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樺太復帰運動の謎


鈴谷 了





 ひところは盛り上がった北方領土を巡る論議も、ロシア側の政情混迷のためかこのところ低調である。最近の領土問題のネタは尖閣列島の方に多かった。

 北方領土についてはすでに多くの議論が出ているが、この部分だけを千島やサハリンをめぐる話から切り離すことは難しい。

 私の関心はそうした「全体」の中にあり、とりわけサハリンについては深い関心を持っていた。筆名を旧樺太の地名から拝借もしている。少し歴史の歯車が違っていて、サハリン南部が現在も日本領だったら、とかもっとさかのぼって「樺太千島交換条約」での妥結内容が違っていたら(樺太が日本領・千島がロシア領、もしくは択捉海峡と北緯50度で折半)などと考えて、そういう植民地主義な考えはいけないと思ったりもする。あれこれ考えたところで、サンフランシスコ講和条約で明確に「放棄する」とうたった以上、こういった論議が「死児の齢を数える」に等しいことも十分承知している。

 ところが、そのサンフランシスコ講和条約後にも「樺太祖国復帰運動」なるものがあったらしいのだ。それを知るきっかけになったのは、何かの戦後史の本に引用されていた芦田均日記だ。芦田均は戦後一時期首相を務めた政治家で、その日記が公刊されている。そこに、「樺太復帰運動」の陳情に会ったという記述があった。

 それだけではない。社会党が左右合同したときに、北方領土については「日米安保破棄後に全千島と南樺太を回復する」という綱領だったらしい。日ソ共同宣言後の立場は「全千島の返還」だというのは知っていたが、樺太も入っていたのは初耳だった。

 サンフランシスコ講和会議のときに全権だった吉田茂が「樺太千島には日本領である正当な根拠がある」という演説をしたのは(北方領土の絡みで)よく知られている。とはいっても、結果的に「樺太・千島は放棄する」という内容で調印・批准した以上、単なる「代表団の意見」を越えるものではない。

 そのあともなお樺太復帰運動が存在した背景には、国内情勢も関係しているだろう。国内は「全面講和論」と「部分講和論」に二分されていたし、部分講和を支持した保守勢力の中にも保守合同以前の当時は講和内容に不満を持つ(あるいは政治的に反対する)立場があったと思われる。元来全面講和論を支持した勢力はもとより講和内容に反対だったから、そうした立場だったであろう。あるいはそれらの勢力にはソ連に対する甘い期待があったのかもしれない。(反米の自分たちならソ連も千島や樺太について譲歩してくれるだろう、といった)

 実際のところ、樺太に対する立場はどのようなものだったのか。1943年に樺太は内地編入された。植民地の行政機関だった樺太庁は、当時の北海道庁と同じような地位になった。しかし、その一方でソ連を通じた太平洋戦争の終戦工作の中で、「樺太・得撫以北の千島」を割譲することを条件にするという案があったといわれる。

ポツダム宣言では「カイロ宣言の履行」と「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに連合国の決定する諸小島に局限」することがうたわれた。ではカイロ宣言はというと、朝鮮の独立・台湾の中国への返還は明記されているが樺太は明記されていない。ただし、「日本国は、また、暴力及び強欲により日本国が略取したすべての地域から駆逐される」とある。

 日露戦争の結果であるポーツマス条約がこの条件に当てはまると考えれば、樺太もまた日本領からはずれるとみなされるだろう。日清戦争の結果である下関条約により割譲された台湾の扱いを見ればおのずと明らかである。カイロ宣言で樺太の扱いが明記されなかったのは、この会議の参加者が米英中の三国で、しかもこの時点ではまだ日本とソ連の間には中立条約があり、ソ連に対して対日参戦の秋波を送る段階ではなかったためである。

 だが、「ポーツマス条約は暴力や強欲による略取ではない」とする強弁(吉田全権の演説がそうだが)を通せば、カイロ宣言の範囲ではないということになる。しかし、その上でもなお「連合国の決定する諸小島」に樺太が含まれるとは考えにくい。これらの文脈に流れるのは「対外戦争を開始する以前の状態」の日本に戻すという思想である。

