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【「温故知新」 本をめぐる雑談】

保立道久

平安王朝


(岩波新書、1996年)





・「文学」の時代、歴史なき時代?・


 平安時代の宮廷は日本最初の「物語」とされる『源氏物語』の舞台である。

 舞台であるとともに、『源氏物語』は、その宮廷に生活していた女性が、その生活上の体験をもとに書いた「物語」でもある。平安時代の宮廷は、『源氏物語』の舞台であるとともに、それを育んだ母胎となった場所でもある。

 『源氏物語』だけではない。随筆である『枕草子』も、『蜻蛉日記』などの日記文学も、この平安王朝を舞台とし、その後宮に仕える女性が書いた文学である。平安時代は、王朝から生まれ、王朝を舞台とした宮廷女性文学の全盛期であった。それは、かな文字文学として、日本の文字で日本のことばをつづった文章の出発点でもあったのである。

 ところが、その時代を現代の歴史学が語ると、とたんに「王朝」は後景に退かされてしまう。

 平安時代の歴史はふつうどんなふうに描かれるだろうか。

 平安時代の最初は、奈良時代のつづきとして描かれる。天皇親政と律令制が行われ、和同開珎から始まる銭の鋳造がつづけられ、『日本書紀』からつづく公式の歴史書「六国史」が編纂される。

 しかし、それが徐々に破綻し、かわって、全国から荘園を集めた藤原氏が勢いをつけて、摂政・関白として権力をふるう時代が来る。

 その摂関時代も、後三条天皇の親政と白河院政の開始で院政時代へと移る。院政時代には、「もと天皇」である天皇の父「上皇」が権力を振るい、それを支える勢力として、「院の近臣」とよばれる中・下級貴族や平氏・源氏などの武士勢力が抬頭する。これがいわゆる治承・寿永の乱を経て直接に武家政権の時代を開く。

 つまり、平安時代の前半は奈良時代の律令体制が崩壊していく時代であり、後半は武家政権の時代の開幕の時代であるとしてえがかれる。前と後ろがべつの時代の歴史の一部として切り離されているのだ。そして、そのあいだは、単純に「藤原氏が摂政関白の地位を独占した華やかな時代」として描かれるのである。

 このような歴史叙述は、王朝の中心であった「王」つまり天皇と天皇家の歴史をまったく視野の外に追いやってしまうのである。




・いまさら「王の歴史」か?・


 それでいいじゃないか、という意見もあるだろう。いままでの歴史は天皇や貴族の歴史だった、これからは「民衆の歴史」を探求する時代ではないか、それなのにいまさら天皇と天皇家の歴史がないなどと騒ぐことに何の意味がある?

 こういう批判は見かけはいかにももっともらしく見える。

 ところが、本書によると、こういう意見はじつはあまり事実を反映していない。

 「進歩的」な歴史学が批判するであろう明治天皇制のもとでの歴史学でも、平安時代の天皇や天皇家の歴史はほとんど重視されなかったというのだ。

 その理由は単純だ。『源氏物語』の「絢爛たる」世界を考えていただければいい。源氏物語を読んだことはなくても、テレビなどでときどき映る絵巻物などでご覧になったことはあるだろう。その華美な雰囲気を想像していただければいい。王朝社会のなかで天皇はまったく「神聖」でも「不可侵」でもない。浮気もするし、スキャンダルの対象にもなる。

 貴族社会との関係も、絶対君主というよりは、「天皇という職を担当する家柄の貴族の一員」である。

 天皇が気に入らなければ臣下が天皇を退位させる。花山天皇が騙されて退位させられた話や、その後、清少納言の主人の定子の兄弟の伊周(これちか)・隆家が同じ家の娘に恋をしたという関係から花山院を狙撃したという話は、スキャンダルとして伝えられている。一度、臣下の地位に下っていた人物が天皇家に復帰して天皇になったこともある。宇多天皇がそうである。天皇家以外が摂政・関白の地位を占めつづけたことも含めて、その前後の時代とくらべて天皇・天皇家のメンバーと貴族社会との距離が失われていたのがこの平安時代なのだ。

