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空談寸評

『ファイナルファンタジーVII』

RPG(プレイステーション)、スクウェア



へーげる奥田


 この文章は必ずしも「書評」というものではないが、まあそれに近いものである。では、書評というのはなんのために、誰を読者として書かれるものなのか。実のところ、その部分からしてよくわからなかった。「書評」という語の意味をみると、「書物の内容を批評・紹介すること。また、その文章」(広辞苑)とある。「紹介」というのならば、少なくともその読者の一部として「まだその作品を観ていない者」を想定していると思ってよいのだろう。

 その場合、推理小説などストーリー上のギミックが重要な要素となるジャンルでは、作品内容をどこまで開示してよいのかという点が問われてくる。

 パソコン通信なとでは、「ネタバレ注意」などといって、まだ観ていない者に対する注意を喚起しているアーティクルを見かけるが、書評ではついぞそういうものを見たことがない(書評じたいあまり読まないのでよくはわからないが)。映画などであれば上映期間が終わってしまえばある程度内容に触れることも許されるのかもしれないが、ロールプレイングゲームなどもそういった注意の必要なことに関してはミステリー小説などと同等であって、そうそう簡単に内容の細部に触れる訳にはいかない。じつはこの『ファイナルファンタジーVII』については、私自身ちょっとしたネタバラシに遭ってしまい、ゲームのおもしろさが少しだけ損なわれた。なのでそういった配慮にはやぶさかではないが、そうしながら評を書くというのは何だかとても難しい。

 ファイナルファンタジーのシリーズは、『ファイナルファンタジーIII』からのつきあいになる。基本的にはいままで一定のゲームシステムを保ってきたこのシリーズであるが、今回ハードをプレイステーションに移して発表された『ファイナルファンタジーVII』は、今までとはがらりとその様相を変えている。確かに「魔法」や「召喚」、さまざまな設定などは従来のシリーズを踏襲しているが、ポリゴンによる映像表現、斜め上からの俯瞰を中心とした視点設定などは、従来のシリーズとは確実な質的断絶がある。

 スクウェアにはもうひとつのRPGシリーズとして『聖剣伝説』があり、その系列のいくつかのゲームがあるのだが、今回の『ファイナルファンタジーVII』はむしろ以前発表された『クロノトリガー』にきわめて近い印象を受けた。おそらくは総指揮の坂口氏がもつ原イメージの発露であろう、「頭上にじっと在り続ける異様な何かと、それを認めつつ日常的にふるまう世界」という点で、ふたつの作品は共通項をもつ。上空に不気味にせまる異様な「もの」によって照明される世界の不条理性は、プレイヤーに対して無意識の異化効果をもたらしているようだ。主人公の喪失による視点の転換、またそれを契機として展開する人間の内面世界に対するアプローチもまた共通項だ。

 従来のシリーズにおいてはそのハード的限界に制限されて表現できなかったさまざまな情報が、CD-ROMの3枚組という膨大な媒体に支えられて表現可能になった部分の効果は、想像以上に大きい。たんなる絵だったモンスターは自在に動いて襲いかかり、市街には英語、日本語、中国語(らしき言葉)が過剰なほどにちりばめられる。プレイヤーの想像力の支援を前提に、暗黙のうちに「粗」であることを許されていたコンピュータ・ゲームにおいて、いよいよ「密」な世界描写が可能となったわけである。これによって、ただの記号の集積であった画面のなかの世界は、記号の集積であること以上の意味を付与され、それ自体の存在論的実体を得るにいたるだろう。この「表象の存在論」は、いまあちこちのジャンルで急速に進行している状況なのだが、それはかつて考えられたような高度な研究施設の大型コンピュータによってもたらされたのではなく、日本の格闘ゲームの世界から急速に普及した。そして今、RPGというジャンルにおいて、「世界」の再現における「語り」の場としての展開を始めようとしている。そうした意味でこの『ファイナルファンタジーVII』は非常に重要な一歩をしるした一作だと思う。

 ゲーム自体としては、「マテリア」を成長させる新システムや、簡単には入手できない魔法やコマンド、多岐にわたって用意されたサブゲーム(戦闘シミュレーションからレース、育成ゲームまで入っているのだ)と、これでもかという作りである。ひとつ難をいえば、それほどバリエーションゆたかに揃った攻撃に対して、「敵」がもうひとつ力不足だといったところか。……いや、しかし何だかんだいってオモシロかったですから。やる価値あると思います。って、そんなのここで言うまでもないですけどね。わはは。



1997/03


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