空談寸評のページへ戻る


空談寸評

 

『銀河鉄道999』

 

コミックス、少年画報社(週刊少年キング連載)、松本零士



へーげる奥田



 数年前、マンションを買った。自分の家だ。引っ越しのために荷物を片づけていたら、一枚の定期入れがでてきた。


地球 ←→ アンドロメダ

経由(オリオン・プレアデス)

無 期 限



 それは、十数年前「週刊少年キング」についていた「無期限パス」だった。当時中学生だったわれわれは、こぞって雑誌を買い、高価なパスケースに入れて「宝物」として保管したものだった。懐かしい思い出が脳裏をよぎったが、いまや「おとな」であり、それが単なる編集側の販売促進企画にすぎないものであったことを十分に心得ている私は、ふと苦笑いをうかべ、古びたパスケースを静かに廃棄のダンボールに入れた。

 ごく最近になって、『銀河鉄道999』の単行本を最後まで買った。連載当時から欠かさず読み続け、単行本も揃えていたのだが、最終回近い巻を読んだ記憶がない。よく覚えていないのだが、たしか原作コミックスの刊行に先立って劇場アニメが制作され、鳴り物入りで公開されたような気がする。正直いってアニメの『銀河鉄道999』はあまり好きではなかった。テレビシリーズではなんだか原作に似ても似つかないキャラクターが興をそいだし、劇場版についても、たしかにできはよかったのかもしれないが、原作のもつあの幻想のような雰囲気が損なわれたように思ったものだ。しばらくして、アニメの内容の後追いのようにコミックスが描かれ、最終巻も刊行された。しかし私はそれを買わなかった。あれほど熱狂した作品の最後を、あのような形で迎えたくなかったのかもしれない。

 あれから十数年たった今、あえて最終巻を読むことにより、ようやく私の銀河鉄道の旅は鉄郎とともに終わりを迎えた。私自身が、それを受け入れることを些細なこととして受け入れられる歳になったというのがひとつめの理由だ。あのころ、私自身も鉄郎と同じく夢を信じていたし、鉄の意志をもって目的を達成できると思っていた。相当に無茶な説を唱えるならば、あのころの世代の子供たちは、松本零士の作品世界によってその倫理観や責任感などの意識を構築したようにすら思う。しかし今、目的のために歯を食いしばって戦う者、友を信じてその命をも賭することのできる者、そんな人間像が虚構の世界にしかありえないことは子供でも知っている。だからメーテルとの別れを単なるひとつの虚構として無表情で受け入れることができたのかもしれない。ふたつめの理由はたぶんそうだ。

 しかし三つめの理由は、もうひとつの物語の始まりのためである。十数年の時を超えて、鉄郎の新たな旅は始まった。この知らせを聞いたのもごく最近になってからであり、ながらく会えなかった友人は以前と変わらぬ姿で(髪の毛が1メートルぐらいのびていたようだが)われわれの前に現れた。彼の境遇にもいろいろとあったらしい。だが、やはりかの帽子とマントに戦士の銃を携えたその姿は懐かしい。昔とは違った出版社の、昔よりずっと豪華な装丁の単行本のなかの彼に少し照れつつ無沙汰の挨拶をした。あのパスを捨てなければよかったなと、そのときふと思った。

 信念だの、友情だの、鉄の意志だのといった言葉に寒々とした風が吹く時代である。だがわれわれが、かつて少年の日を鉄郎と共に旅したあの世代である以上、もはや旅をやめる訳にはいかぬ。銀河超特急999は途中下車を許さないのだ。シニカルでニヒルで退廃的な時代の雑音に耳をかすことを死にものぐるいで拒否しつつ、われわれの旅は続くだろう。だがまあ、ちょっとは気をつけよう。ストレスをためすぎて十二指腸潰瘍とか脱毛症とかにならない程度に息を抜いて。なにしろわれわれはもう「おとな」なんだから。



1997/12


 空談寸評のページへ戻る