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空談寸評

 

『百億の昼と千億の夜』

 

スペキュレイティヴ・ファンタジー、早川書房、光瀬龍

 

 



 

へーげる奥田

 


 

 この作品に関する評は、もっとずっと以前から書きたいと思っていた。思ってはいたが、そう簡単に手を出せるものてはなく、躊躇していた。原作を取り上げようか、はたまた萩尾望都氏の手によるコミックス化を取り上げるべきかでも迷った。

 1999年7月7日、光瀬龍氏が亡くなった。これで、少なくとも原作を取り上げる決心はついた。しかし、なかなか書けない。1999年7月で人類が滅ぶという予定になっているということもあり、7月中に書きたいと思っていたのだが、とうとう8月になってしまった。こりゃいかんとか思っていたらあれよという間に12月になってしまった。いよいよもってマズいと思っていたが、ここでまたひとつの契機が訪れた。封切りからずいぶんたってしまったのだが、映画『マトリックス』を観たのである。多くの論評では、『マトリックス』は日本のアニメにいろいろと影響を受けているということだったが、私にはむしろこれは『百億の昼と千億の夜』のサイドストーリーのようにすら思えた。これらいくつかの動機から、なんとか書いてみようと思う。

 

 

 多くの読者がそうだったように、私の場合も最初は萩尾望都版コミックスでこれを知った。1970年代後半、少年チャンピオンの連載だった。記憶がおぼろげだが、たしか横山光輝『マーズ』終了後、SFシリーズ連載の後番として連載開始となったように思う。萩尾望都の描く阿修羅王は美しく、その作品世界は謎と魅力に満ちていた。当時まだ子供で、「究極的に難しいもの」にあこがれる年頃であった私は、その作中に語られる哲学や深淵な思想に魅了され、いつかここに語られているいろいろな「むずかしいこと」が理解できるようになりたいと願った。その衝動は、後の私の行動や志向に大きな影響を与えたように思う。勝手な憶測だが、かつてこの作品に接した同世代の多くは私と同じまなざしを持っていたのではないか。

 

 地球の誕生の時代をプロローグとし、正体不明の生物が遠大な物語の予感を提示する伏線を設置する。最初の主人公はプラトンである。彼は旅先の小さな謎の村で啓示をうけ、太古のアトランティスに転生する。そこで彼は道標「オリオナエ」となり、遠大な歴史の中を歩むこととなる。「イデア」という言葉はそれ以前から知ってはいたが、まだプラトンの著作など読んだこともなかった。それは、たぶん何か高邁な思想的信念を持った者だけの読むものだと考えていたのだ。そのときの感覚はいまでもはっきり覚えている。アトランティスの末裔の村で彼が驚愕した電灯が「タウブ」と呼ばれていたのもしかと覚えている。

 

 次のキャラクターは後に釈迦となる若き悉達多である。彼は悟りを得んと欲し、悪たる阿修羅に逢う。56億7千万年のちに世界を救うと言われる絶対の約束に疑問を呈した阿修羅の戦いの意味を彼は知ることとなる。ナザレのイエスは、宇宙を終焉に導こうとする「シ」の走狗といったポジションで描かれている。萩尾望都版コミックスでは「イスカリオテのユダ」が「信号」として登場するが、これはコミックスのオリジナルだ。

 

 地球の文明が繁栄し、やがて衰退が訪れ、全宇宙的な滅びの時代に彼は目覚め、「シ」の使徒ナザレのイエスを追う。ZEN-ZENは、そんな彼らが立ち寄った破滅に瀕した都市のひとつである。そこでは「市民」は1枚のカードの情報に還元され、保存される。その都市の「神」は、情報カードを保管し、おそらくは電脳空間に展開する仮想の都市を管理するコンピュータだ。また「コンパートメント」と呼ばれるカプセル状の装置には、「市民」の肉体が納められている。彼らの肉体は「睡眠巣」なる装置にパイプで直結されて維持され、その精神は仮想空間の都市に住まうのだ。この幻の都市が、滅びに対抗すべく彼らのとった選択だったらしい。『マトリックス』を観て『百億の昼と千億の夜』を連想したのはそういう部分の記憶によっている。

 

 荒涼とした都市の廃墟にくりひろげられる「派手なドンパチ」とともに、近代哲学的認識論やヒンズー教を思わせるような宇宙論、また「滅び」への運命論などが交錯する。大学で物理学と哲学を修めた作者光瀬龍の「味」であろうか、暗黒の哲学と言われた実存哲学のごときほの暗い作風が印象的だ。『エヴァンゲリオン』で多くの知るところとなった「ディラックの海」も、実のところこの作品で初めて知った。現代にあってはやや古めかしい部分もあるが、現代のさまざまな作品に広範な影響を与えた一作である。

 

 



1999/12



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