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空談寸評

『インターネットはからっぽの洞窟』

ノンフィクション、草思社、クリフォード・ストール著 倉骨 彰訳



へーげる奥田


 実は私は仕事上インターネットや電子メールなどの普及につとめるべき立場にある。今から6〜7年前、やっと社内LANでメールのやりとりをした。最初はASCII(半角英数字)しか送ることができず、漢字変換をうまく組み込むことができたときはずいぶんと感動したものだ。やがて社内LANからインターネットにメールを打ち出すことに成功し、はじめて「モザイク」の画面を見た。といっても別に私自身がシステムを構築した訳ではぜんぜんなく、エキスパートな手腕の課長の手練手管を感心して眺めていただけであって、そもそも当時は目の前のウェブがいったい何なのかぜんぜん理解できていなかったものである。その後、社内にuucp接続でインターネットメールの導入を手伝い、社内情報化推進ワーキングメンバーのハシクレとして微力を献じたものである。

 だから、腹が立ったのだ。

 この本は、全体を通じて「コンピュータに何ができないか」という例をしつこくしつこく述べている。コンピュータなんか大したものじゃない、それどころか早急に唾棄すべきものである、コンピュータを扱うのなんかやめよう、今やめようすぐやめよう。繰り返し述べているのは非常に名高いネット・マスターにして天文学者のクリフォード・ストール氏だ。『カッコウはコンピュータに卵を産む』のネットワーク犯罪者追跡で一躍有名になった氏は、映画『インデペンデンスデー』に登場するちょっとサイコな科学者にそっくりな人物である。彼のライフスタイルは、われわれ下っ端ネットワーカーの理想だった。一日数十通のメールを読み、ネット上から学術論文や学術資料のファイルをGETし、世界のネットワーカーたちとリアルタイムに情報交換する。そんなスタイルにあこがれて、私たちは努力してきた部分がちょっとはある。その彼がなぜ、とつぜん180°翻った本を書いたのか。人を屋根に上げておいてハシゴをとられた気分である。

 たしかに、少しでもコンピュータの知識がある者なら、作者の指摘にはいちいちうなづくしかないだろう。氏の指摘は、われわれが常に感じ、それを克服しようとつとめ続ける限界を、サディスティックに提示しているように思えたのだ。そしてまた、悪意の見方をすれば、インターネット黎明期からの古い住人である作者が、最近のブームでわっと押し寄せた新参者たちに眉をひそめてしたためた、エリート意識のなせる書とすらとれたのだ。

 実際、本の全体を通じて、どことなく作者の迷いのようなものを感じるようでもある。コンピュータを使うことをすすめるべきなのか、いさめるべきなのか。コンピュータの専門家としての自己撞着はないのだろうか。おそらく、書きつづる作者にはいくばくかの迷いもあったかもしれない。

 だが、これらのような要素論でこの本をとらえると、悪意にもとづくうがった感想で終わってしまいかねない。かつてカントが『純粋理性批判』で試みたように、コンピュータ文化にカテゴリーの一線をひくこと、コンピュータを使ってすべきこととすべきでないことの明確化は、今ぜひとも論議する必要のある重大な問題だ。マスコミの情報は、わかりやすさや背後の目的のために、一方の立場にかたよりやすい。そして情報がかつてないほど高速化した現代、ひとつの立場によってどっと世の中が動き、へたをするととりかえしのつかない重大な損失が生じないともかぎらない。こうした立場で声を上げる者は絶対に必要なのだ。

 ネットワーク社会のあるべき姿を模索するこの本は、技術的な色彩のつよいこの種のものとしてはたいへん平易だ。文章の専門家ではないといいながら、その文章は非常に読みやすく、また興味ぶかい。最初はかなりの反感のもとに読み進んでいたのだが、特に後半にあるネット上の「フレイムウォー」のくだりに関しては大いに共感してしまった。正直、かつて某ネットでバトルオンリーメンバーとしてさんざん暴れ回った私としてはあまり偉そうな物言いができないのだが、今のニフティのフォーラムやインターネット上のBBSなどにみられる屑アーティクルの山や、おもに匿名でくりひろげられる愚劣な喧嘩などにすっかり嫌気がさしているためだ。こういった読者を引き込む語り口や構成にはなかなか巧みなものがある。また作者は、執筆環境の変化が文体におよぼす影響を調べるため、本のパート別に「手書き」「タイプライター」「ワープロソフト」によって書き分けているという。巻末の「暗号」を解読すると、その相関がわかるようだ。このへんもなかなかに興味深いテーマだと思う。



1997/04


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