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空談寸評

『エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』

劇場用アニメーション、ガイナックス、庵野秀明 総監督



へーげる奥田


 この作品については取り上げようかちょっと迷った。身の回りではとにかくいろいろな声を聞く。何だかぜんぜんわからん、欲求不満だ、何だかんだ、まあ大変なものである。

 この手の「意見」を読むのがほとほと嫌になって久しく、ニフティサーブのフォーラムとかニュースグループとかウェブの掲示板とか、もはやほとんどまったく読んでいない。非生産的な上に読んでいて気分が悪いに決まっているからだ。そういう文章になることを避けて評を行うのはなかなかに骨の折れる仕事だと思うが、とりあえず試してみよう。


 この作品は、まあ単純に2部構成になっていて、前半の総集編『DEATH』と後半の新作(の一部)『REBIRTH』という形になっている。それぞれについて各論的な感想はあるのだが、例によってあんまり詳細な部分には触れない。

 『エヴァンゲリオン』は、TV放映時から「時系列」というものを方法論的に使用していたきらいがある。今回はそれが顕著に使われ、それ自体ひとつのギミックとして効果している。TVシリーズのストーリーを時系列的になぞり、TV放映時に成功していたような崩壊のもたらす閉塞的な終末の「気分」の再現をもくろむという技法は、「短期」の鑑賞形式としての劇場では使うべくもない。そこから考えてこういう形式に落ち着いたのかもしれない。しかし、「時系列」や「できごと」より「関係」を中心とした構成といい、本編の物語とはフィクションの位相が異なる弦楽奏シーンといい、やはり噂を聞いて初めて劇場にこの作品を見に来た観客には酷なものだったろう。

 『REBIRTH』については逆に無難な作りだと言っておこう。30分で作るには確かに内容がありすぎる印象をうけたが、評価は残りを観てからということにしておく。

 そもそも『エヴァンゲリオン』という作品は、ガイナ祭の会場で最初に観てからかなり肯定的にとらえていた。ただ、ガイナックスの作品としては『ナディア』の方が好みだったし、のめり込んだという形ではなかった。そういった一歩引いた立場で見ても、ちょっと悪口がすぎると思う手合いが多い。また、放映当初はいやに低く評価していたにもかかわらず、今になって当初から注目していたかのようにふるまう者、ひるがえって今回の映画の出来に関し鬼の首でもといったところで悪口を言う者などが多く出たという。相も変わらず、といったところだ。

 考えるに、『エヴァンゲリオン』という作品は、非常に象徴的な形で現れた「現代的・知」の現象ではないかと思う。それは古典的・伝統的な知の体系ではなく、散逸的・非連続的であり、時として合理性や明証性を欠いた「知」の現象である。そしてその鑑賞者は、それを一種のユーティリティ・ツールとして「使いこなす」という形式の消費を要求される。そう、『エヴァンゲリオン』は最も現代的な「ツール」であって、「使う」ためのものなのだ。

 すぐれた「ユーザー」は、『エヴァンゲリオン』という総合型ソフトウェア・パッケージの中から自分が必要とするツールを選んで使いこなす。キャラクターやメカの消費、スノビズムを満足させる教養の顕示、「隠蔽」に満ち満ちた世界観とストーリーへの追求など、それはさまざまなニーズに応える強力なパッケージだ。しかし、ユーザー全員がそれを使いこなすことができたわけではないようだ。

 たとえばマイクロソフトの「オフィス」というのはひとつの便利なソフトウェア・パッケージだが、皆が使いこなせている訳ではない。「あんなのロータスのマネだ」などと言う者もいる。「世界中がビル・ゲイツなんかに踊らされやがって」などと言う者もいる。どんなソフトを試しても「遅い」「わかりづらい」「出来が悪い」としか言わず、結局コンピュータから離れる者もいる。『エヴァンゲリオン』のユーザーの反応というのは、これに通底するものがあるように思う。

 あなたは、『エヴァンゲリオン』を「使って」楽しむことができましたか? それができた方は「現代」というシステムを使いこなすことができた勝者だ。あの作品に最初から今までまったく興味を持たなかった方は引き分け、不愉快な思い出しか残らなかったユーザーは残念ながら敗者といったところだろう。いや別に勝たなきゃならない根拠はないんですけどさ。



1997/04


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