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【「温故知新」 本をめぐる雑談】

丸山真男

日本の思想


(岩波新書、1961年)




 1996年にはいろんな人の訃報に接した。

 寅さんの映画は劇場では一度も見たことのない私である。しかし渥美清さんの逝去の報に接すると、やっぱりいろんな感慨が浮かび上がってきた。ちなみに『男はつらいよ』シリーズの映画はテレビでは何作か見たことがある。中国で『阿寅的故事』というタイトルでやっていた中国語吹き替え版もなにかの拍子に見たことがある。ほんと何かの拍子に中国でたまたまテレビをつけたらやっていたのである。私の中国語の水準や、私が中国について持っている先入観というようなものとあるいは関係があるのかも知れないことをあらかじめ断っておいたうえで、私がそのとき感じたことを書くと、『男はつらいよ』を中国語吹き替え版で見ても、洋画(欧米の映画)を吹き替え版で見ているときに感じるような「翻訳もの」的な違和感はほとんど感じなかった。それよりは『攻殻機動隊』を英語ヴァージョンで見ているときのほうがよっぽどヘンな感じがする。日本で作られた映像作品がアジアで広く放映され、大衆的人気を集めていることには、日本の映像作品が持つ映画の「文法」みたいなものが、中国語圏や東南アジアの民衆文化と反りが合うということがあるんじゃないだろうか。印象はしょせん印象にすぎないが、そんなことを感じた。

 司馬遼太郎の作品も私にはそんなに親しんだわけではない。だが、その逝去の報に私は少しばかりセンチメンタルになってしまった。私は歴史に興味を感じている者である。で、司馬遼太郎さんの「司馬史観」というやつは、持ち上げられることも多いかわりに、たとえば専門の歴史研究者などからは酷く攻撃されるものだったという印象がある。たしかに歴史の専門家から見れば問題は多いのかも知れない。だが、翻って、じゃあ歴史専門家は「司馬史観」を屈服させられるほどの立派な歴史観を持っているのだろうか? そもそも、私は歴史の専門家の口から「歴史観」ということばを実を伴ったことばとして聞いた記憶がほとんどない。私たちの社会が百科全書的知識人を失っていくなかで、百科全書的歴史小説家を失ったことは、やはり私には痛手のように思えた。

 丸山真男氏の逝去の報に接したとき、じつは私はもっと冷静でいた。それは丸山氏の体調が思わしくないことを一年前ぐらいからきいていたからでもある。また、私にとって、丸山氏はまず第一にその多くの著書の作者であった。その点ではたとえばマックス・ウェーバーや吉野作造と同列であった。「同時代の知識人」であるという認識はあったが、同時代に生き、行動している人という印象は希薄だった。もちろん、その逝去を悼む点では私は多くの人の後には落ちないつもりである。丸山真男氏が東大でその講義を聴いたはずの政治史学者の岡義武氏が逝去され、その選集が『丸山真男集』と同じ岩波書店から出されたのがほんの数年前であったことを思うと誠に残念であるとしかいいようがない。だが、丸山真男氏の書き残されたものに私が取り組む姿勢は、丸山氏の生前となんら変わるものではない――そんなふうに私は覚悟を決めている。

 丸山真男氏の逝去の後、多くのメディアで丸山氏のことがとりあげられていたようである。個人的に多忙な時期であったこともあり、私はあまりそうしたものに接しなかった。だからあくまでおおざっぱな印象に基づいたもの言いであることを最初にことわっておくと、そうした発言の多くが、丸山氏の業績に肯定的なものも否定的なものもふくめて、丸山氏を「戦後民主主義の理論的旗手」のような人物であったと表現していたように私には思える。

 読まずに感想を言うのはあまりよくないことであろう。しかし、丸山氏の生前から丸山氏について言われていたことに対するものも含めて、私のささやかな根本的な疑問をここに記しておきたい。それは、

 ――ちゃんと読んで言ってるか?

