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空談寸評

『トンデモ本の世界』

研究、洋泉社、と学会著




へーげる奥田



 トンデモ本という言葉を初めて聞いたのは、同人誌の世界において私が勝手に師匠と呼んでいる眠田直氏からであった。たしか横浜か名古屋のSF大会の会場だったように記憶している。何かUFOとか超能力とかの本を楽しむ企画だという話だったのだが、当時まだ何のヒネリもない反超常現象派の原理主義者だった私は氏の誘いに乗らず、と学会の企画を見なかった。今考えると惜しいことこの上ない。

 時代の牽引力というか、その時代のものの考え方を規定する作品というものがある。1980年代のそれはホイチョイプロダクションの『見栄講座』だったのではないかと思う。この作品によって基礎的教養のともなわない見てくれだけのライフスタイルは免罪され、かくて日本のバブル型消費の時代は訪れたように思うのだ。1980年代よりもその方向性において一貫性を持たない1990年代にこの考え方を適用することは難しいが、「と学会」の業績というものがそれに当たると個人的には考えている。

 『トンデモ本の世界』において特に印象深かった点は2つある。ひとつは、厳密主義のものの考え方の普及だ。これは学術の方法論を少しでも知っていればべつだん珍しくもなんともない点なのだが、恣意的な記述を検証し、その出典や作者の執筆傾向などを解析するという手法を実際に使った者は少ない。「と学会」の趣旨は、べつだんオカルト等の著作を攻撃するものではなく、あたかもバードウォッチングのように見て楽しむものだというが、オカルト商売で喰っている者にとってはきわめて恐ろしいものに思えるだろう。ともあれ、従来は世の中に情報が十分に行きわたっていなかったのをいいことに、適当な「棲み分け」によって生き残り、いいかげんなカキモノを乱発していた者は「と学会」の笑いの洗礼を受けることとなった。この「情報に対する厳密さ」は、インターネットの発達など情報の摩擦が減少したことに密接に関係するだろう。現代は、不確実な情報をもとにいい加減な発言をすることがとがめられる時代となったのだ。考えてみればアタリマエの話なのではあるが。

 もう一つの点は、オカルトとかその手のたぐいの本がこれほどまでに多いという事実だ。現代というのは、科学とか文明とかの発達した時代だったよなあとか改めて思ってしまった。世界を、客観のまなざしを失った恣意のもとに「解読」し、それを社会的に発表し、そしてそれが支持をうけてしまう。こんな状況で「近代的理性」なんか信じようがないではないか。哲学などの思想の周辺には、さまざまな神秘思想があり、いちおうの知識はあるつもりだったが、現代の日本においてこれほどまでの状況とは、正直言って恐れ入った。科学哲学の世界では、「科学は発展などせず、ただパラダイムが変わるだけだ」などと主張する学者もいるのだが、こうなってくるとそれもあながちラディカルと言えない気分である。

 情報に対する厳密性、明証性をもって事にあたり、現代の「科学」だの「文明」だのといった考え方をあまり信頼しないこと……1990年という時代の思考に求められるのはこんなスタイルなのかもしれない。『トンデモ本の世界』は、時代の風をはっきりとあらわす著作と言えよう。

 ともあれ、「と学会」の仕事は笑いのオブラートに包まれつつ、今日もつづいている。実は先日ノストラダムスの予言がぜんぜん当たらないという「と学会」の本ですっかりがっかりしてしまったばかりなのだ。「破滅」を心待ちにしているタイプの者には少々住みにくい時代になったものである。





1998/10


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