 しかも多くの天皇が仏教の信者であり、またケガレなどをめぐる日本土着の宗教観を共有している。神社・仏閣の「強訴」に天皇家が弱いのはそのためである。

 ヨーロッパ式の絶対君主制度をたてまえとする明治国家とそれを支えてきた歴史学にとっては、天皇がそんな状態では困るのだ。

 「天皇制」というと、古代からつづいてきた古いものだというイメージが、「天皇制」批判者のなかにもあるかも知れない。だが、天皇の血統が続いてきたということと、制度として同じ制度が続いてきたということはまったく別である。制度としては明治国家の「天皇制」は日本史上まったく新しいものとして生まれたものだ。

 いわゆる明治の「天皇制」の由来は単純ではない。ヨーロッパの国王・皇帝制度を取り入れ、それを近代的な絶対君主制として整えるとともに、それを支えるイデオロギーには神道や儒教が活用された。そのような制度が作られたのには、西洋諸国と対等に渡り合える国家体制として作られたという一面のほかに、高度な専制体制を早くから作っていた中国の皇帝制度に対抗できる君主制を作らなければならないという動機があったと私は考えている。甲午戦争(日清戦争)までは、日本にとって、「隣の大国中国からどうやって日本の国家の独立を守るか」ということはつねに重要なテーマだったのだ。

 天皇制イデオロギーに依拠した戦前・戦中までの歴史学は、その「神聖不可侵」な明治の天皇制の像を過去にさかのぼらせているのである。それでは、「神聖」でも「不可侵」でもない平安時代の天皇の歴史はそのなかから排除されてもなんら不思議ではない。

 この『平安王朝』のアプローチはそれとはちがう。

 「神聖不可侵」な明治の「天皇制」の前身としてではない。平安時代の天皇と天皇家の歴史を、平安時代の王朝についてどう考えればいいのかという歴史像のなかで捉えようとした試みが、この『平安王朝』である。




・摂関時代の天皇の地位・


 『平安王朝』に登場する天皇は、だから、国制史に断片的に登場する天皇でもないし、「神聖不可侵」という明治の天皇のあり方を溯らせた天皇でもない。どちらかというと、スキャンダルと愛情欲望の渦のなかに生きている『源氏物語』の世界の天皇に近い。

 しかし、愛情や欲望が「プライベート」なことであって、政治などの公的な舞台にはかかわりのないことでなければならないというのは、近代以降のきまりごとにすぎない。

 前近代の王制で、王位継承が、たとえば今日の皇室典範のような法でかっちり決められていないばあいには、「次の王」をだれにするかという問題がつねに発生する。王に子どもが生まれたとか生まれないとか、その母親がだれだとか、そういうことがたえず問題になる。そこでは肉体を持ち欲望を持った存在としての王のあり方を避けて通るわけにはいかない。

 これまで私たちが聞かされてきた平安時代の歴史は、藤原氏対他の貴族であったり、藤原氏対天皇であったり藤原氏対上皇であったりという構成であったものが多い。ところが、現実にはそういうものではないらしい。

 それよりは、天皇家のなかの家どうしの争い、藤原氏のなかの家どうしの争いが重要だというのである。「藤原氏」が起こした陰謀事件とされる事件でも、こまかく検討してみると、天皇家のある一族と藤原氏のある一族の連合体に対して、天皇家の別の一族と藤原氏の別の一族の連合体が挑戦し、勝ったり負けたりしているという例が多いらしいのだ。そして、その勝利の最大の目標は、摂政関白の地位ではなくて、だれを次の天皇にするかということにあった。「摂関政治」の時代といっても、あくまで焦点は「王」の地位なのであって、摂政関白の地位などはそれに付随するものにすぎなかったのである。




・天皇家のお家騒動・


 もともと人間の家族である以上は、子どもは一人とは限らない。なかなか子どもが生まれないこともある。ことに王位継承権者を男子に限ると子どものなかに適格者がいないということもよく起こる。かと思うと、王位継承候補が、複数、生まれることもある。

