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ぶーりん・ア・ラ・カルト



鈴谷 了




 

・由緒正しい『ぶーりん』


 豚ブーム、なんだそうである。「そうである」というのは、私の周囲ではそういう現象が目に入らないからだが、『AERA』がそう書いていたのだからそうなのだろう。

 その『AERA』の記事ではお菓子のマスコットに始まり、映画『ベイブ』、現物の豚の飼育に至るまで書いてあったが、『とんでぶーりん』や『紅の豚』は無視されていた。『紅の豚』はかれこれ四年前の作品だからいいとして、『とんでぶーりん』はたった1年足らず前まで放映されていた(94年9月〜95年9月)作品なのに、これはちょっと可哀想だという気がした。


 とはいっても「ブタアニメ」というジャンルはない(『はれときどきぶた』なんてのもあった)。『とんでぶーりん』をあえてジャンルづければやはり「変身魔法少女アニメ」ということになるのだろう。しかも、よく見ればある意味で「由緒正しい」変身少女アニメなのである。え、ブタに変身する話のどこが「由緒正しい」のか、って? それはこれから説明しよう。


 私の手元に雑誌『B-CLUB』の七五号(九一年一二月発売)がある。この号は「究極の魔女っ子特集」というものを組んでいた。ちょうど、新『ミンキーモモ』(いわゆる「海モモ」)が始まり、『マリーベル』もスタートしようかという頃だった。その中にこういう記述がある

 「一口に“魔女っ子アニメ”と言っても、その内容は実にさまざまである。敢えて単純明快な定義付けを行うとすれば、
  1. 物語の舞台は一般常識的な現実社会であること。
  2. 魔法またはそれに類する超常能力を秘めた女の子が主人公であること。
  3. 前出二項を満たす限りの児童向け作品であること。
以上の三点に絞られる」
 また別の箇所では

 「原則論から言えば“日常の中の非日常性”こそが重要なキーであり、魔女の存在が一般的に認知されている世界観、つまり、宮崎駿による劇場用映画『魔女の宅急便』のような作品は、ここで述べている“魔女っ子アニメ”とは明らかに異質な魅力によって支えられていることを認識して置いて欲しい」
という記述がある。

 それから五年が経過して、この定義は幾分の修正を余儀なくされているように思われる。というのも、これに従えばたとえば『赤ずきんチャチャ』は明らかにここで言う「魔女っ子アニメ」の範囲から逸脱してしまうのだ。


 たとえば上記の特集記事では「魔女っ子アニメ」のさまざまな要素を取り上げて解析しているが、その中の「家族」という項にはこうある。

 「いずれにせよ、魔女っ子たちが幼い視聴者にとって“憧れのお姉さん像”でもある以上、肉親としての姉や兄が設定されていないという点で、ほぼ全員が一致を見ている。例外的なのは、原作でのエッちゃん、および漠然とした人魚としてのみ描かれるマコの姉たちであろう」
 これは「三人姉妹の真ん中」という姫ちゃんの出現によってはっきりと打ち破られてしまった。しかも姫ちゃんの姉は姫ちゃんにとっての「憧れのお姉さん」なのだ。あるいは「双子の姉妹」だった『ミラクルガールズ』もそうだ。

 そもそも、『セーラームーン』以下の九〇年代の少女アニメ群は「魔女っ子アニメ」とは言いきれない一面を持つ。それは「少女漫画のアニメ化」でもあるのだ。とはいえ、『魔法使いサリー』『ひみつのアッコちゃん』がもともと」『りぼん』連載の漫画だったことを考えれば、ようやく「先祖帰りした」とも言える。


 で、それらの作品をざらっと並べてみたときに、八〇年代の『魔女っ子アニメ』に設定面でもっとも近いのが実は『とんでぶーりん』だということになるのだ。笑ってはいけない。


