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空談寸評

『攻殻機動隊』

コミックス、講談社(ヤングマガジン増刊・他掲載)、士郎正宗




へーげる奥田



 WWFのメンバーでもあるPAM氏はとにかくバイタリティにあふれた人で、いろんなジャンルの情報が早い。『攻殻機動隊』という作品を最初に聞いたのもPAM氏からだった。他人が話す作品のストーリー解説というのはよくわからないのが常だが、有線で脳を接続するリアルな近未来世界という設定に興味をもった記憶がある。

 いしかわじゅんの『漫画の時間』では、士郎正宗に関して「大友克洋の影響下の漫画家」という評価以外何も書いていないが、実を言うと大友系のマンガは苦手で、『童夢』も『AKIRA』もまだ読んでいない。そればかりか、士郎正宗の他の作品も読んでいない。『アップルシード』とか、話を聞いただけで難しそうな気がして抵抗があったりする。もし押井守がアニメ化しなかったら、たぶん『攻殻機動隊』もまだ読んでいなかったに違いない。しかし実際に読んでみるとたしかに面白い。情報処理や現代思想に興味を持っている向きには尚更である。

 『攻殻機動隊』が著されたのは主に1980年代後半だと思う。この、まだ「インターネット」もパーソナル・コンピュータもそれほど一般的ではなかった時代に、この内容はなかなかすごい。当時、おそらくまだ文化全体に知的影響をあたえていた1980年代前半のニューアカデミズムの名残や、また盛んとなっていたニューサイエンスや一種の科学的オカルティズムなどの片鱗を見ることのできる『攻殻機動隊』には、しかしてそればかりでなく、精緻に考えられた世界観を感じることができる。

 『攻殻機動隊』の世界は特段に暗く描かれている訳ではない。オカネモチの遊びは現代人の想像もつかないほど贅沢でキモチイイものらしいし、かなり貧乏な者でも脳をコンピュータ化していたりするところから見てこの世界は経済的にはかなりゆたかな社会であろうかと思われる。ただ、どうも作品全体の雰囲気は暗く、重い。なぜかと考えたが、まず描かれている世界がハイパーテクノロジーの部分中心であるため、たとえば一般家庭の生活などの描写がなく、現実的なシンパシーを抱きづらいこと、また体の一部を機械化するというこの世界の常識が、現代のわれわれにとってややネガティブな意味を含むことなどが思いついた。いやそれ以前に、これは犯罪ものの作品なのだから暗いのはあたりまえか。そりゃそうだよな。

 押井守はこの作品に対し、「記憶」によって構成される世界に対する懐疑というようなアプローチを行った。たしかに脳科学の説明では、人間の体験などというものはそれほど「密」なものではなく、脳の中の情報としてはインデックスとなる記憶の断片があるにすぎない。体験や思い出は、多くの場合「思い出す」という行為によって再構成される二次的なものだという。天賦の肉体が単なる脳の入れ物に置き換えられているばかりでなく、人間の記憶、それも自分の頭の中に描くイメージすら加工可能な単なる「もの」であるとしたら、神亡きあと何世紀かのあいだ人間の精神のよりどころであった「自我」という概念はたやすく信じ得ぬものへと頽落することだろう。そうなったとしたら、人間は何を精神のよりどころとすればいいのか? 『攻殻機動隊』の世界の息詰まるような「居心地の悪さ」という気分は、もしかするとそんな不安に通底するものなのかもしれない。

 情報と合理的なロジックによるルーチン化された判断による決定論的な世界にあって、草薙素子は「ゴーストの囁き」なる非論理的な物言いをする。草薙素子(たぶん偽名だとの注釈がある)のこの非論理性は、なぜかふとわれわれを安心させる。また、押井守の描く能面のような彼女と違い、「原作」の素子は表情が豊かだ。上司の命令にブータレることもあれば、思わぬ事態に間抜けな顔のリアクションをすることもある。逆に同僚のバトーはべつだん素子に特別な感情を持つこともなく、淡々と(だが楽しそうに)自分の仕事を遂行する。個人的にはバトーのキャラクターがいちばん好きだ。「哲学」の記述こそあまりないが、情報科学や科学哲学、意味論などをつきつめた議論が刺激的である。






1998/07


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