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空談寸評

『こどものおもちゃ』

 

コミックス、集英社(りぼん連載)、小花美穂




へーげる奥田



 最初に彼女を見たのは、友人宅でなぜだか転がっていた少女マンガ誌『りぼん』をぱらぱらとめくっていた時だった。そもそも少女マンガ誌なんかほとんどまったく読んだことがないもので、どのページを開いても何だか読むところがない。もう2〜3年も前のことで記憶はおぼろげであるが、その本の中でこの作品がふと目に留まったことを今でも覚えている。事情はよくわからないが、その少女は何かをひどく恥じていた。何だか母親らしき人物がその少女を罵倒していた。なんだかひでえ母親だなあ、とか思った記憶がある。

 それからほどなくして、似たようなシチュエーションでふたたびこの作品と相対することとなった。これも記憶がおぼろだが、主人公の友人らしき少年の父親が何か病気になったらしい。ずいぶんと態度のでかかった彼が頼りなげにつぶやく「親父が死んだらどーしよう」という言葉は、私のこの作品に対する視点を決定的なものにした。その後この作品は『すごいよ!! マサルさん』で昨今話題の大地丙太郎監督の手によるアニメ化で一躍有名になり、私もけっこう楽しみにこれを見るようになった。原作の単行本を揃えて読んだのは少し後になってからの話である。

 おそらく、この作品の本来の読者となるべき年齢層の子どもたちは、主人公倉田紗南や羽山秋人らのキャラクターに感情移入しているのだろう。自身を省みても、今まではこうした作品に際して、ほとんど無意識に主人公の年代のキャラクターに感情移入のフォーカスを当てていたように思う。主人公の世代とは明らかに異なった視点、「オトナの目」で作品を見ている自分にはっきりと気づいたのはこの作品が始めてではなかったろうか。「子ども」と「おとな」を分かつのは、長靴で水たまりに入るか避けて通るかの違いであるなどといった言葉をいくつか聞いたことがある。アニメ版最終回において、「だから……しっかりしてよねオトナ!!」というセリフに多少なりとも胸の痛みを感じた自分はやはり「オトナ側」の人間なのだろう。

 作品『こどものおもちゃ』には、著者小花美穂氏のいくつかのスタンスがかなり明確な形で語られているように思う。オトナ側の都合や理屈に翻弄されながら、必死に生きる子どもたち。そして一方の大人たちもまた、同じように愚行を重ね、不様に不器用に生きていく。この作品にあっては、理由なしに悪い人物というものは登場しない。どの状況も、ほかにどうしようもない不可抗力の関係の中で生まれた必然の産物として主人公たちの前に展開する。誰も悪くない、誰も責められない関係論に展開する罪と罰の物語、そんなヘビーな内容の作品なのである。

 身体障害者となった羽山と、精神の病を得た紗南。非常に暗く、重いストーリーを語りはじめた原作に対し、その爆発的なノリで新境地を開いたアニメ版は、さすがに毒に満ちた原作よりはソフトに、しかしそのテーマに着実に追随する形で2年間の放映にその幕を閉じた。どちらも特筆に値する、また個人的にも忘れることのできない作品である。





1998/03


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