 ここで、もう忘れてしまった、あるいは知らないという人のために『とんでぶーりん』の基本設定を簡単におさらいしておこう。あけぼの町の聖林檎学園に通う中学一年生・国分果林は、ある日ヘンなブタを助ける。そのブタは実は宇宙の彼方ぶーりんご星の王子・トンラリアーノ三世(トンちゃん)で、将来王になる修行のために地球に来ていたのだ。その修行とは、一人の少女をスーパーヒロイン・ぶーりんにしてその活動を手助けするというものだった。トンちゃんは果林をぶーりんに選ぶ。ブタそっくりのぶーりんの姿に驚く果林であったが、善行を重ねれば(人のためになることをするたびに「真珠」がもらえ、それが108個になると)自分の望む姿に変身できるという条件を聞き、それを受け入れた。ただし、ぶーりんの正体が果林であることが知られると、果林はぶーりんの姿のままになってしまうのだ。かくてぶーりんはあけぼの町のスーパーヒロインとして活躍を開始する。ぶーりんは一躍有名となり、果林が憧れるクラスメートの水野光一はすっかりぶーりんに入れあげてしまった……というところであろうか。

 基本的に『ぶーりん』というのはきわめて日常的なお話である。一応舞台は学園である。主人公には憧れの異性がいるが、その憧れの異性は変身した主人公にご執心だ。しかもそれが同一人物であることは秘密でそれがばれれば変身した姿のままにになってしまう。……とここまで書けば、『クリィミーマミ』『マジカルエミ』『ウルウルラブリン』といった魔法シリーズアニメとほとんど同じであることがおわかりいただけよう(え、何か変なのが混じってる?気にしない気にしない)。それ以外にも、主人公は長女で下に(口の悪い)弟がいたりする。つまり、そういった意味で「由緒正しい」のである。あるいは、ある目的のために主人公が変身して魔法の力を使い続けるという設定は『ミンキーモモ』等にも見られたものである。一応主目的が「魔法を与えた」側にあって、主人公もまた何らかの恩恵を被るという点では『姫ちゃん』に近い。『ぶーりん』の場合は「果林が自分の望むスーパーヒロイン(キューティーチャオ)になれる」ということだった。



 

※ぶーりんがそのパワーを発揮するには……


 しかし、である。ここが『ぶーりん』とかつての魔法シリーズとの決定的な差異なのだが、『ぶーりん』世界の登場人物というのはどこか「ヘン」なのである。

 『クリィミーマミ』の大伴俊夫君がアイドルであるクリィミーマミにお熱なのは、あの年頃の「男の子」としてはごく自然なことである。しかるに、『ぶーりん』の光一君がぶーりんにお熱なのは──かっこいいという部分に憧れるのはまだわかるとしても──「結婚してもいい」とまで言われれば、ちょっと待てという気になる。

 あるいは親子揃ってぶーりんを追っかけ回している国分家の男たち(そういえば周平君は竜巻ひとみちゃんとうまくいっているのだろーか?)にしても、典型的な「体の弱い美少女」キャラかと思いきや変な裏設定がいっぱいある薫ちゃん──今この名前を出すとすぐに怒る道場の主の方を思い浮かべてしまうが──にしても、その薫ちゃんとまさかのカップルになってしまったジミー松本にしても、キューティーチャオそっくりの美人教師のはずがCDではコスプレマニアになってしまった(演じている声優さんにもそういう時代があったようですが)菜々子先生にしても、その菜々子先生にオタク趣味を教え込んだ近藤先生(キューティーチャオグッズの買いすぎで帰省費用がないという話には身につまされた「大きなお友達」もいることだろう)も、みーんなどこか「ヘン」だ。松本梨香さんの豪快な笑い声が一度聞くと忘れられない黒羽競子や、琢磨先輩(全集院タクマではない……が、似たようなもののような気もする)といった「見るからにヘン」なキャラは言わずもがなである。

 (率直に言って一番「常識人」に近いのが柏木と真実であり、その二人がくっつくのは自然なことなのだ……、だから柏木、いい加減に目を覚ませよ。あと果林の母・リカコも常識人ではあるが、ぶーりんのデザインをした服を作るとか、正月の酒乱は「普通」じゃない部分のような……)。


