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空談寸評

『スクラップ学園』

コミックス、秋田書店(月刊プレイコミック連載)、吾妻ひでお




へーげる奥田



 あじましでおだ。う〜む。なんもおもいつかん。と思考停止している場合ではないのだが、実際吾妻ひでお作品の評なんていうのはキワメテ付きで難しいと思う。いまだ、吾妻ひでおについて感服するような評というものを読んだ記憶がない。……と、愚痴をいっても始まらないのでとにかくトライだ。

 時は1980年代初頭、時代は完全に吾妻ひでおであった。「時代」には、文化の牽引車たるジャンルがしばしば出現する。当時それはSFだったりした訳で、それまで手塚治虫の古典的継承派亜流として、少年チャンピオンとかに大して面白くない少年マンガを描いていた吾妻ひでおはSFと結びつくことによって時代に君臨することとなった。

 吾妻ひでおの「テイクオフ」は、1978年に起こったとするのが現在いわれている定説である。この年、少年チャンピオンの連載を打ち切った彼は、唐突になんだかよくわからんシュールレアリズムというかSFというか、そんな感じの世界を開拓していったのである。

 当時、マイナーな世界の情報を得ることは非常に難しいことであった。現在のようにインターネットやパソコン通信がある訳でもなく、それどころかサブカルチャーとか裏の世界をわかりやすく解説してくれる雑誌のたぐいなども一切なく、そうした世界に興味のある者はみずからの足をもって情報を集め、自らその世界に身を投じて行くしか手がなかった。何しろ金もなければコネもない単なるグリーンボーイの学生だった私は、それでもくわしい友人と情報を交換し、世の中には同人誌なるものがあるそうだとか、SF大会というものを知っているかとか、コミックマーケットが晴海会場に移ったそうだとか、日々これ修行にいそしんでいた。そんな者たちにとって、吾妻ひでおは教祖的存在として、その地位を確立していた。

 1978年、『パラレル狂室』、『どーでもいんなーすぺーす』、『不条理日記』等その後の方向を確立する作品が発表され、翌1979年には第18回日本SF大会で『不条理日記』が星雲賞を受賞、『メチルメタフィジーク』や『るなてっく』が連載開始された。もはや吾妻ひでお作品は「哲学」の域に達しつつあった。

 現在であれば、「不条理マンガ」なるジャンルはすでに市民権を獲得した観があって誰も驚いたりしないが、当時の吾妻ひでおにはみな驚愕した。それまで、不条理的作品としてつげ義春がいるくらいで、こうしたギャグマンガのジャンルでシュールを語る者などほとんど皆無だったのだ。これを読みこなすのに、われわれにあるテキストはせいぜい安部公房ぐらいだっただろうか。当時の学生は持てる限りのリクツをこねて吾妻ひでおを語ろうとし、だがその作品群はそんな半可通どもの努力を嘲笑うかのごとく君臨しつづけた。

 1980年1月に連載を開始した『スクラップ学園』は、そんな吾妻ひでお作品のひとつの頂点といった位置にある作品だ。ポニーテールの美少女・猫山美亜(通称ミャアちゃん)は、傍若無人の「じょしこーせー」である。何しろ学園ものというジャンルは吾妻ひでお自身がSFの対立概念として挙げている「日常的」な場において展開するもののはずなのであるが、この作品に限っては日常とかそーいうレベルの話どころではなくなってくる。狂気とかそういう概念はそのすぐ後にくるニューアカデミズムのブームでさんざん語られたが、少なくともこの作品はそういう評価はふさわしくない。その完成されたストーリー運びは、緻密に計算され、のちに「いろいろあってオチ」という名言を生んだ吾妻流暴走ギャグの手柄と言わなければ失礼であろう。

 1980年初頭を決定的に定義した吾妻ひでおは、その絶頂の人気のなかである時唐突に姿を消した。それはあまりに突然だったのだが、たしかに『ななこSOS』等の中にその「破壊」の兆候は現れていたのかもしれない。ともかく、マンガどころかあらゆる作品発表の世界から完全に消えた「教祖」は、日本の「その筋」の文化のなかに凄まじい影響を与えることとなった。ここ数年になってまた突然復活した彼にあってはそのカリスマ性は影をひそめているが、あの日の驚愕を決して忘れられない世代のわれわれにとって、『スクラップ学園』は永久に未完の狂騒の場としてあり続けるのである。






1998/04


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