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【「温故知新」 本をめぐる雑談】

清水 文七

ウイルスがわかる
― 遺伝子から読み解くその正体 ―


(講談社ブルーバックス、1996年)




 私の周囲にもウィルス感染に泣いた人がいる。

 ――と書いて、それがカゼの話だと思った人と、コンピューターウィルスの話だと思った人との比率がどれぐらいかということにはちょっと興味がある。いまのばあい、標題に「遺伝子」がどうこうとあるからやっぱりカゼだと思った人のほうが多いかな。ちなみに私の身のまわりの事実としては両方である。

 最近は、古くから知られる「トロイの木馬」式のウィルスよりも、「ブートセクタ感染型」のウィルスが猛威を振るっているという。私も診断ツールを取り寄せて自分のマシンを調べてみたが幸いにも感染していなかった。「ブートセクタ感染型」への対策は、通常の起動ディスク(ハードディスクなど)ではないディスクから起動しないようにすることだという。先に通常の起動ディスクから起動しておけば、たとえ感染したフロッピーを読んでもそこから感染することはあまりない。しかし、何かの拍子にフロッピーが汚染されて、そのフロッピーからシステムを立ち上げてしまったりしたら、そこから通常の起動ディスクのブートセクタまで感染してしまい、それがつぎつぎに感染を広めるもとになる。それを防ぐには、ともかく電源を切ったときにはフロッピーやMOは抜いておくという単純な常識がけっこう有効であるという。

 さて、この本で取り上げているのはそっちのウィルスではない。コンピューターではなく、人間を含む生物の病原体としてのウィルスである。

 著者は1932年生まれの医学部の先生である。専門は「ウィルス学」とのことで、平たく言えば、ガン(癌)を引き起こすウィルスの研究を専門にしている先生らしい。ちなみに、人間の罹るガンのなかでウィルスで感染するものは限られているということだ。だが、ウィルスによって引き起こされるのではない大多数のガンを知るためにも、ウィルスの感染の仕組みを知ることが有用であることは本書の後半で述べられている。

 1995−96年はウィルスとか細菌とかの猛威が社会的に注目された――注目されざるを得なかった年だ。それとともに明らかになったのは、私たちの国家でそのウィルスや細菌との戦いを担当している部門である厚生省が利権病に冒されており、学界も同じ病気の感染を受けていることがわかったという、あんまりありがたくない事実でもあったのだが。

 エボラ出血熱が暴威をふるったザイールは、ルワンダ難民やそれをめぐる部族対立によってもさかんにニュースに登場していた。「加熱すれば病原体は死ぬ」という常識を覆すことになったイギリスでの狂牛病の発生は、ヨーロッパ内の農業問題を巻き添えにして、イギリスと大陸ヨーロッパ諸国との関係悪化の大きな火種になった。

 国内では、薬害エイズをめぐる報道により、そしてとりわけ感染者の体を張った抗議行動により、HIV(ヒトのエイズウィルス)の感染力の強さが多くの人にあらためて強く印象づけられた。病原性大腸菌0−157の流行は、学校給食とか地方自治とか厚生行政とか農林行政とかの問題を浮かび上がらせた。良きにつけ悪しきにつけ(あんまり「良き」はなかったかも知れない)、厚生省が注目を集めた中で、時の厚生大臣は党を離れて「新党」の顔としてその「代表」におさまった。菅氏の政治家としての資質にケチをつけるわけではない。だが、厚生行政というのがこれだけ注目の的にならなかったのならば、菅氏が「新党の顔」になることはこれほどたやすいことではなかったのもまたたしかだろうとも思う。

 ともかく、こうやって見ると、微生物の引き起こす災害は、ふしぎと政治的・社会的な災害とともに在るという感がある。

 これはもちろん偶然ではない。エイズ薬害というのは人災としての側面が強いし、病原性大腸菌O−157の感染拡大にも人間界の事情が大いに関与したらしい。ジョージ・オーウェルが『パリ・ロンドン放浪記』(岩波文庫)に当時(1930年代だったかな)のヨーロッパのホテルやレストランの不衛生さを書いている。O−157をめぐって明らかになった学校給食の実態はそれを思い出させるものがあった。まさかオーウェルが体験したように調理場の床に落ちたステーキのほこりを払ってそのまま客室に持っていくようなことはあるまい。しかし、自分の知らないところで調理されている自分の食べるものがはたして安心できるものなのかどうか、その安心を担保する信頼感がじつはかなりいいかげんな基礎のうえに成り立っていたことを、O−157の流行は認識させてくれた。

 これらは、人間社会の抱える制度的な欠陥が細菌やウィルスの流行を助長した事件である。こういうことを言うと「部外者がわかったような口をききやがって」というお叱りもあろうかと思うが、あえて書けば、報道に基づくかぎり、当局者がきちんと配慮して適切に対処していれば防げたという要素が大きいように思えるのだ。製薬会社の都合を考えて危険性を知っていた薬品を野放しにしたなどというのはとんでもない話だし、いくら朝のうちとはいえ真夏に給食の食材を冷蔵庫のない普通のトラックで運んでいたら傷むのが当然である。