 とはいえ、最初からすべてがこのような「ヘン」な設定だったわけではない。放映初期の話では黒羽競子は「いじわるなお金持ちの娘」という、よくある役柄を演じている(三話「涙と友情のスマッシュ」など)。あるいは、聖林檎学園のサッカー部(光一や柏木が所属している)が対戦相手のえげつない妨害をぶーりんの協力ではねかえすという、これまたオーソドックスなヒーローネタもある。正直なところ、初期の『ぶーりん』は「そこそこおもしろい」作品ではあったが、「ぶーりんでなければいけない」という部分がなかなか感じられなかった。それは「ブタに変身する少女」というあまり例のない設定をどのように扱えばよいのか、という部分をつかみあぐねているようにも見えた。

 それが一クールを過ぎた頃から変わってきた。キャラクターのエキセントリックな部分がどんどん増大し、ぶーりんはその間でうまく話を収める役どころになり始めたのだ。なぜか。ぶーりんだけはどのキャラクターからも愛される。「おブタちゃん」などと呼んでいた黒羽さんにしてもひとかたならず厄介になっているわけであるし、(光一君を別にすれば)「かっこいい」と思わなくても、「憎めないキャラ」には違いない。

 ちょうどぶーりんの用いる「技」や「アイテム」がヘンになりだしたのもこの時期だ。相手の耳に息を吹きかける「ぶーりん耳フー」なんて、他のどの変身少女キャラができるだろう? しかし、ぶーりんがいかにヘンな技を使おうがそれによって万事丸く収まるのことに変わりはない。


 つまりこういうことだ。世界が「ヘン」であるほどぶーりんが「ブタ」であることによる「ヘン」な部分は薄められていく。果林も果林で(トンちゃんがしばしば突っ込んだように)ぶーりんであることをまともに嘆いたり悲しむ場面というのは最初の変身を除けばほとんどない。(最終回ではついに「ぶーりんのままでもいい」とまで言い切る)果林にとっては自らがぶーりんであることは隠し通す必要のある「秘密」だったが、作品の舞台であるあけぼの町の人にとってはぶーりんは「いなきゃ寂しい名物キャラクター」という認識だった。

 むしろ逆にぶーりんはそうした「ヘン」な世界の調和者としての立場を次第に強めていく。ほのぼの日常ギャグにはいささか不似合いだったラストにまつわる設定編も、こういう観点からはそれなりに筋が通って見える。暗黒魔界……じゃなかった封印された「魔物の世界」からの世界の浸食を防ぎ、調和を守るもの……と書くと何かぶーりんが凄くかっこよく見えるから不思議だなぁ。  ちなみにライターの一人、池田眞美子さんが放映終了後に書いた後日談では、あけぼの町の公園には「ぶーりん像」が建っていることになっている。「封印」ののちステンドグラスになった『赤ずきんチャチャ』のマジカルプリンセスの例にもあるとおり、本人がいなくなっても見守るのは「巫女」の役目なのだ。この辺は清瀬六朗氏に専論があるのでそちらに譲ることにしよう。その点から眺めれば、まるで違って見える『チャチャ』と『ぶーりん』の世界に共通性が見えてくるからおもしろい。

 もちろんこういう見方だけがすべてというわけではないし、エキセントリックな中にもキャラクター間の感情描写をメインとした「日常アニメ」らしいエピソードも少なからずあった。ただ、『ぶーりん』を『ぶーりん』たらしめた部分はやはり先に挙げたような要素が大きく関わっている。

 『ぶーりん』が「誰からも愛された」というのは何も作中に限った話ではない。パソコン通信・ニフティサーブの会議室も少女アニメとしてはやや異色だった。結構平均年齢が高く、お子さんのいるお父さんもアクティブメンバーにいた。そして何よりも、少女アニメなら必ずある「○○ちゃん大好き」な発言がほとんどなかった。むしろ『ぶーりん』という作品世界の持つ雰囲気を楽しむというメンバーがほとんどであった。それもおそらくそういった『ぶーりん』の持つ特殊性ゆえだったのではなかろうか。



 

※ぶひっと声優さんにおまかせよ


 さて、「ちょっと変わった変身ものアニメ」として始まった『ぶーりん』がこのような変貌をとげていった背景に、声優さんの演技というものが関係しているように思われる。よくできたアニメ作品では往々にしてそうなのではあるが。

