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安藤昌益はポルポトか?


鈴谷 了





 安藤昌益(あんどう・しょうえき)と言っても知らない人がいるかもしれないので簡単な説明をしておこう。江戸時代、18世紀の東北地方の人物である。主に今の青森県八戸市に暮らし、秋田県大館市で没した、とされる。医師を営みながら貧しい農民に対してコンサルタントのようなこともしていたらしい。その経験を元にやがて陰陽五行説を独自に発展させた思想を作り上げた。その内容は自然や人体の営みから社会にまで及ぶ上にかなり難解だが、全体としては当時の支配層や商業者は農民に寄生して生活しているからダメ、宗教は偽の「救済」を説きながら農民から収奪しているからダメ、とこれらを否定し、みながありのままに生き農耕をする(これを「直耕」と呼ぶ)社会が理想であると説いた。

 このため、彼は没後も地元農民から「守農大神」という名前で祭られ、支配者側がその祀を破却したという話も伝わっている。


 その影響もあってか、彼の事跡は謎に包まれることになった。「大館で没した」ということが判明したのもつい20年ほど前のことである。明治になって主著といわれる「自然真営道」(「しぜんしん・えいどう」と読む)が発見され、東大に保管されていたが、本格的な調査に入る前にその大部分が関東大震災で焼失し、ますます謎は多くなってしまった。

 戦後、残された著書などから彼が取り上げられ、「忘れられた思想家」としてクローズアップされる。江戸時代の日本の、それも東北地方にラジカルな「無政府・平等思想」を唱えた思想家がいた、という事実は、思想上の制約が緩和された社会に強くアピールするものだった。今では高校の日本史教科書にも名前が出ているくらいポピュラーになっている。


 しかし、彼に対する評価は人によってかなり「温度差」がある。オリジナルな思想を生み出した東北の希有な思想家という人から、地方の大したことのない人物というものまである。たとえばかつて岩波文庫に収録された昌益の著書「統道真伝」(「とうどうしんでん」)の解説を書いた奈良本辰也(この人は江戸時代の武家・儒家思想が専門)氏はその中で「大した思想家ではないのではないか」と記したため、昌益を評価する人たちから冷たい目で見られている。この二つの反応がその端的な例であろう。また、東北出身であることから、東北に対して特別の思い入れを持つ人からは過大な評価を受け、そうでない人からは冷淡な評価を受けるという傾向があることも指摘できる。


 昌益が戦後大きく取り上げられた背景には、「外来思想」へのコンプレックスという側面もあるのではなかろうか。戦後の民主化思想、あるいは社会主義思想はいずれも「輸入の思想」というジレンマをそうした陣営にいる人に対して抱かせずにはおかなかった。そんな中で「独自の思想」でラジカルな共産主義的世界を理想とした人物の存在は、何よりも心強く映ったはずだ。また、陰陽思想の影響を受けた部分には見方によっては西欧の「弁証法」とよく似た点もあり、「日本にも弁証法思想家がいた」と喧伝されたりもしたようだ。


 さて1990年代の今日、「身分・商業・宗教の否定」「全ての民が同じように農耕をする社会」という言葉は、ある政策を連想させる。それは、1970年代後半にカンボジアを支配したポルポト政権が実行したものだ。「反乱軍」であった彼らが首都プノンペンを制圧し実権を握ると、プノンペン市民は一斉に都市から農村に強制移住を命じられ、集団農場での労働に従事させられた。宗教・商業は否定され、通貨すら廃止されたのだ。ベトナムの武力侵攻によってポルポト政権がその地位を追われるまでの間に「反逆分子」とみなされた国民数百万が虐殺されたことは、現在ではほぼ動かしようのない事実であったとみられている。


 この事実を知って以来、筆者は一つの素朴な疑問を抱いている。はたして「安藤昌益の研究者」といわれる人々は、ポルポト政権の行った政策をどのように考えているのだろうか?もしかすると「安藤昌益をあまり評価しない人々」から同じような皮肉混じりの質問を何度も受けて、もううんざりしているのかもしれない。おそらく彼らはそういう議論になれば「昌益とポルポトはここが違う」という点を強調するのだろう。