 だが、ウィルスの流行と人間界の事情にはもっと密接な関係があるということを本書は教えてくれる。

 たとえばボリビア出血熱という病気が1960年代に入って大流行した背景には、社会の混乱で失業者が増え、食糧不安が起こったことがあるという。そこである川の周辺で畑を作る人が増えた。ここにはウィルスを持っているマウスがもとから住んでいて、畑作が盛んになるにつれてマウスも増殖し、ついにそのマウスのウィルスがヒトに感染したのが始まりだというのである。

 ちなみにうちのパソコンのマウスにはウィルスは住んでいないと思う。パソコン用語って安易に日常のことばを使っているのが多いのでこういうときにはごちゃごちゃするかも知れない。とはいっても、ギリシア語からすてきな名まえをつけてもらってもいまどきわからないものな。物理学者のリチャード・ファインマンは、新発見の粒子が「グルーオン」(「グルー」で糊:「強い相互作用」の媒介粒子)とか「アップ」(上:クオークの一種)とか「ダウン」(下:クオークの一種)とかいう味気ない名まえになると不満を書いていて、ギリシア語起源のエレガントな名まえがつけられていた昔を懐かしがっていた。でも、いま、琥珀を擦ると出る静電気のもとだから「エレクトロン」(「琥珀」が語源)とかいうセンスで名まえをつけてもだぁーれもわからないよ。やっぱりねずみみたいなかっこうをしているから「マウス」とかいうのがアメリカ式大衆民主主義社会ではちょうどいいのである。日本でも「マウス」って横文字でそれ自体で「舶来」らしさがプラスされている。これだけ経済発展しても「舶来」品の持つ独特の魅力というのは失われてないらしいからマウスはマウスでいいのだ。ちなみに、この本の著者が、ハツカネズミのたぐいをわざわざ「マウス」と書くのは学術的正確さを意識した表現である。「マウス」の一語でなんか日本のカタカナことばの使い方のパターンがよくわかるね。

 ――そんな話をしてるんじゃなーい!!

 本書では触れられていないが、今回のエボラ出血熱の流行についても、ルワンダ・ブルンジの政情不安を含むザイールの政治の不安定や経済破綻がその背景にありそうだ。冷戦の終結はさまざまなところに影響を及ぼしている。そのひとつの可能性として、冷戦の終結がもたらした世界的な変動は新種の伝染病の流行にも影響を与える可能性があると思う。軍事的配慮で援助が流れこんでいたのがストップした発展途上国で、政情が不安定になったり(日本でも政情はあんまり安定してないみたいだしなぁ)、経済が破綻したりすることが、上のボリビアの例のように、その国民の自然とのつきあいかたを変化させる可能性があるからだ。無理な開発がウィルスを持っている生物(の排泄物とか)との接触を増やしたり、環境の変化がウィルスの進化を促進し、もともと人間には感染しなかったはずのウィルスが人間に感染する型に進化したりする可能性も大いにある。人間はDNA上に遺伝子を持っている。DNAはコピーミスの起こりにくい仕組みになっているので人間が突然に進化するということはあまり考えられない。だが、ウィルスのなかにはRNA上に遺伝子を持っているものもかなりある。RNAはコピーミスの起こりやすい分子なので突然変異が起こりやすく、その結果として新種のウィルスが出現しやすいのだという。インフルエンザがその代表的な例であるらしい。

 なんでもかんでも大国の責任にする思考法には私は明確に反対の立場をとるが、しかし、途上国での疾病が大国が優越する世界の構造といくぶんでも関連があるものである以上は、発展途上国での疾病の発生の予防や発生したときの対応には、大国はそれなりの役割を果たす責任と義務があると思う。それは大国自身の利益にもなるはずである。

 さて、この著者はウィルスにロマンさえ感じている人である。「ウイルスに生物マシーンとしてのたくましさとロマンの香りを感じるのは私一人であろうか」(119頁)、「生物マシーンとしてのウイルスの巧妙な生き様には感心するばかりである」(116頁)などという表現にそれはうかがえる。

 だが、だからといって、著者が世の中のあらゆることに超然として観照的な態度のみをとり、「善悪はそれを用うる者の心のなかにあり」などと詭弁を弄する、絵に描いたような「科学者」であるわけではない。まして、危険なものにロマンを感じてそれに自分の挫折感を投影するいわゆる「マッドサイエンティスト」であるとかいうことでもない。

 まえがきによると、著者がウィルスに興味を持ったきっかけは、学生時代に、身近な人たち――それも大学で知り合った身近な人たちがポリオや日本脳炎にとつぜん冒されるという経験をしたからだという。ウィルスによる疾病の恐ろしさを身に染みて知ったことが著者をウィルス研究に駆り立て、いまでもガンを起こすウィルスを研究対象にして発病のメカニズムを探りつづけているのである。ウィルスの「生物マシーン」としての巧妙さに学びながら――本文の結びの部分の小見出しは「ウイルスに学ぶ」とされている――、ウィルスが起こすものやそれ以外の疾病と戦っていくために貢献しようというのが著者の立場である。また、遺伝子治療などの有効性を紹介しながら、それを一方的に力説するのではなく、社会的な合意の重要性も強調しているなど、良心的な研究者であると私は思う。