 そのとき、いまの王(天皇)の次をだれにするかということがつねに問題になる。子どもに継がせるのか、それとも弟に継がせるのか。子どもに継がせることにすると、今の王の直系の子孫に王位を伝えることができる。それが父・子・孫ぐらいまでつづけば、ある王の子孫だけが王家として王位に即く資格があるという伝統を作ることができる。

 しかし、都合よく子どもがいてくれるとはかぎらない。とくに、青年時代や幼少のころに王位に即いたばあいには子どもがいない。すると、男子継承を前提とすると、弟を「次の王」(皇太子)の地位につけなければならないことになる。そのあとに王に男の子が生まれたりするとこれがお家騒動のもとになるのが世の常ってものだ。応仁の乱のときの足利将軍家など、武家時代のお家騒動を見ればこのパターンが多い。

 天皇家でこのような「家」どうしの「本家」争いが問題になったのは、まず、鎌倉時代の「大覚寺統」「持明院統」の対立であろう。

 鎌倉時代に天皇家が大覚寺統・持明院統と呼ばれる二つの「家」に分かれ、両家から交替に天皇を出すという「両統迭立」ということでひとまず解決した。しかし、これに院政が並行しているため、院政をやるためには相手の家から出てきた天皇に地位を譲らなければならない、天皇は上に相手の家から出た上皇がいてそれが院政をやっているということで、どちらにとってもうっとうしいことこの上ない。「両統迭立」が最終的な解決策になるわけもなく、これは最終的に南北朝の対立にまで発展する。

 これとともによく知られている天皇家のなかの「家」どうしの対立は壬申の乱である。天智天皇の王子とその弟の天武天皇が武力を使って争った事件だ。その結果、飛鳥時代後半から奈良時代までは天武天皇の直系の子孫が天皇の地位を独占することになった。しかも、天武−草壁−文武−聖武−孝謙(=称徳)という血統が、同じ天武系でもほかの系統の王子を排除し、ついに聖武に男子がいなかったため、直系女子の孝謙天皇(称徳天皇)のあとには天智系の光仁天皇を王位に即けなければならなかった。直系男子による王位相続にこだわり、競争者を肉体的に抹殺するということをくりえした結果、「直系男子が生まれない」(生まれたのだが夭逝した)という事件で「王家」自体が断絶するという脆さを見せてしまったのである。




・「両統迭立」の時代・


 飛鳥時代後期から奈良時代までの天武系と天智系の対立と鎌倉時代の「大覚寺統」と「持明院統」の対立に挟まれた期間が平安時代である。さて、平安時代はこの「両統迭立」問題と無縁だったかというと、そんなことはけっしてない――というのがこの本の論旨である。

 この本によれば、複数の王家の並立は平安時代には普遍的な現象だった。著者のいう「平安王朝」の始祖である桓武天皇自身は弟の早良親王を抹殺して息子に王位を伝えているが、その王子のあいだから、平城系と嵯峨系でさっそく対立が起こりかけている。

 嵯峨系から仁明−文徳−清和と伝わった王位は、清和の王子の陽成が藤原氏の対立に巻き込まれて退位に追い込まれたことで王位から排除される。普通は「陽成は粗暴な振る舞いが目立ったので」と言われるが、著者はそれは口実にすぎないと考えている。陽成のあと、天皇の位はもういちど文徳の世代に戻って文徳の弟の光孝から宇多−醍醐−朱雀と伝わる。

 ここまでは、複数の家が王位に対して同等の資格を持って対立するという事態はとりあえず避けられている。どちらかが優位に立つか、ライバルを王位への資格のない地位に追い込むかであった。

 さて、朱雀には男子がなく、弟の村上天皇からその子の冷泉天皇に位が伝わる。ところが、冷泉天皇は精神に障害を起こし――具体的にはちゃんと書いていないのだが鬱病のようである――、退位することとなった。そこで、冷泉の子の花山と弟の円融の両者が王位への対等の立場で並び立つこととなった。これによって、冷泉系と円融系の王子がかわりばんこに王位につくという「両統迭立」が現実のものとなった。

