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空談寸評

『トップをねらえ!』

OVA、ガイナックス、庵野秀明監督



へーげる奥田


 最初にことわっておくが、この寸評はいま編集しているWWFNo.17用に書いたものであるからして、ドージンシに載せるつもりだし、そのために「1ページに入る尺」で書く。だからちょっと短いかもしれない。まあいいじゃないですか。商売じゃないんだし。



 最初の出会いは、この作品が発表されてまもなくのことだった。私の「同人誌界での師匠」である方にダビングしていただき、第一話を観た。

 その場でこれはついて行けんと思った。ロボットが腕立て伏せをやっているシーンが、当時の私にはひどく嫌な、ある特殊な世界の住人にだけ通じる笑いを要求する下品なものに映ったのである。

 結論から言ってしまえば、当時の私は狭隘な感受性の持ち主であった。「これは正しい」とか「正しくない」といったものの考え方を引きずる幼さがあったのだと思う。第三巻まで観るのにそのあと数年、全巻観たのはつい最近のことである。今にいたって、私は当時の自分の「観る目のなさ」を痛感した。同時に、「○○のやりたいことはわかった」病の怖さを自覚せざるを得なかった。

 まず作品として面白いと断じていい。とにかく「パロディだけでつくった作品」といった評価が先行するきらいがあるが、その見方自体すでに特定の思考習慣にはまりこんではいまいか。ソフトウェアとして正常な機能(この場合は「おもしろさ」の供給)が確保されているかという点をこそ評価すべきだし、この作品にはそういった目に耐える十分なパワーがあると思う。

 映像作品がそれ自体の「世界」を構成し、それが形成する思考空間のなかで新たな作品を創造する動きがはじまる。そのひとつの流れの中のものとして見ても、確かに歴史的な位置をもつ作品である。語る者、語られた言葉、その解釈、さらにその再定義としての語り──どの文化構造のなかでも普通に展開する流れがここにおいても現れただけのことだ。このことを直視する動きはここ数年ようやく顕在化してきたが、まだまだ難しい問題は多いことが『エヴァンゲリオン』で証明された観がある。観る者の成熟が必要な作品、と成熟していなかった私に言う資格はないかもしれないが、とりあえず今はこう言っておくしかあるまい。

 アニメをもっと普通に──特殊な、観ている者がこんなものかと思わないような作品メディアとして──そういった主張が、ガイナックスの活動にはあるような気がする。その行動開始とも言えるこの作品の評価は、そろそろ歴史と世界がくだしそうである。


1997/06


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