 じっさい、著者がウィルスについて書いていることを読むと、著者がウィルスに魅せられていった理由も理解できる。

 著者は遺伝子レベルの知識を駆使してウィルスの感染・発症やそれに対抗する免疫のメカニズムを説明している。ちなみに読むのにちょっとした忍耐が必要なのがこのあたりだ。著者の説明は親切なのだが、それでもまえに書いてあることをちゃんと押さえて読まないと混乱するかも知れない。

 ウィルスの話にかぎらないのだろうけど、遺伝子の話を読んでいるとそれがコンピューター上の情報というのに非常に似ているということを強く感じる。それには、私たちがコンピューターを扱う文明のなかに住んでいて、遺伝子をコンピューターのプログラムのように読み解こうとしているという姿勢でいるからという理由もあるのだろう。それはともかく、たとえば情報の始まりと終わりを示す制御コードがあるとか、同じ文字列(塩基配列)を読み取り枠をずらすことで二つ以上の意味を持つ情報として読み取る(たとえば「1101」を最初から三文字だけ読めば「110」になり、最初を無視して二文字めから三文字読めば「101」になる)ことをウィルスの遺伝子がやっているとかいう話を読むと、ウィルスは精巧なコンピューターを持ったシステムと言ってもいいのではないかとさえ強く感じる。

 しかも、人間の遺伝子は、それを載せているDNAの鎖全体(ゲノム)の上のごくわずかの部分にしか存在しないといわれる。たとえて言えば、1.44MBのフロッピーにいろんなファイルがごちゃごちゃと入っているけれど、そのなかで使えるファイルは100KBにすぎないというような状態なのである。ところが、ウィルスのばあいは、人間のものの10万分の一以下の長さしかないのに、その上にはびっしりと遺伝情報が書かれていてむだな部分がないという。ギャオス(1995年版)のようなやつらなのである。

 生物である人間は、自分が生み出したコンピューターのシステムが、じつは生物が生物として生存するためのシステムと本質的に同じものであることを発見しつつあるようだ。

 私がそのことから連想するのは士郎正宗の『攻殻機動隊』である。この世界では、生物レベルではマイクロマシンが活用され、人間の人体改造やサイボーグ技術にも応用されていることになっている。そのマイクロマシン技術は、遺伝子情報をはじめとする生物の情報をコンピューターをめぐる情報のアナロジーとして読み解くことで確立されたものであろう。そういう世界で、脳以外の身体を機械で置き換えたサイボーグと「情報の海で発生した生命体」との邂逅を描いたのがこの作品なのである。押井守監督の映画も同じだが、こちらでは原作で出ているマイクロマシン技術の話などが後景に退いている面がある(もちろんそれは映画版でも抜くことのできない重要な設定なのだが)。

 いまのところ、全世界の膨大なネットに流されている情報は自分で増殖しながら多様性を生み出すことはしない。「文字化け」というのはたまに――いやよく起こるが(あんまり起こっちゃ困るのだが)、それは情報の自律的な行動ではない。だが、いつか情報が自律的に融合したり分離したりコピーミスを起こしたりしながら増殖し始めたならば? それがこの『攻殻機動隊』の発想であると私は思う。

 で、この『ウイルスがわかる』によると、生命の誕生にもじつはウィルスまたはウィルスのような生命がかかわっていたらしいというのが最新の知見であるらしい。現存のウィルスは宿主の細胞からDNAやRNAが分離してできたものだと考えられるようだ。だが、そもそも地球上でDNAが合成される以前の原子の海にはRNAの生命が存在したらしいという。RNAはさきにも書いたようにDNAにくらべて自己複製の際にコピーミスを起こしやすい。それによってRNA分子には多様性が生まれていった。それが蛋白質合成の機能を果たすようになり、逆転写酵素と呼ばれる一種の酵素の出現とともに、RNA分子はDNA分子の生命に進化した。この原子の海で活躍したRNAが現在のウィルスの一部の祖先である可能性もあるという。

 平たく言えば、現在の人間を頂点とする(と人間が勝手に考えている)生命の起源には、ウィルスが欠くことのできない重要な役割を果たしていた段階があったということである。原始の海でのウィルスの活躍がなければ、私たちの生命もなかったかも知れないのだ。

 そういえば、『攻殻機動隊』(原作でも映画でも)では、情報の海で発生した生命である「人形使い」は、人間によって「ウィルス」と認定され、執拗に追い回されていたプログラムであった。

 けっきょくこういうネタに落ちついたけど、ともかくこの『ウイルスがわかる』は、私にとってはそういうことを考えさせてくれる本であったということである。専門性を損なわないかぎりで平易に書かれているという、この「ブルーバックス」のシリーズらしい一冊ということができるだろう。


 評者:清瀬 六朗




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