のということである。

 なぜこんなことを言うか。私の率直な実感(「実感」ねぇ……)に基づいて言えば、丸山氏の書いたものというのはひじょうにむずかしいからである。『日本の思想』を読んだ。むずかしかった。なんかよくわからなかった。『日本政治思想史研究』を読んだ。やっぱりむずかしかった。やっぱりよくわからなかった。さらに、1990年代になってから編まれた『忠誠と反逆』を読んだ。これもやっぱりむずかしかった。これもなんかよくわからなかった。丸山氏がまさに碩学の士の名に値する研究者であることはよくわかった。でも、「よしっ、この本にはようするにこういうことが書いてあったんだな!」という、「把握した」という実感(「実感」ねぇ……)がどうも得られなかったのである。

 だから、世の「丸山論」者諸氏がちゃんと読んでわかって丸山真男を論じているのならば、どうも私は特別に頭が悪いらしいということになるだろう。

 でなければ、やっぱり、丸山を読まずに丸山を論じてる手合いが多いってことになるんじゃないの? ――負け犬の遠吠えに類するかも知れないけど。

 そんな、もしかすると「負け犬の遠吠え」かも知れないことをやっていてもしようがないので、その主著のひとつである『日本の思想』を読み直してみた。その印象と、私が接した数少ない丸山真男追悼企画のひとつであるNHKのETV8の特集(タイトルは忘れた)の印象をもとに、私なりの丸山真男についての「中間報告」のようなものをここに書き記してみたいと思う。

 丸山氏にとっての大きな思想的転機が「大東亜戦争」の経験にあったのはたしかなように思える。べつにそれは「戦後民主主義」の思想家としてめずらしいことではない。鶴見俊輔・林達夫・花田清輝・吉本隆明――この人を「戦後民主主義」の陣営に入れると怒る人がいるかも知れないが――など、それぞれがそれぞれのかたちで「大東亜戦争」の体験をその思想形成の基礎の抜きがたい一部としている。その体験がその思想のなかでどう活かされているかも千差万別である。

 丸山氏がその生涯をかけて対決しようとしたのは、日本を「大東亜戦争」に駆り立てた「思想」の状況であった。その点に対して丸山氏に妥協はない。鶴見俊輔氏のように、「大東亜戦争」のイデオロギーのなかにさえ自分と連帯しうる思想の契機をねばり強く探ろうという志向は強くない。もっとも、戦前の「思想」をひたすら罵倒し、懸命にたんに否定しようという志向からは丸山氏の態度はもっとも縁遠いところにあるといえよう。伊藤博文であれ小林秀雄であれ、丸山氏が批判対象としてとりあげているのは、丸山氏がその思想のなかに評価すべきものを見出しているからである。丸山氏は敵を甘く見てはいない。その敵――「大東亜戦争」のイデオロギーの正体を暴き、克服し、「民主主義の永久革命」を遂行することをみずからに課していたように私には思える(「民主主義の永久革命」についてはETV8で言及されていた)。

 『日本の思想』の冒頭におかれた論文「日本の思想」は、日本に「インテリジェンス」の「歴史」についての研究が乏しいという話題から説き起こされる。「何々思想史」という特殊分野の研究ではなく、また「日本思想論」ではなく、包括的な「日本思想史」がなぜないのか?

 それは、まさに「日本の思想」が「歴史」として蓄積することを妨げてきた何かがあるからだというのが丸山氏の仮説である。

 私の読みとりかたによって整理すると、思想が「歴史」として蓄積するということは、これまでの思想が、この思想を受け継いでこの思想が出てきて、また、外から入ってきたこの思想がこういうふうに受け継がれてこうなった、というように、時系列的に、また系統的に整理されていなくてはならない。それが丸山氏のいう「歴史として蓄積する」ということだ。ところがそういう「歴史」は日本の思想にはない。たしかに儒学などにはこまかい学統があるし、明治以後のアカデミズムの世界にもドイツ型の恩師−弟子の関係が強固にある。だが、それは、丸山氏にとっては、せいぜい「思想家である者」の系統であり、「思想すること」(へんなことばだが)の系統ではないということになるのだろう。たとえば、カントを承けてヘーゲルが現れ、ヘーゲルへの批判者としてマルクスやキェルケゴールが現れたという系統――それが「西洋思想」の系統観として妥当かどうかはいまは問わない――を「日本の思想」のなかに見出すのは困難だ、と丸山氏は言うのである。

