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空談寸評

『魔法のプリンセスミンキーモモ』

TVアニメシリーズ、葦プロダクション、首藤剛志 原案・構成



へーげる奥田



 この作品は、私が作品世界の内部に入り込み傾倒した、おそらく最後のストーリーである。過去のイキサツもいろいろあって、「寸評」などというスペースで語ることなど到底不可能なのであるが、まあここはひとつ割り切ってやってみよう。

 かつて、世が学生運動や反戦フォークの喧噪を帯びていた時代、ひとりの学生がミュージカルのシナリオを著した。人々に夢と希望を伝えるべく現実の世界に降り立った男の活躍と挫折を描いたその作品『フィナリナーサから来た男』の中には、のちに日本アニメ界に衝撃的なデビューを演じる作品のエッセンスが原基的萌芽の形で息づいていた。

 いまでは諸説入り乱れているが、『ミンキーモモ』ははっきりと「暗い作品」である。たしかに、暗い作品性があらわとなっていったのは第一シリーズ最終回が近くなってからのことである。それまでは、軽快なテンポに乗ったギャグや暴走ストーリー、底抜けに明るいキャラクターたちの活躍が見る者を楽しませてくれるが、それ以前にこの物語自体が持っていた絶望的とも言える基本設定を考えてみるがよろしい。夢や希望を失った地球の人々に、「いいこと」をする事によって夢や希望を取り戻させる――それは、最初から敗北を決定づけられた戦いだったのだ。

 17世紀頃を境に起こった「人間の世界に対するまなざし」の変化は、はたして人間にとって幸福なものだったのか。合理主義や経済が世界のシステムを構成する現代を、人間不在の時代として警告する思想は数多い。人間を主体とする遂行運動をその突破点とし、世界を人間の手に取り戻させようとする立場は、後期ハイデッガーの詩的哲学やミヒャエル・エンデのメルヒェンなどにも見ることができる。しかしそれらの思想すら現代の知の構造を変えるに至ってはいない。彼女の敗北は約束されたものであるばかりでなく、その死もまた運命づけられたものだった。現代社会にとって彼女の非合理性は許容されるものではなく、目的を達することのかなわぬ彼女は死をもってその旅を終えるか、あるいは一個の「妖怪」として永遠に彷徨するかの択一を迫られることとなる。前者の道を歩んだ彼女に対し、10年ののちに現れたもう一人の彼女は後者の道を選ぶこととなる。

 『ミンキーモモ』のテーマによくあうと個人的に思っている曲に、『ネオ・ブラボー』がある。暗雲におおわれた現代を、桑田佳祐のアップテンポのボーカルで歌いあげた名曲だ。やりきれない暗さをキャラクターの底抜けの明るさで飾った『ミンキーモモ』。東映動画の専売であった魔法少女アニメの歴史にあって事実上初の他系列の作品であり、また1980年代のアニメブームの重要な一角を担った作品でもある。ともすれば正当ならざる評価を得ることが多かったが、その存在意義はきわめて大きい。これを通じてさまざまな人々との出会いをもたらしてくれた、私個人にとっても特別な一作である。




1997/12


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