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見たくないやつは見るな!

―― 『エヴァンゲリオン』映画版について ――


清瀬 六朗





 はっきり言っておこう。

 この映画を、ふつうのストーリー展開で盛り上げてくれる映画だと思って見に行くと、たぶん幻滅する

 たとえば、宮崎アニメに代表されるスタジオジブリ作品や、ハリウッドの大規模娯楽映画のような作品を想像して見に行くと、たぶん幻滅する

 興行の足を引っ張るようなことはしたくない。だが、正直に言って、そういう作品を期待しておられる向きは、この映画に足を運ぶことは、電車賃とチケット代と、もしかするとなかで買うポップコーンとかそういうものの代金のムダ以外のなにものでもないと覚悟しておいたほうがいいとご忠言申し上げておきたい。

 ただ、これまでのテレビシリーズの展開を知っていて、REBIRTH編が始まるまで眠ってでもいるつもりのある人は、まあ、全体の数分の一の時間、TVシリーズ一話分相当でしかないREBIRTH編だけ見るために映画鑑賞一回分のカネを注ぎこんでもいいというのなら、まあ見に行っても損はないだろう。しかも、そのREBIRTH編は、ストーリー的にはTVシリーズ一話分も展開しない。そこまでしてREBIRTH編を見ることもないという方は、やっぱり行かないことを強くおすすめする

 とくに、「ひとつ評判のエヴァンゲリオンとかいうやつを見てやろう」というような動機で見に行く向きには、そこで見られるのは相当に奇妙なものであって、そういう奇妙なものを一種の「怖いもの見たさ」で見に行くんだと思っておいたほうが、精神衛生上、よろしいと思う。

 ともかく非常に不愉快である。

 映画がではない。

 観客がである。

 せっかく人が見終わって、それなりの感慨を得て立ち上がってみると、さっそく隣の席から「けっきょくなにもわからない」という声が聞こえる。

 と思って、連れと外に出たら、その連れが私と分かれるまで「欲求不満だ」を連呼する。

 家に帰ってパソコン通信を見たら、やっぱり「わけがわからない」という非難の書き込みが上がっている。

 ……いや、正直なことはいいことですよ。

 だから、私は正直な方がたに馬鹿をみていただきたくないのだ。

 正直者が馬鹿を見るのは政治の世界だけでいい。

 したがって、この映画を見るのは相当の冒険であることを、ここでしつこく断っておきたいと思うのだ。

 

一ファンとしてのお願い
 「ふつうの娯楽作品」の範疇の作品を見たい人は、見に行くのをやめるか、この映画はその範疇に入らないことを覚悟して見に行ってください。


 ……いいですね?





 さってと、私の感想は以下の通りです。

 私は、正直に言って、この映画を映画館の興行にかけたスタッフの勇気に感服する。

 ここまでに述べたように、この映画はけっしてわかりやすくはない。とくに、大部分を占める、TVシリーズ放映分の再構成部分であるDEATH編のストーリーを追おうとすると、おそらく、わからないことだらけになってしまうと思う。TVシリーズを見ていた者としても、その展開についていくだけでけっこう精神力を消耗する。しかも、「使徒になったエヴァンゲリオンに乗った生徒」(トウジ)がどうして主人公シンジを殴らなければならないと思ったか、など、映画の内部にとどまるかぎり、けっして解きあかすことのできない謎も残っている。

 TVシリーズを見ていた者でもこんな状態だから、見ていないではじめてこの映画に接した人には非常にストーリーのつかみづらい作品になっているのではないかと思う。

 ――ね、「ふつうの娯楽作品」ではないでしょ?

 で、世上、『エヴァンゲリオン』は「謎」を残すことによって人気を保っているという下司の勘ぐり的な『エヴァ』「論」とか称するものが出回っているらしい。

 そして、それを念頭に置いて、「スタッフは『エヴァ』の人気を保持するためにわざと謎を残すという演出をしたのではないか」という、これまた下司の勘ぐり的な勘ぐりが登場してくるのは容易に想像がつく。

 だが、私はそうではないと思う。

 考えてもみていただきたい。あんなコンテを切るのと、ただ漫然と初回からおもだったストーリーを並べてダイジェスト版のコンテ切るのと、どっちが楽か??