 では、「歴史」として蓄積しなかったのなら、日本の思想はどう蓄積してきたのか? それは、外から入ってきたものをバラバラにして吸着していつの間にか「自分のなかにもとからあったもの」にしてしまう、いわばブラックホールのようなもののなかにつぎつぎと吸い込まれていったのだ、というのが丸山氏の仮説である。それは、つぎからつぎへと「外」から入ってきては、「外」で持っていた他の思想との関係を断たれ、バラバラにされ、そしてさっさと忘れられ、ときどき思い出され、そして「そんな思想ならむかしから日本にあったじゃないか」と片づけられてしまう。たとえば、儒教が来る、仏教が来る――そうしたときに、それに対して「よろしいんじゃないですか、だって儒教も仏教も日本古来の神道とおんなじものなんだから」と片づけてしまうという思想的態度をとる。そうやって、思想はつねに時空の地平線の向こう側につねに吸い込まれていってしまう。しかも、その思想を吸い込んでしまう重力場は私たちの「日本の」日常をも強く引きつけているのである。そういうブラックホールが日本の伝統のなかにあるというのが丸山氏の仮説のイメージであるように私には感じられる。もちろん丸山氏は「ブラックホール」などということばは使っていない。もっとエレガントに「通奏低音」とか「古層」とか呼ばれるけど――でも「古層」ってのは地質学から借りたイメージなんだから、べつに天文学から「ブラックホール」を借りていてもヘンではないぞ。

 西洋とか中国とかから何かの思想が摂取されるということはある。おそらく必要以上に頻繁にある。だが、それは時系列的に整理されることはない。つぎに何かの思想が摂取されれば、それまでの思想はたんに忘却され、「沈降」してしまう。そしてそこからときどき「思い出」されるだけである。その思想がもともと持っていた他の思想との歴史的な関連を、日本の内部にある強力な重力場がむりやり引き離してしまい、そしてブラックホールへと落としこんでしまうのだ。あとは、ときどき、「あ、そんな思想もあったかな」と、他の思想との関係は忘れたままふと「思い出」されるだけである――ホーキングのいうブラックホールが時空の地平線の外に粒子を揺すり出すように。ある思想は別のある思想を継承して出てきたとか、この思想はそっちの思想への批判として出てきたという、整理され順序づけられたものとしての「思想史」という発想がない。いちど、忘却されてしまったものは、千年以上前の儒教の教えであれ、同じ世紀のヨーロッパの思想であれ、区別なく「昔のもの」として「思い出」されるのだ。そして、「日本の思想」では、その脈絡もなく揺すり出されてくる「思い出」がとりもなおさず「歴史」であると錯認される。丸山氏の「日本の思想」についての見かたはそういうものであるらしい。

 なお、こういうふうに書くと、丸山氏は新しい思想は「摂取」されるのみで日本の内部で「内発的」に「発展」するという可能性を無視しているようにとられるかも知れない。しかし、丸山氏は『日本政治思想史研究』で日本の江戸時代の政治思想がどのように「内発的」に「発展」を遂げたかをたどろうと試みたわけだから、この批判はあたらない。あたらないけれども、一方で、前近代の中国や近代の西洋などの「外」からの思想的影響なしに発展した「日本固有」の思想というものを発見しようとする試みには丸山氏は非常に警戒的である。それは、「からごころ」・「ほとけごころ」を排するとした本居宣長の国学思想に、「大東亜戦争」を導いた思想状況に通じるものを感じているからではないかと私は思う。私は国学思想についてはほとんどしろうとであるが、この点に丸山氏の考えかたのひとつの特徴が見て取れるとともに、逆から攻めれば国学思想について丸山氏とちがった位置づけをする端緒もあるのではないかという気もする。「内発的発展」を得意とされる方がた、いかがでしょうか?