 このような王家分裂の危機がつねに潜在していたことが摂関家の権力のひとつの重要な源になったと著者は考えている。数ある候補者のなかから、王(天皇)にふさわしい王子を選択することは、その王子たちの母や妻を出している摂関家以外では果たすのが難しい作業だった。

 一方、親から子どもへ子どもから孫へと王位を伝えたいと親は当然に願う。みんな京都に住んでいるのだから、現在のように、遠くに住んでいる甥なんて顔も知らないよ〜なんてことはなかったと思うが、やっぱり、甥や甥の息子より自分の子どもや孫のほうがかわいい。そうすると、父としては、自分が生きているうちに息子の地位を安泰にし、息子が一人前に仕事ができて必要な人脈もできるように指導しておいてやりたい。父とは概して親ばかなものである――かどうかは知らないが、ともかくかかっているのが一国の王の位である。息子がちゃんと王の地位を守れるのと、それとも王位から除外されて和歌の達人として一生を終わるのとでは、父としての満足度もだいぶちがうだろう。そうすると親ばかな父はどう考えるかというと、自分が生きているあいだに息子を王の位につけ、自分が保護・監督しながら一人前の王になれるよういわばオン・ザ・ジョブ・トレーニングをやることを考える。つまり院政である。

 院政は白河上皇に始まるとされているが、著者は、平安時代を通じて、天皇が院政を行おうとする動きは普遍的にあったとする。一般に、白河天皇の前の後三条天皇が院政を行おうとしていたことはよく指摘される。しかし、著者によれば、嵯峨・清和・宇多・円融なども、息子に譲位したあと(円融天皇のばあいは甥の花山天皇をはさんで息子の一条天皇が即位したあと)、事実上の院政を行っていたり、院政を行おうとしていたりしたということである。嵯峨天皇といえば、「平安王朝」の創始者の桓武天皇の息子の世代である。なお、じつは嵯峨天皇の兄の平城天皇も「上皇」として政権を執ろうとしているが、このときには嵯峨天皇に阻止されて失敗している。

 天皇家をめぐる「王家分裂」→「両統迭立」の危機がつねに潜在していたことが、一方では、その調停役としての摂関家の権力の源となり、他方では天皇を「院政」に駆り立てる動力になった。つまり、天皇家がつねに抱えていた「王家分裂」の危機こそが、摂関政治と院政との両方の政治のスタイルの中心にあったのである――というのが、この『平安王朝』の眼目のようである。




・「万世一系」の虚構・


 このように見ると、「万世一系」の天皇家という表現が虚構にすぎないことが理解できる。

 古代のことはここでは問題にしない。継体天皇はそれまでの王家とは別の地域から出てきた別の氏族の出身であるらしいが、ともかく、遅くとも欽明天皇から現在まで、男系だけで血統はつながっている。これ自体はたしかに世界史的に見て希有なことである。

 しかし、もし、ヨーロッパのように王家に姓があれば、大覚寺統と持明院統は別の家として認識されていたのではあるまいか。

 天智系と天武系も同様である。孝謙天皇(称徳天皇)は弓削道鏡と親しくなり、道鏡に天皇の位を伝えようとしたのを、和気清麻呂が宇佐八幡まで神託の確認に行って阻止したというエピソードがある。天皇制イデオロギーによる歴史観では、これは単純に野心家の道鏡が悪くて和気清麻呂が忠臣だということになる。しかし、孝謙天皇は天武直系王家の最後の一人であったということを考えなければならない。孝謙自身が女性なので、どうやっても男子直系には王位を伝えられないのである。そのとき、天智系に王位を伝えるか、それとも仏教界のトップに立つ道鏡に伝えるか――この選択肢は孝謙(称徳)天皇にとっては「どちらも本来の王家の出身者ではない」ということで同等の価値を持ったということはないだろうか。

 このときには貴族社会が天智系の王家を王位継承の資格上優位と認めて光仁を擁立したので、王位は天皇家の一員の手に残されることになった。光仁の正妃(皇后)に天武系の井上内親王を配することで天武王家の血筋を残すという条件がこのときにはあったようであるが、井上内親王は廃立され、かわって7世紀に滅亡した百済の王家の血を引く桓武が即位するのである。

