空談寸評のページへ戻る

空談寸評

『鳥頭紀行』

コミックス、朝日新聞社・他、西原理恵子




へーげる奥田



 白状すると、この本の評なんか書くには修行が足りん。そもそもサイバラ作品はあんまり読んでいなかったのである。『ちくろ幼稚園』とかは読んでいたが、まあ普通の毒漫画だと思ってそれほど注意していなかった。しかしその魔力は年を追うごとに増大し、いまや第一級の毒々漫画家である。……しかし、『ちくろ幼稚園』の頃サイバラって学生だったのね。なんだわしより若えんじゃねえか。

 だいたい私は基本的にギャンブルとかが好きでないし、ギャンブルなんかに人生を賭けたりなんかしてるヤツとかが好きではない。WWFの準構成員の某に訊いたところ、サイバラを理解するには『まあじゃん放浪記』とか『ぼくんち』とかを読まなければならないという。しからばと『まあじゃん放浪記』を本屋で立ち読みしたのだが、何だか暗号みたいな用語が飛び交っていてさっぱりわからん。これはまあせいぜい『ぎゅわんぶらあ自己中心派』とかそのへんの有象無象ギャンブル漫画家の一人かな、とそのとき思った。

 ちなみに私は人間とはあまり麻雀をやったことがない。せいぜいファミコンとかWindows95のゲームとかでセブンブリッジ的な手であがる程度である。「近代麻雀」とかを好んで購読し、パチンコには開店から閉店まで並び、人生なんかどーでもいいやというスタンスがないとサイバラは理解できないのだと彼は言った。

 しかしまあ、ナイフが切れることを確認するのにいちいち指を切ってみる必要はない。麻雀とかはわからんから、せめて特殊なスキルなしでも読むことのできる作品『ぼくんち』を買ってきて読んだ。とりあえず第1巻だけ買ってきてを読んだのだが、翌日わざわざまた本屋に行って2巻と3巻を買ってきて一気に読んだ。これはスゲエとか思った。ハヤシフミコみたいな読後感であった。これはとてもとてもかなしい物語であって、別途取り扱う必要があろう。正直こっちの作品を評しようかと迷ったのだが、初志貫徹をすることにした。

 『鳥頭紀行』は、とりあえず旅行記というかノンフィクション的作品である。アマゾン行って魚釣ったりタイに行って屋台の喰いもん喰ったりと、世界規模の行動力をもつ作品だ。もしも日本語が読めない外国人とかが作品をちらと眺めたら、なんか牧歌的な童話のようなものなのかと思うだろうか(思わんか)。ときどき絵が「なんきん」になる。だがその内容はもうダメ状態の悪・毒・黒の世界である。そうしたものをさらりと描くこの芸風は凄い。紀行なのだが、なんか酒ばっか呑んでゲロばっか吐いて、殴り合って暴虐の限りを尽くしているだけみたいな気もする。『ぼくんち』のような、詩的で超越的な感覚とは異なる、荒々しい野生に満ち満ちた紀行なのだ。しかし、何だか彼女の周りには無差別暴力野郎とか麻薬中毒とかヤンキーあがりとか元暴走族(彼女自身がそーだ)とか、その手の人間ばっかり集まってくるみたいである。まあ類友、悪が悪を呼ぶという状況なのだろうが、とりあえず元気があってよろしい。

 しかし、もともと悪というのは人為的な概念である。人間が世界を「分類」のまなざしで見ることによってはじめて、悪だの善だの、キレイだの汚いだのというカテゴリーが生じるのだ。従って、そんな人為を排去したまなざしをもった、ある意味ピュアな目で見れば、この紀行は最もピュアな物語なのであろうとすら思う。中世のキリスト教徒は風呂に入らなかった。身綺麗にすることは現世快楽の追求だという考え方と、垢や汚れなどもみな等しく神の作りたもうたものだという一種のホーリズムがそうさせたらしい。サイバラ作品は、そういった究極のホーリズムのまなざしで見るとき、実にすがすがしい見聞録としてわれわれの前に開示されるのではなかろーか。いや、正直なところ、あんだけ傍若無人のイチゴタニさんとゆーか、ガルバトロンも拳王もサイバラリエコにゃかなわないという状態を見ていると却ってすがすがしいのだ。オトモダチにはなりたくないけど。

 ちなみにいま、かなりべろんべろんに酔っぱらった状態でこれを書いている。シラフでこれを書いたらば「勝ち負けで言えば負け」だからだ。おかげでナニ書いてるのか自分でもよくわからんようになったが、まあ今日のとこは「引き分け」ということにしといたらあ。わはははは。






1998/06


 ・空談寸評のページへ戻る