。しかも、そのあいだも両親をふくめた大人どもは自分の仕事をせっせとやっている。自分と、自分の周囲の同じ年齢層の人たちだけが特別にヒマなのだ。

 そんな夏休みが楽しくないなどということはない。が、たんに楽しいだけではない。自己主張を抑える術を十分に知らず、しかも存分にわがままを言っても許される歳ではなくなったのに、学校にいかないぶん家族といっしょにいなければならない時間が長くなる。海辺の「ふるさと」に行くのだって、家族関係を背負って行かなければならないとなるとなんだかかったるい。「いますぐやらなければならないこと」はないけれど、「いますぐでなくてもいいけどやらなければならないとても重要なこと」からは自由になれない。その中途半端さと、暑さとで、なんだかけだるい。といって、そんな時間をけだるさにまかせて昼も夜も寝て過ごすには、やっぱりこの時間は惜しい。だから、夏休みのあいだと時間を区切って、自分の好きなことをやってみようという目標を立ててそれに従事する。けれども、それは、休みが終われば「やらなければならないとても重要なこと」にとってかわられる程度の目標でしかないこともうすうす気づいている――なんせ、学校の教師や親という連中は、中学生は、夏休みの「自由な」時間をフルに使って勉強してくれているものと思いこんでいるのだ! 口で否定したって、ちゃんと背中に書いてある――というものだ。

 何もかも中途半端ななかで、いろんなことを自己責任で決めなければならないという、「めんどうくさく、けだるい」気分にひきかえ、外は明るい。陽射しも強く、空もほかの季節にくらべて明るいように感じる。着ている服も冬のように重苦しくない。首筋も腕もふくらはぎもじかに外の空気に触れている。ちょっと身体を動かそうと思うだけで体は抵抗感なく動いてしまう。

 底抜けに明るくて開放的な風景をまえにして、それにくらべればほんの小さな自分はひとりマンションのベランダに立って、その外の風景に向かい合っている。自分の身体をなるだけ思いのままに動かせる服装で、だ。なのに、心のなかには、自分で引き受けなければならないことが大量の水みたいにたまってたっぷんたっぷんいっていて、いまにも心の外側を覆う薄いビニール袋をつき破りそうだ。

 だったら、とりあえずその外の風景のなかに自分が出て行くしかないではないか。

 そこで自分がやること、そこで自分が得るもの――それがたとえ夏が終わったらほとんど何の価値がないようなものになるにしても、いま、その風景のなかに出ていかないならば自分は一生とりかえしのつかないたいせつなものを失う。いや、「夏が終わったら」とか「一生とりかえしのつかない」とかいう、「時間」をめぐる考えかたがいかにも無価値なものに思えてくる。

 とにかく、その外の風景のなかに自分を投げ入れること、そしてできればそこで自分の「物語」を発見すること――底抜けに明るい風景をまえにして、東京郊外の団地に住む中三の少女はそうやって「夏」のなかに出ていく。

 それが映画『耳をすませば』の発端である。

 『耳をすませば』の物語が、夏にはじまり、初冬に終わっているのは、もともとは原作の都合による。原作が『りぼん』に掲載されたのは一九八九年の八月号からで、不本意ながら打ち切りになったのが一一月号だという。

 だが、一方で、この「夏」の感覚はこの作品だけのものではない。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の「永遠の学園祭の前日」は、季節がちぐはぐになっているものの、「外」はいつも夏だった。部屋のなかの情景や登場人物の服装で表現される「それぞれの季節」は、いつもその底抜けに明るい夏と対比されることで意味を持っていたはずである。『ビューティフル・ドリーマー』の世界全体の基盤をなしている「場」は「夏」であった。ついでながら『新世紀エヴァンゲリオン』の世界の基盤をなしている場も「夏」である――ただし担っている意味は大きくちがうけれど。

 あえて単純化していうならば、『ビューティフル・ドリーマー』は、「やらなければならないこと」などというものを無限の彼方に追いやったところに成り立っている作品だった。しかし『耳をすませば』(以下、ことわらないかぎり映画版)の世界はそうではない。夏休みは終わる。そして、受験生としての「正念場」である中三の秋と冬が待っているのだ――「やらなければならないこと」に立ち戻ることを余儀なくされる季節が。