 このように考えると、天皇家のみが姓を持たないという仕組みはあんがい重要だったように思える。姓を持たないために、王家が分裂しても、それは「家」の分裂としてではなく、「統」の分裂として理解されるに過ぎなかった。そして結局は同じ血統を継ぐ「天皇家」の大きな同族集団の一員にその地位が回収され、また、社会にも「王統がつづいている」と理解されたのである。

 逆の事態を想定してみよう。たとえ血統がつながっていても、家が分裂すればそれぞれが家に名まえをつけ、それが争うということになれば、「A王家とB王家が争い、その内紛からC王家の統一王朝が生まれた」という、イギリス史やフランス史であったような認識で捉えられていたかも知れない。

 王のあり方には、王が平民はもちろん他の貴族からも隔絶した高い地位にある専制支配の形態と、王がたくさんいる貴族たちの「同輩中の首席」の地位にいる形態との二種類がある。アウグストゥス帝に近い世代のローマ帝国の帝制初期の皇帝は「同輩中の首席」であり、ローマ帝国末期のディオクレティアヌスやコンスタンティヌスは専制支配者である。

 また、中国でも、三国時代から南北朝時代までの皇帝は「同輩中の首席」である。それは、魏王朝の創始者である曹操がのちの晋王朝の始祖となる司馬懿(仲達)を召し出したときに、司馬懿が「あんな素姓のわからないやつに頭を下げられるか」といったん断ったというエピソードからもうかがえる。王家だから、皇帝家だからといっても貴族に遠慮はしてもらえない。だから、力のない人物が皇帝になればすぐに臣下に皇帝の位を奪われる。それで頻繁に王朝交替を経験した反省から、隋帝国以後は皇帝への権力集中が進み、宋の時代になって世襲貴族の階級が消滅して皇帝専制が確立した。

 日本でも、平安時代の天皇は「同輩中の首席」にすぎなかったように思える。それでも、明らかに王家の者と臣下とで区別がついていたのは、天皇家に姓がないことがその王位への特権を示しているからである。いくら権勢があっても、「藤原」というような姓を持っていては、「天皇」の地位には即けないのだ。




・準天皇家としての「源」氏?・


 ただ、例外がある。

 「源」の姓だけは、姓のない状態にもどって天皇になることができるという認識が、一時期、あったようなのである。

 もともと、「源」という姓は、源頼朝とか「八幡太郎」義家とかを出したことで有名な武士の清和源氏にかぎらず、天皇の息子などが臣下の地位を得たときに天皇から与えられる一般的な姓であった。

 陽成が廃立されたあと王位に即いた光孝天皇は、緊急避難的に王位についた「中継ぎ」の王であることを確認するため、王子をすべて「源」姓にして臣下扱いにしている。ところが「中継ぎ」のあとを押さえる「押さえ」がいなかったために、けっきょく光孝の「家」で天皇の地位を継がざるを得なくなり、「源」姓を与えられていた源定省が宇多天皇として即位した。退位させられた後の陽成院は、宇多天皇について「あんなのもとの臣下じゃないか」と言っていたという。

 最終的に光孝が選ばれることになる陽成を廃立した後の「天皇」の人選もなかなか錯綜した。この過程でも「源」姓を与えられていた源融(とおる)という天皇家出身者が「候補がいないのなら自分はどうだろう」などと言い出したらしい。

 そこで考えなければならないのが、本書の範囲は超えるが、清和源氏である。

 関東で「関東国」の最初の王「新皇」平将門は桓武天皇の子孫であることを強調して関東国の王の位に即いた。「裏切り者」平貞盛の逃走を延々と自分で追撃するとか、自分で戦場に出て戦死するとかいういくつかの戦術的失敗がなければ、この国家はもうすこし長続きしたかも知れない。

 次に「関東国」独立政権の王に迎えられるのは源頼朝である。

 しかし、なぜ頼朝なのだろうか?