 「思想」的ブラックホールに受け入れられないものもある。日本に「摂取」される以前の思想が持っていた体系である。啓蒙思想も進化論も、それが日本に受け入れられたときには、コント・ルソー・スペンサー・バックル(福沢諭吉の『文明論之概略』に大きな影響を与えたイギリスの思想家)の体系からは切り離され、「綜合的」な社会科学としての性格を失ってしまった。しかも、それがもとの体系から切り離されて独自の発展を果たしたわけではなく、「日本の思想」のなかに埋没し、そのあり方を防衛するために恣意的に「思い出」されては利用される存在になってしまった。伊藤博文の明治憲法制定時の「臣民の権利」擁護の主張は、臣民の「自然権」を否定し、明治国家を「人民ノ保護者」と位置づけることで、国家の人民への監督の権限を正当化するものとして利用された。これがのちの治安維持法につながると丸山氏は位置づける。進化論は天賦人権論を「後れたもの」と攻撃することで、人権の実現という、いまだ十分に実行されていない目標をたんに否定して現存の国家を弁護するためにのみ利用される。

 その日本に、「綜合的」な体系性を持って社会的な現実をとらえようとする思想として入ってきたのはマルクス主義だったと丸山氏はいう。だが、それさえ、「日本のマルクス主義」になったときには、「自家中毒」を起こして「理論信仰」に化けてしまい、社会的現実と対抗する思想としての性格を喪失してしまった。

 丸山氏は、日本のなかのブラックホールが存在する領域を「共同体」のなかに見出しているように見える。それはいうまでもなくムラ的共同体である。この「共同体」を丸山氏はつぎのように表現している。
 この同族的(むろん擬制を含んだ)紐帯と祭祀の共同と、「隣保共助の旧慣」とによって成り立つ部落共同体は、その内部で個人の析出を許さず、決断主体の明確化や利害の露わな対決を回避する情緒的直接的=結合態である点、また「固有信仰」の伝統の発源地である点、権力(とくに入会や水利の統制を通じてあわられる)と温情(親方子方関係)の即時的統一である点で、伝統的人間関係の「模範」であり……(以下略、46頁)。

 なんでも受け入れてしまうあたたかな人間関係、いつでもそこに帰って甘えることのできる場所、責任だの義務だのいう「堅いこと」を言わずともしぜんに村人どうしが助け助けられる関係――そういううるわしい共同体にこそ、「日本の思想」にとってのブラックホールは存在すると丸山氏は言うのである。

 だが、ブラックホールで何がいけないのだろうか? すべてを区別なく受け入れて溶けこませてしまうもの、対立し相克するように見えるものも、何も言わずに日本のなかに受け入れる。そして何も言わずに自分の一部にしてしまう。平和で、穏やかで、鷹揚でせせこましくなくて、『となりのトトロ』の世界みたいで、いいことづくめではないか。「個」だの「個性」だのわめいて社会の平和を乱し、ひいては国家や民族のエゴをみっともなくさらけだして世界平和を脅かすより、そのほうがよほどいいではないか。

 丸山氏がこういう意見を厳しく拒むことはわかりきっている。そして「個性」などという後れた考えを無批判に信奉し、「日本人の日本嫌い」を助長した後れた「戦後民主主義」者としてバカにされるのである。だがこれは悪口であっても批判ではない。なぜ丸山氏がそれを拒んだのかというその思考の過程こそが批判にとっては重要なのである。

