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空談寸評

『ソフィーの世界』

ミステリーノヴェル、NHK出版、ヨースタイン・ゴルデル著



へーげる奥田


 実のところ、今まで「書評」なんていうものはほとんど読まなかったし、まして書いたことなどぜんぜんなかった。で、ナニゴトも勉強ということでいくつかの書評を読んでみた。

 そうした書評のたぐいでは、ほとんどのものがこの『ソフィーの世界』について、小説の形式をとった哲学解説のための読み物という解釈を何らかの形でしている。たしかに、ここまで「哲学」をライトモチーフとして使っていればそういった見方をするのが自然だし、また原著者もそういった視点を肯定するような発言をしているらしい。

 しかし少なくとも私の以前からのものの見方としては、「著者の意図」というものは括弧入れという扱いにして評価の対象からはずす。むろん論文などはその限りではないが、べつだん作者は何を言いたいかなどという問題は作品自体には無関係という立場が原則なのだ。作品を一個のプログラムとしてとらえ、そのレビューはそれが期待される機能を果たしうるかどうかを基準にして判断する。

 この基準において見ようとすると、『ソフィーの世界』はいろいろと難しい。この作品に期待される機能はいったい何か。じっさいこの作品、ひとつのミステリー小説ないしはファンタジーとして見てもじゅうぶんに面白いのだ。むしろ哲学解説書という見方だけでとらえてしまうのは正しくないような気がする。中には、これは100%「哲学解説読本」であるとして、ハイデッガーを割愛してサルトルを説明する部分や、現代思想のひとつの要である構造主義や記号学、また言語に関する諸学派に触れていないことなどをあげつらい「ダメだ」と言う向きもあるようだが、それだけでオニの首を取ったようにけなしてしまっては不公平というものだ。

 この作品のいまひとつの特徴として、その構造があげられる。語る者と読む者の単純な構造を超え、さらにその構造を俯瞰する者を提示することによって、読者は一種の無限後退の感覚をあじわう。ソフィーは主人公でありながらあくまで作中人物であり、その行為は他律的だ。この作品の中で真に主体的にふるまうのは「『ソフィーの世界』の執筆者」としての人物であって、作中人物には自由がない。それでいながら自由をもとめて奔走する作中人物たちの姿は、あたかも人類がその思想の歴史の中において企てつづけた「神からの逃走」を再現しているようにも感じられる。

 『ソフィーの世界』のテーマが「哲学」であることはあるていど確かだと言ってよい。しかしそれは、他律的な「哲学学史」の解説書などではなく、自己の知性のみを武器に決定論の虚無性から逃れるべく努力を続ける「哲学そのもの」のメタファーと見るほうがより公平であるように思う。加えて「物語」という視点においても十分に評価される必要があるだろう。その予断を許さぬ展開、物語の世界観の構築とその崩壊の描写、魅力的な作中人物の活躍。通勤鞄に入れるにはやや重すぎる(物理的に)装丁でありながら、結局持ち歩いて一気に読んでしまった。



1997/03


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