 そもそも、作品のなかに「謎」があって何でそんなものが特徴になるのか私にはよく理解できない。

 私たちの世界は「謎」に満ちあふれている。平易なストーリーで平易に叙述することのできる世界なんて、つくりものの物語のなかにしかあり得ない。

 あるいは、「現実」の世界が「謎」に満ちているからこそ、映画や小説のようなフィクションのなかでは平易なストーリーに接したいのではないかという反論もあろう。もちろんそのことは私も否定しない。平易なストーリーで、しかもパターンにはまったストーリーを永劫に繰り返すことで語られる物語――たとえば『水滸伝』なんかその傾向が強いと思う。そしてそういう物語も私は好きだ。

 だが、そうでない物語があってもかまわないではないか。

 そして、この『エヴァンゲリオン』の映画は、そういう平易なストーリーでわかりやすく語られる物語では残念ながらないということを、私は、再三、言っているのである。

 私たちの世界は「謎」に満ちあふれている。

 そこでは、だれも平易なストーリーを与えてくれない。

 ならばどうするか?

 自分でストーリーを作って、それをその世界に当てはめてみようとすることで、その世界の「謎」を解こうとするのである。

 それが文明を得た人間の営みというものだ。

 時代によって、それが宗教の形態をとったこともある。政治学、もしくは政治そのものという形態をとったこともある。経済学に基礎をおく社会思想という形態をとったこともある。哲学であったこともある。あるいは音楽がその武器として採用されるかも知れない。あるいは、アニメ映画というものも、そうした手段のひとつになりうるかも知れない。

 この映画のDEATH編は、TVシリーズで作られた『エヴァンゲリオン』の世界を、ある方法によって読み解こうとした、その試みの報告なのだ。

 その方法は、いわゆるストーリーとしての読解ではない。いや、まあ、読解の結果はすべて必然的に「ストーリー」性を帯びることは否定しないとしても、だ。

 なぜ、その「謎」に満ちた物語が、弦楽四重奏を奏でようとする中学生たちの物語として語られなければならないのか?

 その中学生たちは、なぜ調弦するのか?

 弦楽器を調弦する目的は何だろうか?

 そして、弦楽器の「調弦」というのは、具体的に、どういうことをどうやる手順なのか?

 それから――どうしてあの四人の中学生は、弦楽器だけでは弾くことのできない曲を最後に演奏するのか。あの曲には、たしかに、チェンバロまたはハープシコード(どう呼ぶのが正しいのか私は知らない)のパートが入っていたはずだが? それはいったいだれが弾いていたのだ?

 たとえば、そういう読み解きかたを楽しいと思える観衆にとって、この映画は見ていて楽しい映画であるだろう。

 その「わかりにくさ」の質は、ガイナックスの(ガイナックスという名での)出発点になった『王立宇宙軍』の「わかりにくさ」とは質のちがうものであるように思われる。

 『王立』のばあい、物語はストーリー的に展開する。ただ、その最初の部分で、前提と なる世界についてのストーリー的解釈があまり明示的に提示されないだけであった。

 だが、劇場版『エヴァンゲリオン』DEATH編のばあい、ストーリーよりも、たとえばその場面で感じる「気分」のようなものを描写することのほうにより重点が置かれている。そして、それぞれの場面で感じることの集積を持って、DEATH編最後のストーリーへと接続し、そこからREBIRTH編へとつながっているのだ。

 ちなみに、DEATH編の最後をなすカヲルくんの物語は、ストーリー的な前提があまり十分に説明されていないことを除けば(たぶんこれを最初に見れば、何か危機的なことが起こっていそうだということがわかるだけで、何がどうしてどうなっているのかあんまりわからないと思う)、いちおうストーリーとして展開させられている。

 そして、新作部分の「続劇」であるらしいREBIRTH編は、かなりTVシリーズの感じに近いストーリーとして展開する。

 このREBIRTH編は、とくに「戦争」描写においてやはり群を抜いたものがあると思うが、それについてはここでは書かない。また気が向けば書いたりするかも知れない。

 ともかく、もう一度、申し上げておきたい。

 「複雑怪奇な新情勢」が出現したら何もかも投げ出して逃げてしまうことを主義とする(べつにそれが悪いなんていうつもりはないよ)方がたは、この映画は見ないほうがいい。

 これは、かなり観客に厳しい条件を強いる映画なのだ――というのがとりあえずの私の結論である。


 そんなもの見るくらいなら、百年に一度もめぐってこない大彗星と評判の高いヘール・ボップ彗星でも見ようじゃありませんか? ね?

 なに? いやだ? ……困った人たちだ……。




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