 たとえば『赤ずきんチャチャ』においては、声優経験の少ない役者さんを配置することで、その独特な演技をキャラクターの中で開花させることに成功した。しかるに『ぶーりん』はどうだったか。

 メインの声優さんはみな若手だけれども、まったくの新人やそれに近い人というのはあまりいない。みなそれ相応の実績の持ち主である。しかし、演技という面を考えてみると、その声優さんが従来イメージされてきたとのは少し毛色の違う声が使われている例がある。

 黒羽さんの松本梨香さんは舞台出身らしく幅広い声の持ち主だが、少女役よりは少年役の方が馴染みの多い声優さんだ。ジミー松本の高木渉さんは、同じ日本アニメの『魔法陣グルグル』では実力はないのに勇者を気取るレイを演じていた。光一君の石田彰さんはその後の『りりかSOS』でも少年役(星夜)でしかもトンちゃんの淵崎ゆり子さんと共演までしていたから、さほど違いがあるわけではない。とはいえ、星夜がある種の「いじらしさ」を感じさせる演技だったのに比べれば、光一君はその「情熱」のベクトルが少し違う方向を向いた少年役だった。

 で、それらの中でもとりわけその点が目立ったのは、主役である果林を演じた白鳥由里さんだったと思われる。それはこの果林(ぶーりん)の声が今まで白鳥さんが演じてきたキャラクターのラインからはまったくはずれるものだったからだ。

 それまでの白鳥さんはどちらかといえば静かで落ちついた少女の役を演じることが多かった。私はさほどそうした役を多くは目にしていないが、『姫ちゃん』の愛子役などはその典型なのだろう。

 したがって、彼女のこの演技を聞いたときにそれまでの白鳥由里さんを知る人は、一様に腰を抜かしたという。確かに今まで「お嬢様的なヒロイン役」が多かった人が突然ギャグ的な役や演技をすれば誰でもそう思うだろう。だが、結局彼女はこの新しい役を自らのものとして取り込んでしまった。文章では表現しにくいが、果林やぶーりんのある種「情けなさ」を帯びた声(これは誉めているんですよ)が、『ぶーりん』の作品世界自体を「ヘンな」どたばたギャグという方向に引っ張ったのだといってもいいだろう。

 ちなみに『ぶーりん』の音響監督さんはそれ以前から白鳥由里さんとは仕事をしていて、彼女の「ぶーりん」的な声の可能性は密かに目を付けていたのだそうである。



 

※ぶーりんは「カッコ悪い」か


 『ぶーりん』のOP曲である「愛はカッコ悪い」はなかなかの名曲である。思春期の、あとから振り返るととんでもなく恥ずかしいことを「カッコ悪い」と言いつつも、そのひたむきさと切なさを愛情を込めて歌っている。さすがはパーキッツだ。余談だが、パーキッツのお二人のうち、男性の方はニフティのぶーりん会議室でアクティブをなさっていた。ぱきおさん(ハンドル名)、お元気ですか〜? それはともかく、これが『ぶーりん』のテーマ曲として使われたのは「ブタというカッコ悪い姿」になる果林との二重写しが当初の意図だったのであろう。しかし、それとは違った意味でこの歌は『ぶーりん』の主題歌たりえた、と思う。それはこういうことだ。

 ぶーりんは確かに見栄えは「カッコ悪い」がそれが即かっこ悪いということではない。むしろ「カッコ悪いことはなんてかっこいいんだろう」という意味ではかっこいいのだ。すなわち、「カッコ悪い」姿にてらいも感じずに「ご近所のヒーロー」をやる、それがかっこいいことなのだ。光一君や黒羽さんも自分が「カッコ悪い」なんて全然思わずにエキセントリックな行動をやっている。それが「かっこいい」。

