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【「温故知新」 本をめぐる雑談】

秋山正美

動物園の昭和史


(データハウス、1995年)





 この文章を読む方は、最近動物園に行ったことがあるだろうか。かくいう筆者も日本の動物園には長く行っていない。(行きたいとは思っているのだが)統計的にもここ数年日本の動物園の入場者数は減少傾向にあると聞く。動物園とは何のためにあるのだろうか、ということが問い直されるようにもなっている。そういう現状を考える上で、この本は興味深い材料を提供してくれる。


 この本には「おじさん、なぜライオンを殺したの――戦火に葬られた動物たち」という副題がついている。

 この副題を見ると、「ああ、あのことか」という人も少なくあるまい。太平洋戦争中に、「空襲の際の危険防止」を名目に上野動物園を始め全国の動物園でライオン・トラ・クマなどの猛獣やゾウが殺された話は、絵本やドキュメンタリー、アニメ映画の題材にもなって今では広く知られている。「ドラえもん」にもこれを扱ったエピソードがある。

 余談だが、筆者がこの話の一端に触れたのはもう四半世紀も前の小学生の頃のことだ。担任教師がクラスで読み聞かせた絵本だったのだが、それは場所や時を特定せずに(ただ、「日本の話」であることは書いてあったように思う)人で賑わっていた動物園が戦争によって客も来なくなり、そして動物もいなくなっていったという推移を描いたものだった。「人も動物もいなくなる」という部分にわけのわからない不気味さを感じたものだった。今となっては書名も著者もわからない。

 80年代前半に反戦運動が盛り上がりを見せた時期に、これをテーマとした絵本が多く出たが、それらは時期と場所を特定していた。そして、それらのほとんどすべてが上野動物園のゾウを扱っていたことで共通している。(「ドラえもん」もそう)当初毒殺を計画されたが毒入りの餌を受け付けなかったこと、そのため餓死に手段を変更したが見かねた飼育員が少しずつ餌を与えていたこと、空腹のゾウが餌をもらうために芸をするしぐさを見せたことなどのエピソードは、子どもにもわかりやすく、強い印象を与える話である。だが、この「動物処分」は上野動物園のゾウだけがすべてではなかった。その事実関係を丹念に追ったのがこの著書である。

 ゾウ以外の動物の殺害の経過、上野から他の全国の動物園にこの動きが広まっていく過程が資料に則して(その資料自体にも「すべて」が書かれていないと著者は疑問を呈している)克明に綴られる。有名になった上野のゾウにしても、絵本等で取り上げられる二頭以外に、気難しくて人にあまりなつかなかったもう一頭の象がおり、この一頭が他の二頭よりも早く餓死させられたことが語られている。 

 だが、この著書は単に「動物処分」を取り上げて反戦を訴える本ではない。著者は少年時代に戦前の上野動物園に通いつめた体験を交え、戦前の動物園の環境にまでさかのぼって「処分」という名の虐殺に至る経緯を説き明かしている。そこから浮かび上がってくるのは、「処分」が決して戦争という「非常時だから」起きたことではなく、日本の動物園が持っていた体質や日本人の動物観自体に起因するということである。著者はそれが今日すべて解消したかという疑問を投げて、動物園のあり方にも言及する。

 さらに突き詰めると、この問題は人間が他の生命をどのように考えるのかという点に行き着く。著者は自らの飼い犬の経験を引用しながら、この困難なテーマにまで筆を進めている。時に感情的な表現や、著者の迷いによる論旨の不整合も散見されるが、このテーマから逃げなかったことは高く評価してよいと思う。論旨の不整合も、このテーマが著者一人の手に負えるものではないことを考えれば、著者の意見に接することで読者がそれを考える材料を提供しているともいえる。

 この本が出たのは1995年だが、その翌年英国の動物保護団体が日本の動物園における動物の環境調査を行い、多くの日本の動物園が英国の水準に達していないと報告した。これを取り扱ったNHKのドキュメンタリーを見る機会があった。そこでは動物の環境に配慮した英国の(本当に)素晴らしい動物園の姿、そして「環境が劣悪」と報じられた日本の民営動物園が他で「余剰」となった動物が「処分」されないための受け皿となっている事実が描かれていた。(背景として英国では動物園については厳しい法律規定があるのに対し日本では「ペットのため」の動物愛護法があるにすぎない点が指摘されている)戦争中の「動物処分」から半世紀以上が経過した今日も、著者が憂いた日本の動物園の環境は残念ながら変わっていないようである。

 「動物園」という訳語を作ったのは福沢諭吉である。この事実はこの本でも紹介されている。そして、件のNHKの番組では、本来「動物を学ぶ場所」という原義の言葉から「学ぶ」という部分が抜け落ちた訳語のために、日本の動物園が独特の体質を持ったのではないかと説明されていた。その点はこの本で語られる内容と重なり合う。この本は決して50年前の話ではなく、きわめて今日的なテーマを扱った本なのである。

                         (終わり)

 評者:鈴谷 了




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