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空談寸評

『ワッハマン』

コミックス、講談社(月刊アフタヌーン連載)、あさりよしとお




へーげる奥田




目覚めよ

汝に与えられた目的はただひとつ

“奴”を
人類の敵を抹殺すること

たとえどれ程の年月を費やしても

地の果てまでも奴を追いつめ
必ず討ちはたすのだ

そのため汝には
オリハルコンの肉体を与えた

それは滅びることのない
永遠の鎧だ

そして汝は今
不死身の戦士として甦る

目覚めよ

…………


 『ワッハマン』第一話冒頭のフレーズである。一万年前、彼はこうして誕生した。──「必ず討ちはたすのだ」?……じゃあ、討ち果たした後は? この疑問は、1991年の連載開始当時には思いつきもしなかった。いや、この作品が8年もの連載期間と、億を数える歳月のストーリーを刻むと誰が予想し得ただろう。

 あさりよしとお作品を最初に読んだのは1980年代の初頭、どこかで入手した同人誌であった。当時は別に意識せず、その後もときどき目にする「ちょっと気に入ってるマンガ家」といったところであった。その作品は基本的にギャグ中心であり、時に緊張をわざとはずす脱力的な作風を得意とする──このへんが一般的なあさりよしとお作品に対する認識だったはずだ。しかし、その一方で何か作品につきまとう「暗さ」というか、ダークな印象もあったように今は思う。もうひとつの代表作『宇宙家族カールビンソン』にしても、それは終演を約束された劇であり、元となったモチーフもそれは悲しい物語であった。この『ワッハマン』の悲劇も、あの連載開始時の拍子抜けギャグの中に内在していたものなのだろうか。

 『黄金バット』といっても、今の若い方々はご存じないかもしれない。その源流は戦前の紙芝居にさかのぼるが、『ワッハマン』の原型となったのは1960年代後半のテレビアニメであろう。それはおよそ正義の味方にはふさわしくない金色のドクロの怪人だ。主人公の少女がピンチになると「ワハハハハハハ」という哄笑とともにどこからともなく現れ、「わるもの」たちを蹴散らして去ってゆく。今考えるとシュールな設定だ。なぜ金色なのか。なぜガイコツなのか。なぜ笑うのか。物心つくかつかないかという時期に観た記憶があるが、作中には全然説明されていなかったように思う。

 『ワッハマン』は、ある日海から現れた。というより、砂浜に埋もれていたのを発見されたというべきか。一万年前、悲願の目的のもとに究極無敵の戦闘マシンとして甦ったはずの彼は、自分が誰だったのかも、誰と戦っていたのかも、ほとんど忘れてしまっていた。決して傷つかないはずのオリハルコンの装甲である彼の額に不気味についた傷跡は、かつての戦いの激しさを物語る。「ワッハマン」という名前も、屋台で知り合ったそのへんのオッサンに便宜上つけられたものである。……であるからして、現代に復活した彼のとりあえずの目的は、「ごはんを食べること」だ。永久機関に近い彼のシステムは本来食事など不要なのだが、彼は黙々と食事をつづける。彼は寡黙だ。決して口をきかない訳ではないらしいのだが、その声はよほどか細いらしく、彼の言葉はわれわれには聞こえない。周囲の者の会話の内容から、彼が何を言わんとしているか推し量ることができるのみなのだ。

 そんなのんびりした展開を続けていたこの作品が、いつ頃から急迫につぐ急迫の展開となったのか。あの「あっと驚くどんでん返し」の設定も、数年の期間をへて仕掛けられたギミックであったし、茫漠としたストーリーがいつか収束し、物語の王道を地でゆく形となっていったあの経過は、連載当時リアルタイムで読んでいないと理解できまい。

 たとえようもなく悲惨な結末を迎えた『ワッハマン』だが、『エヴァンゲリオン』を思わせるあのエンディングには、きっといろいろな思惑が交錯していたに違いない。その救いようのない悲惨のなかで、脳天気コスプレ娘「レミィ」の明るさが大きな救いとなっていた。まさに「10年にひとつ」の秀作といっていいだろう。




1999/04


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