空談寸評のページへ戻る

空談寸評

『ヨコハマ買い出し紀行』

コミックス、講談社(アフタヌーン連載)、芦奈野ひとし


へーげる奥田


 『ヨコハマ買い出し紀行』というタイトルであるが、じっさいのところ横浜に豆の買い出しに行くというのは第一話のエピソードにすぎない。荒涼としたススキの野にひっそりと佇む「昔の米軍住宅風白ペンキの家を改造した」珈琲店の物語なのだ。

 荒廃した町。そのなかで屈託なく微笑む主人公のアルファさんはアンドロイドである。この設定によって、物語の虚構性のレベルが読者に提出される。

 アンドロイドであるから、アルファさんは人間と多くの異なる点をもつ。まず牛乳が飲めない。蛋白質の消化システムが不調のようだ。火傷をして入院したときは新品の髪が寝ぐせのようにまとまらなくなり、べそをかいていた。飲み会でも嬉しそうにみかんなんか食っている。それに、そっくりの妹なんている。妹は生真面目だが、アルファさんの脳天気さにひかれるところがあるようだ。最初は人間と同じにふるまおうと一生懸命になっていたのだが、アルファさんと会って考えがかわったらしい。アンドロイドであることも個性かも、とか小難しく考えているがアルファさん本人はあんまりなんにも考えていないみたいである。そういう物語なのだ。

 彼女をとりまく近所の人たちの描写も魅力的だ。病院の女医さんとガソリンスタンドのオジさんの味がなんともよい。正体不明の「ミサゴ」も、頂に佇む水神も、もはや降りることのない超巨大航空機、そしてその中から憧憬をこめて地上を見下ろす「アルファーさん」(おそらくはアルファさんの同系の姉妹であろう)も、ゆっくりとした世界に溶けこみ、それぞれに味をだしている。

 以前、「物語」というひとつの世界解釈の構造ないしは方式について考えたことがある。「物語」とは、人間が眼前にひろがる任意の「世界」を解釈するためのひとつの枠構造であるから、近代のあらゆる作品が「物語」という提示形式を採用するのはたいへん効果的な方法だったといえよう。しかしその結果、われわれは「物語」を提示しない作品に対してひどく違和感を抱くようになってしまった。「作品とは物語のことをいう」という認識が、暗黙の常識としてわれわれの頭を規定している。

 しかしそのとき、私は作者のお仕着せの「物語」を自動的に読者の頭に再現するという作品形式に大きな疑問を持っていた。「佇む」とでもいうべき在り方、そんな作品があってもよいはずだ。沈みゆく夕日に、ときに人は感動する。しかしそこには「作者のメッセージ」も「しつらえられた物語」もない。夕日はただそこにあるだけであり、「物語」はそれを観る者の中にだけあるのだ。そんな性格をもった作品も、ちょっとぐらいはあってもいいんじゃないだろうか。


 水位を上げつづける海に少しずつ没していく都市にあって、静かに黄昏を迎えつつある文明社会。その中で淡々と、ときにはしっとりと展開するストーリー。その名のみ語られ姿をあらわすことのない「オーナー」を待ちながら、アルファさんは今日も喫茶店をやっている。やってはいるが、コーヒーの大半はアルファさん本人が飲んでしまっているらしい。作者・芦奈野ひとし氏の洗練された画がそうした世界を魅力的に描くこの作品は、個人的にも特に好きなもののひとつである。そういえば声優が声を演じたCDドラマも出たが、なかなかよい出来だった。  この作品が掲載されている「アフタヌーン」は月刊誌である。そのためかあらぬか、話はほぼ一話完結の形式だ。「どれだけ間があいても常連になれる」魅力をもった一作である。



1997/02


 ・空談寸評のページへ戻る