 たとえば昌益は医者であり常に弱い者・虐げられた者の側に立つ人物だったから、恐怖政治などは考えてもいなかったという議論がそうだ。(これは筆者が想像で書いているので、実際の昌益研究家がそう考えているわけではない)ほかにも「暴力や軍隊の存在」とか、「ポルポト政権の場合は党の指導者がいて市民を色分けし、身分制が否定されたとはいえないから違う」といったような反論もありえる。

 しかしすべては仮定の論議である。昌益は理想社会を描きはしたが、ではどうやってそれを実現するか、という点は現存する資料にはないようだ。まさか自分の主張が流通すればみんながものわかりがよくなって突然「自然世」(昌益の主張する理想社会)が実現するという楽観主義者だったとも思えない。

 歴史においては、社会体制を根本から覆す場合、何らかの「暴力」が働く例のほうがそうでない例よりもはるかに多いのが残念ながら現実である。さらにそうした「暴力」や「弾圧」を最初から理想社会として目指したという団体はどこにもないであろう。誰だって「こうすればみんなが幸せになれる」というところからスタートしたはずだ。

 もちろん、昌益の主張は「主張」のままで終わり、実際の社会変革運動には結びつかなかった以上、もしそういう運動をしていればというのも(「昌益は弾圧なんかするはずはない」というのと同じ)仮定の論議にすぎない。

 ただ、近代のさまざまな社会運動の中で、昌益の理想を形の上だけとはいえ、もっともそれに近い形で実行したのがポルポト政権だったという点は冷静に見すえなければならない事実である。それ以前の(もう少しレベルの浅かった)中国の文化大革命も含めて、そうした運動は結果として混乱と弾圧を生み出したというのが現時点での評価であろう。


 ならばその結論で総括し、「安藤昌益も結局はポルポトにつながる者だったのだ」と言い切って終わらせていいのだろうか? それで片づけることは、実は単なる問題の「棚上げ」か「先送り」ではないか。

 それはこういうことだ。これらの思想や運動に共通する根は「農業(を中心とした肉体労働)と、頭脳労働の格差を何とかなくしたい」という願望である。世の中にはさまざまな職業があり、それらの労働は何らかの社会への貢献をするという前提に立っている。その意味では職業に「貴賤」はない。だが、身分制の社会ではそれとはまったく無関係の理由で階級が設けられた。身分制が去った後には「社会的地位」や「賃金」という別の尺度が、職業や労働に価値を与えた。それを補完したのが教育制度と「高い学校教育を受けた者ほどそれに応じた待遇が約束される」というシステムである。

 それらの尺度の中では、「食糧を生産する」というもっとも基幹的な産業に従事する者は不利にならざるを得ない。これはおかしなことだ、という考えも生まれてくる。 「皆が同じように働けばそんな区別はなくなる」「生産したものを右から左に流すだけで利益を得ることはやめよう」「知識の価値を改めよう」といった発想はその産物である。

 結局、強制的・暴力的にそうした発想を実行に移す試みは失敗に終わった。これは歴史の事実である。しかし、そのもとになった「労働の格差をなくしたい」という願望そのものへの回答はいまだに保留されている。

 分業の経済的な効果を否定することがきわめて困難である以上、社会が進めば職業の種類が増え、労働の価値が多岐にわたっていくことはどうしても避けられない。それを暴力的に「みなが食糧生産に従事すればよい」という形ではなく、適正に「能力に応じて分配」しながらそれぞれの職業が社会の中で同じような尊厳と地位を保つための努力は今後も課題となっていくだろう。

 今日安藤昌益を見るとすれば、いささか批判的ではあるが、そうした課題を考える際の一つの材料とするのがもっとも適切なのではなかろうか。


 虐殺を指示したとされるポルポトは、自派の内紛により身柄を拘束され、現在「人民裁判」にかけられている。その中で彼は自らの政策を「間違いではなかった」と主張しているという。大量の犠牲者を想えば前非を悔いるのが筋であり、そうあってほしいという人が大半であろう。ただ、その感情を汲むとしても、彼が何を根拠に自らの政策を実行したかということは、開かれた場で弁明をしてほしいと思う。

 それは、単にポルポトを批判する人のためばかりではなく、「労働や知識の価値」という、19世紀の産業革命以来のテーマとも深くかかわることになるはずだからである。

                    ―― 終 ――



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