 原作の雫には自由であいまいな空間も時間も多分に残されている。原作の雫は受験生ではない(「番外編」では受験生になるそうだが未読)。家もこぎれいな一戸建てだし、どうやら雫は一人部屋を持っていて、うるさい長女との相部屋ではない。だいいち、原作の「おねえちゃん」は、映画版の汐よりもずっと『姫ちゃんのリボン』の愛子お姉ちゃんに似た、きれいで、ちょっと大人で、少女漫画に出てくる妹がすなおにあこがれられるお姉ちゃんだ。どこかわからない、単線の電車が走っているような(「市」ではなく)「町」に住み、どこかわからない――猫に誘われるまままるで知らない駅で下りて「地球屋」に行き着く。余談だが、原作で地球屋のある街の駅である「風街」というのは、はっぴいえんどのアルバム『風街ろまん』では松本隆にとっての「失われたオリンピック前の東京」の名まえである。

 余談ついでにもひとつ余談だが、原作の「黒猫のルナ」というのは、いまとなっては「別の作品」みたいでとても描けなかったんだろうな――掲載誌もちがうし。そのかわり、ルナのきょうだいの黒猫だったムーンが、トトロと混血の「はんぶん化け猫」になってしまったのであろう。あるいは「コンクリートロード」に森を破壊されたトトロが世をしのぶ仮の姿として猫になっているのかもしれない。(言っちゃ失礼だが敬意をこめてあえて言うと)殺してもなかなかくたばりそうにないあの宮崎駿の妄想が生み出した森の精霊である。それが原生林や雑木林が消滅したぐらいでそうかんたんにくたばるわけがないのだ――連中は、「自然破壊」の結果として生まれた「人工」の「コンクリートロード」が織りなす世界を新しい「豊かな自然」として受け入れ、そのなかでこうやってちゃんと生きているのである。

 さて、原作の雫にくらべると、映画の雫には、あいまいな空間も時間もほとんど残されていない。住んでいるのは、近隣の住人といつも顔をつき合わせていなければいけない団地だし、そのなかでも自分のスペースといえるのは自分の机と二段ベッドの下段だけだ。しかも、この作品での中三は、受験生であるだけでなく、自分の「進路」を決定しなければならない時期として描かれている。それはもちろん雫の思いこみにすぎない。おねえちゃんの汐はまだ進路を模索している段階だし、お母さんだって、なんか知らんが大学院の修士課程を出てもまだ研究を続けたいと思っているようだ。年上の家族だって、まだ、それぞれ自分の先の進路を探っている段階なのである。だが雫にはそうは映らない――とくに、「おねえちゃん」が「やるべきこと」とバイトと家事手伝いしかしていない姿は、進路の選択をいいかげんにすませてあきらめのなかに生きている、雫にとっての「こんなふうにはなりたくない」大人の原型に映っているのではなかろうか。家から学校への道筋も、図書館へ向かう電車も、図書館までの道筋もきちんと設定によって決められている。

 だからといって、映画版の雫にとってあいまいな空間や時間がどうでもいいものなのではない。そうではなくて、自分のまわりにあいまいな空間も時間もないがゆえに、雫は、自分に直接にふれあうところに、底知れない、遠く深い空間を見つけなければならないのだ。それは、ある意味では、汐のいうように現実逃避にすぎない。だが、汐と雫のやりとりで「現実逃避」ということばにこめられていたような消極的な意味しかない現実逃避ではない。しかし、雫がその意味を了解するのは、汐とのあの会話よりもうすこし先のことである。

 雫が妖精や魔法使いの登場する童話の本の世界に惹かれるのも、そこに、自分のとって、底知れない自由な時間と広闊な空間があるように感じられたからだ。ついでだが、エルフやドワーフぐらい、いまどきRPGをかじったことのある子どもならだれでも知ってるぞ、じいさん。まぁ私のように「エルフ」が「ネルフ」に聞こえる人間はかぎられているだろうけど。