 なぜそのような「日本」肯定に対して丸山氏が強い批判を持っていたのか? それは、「なんでも受け入れる」はずの「日本の思想」が「大東亜戦争」のイデオロギーとして機能したとき、それは世界の平和ではなく、戦争と破滅以外の何者をももたらさなかったということへの厳しい反省によるのである。最初に述べたことからもわかるように、これは丸山氏の「党派性」がはっきりと表れた局面である。丸山氏はそのことを自覚していた。他人はいざ知らず、自分だけは「党派性」と無縁でいられるなどという甘えは丸山氏にはない(56−57頁でのマルクス主義についての言及を参照されたい)。丸山氏をこの点で批判したいのであれば、その「党派性」をイデオロギー的に暴露するだけでは足りず、批判者自身がどのような「価値の選択」のうえに立って批判しているのかを明らかにしつつ、丸山氏を論理によって論駁しなければならない。

 丸山氏にとっては、「大東亜戦争」のイデオロギーの失敗は「開国」の失敗であった。

 「開国」とは国際社会に対して国や国内の社会を「開く」ことのみを意味しない。国際社会に対して自分を「画する」ということをも同時に意味していた(9頁)。自分の外部と内部の関係は対称的である。外部を知り、外部に働きかけていくためには、その内部がそれとともに変化しなければならない。魔法少女が小さなハートでこつこつと社会に貢献していく物語は、必然的に同時に魔法少女の成長物語でもあるのだ(なんだよそれ?)。

 そうやって自分を変化させていくという過程が「日本の思想」になかったからこそ、日本は国際社会への対応に失敗し、その過程が「大東亜戦争」に繋がっていった――丸山氏は論文「日本の思想」の課題を思想に限定しているのでそういう見通しはどこにも明示的には述べられていないけれど、丸山氏が「日本の思想」の問題を扱うときに想定していたゴールはそこにあるにちがいないと私は思う。

 ここで重要なのは「過程」が欠けていることである。丸山氏はこの「日本の思想」という論文で「実感信仰」と「理論信仰」という戦前思想の二つの問題を強く批判している。丸山氏自身の「あとがき」によるとこの部分には丸山氏にとって意外な――つまり丸山氏にとっては「的外れ」でしかない批判が多く寄せられたそうである。ただ、ここは、丸山氏自身が書いておられるように、この論文のなかでちょっと荒削りでわかりにくい。丸山氏の批判の意図を読み取りにくい部分ではある。

 じつは「実感信仰」とか「理論信仰」とかいうことより、そのどちらにも「過程」が欠けていることが批判の要点なのだ。「過程」というのは、つまり自分から社会的な現実に働きかけていくというアクティブな「過程」である。社会的な現実に自分から働きかけ、同時に自分を変革していく――思想はそのための道具であるべきだ、というのが丸山氏が批判の前提としている考えかたであるように私は思う。もちろん、「社会的な現実」への働きかけとは現実を直接に変革することのみを指すのではない。現実をよりよく認識しようとすることもまた「働きかけ」の一種である。直接行動ばかりに価値があるように見るのは、丸山氏にとってはやはり一種の「実感信仰」または「理論信仰」であろう(丸山氏は「実践に対するコンプレックス」と表現している。60頁)。

 自分の感じたことを規範に照らして判断することを積極的に拒否し、ただその「実感」をすなおに享受するというのが丸山氏のいう「文学的」な「実感信仰」である。そこでは「規範に照らして判断する」以前の感性とか感覚とかが一方的に重視されるのだから、そこにはとうぜん「思想」を道具として社会に働きかけたり自分を変革したりするという「過程」は存在しない。むしろそうしたもの以前の「一次的」なものから脱するのを拒否するという点で、それはムラ的共同体の懐に抱かれようとする心情と本質的に同じものである――と丸山氏は「実感信仰」を位置づけているようである。私は「実感」をそういうものとしてとらえられるものかどうか疑念を持っているが、残念ながら戦前文学についての「綜合的」な知識に欠けているので丸山氏に論駁することはできない。

