空談寸評のページへ戻る

空談寸評

『エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを君に』

劇場用アニメーション、ガイナックス、庵野秀明 総監督



へーげる奥田



 何しろまだ一度しか観ていないものだからどうもこなれていない。しかしまあ前回劇場版も取り上げたことだし、これは避けて通れんということで、とりあえず何か言ってみよう。

 前回もそうだったが、会社帰りに渋谷の映画館で観た。私の場合、映画は最前列の真ん中で観るのが好きだ。多くの人は嫌がる席なのだが、前列に座った奴の頭の動きなどに気をとられるといったことがないので気楽でいいのだ。入場するとまっすぐ最前列真ん中の席に向かった。最前列はまだ誰も座っていない。よしよしと思ったら、向こうからまったく同じ考えらしい男がまっすぐ向かってくる。お互い中央の席を狙っている。必然的にほぼ中央の席ではち合わせた。こっちも意地なので「ここがど真ん中」と思われる席に座るが、向こうも同じ考えらしく私の隣に陣取った。結局誰も座っていない最前列に見ず知らずの男と隣同士で観ることになってしまった。なんか異様である。

 ところで、こういう特に気になる映画を観る際、どうもトイレが近くなるというやな習癖がある。ふだんはべつだんそんなことはない。『もののけ姫』などの場合は最後まで悠然と鑑賞することができたし、もっと長い映画でもまったく平気だ。しかし『2001年宇宙の旅』だとか、一瞬たりとも目をそらしたくない作品に限ってトイレに行きたくなる。『エヴァンゲリオン』の前回劇場版もそうだったが、このときは『DEATH』篇と『REBIRTH』篇の間隙を縫ってトイレに走った。今回もその要領で『Air』と『まごころを君に』の合間にさっさと行ってきた。こういう時も最前列は便利である。

 肝心の内容であるが、まあ例によってネタバレになるようなあまり詳細な部分には言及しない。ごく大まかなところにのみ触れる。

 「気持ちいい」という言葉にくらべ、「気持ち悪い」という表現は多義的である。「気持ちいい」がきわめて具体的な感覚ないしは感覚的状況を指すのに対し、「気持ち悪い」という言葉は具体的な皮膚感覚的言及でもあり、また生理的嫌悪感の表現、あるいはより肉体的な嘔吐感、場合によっては状況としての気分一般をも指す。嘔吐感に関して、特に実存哲学による言及は興味深い。ニーチェやサルトルの場合、論理的明証性や合理的整合性を欠いた「不条理」に満ちた現実世界に対し、その粘性、不透明性を「嘔吐感」としてあらわしたのである。

 今回の映画では、前作にくらべ、ネット上などでの言及をあまり見ない。正確な統計を取ったわけではないが、作品自体やそれを中心として形成されたきわめて特殊なコミュニティに没入した発言は、以前にくらべてずっと少ないのではないか。個人的な印象ではあるが、確かに今回の作品では、以前のような鑑賞者の作品への没入を妨げるような表現を感じた。表象の世界のみに遊び、責任や身体的実在から逃れることのできない現実世界を省みない者に対する制作者側の諫言であろうか。

 ミッシェル・フーコーは、ルネッサンス期のヨーロッパにおける「類似」というキーワードで規定されていた思考空間が消失し、それが「表象」という概念によって規定される思考空間へと変化してゆく過程において、もはや崩壊した「類似」を追い求める象徴的なキャラクターとして「ドン・キホーテー」をあげた。ドン・キホーテーの目には「書物」の記述どおりに護るべき「麗しの姫君」が映り、彼の行く手には「巨人」が立ちふさがる。今回の『エヴァンゲリオン』は、ほんとうは既に崩壊してしまっている思考空間に居つづけようとする者たちへのひとつの問いかけだったのかもしれない。それはある者にとっては厳しい問いかけだったことだろう。この作品に対する一般鑑賞者の沈黙は、単なる物語の終焉や生理的嫌悪感だけが原因なのではなく、その問いかけによって生じる「痛み」からくるものなのかもしれない。

 いくつかの不条理を残すものの、すくなくとも物語はみごとにその幕を閉じる。私個人としては自己の心象風景を描写したかのような全体の雰囲気にシンパシーを感じたが、それは同時にとても悲しい共感なのかもしれない。どちらにしても一見に値するすぐれた作品である。いま気がついたが、実はこの作品に対して書きたいことはたくさんあるようだ。いずれ場を改めて論じることにしよう。




1997/08


 ・空談寸評のページへ戻る