 雫にとっての夏の風景は、そういう底知れない自由な時間と空間として映った。そして、その底抜けに明るい夏のなかで、雫は、地球屋のある丘と、地球屋と、地球屋の老主人やバロンにめぐりあう。



 けれども、雫はすぐにその世界にもかぎりがあることを思い起こさなければならなくなる。時間の流れが無意味な世界というのはいつまでもそこにいることのできない別世界だったのだ。時間が来れば羊は羊に戻らねばならない。

 かくて、雨は底抜けに晴れた夏の空を閉ざし、学期のはじめの学校はテストばっかりだ。本を読んでも、以前はそれがフィクションだからこそ楽しく感じられたのが、いまではそれが「しょせんフィクションに過ぎない」とまず否定的に捉えてしまうようになっている。たまの晴れ間には、杉村と夕子とわけへだてなく「友だち」としてなんのこだわりもなくつき合っていた世界がとつぜん終わりを告げてしまう。

 ウェストヴァージニアを離れて見知らぬ広い土地へ向かっている旅人のまえに広がっていたフロンティアが、とつぜん、消滅してしまったのだ。

 「ふるさとって何か、やっぱりわからないから」。

 雫は言う。だが、この「カントリーロード」の詩を完成したとき、雫はじつはたしかに「ふるさと」を持っている。

 それは「おばあちゃん」がいる柏崎ではない。そこはやっぱり雫にとっては縁のない土地だ。そうではなく地球屋のあるあの丘である。もっと正確にいうなら、あの底抜けに明るい夏の陽射しのなか、猫に誘われて行った地球屋のある丘の上だ。かつて、底知れない自由な時間と空間の象徴であったその場所こそが、雫がこの物語のなかではじめて得た「ふるさと」なのである。しかも、そこは、自分がすでに「ただの物語のすきな少女」として無自覚に追い求めていたフロンティアを失ったことにとつぜん気づいた場所でもあった。そこに帰れば、いちど失った「物語の好きな少女」のフロンティアを再発見する端緒が見つかるかも知れない。

 だから、雫はあの夏の陽射しのなかの地球屋に帰りたくてその場所を訪れる。あの時間の流れの無意味になった場所への道――この道そのものが雫のカントリーロードなのだ。

 だがいまのその場所にはもう夏の陽射しも夏の空もない。地球屋も閉まったままで、バロンの姿も、エルフとドワーフの時計を見せてくれたおじいさんの姿もなかった。

 けれども雫はそのふるさとを諦めてしまうわけではない。アニメ『耳をすませば』は、雫がその「夏の陽射しのなかのふるさと」へと、残照のカントリーロードを辿っていく物語なのだ。

 こんなことを書くと、『耳をすませば』はそんなうしろ向きの作品ではないという反発が返ってくるかも知れない。あるいは、そうだそうだ、この作品はうしろ向きだからよくないんだという反応もあるかも知れない。だが、それへの答えはしばらく待っていただいて、話をつづけさせていただきたい。

 この作品で、もう二度と戻ることのできない「夏の陽射しのなかのふるさと」に戻っていくことを熱望しているのは雫だけではない。西老人も同じだ。恋人の待つ戦前の夏のドイツに帰ること――不可能なことだと知りつつ、それを夢見つつ余生を送っているのが西老人である。

 ところで、雫の主観からみれば、聖司の生きかたはちがっているようだ。聖司はひたすら前を見て自分の可能性を試すというポジティブな生きかたをしているように雫は見ている。しかし、雫の視点を離れれば、私はたんに「雫はうしろ向きだが聖司だけは前向きに自分を試す生きかたをしようとしているのだ」とは思わない。

 聖司にとって、ヴァイオリンの街クレモナは「ふるさと」ではなかったろうか? 「型の完成された」楽器を、その本場に行って学ぶということ自体が、やっぱりヴァイオリン職人をめざす少年にとってはカントリーロードなのではないか?

