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空談寸評

『読書について』

小論、岩波書店、アルトゥール・ショーペンハウエル著




へーげる奥田



 もうずいぶん昔のことであるが、あまり親しくない、やや近い年齢の学生と話していて、なんということなしにこの本の話題がでたことがある。あの本って、本なんか読むなって内容なんだよね、とその学生は得意げに喋っていた。だから、すぐ読むのやめちゃった訳よ。それでその話は終わりになった。私はべつだん反論も同意もしなかったし、もはやこの会話の主が誰だったのかまったく覚えていないのだが、大学の喫茶コーナーで賢しげに気取った口調を作っていた彼の話のその部分だけ、いやに記憶に残っている。きっと、彼は得意だったことだろう。自分は哲学者の本にもちゃんと目を通す教養をもっていて、なおかつそれが内在する矛盾点をついて、ショーペンハウエルにひとあわ吹かせたのだ。こう書いてしまうとずいぶん間抜けに思えるかもしれないが、たしかにその場において彼は、なんだかとてもカッチョよさげであった。

 損得勘定で考えてみるとどうだろうか。私は、総合的にみて彼はやや損をしているのではないかと思う。世の中を皮肉っぽく見るスタイルをとって、いっぱしを気取ることは誰にもあることだが、百年の歳月を経てなお残っているコンテンツというものは、少なくとも一読する価値があるのではなかろうかと、昨今氾濫するコンテンツを見ながら考えている。

 ショーペンハウエルについて哲学史の本など読むと、「ドイツ観念論」「厭世哲学」「ロマン主義」「意志の哲学」「自殺礼賛」「盲目的生への意志」等々、それらしい用語が列挙されている。しかしショーペンハウエルは、主要な哲学者にはあげられていないことも多い。カントの正統継承者を自らうたったショーペンハウエルはしかし、哲学史の主要潮流からはやや離れたポジションにいるようである。私流に言えば、ショーペンハウエルは哲学界のカール・ゴッチとでも言えようか。プロレス界にあってもゴッチも、伝説の強豪フランク・ゴッチにあやかって名乗ったものの、同世代の「鉄人」ルー・テーズの名声には比べられるべくもなく、またショーマン技術の欠如からか大きなタイトルに恵まれず、ただ「無冠の帝王」等の称号を得るに至った。その教えを受けた選手たちの格闘技界での大きな活躍により、選手そのものより、むしろトレーナーとしての評価のほうが高いとすら言われる。ショーペンハウエルも似たような状況にあった。同世代のヘーゲルに寄せられる近代哲学の最高峰たる名声は揺るぐことなく、その特異な「意志の哲学」にしても、彼の思想の影響によって現れたニーチェの「権力への意志」の思想のほうがはるかに有名である。だから何ということもないのだが、解説書的捉え方よりなんぼか面白いのではないかと思うがいかがか。

 文庫本『読書について』には、全3篇の小論が掲載されているが、みな『パレルガ・ウント・パラリポメナ』から抜粋された文章である。手にすれば、その平易さに拍子抜けするかもしれない。たしかに、無批判に本など読むべきではないという内容の本だが、それはむしろ自らの思考力を養うべしというきわめて基本的な、しかし重要な主張に拠っている。私は哲学関係の本を多く読むようになった比較的初期の頃にこれを手にし、以来「意識的に思考する訓練」を欠かさず実行したものだ。「観測者が死ねば世界は消失する」という極端な主観一元論を展開する思想家ではあるが、その卓越した文章の妙によって、かたくるしい文章が苦手な向きにも読みやすい本である。知の鍛錬を目指す若手に薦める書籍だ。





1998/08


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