 清和源氏は武士の家であったことが強調される。最近の研究では、それがとくに摂関家のガードマンとして京都の都市貴族とともに成長した武士団であったことが強調されているようである。

 ところが、この清和源氏も、満仲(多田満仲=ただのまんじゅう)のころには、むしろ天皇家出身の貴族として行動していたということが本書では描かれている。

 さて、源頼朝を関東の「王」に迎えるのは北条・三浦などを中心とする平氏系の関東の武士団である。なぜ頼朝なのか。清和源氏が、前九年・後三年の対東北政権戦争を経て長く関東の武士団を統率する統率者の地位にあったのはたしかである。しかし、それだけではないのではないか。

 清和源氏が天皇家の血を引く「源」氏であったのが重要ではないかという気がするのである。

 鎌倉将軍は、大きく分けて三つの家から、こまかく分ければ四つの家から出ている。最初が源氏、次が藤原氏、その次が天皇家で、さらに天皇家のなかでも途中でそれまでの将軍家を排して持明院統出身者に切り替えている。このうち、藤原氏から将軍を迎えたのは、北条氏にとっては、後鳥羽上皇が天皇家からの将軍を拒否したためのやむを得ない選択であった。

 北条氏は、源氏断絶後、天皇家出身の将軍をつねに求め、しかも、その将軍が一人前に成長すると京都に送り返すということを繰り返している。他方、源氏将軍に対しては、頼家・実朝を殺害・暗殺するなど、鎌倉の武士団はより暴力的な手段をとっているが、頼朝一人を除いて、将軍を実権を握れる条件になるまで育てていないという点は共通している。

 どうも、源氏将軍と天皇家出身の将軍(「宮将軍」という)では待遇が同じなのだ。

 ということは、関東の武士団は、清和源氏の将軍を、天皇家の一族として見ていた、だからその断絶後は天皇家からの将軍を要望したと解釈することができるのではないだろうか。このあたりは素人の妄想の域を出ないので、専門に研究している方からのご指摘を待ちたい。




・怨霊の時代・


 平安時代は、著者によれば、また怨霊たちの時代でもある。桓武天皇に排斥され、壮絶な絶食死を遂げた早良親王の怨霊に始まり、源平の争乱を引き起こしたと認識された崇徳上皇の怨霊にいたる時代が平安時代だった。そのあいだにも、たとえば、藤原時平や醍醐天皇を呪い殺し、平将門に「新皇」の位を授けたとされる菅原道真の怨霊も「活躍」している。

 はっきり言って、あんまり「平安」な時代ではない。

 だが、他方、この時代の宮廷は死刑を行わなかった。平城上皇と嵯峨天皇の抗争である「薬子の乱」で死刑があった以後、関東の武士団が死刑を持ち込むまで、京都では死刑は行われなかった。日本の別の時代を見ても、諸外国を見ても、国王に対する反逆は死刑とされるのが普通で、しかもしばしば非常に残虐な肉体的刑罰を課している例がある。

 ところが、「平安王朝」では、王に対する反逆の疑いであっても、せいぜい太宰府に左遷する程度である。政敵と対立しても最後まで相手を追いつめることはしない。勝負がついた段階で救いの手を差し伸べるのが平安王朝の流儀だったようである。そういう意味では、「平安」に非常に気を使う時代だったのはたしかなようだ。

 それは今日の死刑廃止論のように「人権」への配慮があるからではない。

 あまり追いつめて怨みを持って死なれると、あとで怨霊になってやった以上の仕返しをされるからである。

 この本はあくまで宮廷史として書かれている。だから、庶民信仰との関係などはここでは論じられていない。

 しかし、このような平安王朝の持つ「政治文化」を探るには、たとえば当時の日本の――すくなくとも京都文化圏で一般的だった死生観など、より広い社会の視野で問題を捉えていく必要があるように感じる。

 「天皇や貴族の歴史ではなく民衆の歴史を」などとスローガンを掲げるのもよいかも知れないが、「天皇や貴族の歴史」を「民衆の歴史」とどのように結びつけていくかという方法を、なるだけ豊富に開発していくことが、歴史学的にはずっと意味があるのではないだろうか。


 評者:清瀬 六朗




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