ソ連の対日参戦を取り決めたヤルタ密約に、樺太千島を参戦の見返りとしてソ連に渡す記述があるのは有名だが、樺太と千島ではその記述が微妙に異なっている。千島は「引き渡す」であるのに対し、樺太は「返還する」となっている。これは連合国側が樺太と千島の歴史的な由来が異なることを認識していた証拠であると同時に、樺太が上に述べた文脈にしたがって返されるべきものだという点で一致していたということでもある。

 ではなぜサンフランシスコ講和条約を結んでなお、樺太の復帰運動があったのか。ソ連の対日参戦が日ソ中立条約の有効期間中になされた「不当なもの」であるという立場が一つ。南樺太の領有は革命後のソ連も日ソ基本条約(日本がソ連の国家承認後に初めて結んだ条約)と中立条約で追認していたはずだという考えがそれを補強する。

 また、朝鮮や台湾と異なり、異民族支配の上に立った領有という色合いが希薄だった(まったくなかった、とは言い切れないが)ために、「戦争に負けたから返さなくてはいけない」という意識を生みにくかったともいえる。

 そして、サンフランシスコ講和の調印をソ連が欠席したために、ソ連との平和条約は個別交渉にゆだねられることになった。このことが、「ソ連との個別交渉での逆転」を夢想させたのかもしれない。いったん領有権を放棄して「帰属先未定」となっているものを個別交渉でもう一度呼び戻すとは常識的に考えてもおかしいが、それを訴えた人々には、なりふりを構っていられない事情があったのだろう。

 樺太からの引揚者の団体としては、全国樺太協会というものがある。おそらくここがそうした運動には深くコミットしたと考えられるから、そのあたりを洗えば運動の全容を解明するのはさして難しいことではあるまい。

 最終的にその運動が断念されたのは、やはり日ソ共同宣言で「歯舞色丹は平和条約時に返還」というラインが固まったときと見るのが妥当だろう。


 かつて石橋湛山は植民地の放棄を訴えた「大日本主義の幻想」(1921年)の中で、当時の日本の植民地がもたらす経済的な得失について数値をあげて論じたことがある。その中で樺太については「十年以上の投資が何の利益ももたらしていない」と厳しく断じた。今日樺太が日本の中にあったとして、ロシア領の現状よりは経済は潤っていたかもしれないが、「補助金無駄遣い」と揶揄される部分の方が多かったのではないかという気がする。今問題になっている整備新幹線に「宗谷海峡トンネルと北海道樺太新幹線」が入っていたかもしれない。




 上記の文章を書いてから少し後に、NHK教育テレビでサハリンの歴史教師を取り上げたドキュメンタリーを見る機会があった。現在のロシアの教科書でソ連の対日参戦を「不当なもの」と明記しているのには驚いたが、それ以上に感じたのは「現在のサハリン」の側に立ってものを見るという部分である。ユジノサハリンスクの(日本でいう)高校に勤めるこの教師は残置朝鮮人の二世、そして彼の生徒にはロシア系・朝鮮系などが入り交じる。戦後の大陸からの移民と残置朝鮮人で構成される今のサハリンはちょっとした多民族社会だ。その生徒たちに、ソ連時代に少年期を過ごした教師は、「自分で考えること」を教えていた。番組で取り上げられた授業風景では北方領土や、自らとサハリンの将来について、生徒たちはよく考えて発言していた。(「中学生日記」のようだった)価値観の激変する時代に思春期を過ごすのは不幸であるけれども、その環境が彼らを考えることに目覚めさせただろう。

 ほとんどの生徒が卒業後もサハリンに残るという中で、モスクワに行くという生徒が一人いた。9000キロも離れたモスクワとは、と思ったが、近いからといって札幌や東京でロシア人が暮らすことの困難を考えればそうなのだろうと納得した。そして、仮にサハリンが現在も「樺太」であったとしてもやはり「辺境」でしかなかっただろう。

 サハリンはすでに移民者の二世・三世にとってはの「母なる地」である。その彼らから日本がどう見えるかに、ほんの少し触れられたように思えた。

 一方番組では日本企業が進出する様子も少し触れられていた。日本は「領土」として失ったサハリンに「経済」によって帰還を果たしつつあるのだ。

                    ―― 終 ――



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