 考えてみればこの作品に見た目も行動も「カッコいい」キャラといえばキューティーチャオくらいしかいない。また余談だが、キューティーチャオがメインの話(七話「傷だらけのヒロイン」)で最後までチャオは「チャオを演じている××」ではなくてチャオのまま押し通した。劇中劇のヒーローという点では裏番組だった『飛べ!イサミ』の「バーチャル戦隊ガンバマン」とも共通するが、チャオの場合「不意の犯罪に巻き込まれる」という、本来ならチャオの「地」が出る場面ですらヒーローだったという点で、ぶーりんとの対照をうまく描き出していた。

 閑話休題、しかしチャオは(そのたった一度の顔出しを除けば)あくまで「テレビの中の憧れのヒーロー」だった。

 ではあけぼの町の住人ではなく、果林にトンパクトを与えたぶーりんご星のキャラはといえば、トンちゃんはホームシックにかかるし、トンパパ(トンラリアーノ二世)はあの脳天気なBGMで威厳が銀河の彼方まで吹っ飛んでしまう(ドラマ編CDの1ではそれを逆手に取ったギャグもあった)。魔法の力の持ち主ですら例外ではないのだ。

 けれど大事なことは、そういったキャラクターの「カッコ悪い」部分を支えているのがなべて「まっすぐな気持ち」──王様になる修行のためとか、憧れのスーパーヒロインになりたいがためといった部分まで含めて──であったという点である。それこそが「かっこよさ」でもあるし、最終的に『ぶーりん』という作品が後味のよい結末を迎えることができた一因でもあろう。

 光一君じゃないけども、ぶーりんはカッコよかったのだ。



 

※あけぼの町は永遠に?


 『ぶーりん』は予定通り一年間で放映を終了した。製作会社である日本アニメのラインナップから見てもいささか異色の作品だった『ぶーりん』には今でも「後継作品」といえるものが存在しない。(注) 一つには変身ものアニメ自体が一つの峠を越えたということもあるだろう。現にこの原稿を書いている96年6月現在、変身ものといえるのは元祖『セーラースターズ』のほかには『セイントテール』しかない。『ぶーりん』自体、売れ行きが芳しくなかったというLDは結局6枚目までで打ち止めになってしまった。発売元のコロムビアレコードの担当者は全員部署異動でいなくなってしまったそうである。「7枚目以降を出してください」というお願いを出す先もなくなり、放映されれば即LDボックスになるご時世の中で、『ぶーりん』はソフト商品としても命脈を絶たれてしまった格好だ。

 放映終了後に出たドラマ編CDの2を聴くとぶーりんがいなくなってもあの世界の住人たちはやっぱり「ヘン」で、でも「まっすぐな気持ち」を持っていた(CDでは「ウルトラC」的にぶーりんが登場していたが)。

 とはいえ、やはり「ぶーりんがいなくなった」あとの変化というものは微妙に内容に影を落としている。果林は光一とデートし、ジミー松本は薫ちゃんに(ちょっと妖しい)ラブコールをかける。その変化は『ぶーりん』が、単純な「猶予された時間」ではなく、「カッコ悪いこと」に気づかずに「まっすぐな気持ち」になれるわずかな時間を切り取って描いた作品だったということを表していよう。つまり、『ぶーりん』はぶーりんがいた時間と同じような「続編」を作ることができない作品なのだ。

 いささか寂しい話になってしまった。だが、案じることはない。最終回でわかったように、ぶーりんはたった一人のぶーりんではないのだ。あけぼの町で銅像になったぶーりんは、果林たちの変化を見守りながら次のぶーりんが出てくるのを待ち続けているに違いない。

― 終 ―




 (注)日アニの歴史でこうした「変身少女もの」のアニメは今のところ『ぶーりん』しかない。が、実はパイロットフィルムまで作られた作品がその前にある。それは『りぼん』に連載された漫画『ダイヤモンドピンク』である。ちなみにメインスタッフは『ぶーりん』と同じで、主役の声が白鳥由里。松本梨香も出演していたという。

 もしもこの作品がオンエアまでこぎ着けていれば、『ぶーりん』は生まれなかっただろうし、アニメの『チャチャ』にまで影響が及んでいたかもしれない。理由を知りたい人は、『ダイヤモンドピンク』の単行本を買って読んでみよう。




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