 ではマルクス主義の変態である「理論信仰」はどうか? 丸山氏が「理論信仰」を強く批判するのは、やはりその理論を「道具」として使い、現実に働きかけたり自己を変革したりしようとしないからである。この批判は「実感信仰」に対するものよりわかりにくい。「理論」とは、まさに現実に働きかけるための道具的性格が表面に強く表れた思想である。それがなぜ「道具」的な「過程」が欠けていることとむすびつけて批判されなければならないのか。

 丸山氏はこの疑問に対して、「理論信仰」はまさに道具的な「過程」を飛ばした理論への「信仰」だからだと応じるであろう。「日本の思想」における理論は、それによって現実を検証するための道具としては機能しない。そうではなくて、その「過程」を省略して「これは理論にあてはめればこれこれだ」という一足飛びの「きめつけ」の論理としてしか機能しないのである――丸山氏の論旨はそこにある。「なぜ○○は××なのか?」という探求する「過程」を軽んじ、「○○なんか××である」という「きめつけ」をもっともらしく粉飾するためにだけ「理論」が使われる。それはやはり現実との接触を欠いているという点で、「実感信仰」とすこしもちがわないものである。

 こうした「過程」の思考を最初から放棄したところでは、社会的なできごとに対する責任は「無責任」になるか「無限責任」になるかどちらかである。その責任をだれが負うかはっきりしないから、まあ、いいや――とあいまいにされてしまうか、それとも、これだけの重大事件が起こったのだから「すべて私が悪いんです」とか「すべて××が悪いんだ」とかいう思考におちいるか、どちらかにならざるを得ない。責任というものがどういう社会的現実に応じて発生するかということをさまざまな理論を用いてつきつめて考えるという「過程」がそこには希薄なのである。もちろんそういう「責任」意識がまったくなければ法律なんか機能しようがないのだから、明治国家や戦前の国家で法律が機能していたということはそういう思考がまったくなかったわけではなかろう。だが、それは、法律「責任」意識の人民への浸透というかたちで定着したのではなく、逆に実定法的なものが「法律ではほんとはいけないことになっているけどまあいいか」というようにムラ的共同体から浮き上がるという方向に向かっていった――とモデル的には言えるであろう。このへんは丸山氏もはっきり言及してはいないがたぶんそういう論理になるのだと思う。

 「無限責任」も「無責任」も、政治的な重大事件から学問のスタイルにいたるまであらゆるところに出現した。そして、それは日本の社会の変革をつねに妨げ、国際社会の動きから取り残させる結果を生んだ。その日本の国際社会への不適応の終着点が「大東亜戦争」だったのだ――というのが丸山氏の仮説ではなかったろうか。

 だが、丸山氏の問題意識を、たんに戦前・戦中の日本がどうであったかという問題に限定するのはおそらく丸山氏にとっては我慢ならぬ曲解であったに相違ない。あるいは、丸山氏の論理を用いて、日本のなかにいまだに残っている戦前・戦中的な要素を叩くことのみに終始する態度も丸山氏の本意には反するものであると私はあえて言いたいと思う。

 丸山氏がなぜ「民主主義の永久革命」者であろうとしたのか?

 丸山氏にとっていちばん恐ろしかったことは、「大東亜戦争」イデオロギーの破綻後、「開国」のやり直しによってようやく手にした「民主主義」が、かつての進化論や啓蒙思想のように、日本的共同体のブラックホールのなかに吸い込まれて解体されてしまうことだったのではないだろうか。「民主主義」が日本のムラ的共同体を粉飾するための論理にすりかえられ、ひいてはそれが日本を国際社会への不適応に導き、そして日本を戦争に導くこと――それが丸山氏にとってもっとも恐ろしい悪夢ではなかったのだろうか?

