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空談寸評

『寄生獣』

コミックス、講談社(「OPEN」および「アフタヌーン」連載)、岩明 均



へーげる奥田


 私が以前勤務していた職場は西船橋のはずれで、何となく世間から隔絶されたような感じのするところであった。そこには十数名の同僚がいたが、その事務所であるときふとしたことから流行ったのがこの作品だった。ふだんあまりディープな漫画などを読まない連中にマニアックな作品を読ませた時の反応を見ようと思って単行本を貸したのがそもそもの発端だったのだが、漫画など全然読まない同僚から年輩の課長まで反応はかなり好評であり、中には買い込んで読む者さえいた。やはり本格的に力のある作品は媒体の種類を超えて受け入れられるものだと思ったものだ。

 その生物は幼生の段階で人体に入り込み、頭部に達してこれと同化する。そのとき脳やその周辺の構造を記憶し、まったく同様な形となってすげかわる。頭から上を完全に乗っ取ったこの生物は、非常な速度で自由な形に変形し、ゴムのような弾力、鋼鉄のような硬さ、人間をはるかに凌ぐ高度な知能を有するようになるのだ。だが首から下、内臓器官は宿り主のものを使わなくては生きていけない。寄生して生きるしかない脆弱な無敵の超生命体「パラサイト」がこの物語の中心となる。

 この生物は寄生主となった生物の同族を喰う。イヌに寄生した者は犬を喰い、ヒトに宿った者はヒトを喰うのだ。主人公の少年の場合、頭部に侵入しようとしたパラサイトの幼生がふとしたことで右手に宿ってしまったことが他と異なった。物語はここから始まる。SFではよくある設定だとか威張る蘊蓄乞食もいるかもしれないが、なかなかエキサイティングなハコだとは思わないかね諸君。

 この作品の中には作者岩明均氏のライトモチーフがいくつも充填されている。身体性の問題もそのひとつだ。身体は人間の物理的な存在基盤であって、感覚的緻密さをもって意識の管理下にある。ために多くの場合、身体の存在は物質的不透明性から解放された形で認識される。動かそうと思っただけで手は動くし、いま体がどんな体勢をとっているかは目をつぶっていても把握できる。そこには不透明な要素はなく、かくて身体は物質でありながら意識の一部として同化しているのだ。しかし、岩明均はあくまでその冷酷な物質性に執着する。

 身体の物質的破壊、身体の不透明性の開示。そうした極限状況の提示をもって、岩明均の身体の存在論は展開する。肉体の一部が「我」の領域を離れて語り、行動する。近代的自我という知の体系を構築した、交換不可能性が前提のはずの「我」も、単なる装置としての肉体に依存するだけの脆い存在にすぎない。このことを暴露しようとしたとき、『寄生獣』は誕生したのかもしれない。

 あくまでそれは、「日常」の風景から語られ始める。ごく普通の生活の中で近代的自我がその虚構性を露呈した瞬間、「肉の狂気性」は解き放たれ、「身体の存在論」としての物語が始まる。90年代を代表することとなるであろう重要な一作である。



1997/05


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