 また、たとえば、汐が雫に対して言ったあの「現実逃避」と聖司の生きかたとはどこがちがうのだろうか? あの会話での汐の視点からいえば、イタリアにヴァイオリン作りを勉強に行くということ自体が「現実逃避」に見えないだろうか? 聖司は「家中が大反対」と言っていた。聖司は、雫がお母さんやおねえちゃんにやられる少しまえに、やはり同じようなことを「家」のなかでやられていたに相違ないのだ。

 聖司が、聖司と出会った(ことに気づいた)ときの雫とちがうのは、「職人」――つまり何かを作る人をめざしていたということである。物語のなかでは時計を修理する場面でしかわからないが、じつは西老人も職人だ。

 物語の流れだけからいえば、西老人が職人を仕事に選んだことの理由のひとつは、やはりあの戦前の夏のヨーロッパに帰りたいという想いからだろう。職人としての西老人の仕事分野はどうやらヨーロッパの古物関係であるらしいことから考えるとそうである。この点、貿易会社の仕事でバロンを見つけたという原作からの設定の変更には十分に意味があると私は思う。西老人の仕事も、そのふるさとであるヨーロッパに帰る道の一部なのだ。

 聖司が「職人」をめざし、ヨーロッパに修行に行きたいという夢に近づいていくことは、その西老人のカントリーロードを歩きつづけるということにほかならない。

 だが、それが西老人のカントリーロードを歩きつづけることであったとしても、聖司がそういう生きかたを選んだということ自体が、雫にとっては大きな衝撃だった。おじいちゃんのあとをついてヨーロッパへのカントリーロードを辿ろうとしていたということがではない。その辿りかたが、である。

 雫は、丘に登ってみたり、作品を読んだりすることで、自分の「ふるさと」へ帰ろうとしていた。だが、聖司は、何かを「作る」という道へと踏み出すことを決意していた。それが西老人のカントリーロードだろうとなんだろうと構わない。聖司が何かを作る職人になろうとしていたことに雫は驚き、あこがれ、その「レベル」のちがいに愕然とする。そして、雫は、聖司の対等なパートナーになるために、「物語職人」としての自分を試すという方法を見出すのである。

 それは、雫にとっては、自分が失った「物語の楽しさ」というフロンティアをもういちど発見するための旅であった。同時に、それは、バロンを主人公にすることで、西老人の「残照のカントリーロード」を辿りなおすことにもなっていたのである。西老人は、聖司がじっさいにヨーロッパに行ったことと、雫が物語のなかでバロンの恋を語ってくれたこととで、自分のあとをついで自分のカントリーロードを辿ってくれる後継者を二人も手に入れたことになる。



 「失われた夏の日」が戻ってくることなどありえない。それは、じつは、そのときかぎりの、くり返しのきかない出会いなのだから。

 だが、それを知っていても、というより、それを知っているからこそ、雫も西老人もその「失われた夏の日」へのカントリーロードを、その夏の日の残照を手がかりに辿ろうとするのだ。

 それはたんにうしろ向きの生きかたなのではない。うしろ向きとか前向きとかいう単純に割り切れるものではないと思う。ただ、雫が創造的になれたのは――ムリをしてでもがんばれたのは、自分の発見した「ふるさと」に戻ろうと挌闘しつつ、そのことによって、自分と同じように何かを作ろうとしている男の子と対等になろうとしたからである。「残照のカントリーロード」をただ辿るだけではない。失われた楽園、失われたフロンティア、失われた故郷――底抜けに明るくて果てのない、自由なあの失われた夏の日へのカントリーロードをたしかに辿りつづけることこそ、創造的に生きるための原動力なのであり、また「職人」として何かを作りつつ生きていくことだけがその道をたしかに辿りつづけるための方法なのだ。雫が知ったのはそのことだった。たぶん、そこで、雫は、お母さんやおねえちゃんが「進路」のことをうるさく言うのかという意味ももういちどつかみなおしたことだろう。

 それを辿る手段として何かを「作る」ということを見いだし、これからもそうしていくことへの見通しをつかんだとき、雫に――いや雫と聖司に、はるかに遠く次の夏の日へとつづいていく一日の朝の太陽が昇るのである。

                    ― とりあえず終 ―





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