 傲慢なもの言いであることを承知のうえであえて書いておこう。丸山氏が「民主主義」者として認めたのは、「民主主義」をつねに問い直し、それを道具として用いて社会的な現実と対抗することをつづけている者のみである。自分が「民主主義者である」という自惚れに安住し、自分の(丸山氏のいうような)「ムラ的共同体」的な行動に対して無反省な者に「民主主義の永久革命」者である丸山真男の同伴者たる資格はない。

 ここまで読んで、「丸山擁護/反丸山」とか「戦後民主主義/反戦後民主主義」とかいう単純な図式しか持ち合わせていない読者は、さては清瀬は丸山擁護の度しがたい戦後民主主義者だとかいう印象を持たれたにちがいない。そういう「単純な図式」にあてはめることを「理論的」であると錯覚することこそ丸山氏のいう「理論信仰」にほかならぬわけだが。

 たしかに私はここでは丸山氏の遺著のなかでいちばん手軽な部類に入ると思われる『日本の思想』(たしかに新書版だから重量的には軽いぞ――『「文明論之概略」を読む』みたいに三冊本でもないし)の、それも第一論文「日本の思想」の論旨をたどるという作業をやってみた。ときには丸山氏がこの論文を書くにさいして自分に課したであろう厳格な限定から論文では明示的に書いておられないようなことを、私がかってに推測して書くというおせっかいまでやった。

 だが、ほんとうの批判はそういう作業を通してしか得られぬものである。とくに最初に書いたように私にとって丸山氏の著書はむずかしくてよくわからないのだ。それを「わからない」と言って「批判」したり、自分でわかろうとする努力もしないで「批判」したりするというのは批判の名に値しないと私は思う。それは丸山真男氏の業績に対しても庵野秀明氏の業績に対しても同じである。

 丸山氏の理論に対しては私は多くの疑問を持っている。はたして日本の村落共同体が丸山氏がモデル化したようなものだったのか、また、その村落共同体のあり方は丸山氏がいうように日本独特のものであってデカルトやカントやヒュームの祖国にはそういうものはなかったのか? 「文学」的な「実感」はほんとに思想による世界と自己に対する働きかけを排除する仕組みなのか? 明治国家の国家建設はほんとに必然的に「大東亜戦争」に行き着くような性格のものだったのか? そのいちいちに対して、私は、まだ丸山氏を論駁する準備はできていないけれど、しかし疑問を持ち続けてはいるのだ。私は丸山氏に対して批判者でありたいと思うし、戦後民主主義に対する批判者でもありたいとも思う。ただ、それは、丸山批判者であるとか戦後民主主義に対する批判者であるということへの自負で自分を粉飾したいということであってはならないと思っているだけである。

 丸山真男氏は本書のあとがきにこう記している。
 著者ののぞむところは、右のような色々な問題〔「現にわれわれの当面しているいろいろな問題」〕の論理的なまたは歴史的な関連づけの仕方 にたいして活溌な批判がおこり、あるいはこれに刺戟されて、個人の発想のレヴェルから、政治制度と社会機構のレヴェルに至る近代日本の思想的見取図が著者と異った角度からそこここで提出されること以外にない。あるいは本稿のなかに雑多に投げこまれて十分に整理されず、いわんや展開もされていない問題を読者が自由にひろい上げて、討議の素材 とするだけでも著者としては満足であり、その際、討議の問題点などを報らせて下されば、著者が今後さらに考察を進めるうえに、一層有難いと思っている。(180頁)

 ぜひそうさせていただきたいものだと思う――もっとも私のごときが考察をすすめることで泉下の丸山先生がどんな気もちを抱かれるか、よくわからないけれど。

 それと、もう丸山先生に「討議の問題点など」を知らせることはできない。だが、丸山氏はそうした「討議」がムラ的なうちわのものになることを何よりも嫌ったはずだ。自分の考えたことを全世界に向けて公開し、批判を仰ぎ、自分の考えを外界との関係のなかで発展させていく――それが丸山先生の理想であったとすれば、インターネットはまさにそれにうってつけの「道具」ではないかと思うのである。


 評者:清瀬 六朗




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