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空談寸評

『GOD SAVE THE すげこまくん!』

コミックス、講談社(ヤングマガジン連載)、永野のりこ



へーげる奥田


 何事にも「動機」というものがある。私がこのシリーズを書いてみたいと思ったのにもある「動機」があった。

 1995年の秋ごろ、『漫画の時間』という本がでた。自称「ディープな漫画読み」であるところのいしかわじゅん氏の漫画評本である。

 EYECOMという雑誌の氏の連載を愛読していた私は、とりあえずその本を買ってみた。個人的にはいしかわ氏はキライではないが、この本はどうも肯定的に読むことができなかった。

 各作品評の冒頭には、ちょっとしゃれたキャッチフレーズが掲げられている。
「自由への、ちょっと辛い航海  ハロルド作石『ゴリラーマン』」
といった具合である。いかにも洗練されてござい、というこのへんにもなんか「そひすてぃけーてっど」なスノビズムを感じてうっとうしかったが、私が否定的な感じを受けたのはそればかりではない。なんか、とにかくズレている。単なる主観の相違かも知れないが、どうにもズレているように感じたのだ。

 筒井康隆氏が『文学部唯野教授』を書いて以来、にわか仕込みの文学批評論用語を使うヤカラがいやに増え、それはそれでなんか気に障るのだが、この本はちょっと極端だ。対象となる作品にぜんぜん関係ない「業界ネタ」とかが延々と書いてあったりする。それでも面白ければ別にいいのだが、バブルの頃さんざ流行った業界ネタをいまさら、といった観がつよい。そもそもいしかわ氏の場合、その漫画ははっきりいってあんまり面白くない。昔「マンガ少年」あたりで田村信とギャグデスマッチをやり、3‐0のストレートでなすすべもなく敗れたことを私はしつこく覚えている。

 脱線したが、そんな「漫画を描くプロ」氏が、「ディープな漫画読み」の立場で、とにかく作品の本質から一歩半ずれた評を堂々と書きつつ、「ぼくの振る旗を目印についてきていただければいいのだ」とか言っている。なんかちょっとちがうんじゃないのかと一言ツッコミをいれてやりたいなあ、というのがそもそもの動機だったのである。


 この『GOD SAVE THE すげこまくん!』についても、『漫画の時間』ではこう評している。
「おそらく、永野のりこは、ストーリーが描きたかったのではない。可愛くて色っぽいねーちゃんが、いろいろとやらしいことをするとこを、グラマーな女教師が、あられもない姿で吊されているところを描きたかっただけなのだ」
反語的意味で書いているのではない。どうやらこの人、本当にそう思っているようなのだ。

 いったいどこに目玉をつけているのか。それ以前に、この人は本当にちゃんと漫画を読んでいるのか、いや漫画に限らず表現された作品というものを解釈できているのか疑問に思ってしまう。おそらくちゃんと永野のりこを読んでいる読者があの評を読めば、それがいかに浅薄な見方であるかわかるだろう。

 永野のりこの作品の根底には、傷つけられ、心の暗黒部をあらわにした人間の悲鳴のような感性が横溢している。永野のりこ自身、自己を「例外者」であると早いうちから認識していたとしばしば述懐しているが、暗黒面の哲学としての実存主義、またルサンチマンの文学としての側面を暴走的ギャグで覆っている、それが永野作品の中心点だ。

 永野のりこは二元論者である。もっとも過激な暗黒の側面をえがきながら、同時に最もホーリーなものを描き表しているのだ。いや、暗黒の属性に挑まれながらなお損なわれることのない聖性こそ、彼女の追求するテーマなのではないか。

 そんな解釈を嘲笑するかのようにすげこまくんの暴走はつづく。今日も彼の「地下の秘密基地」にはアレなコスチュームを無理やり着せられた松沢先生が半裸の状態で拉致監禁され、恒例の「長い休みの間につくったもの」は平和な日常をたのしむ街を徹底的に破壊する。爆走するノリの中で、今日も誰かの心の傷を癒しつづけている作品──それがこの『GOD SAVE THE すげこまくん!』の本質……なのかもしれない。




1997/03


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