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GENESIS APOCRYPHON

〜第三部〜


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 おまけとして「666」の話
 この「666」は新約「ヨハネの黙示録」13:18に登場する。これはある「獣」――第弐話の英語タイトルがTHE BEASTでしたね――を表す数字として登場する。その部分を引用してみよう。

そして、第二の獣は、かの獣の像に霊を吹き込む〔=生命を与える―翻訳者脚注〕ことを許された。それは、かの獣の像がものを言うことさえできるためであり、また、かの獣の像を礼拝しない者があれば、すべて殺させる[ためであった―翻訳の底本註]。そして、卑小な者にも偉大な者にも、金持ちにも貧乏人にも、自由人にも奴隷にも、誰にも皆、その右手か額に刻印を受けさせる。それは、刻印〔のある者―翻訳者註〕、つまり、かの獣の名前か、あるいは彼の名前〔を記す文字―翻訳者註〕が表す数字のある者のほかは、誰も買ったり売ったりすることができないようにするためである。
 ここに知恵を〔を働かせるべき必要―翻訳者註〕がある。理性〔=知恵―翻訳者脚注〕のある者は、かの獣の数字を数え〔て、それにどんな意味があるのかを考え―翻訳者註〕なさい。なぜなら、それはある人間の〔名前を表す―翻訳者註〕数字だからである。その数字は、六百六十六である。[岩波書店版新約聖書「ヨハネの黙示録」]
 さては、この「刻印」というのは、それを持っていないと10時まで入れてもらえないサークル参加の券のようなものなのであろう。

 この「666」はつぎのように読み解かれている。現在でも「ローマ数字」というと、VIで6とか、XXIVで24とか、アルファベットの文字で数を表現している。これと同じような表記方法がギリシア語にもヘブライ語にもあった。これで「ネロ皇帝」と書いたアルファベットを数字に換算し、それを合計すると666になるというのである。ただ、ギリシア語で書かれているのが基本の新約聖書で、この666の解釈だけはヘブライ語を用いることになるのがちょっち苦しいところのようだ。ところでなぜ666が不吉かというと、神の業は「7」で完成する(ということになっている)ので、「6」というのは完成一歩手前の未完成の状態を意味する。で、「完成一歩手前」ならばいいじゃないか、というようなものだが、それが三つ(これもキリスト教では特別の意味を持たされている数字だ)も並ぶと、「ようするに永遠に完成しないんだ」というような意味でとられて、不吉とか災厄とかいう意味になってしまうらしい。いやぁ原始キリスト教時代にと学会がなくてよかったね。「ヨハネの黙示録」なんかトンデモのひとつの原型だもんなぁ。でも「黙示」的なものはべつに「ヨハネの黙示録」にかぎらないんだけど(→【聖書の暗号】)。

 ただ、これは、「ヨハネの黙示録」の「獣」が「ネロ皇帝」だとあらかじめ知っている相手を想定して書かれているから、これが通じたのだ、というのが、現在の正統非トンデモ聖書解釈の立場である。つまり、焦点は、迫害者である「ネロ皇帝」を「666」という不吉な数字で表現できるんだということのほうにあると考えるわけだ。

 ところで、「黙示録」ははるか未来の最終戦争について書かれたものではないのだろうか? そこに、その当時の初期キリスト教徒が知っていたローマの皇帝が出てくるというのはおかしいではないか?

 ――トンデモはこういう方面から攻撃を開始する。ところが、この地球の支配者であるわれわれニャントロ勢力はそれを逆から攻めるのだ。

 ごく初期のキリスト教徒は、ほんとに「もうすぐ終末が来る」と信じていたのである!
 ローマ帝国も七人めの皇帝でオシマイになって世界の終末が来ると信じていた者もいたらしい。なぜ「七」かというと神の業は「七」で完成するという理由でだな。あれ、「六人で終わり」だったかな? ともかく、「黙示録」ははるか未来の終末について書かれたものではなくて、時間的にももうすぐ起こるかも知れない終末に備えるために書かれた文書なのだ。死海文書にも同様の傾向があるといわれる。

 ところが、ローマ帝国はどんどん繁栄し、初期キリスト教徒は迫害されてもローマは繁栄をつづける。しかも、ローマ帝国は、ユダヤ教は宗教として認知していて、ユダヤ人には皇帝崇拝を強制しないなどの宥和策をとっていた。キリスト教も最初は「ユダヤ教の一派」ということでその宥和策に加えてもらっていたのだが、キリスト教が拡大すると、キリスト教はユダヤ教の一派とはみなされなくなって宥和策からはずされ、迫害は強化された。そんなこともあって、迫害されている宗教にとって世界の終末は一種の救いであるのに、それがぜんぜん来ないではないか――ということが初期キリスト教徒のあいだで大問題になった。これを「終末遅延」の問題という。

 「終末遅延」はたんに教理上の問題ではない。そのために信者がダレたり、ローマやユダヤ教に対して妥協的になったりして、それは教団消滅の危機を意味した。そうした状況に対して「黙示録」は書かれた――とされている。ローマやユダヤ教に妥協したり、率先してダレたりしていたら、「偽預言者」として、遠い未来ではなく、もうすぐ、燃える硫黄の池のなかに投げ込まれるんだぞ、という、教会指導者への一種の脅しが含まれているのだ。

 ちなみに、俗に(ワシも「俗」だが)「世界最終決戦」の意味で使われる「ハルマゲドン」ということばの出典もこの「ヨハネの黙示録」である。「ハル」はヘブライ語の「山」で、ユダヤ史上有名な古戦場である「メギド」をとって「メギドの山」という意味のヘブライ語をそのままギリシア語に写したのがこの「ハルマゲドン」だ――といわれているのだが、じつはメギドは平地であって山ではないので、別の説も提案されているらしい。なお、「ヨハネの黙示録」では「ハルマゲドン」の段階はまだ「最終決戦」ではない。

 「律法」に従っていれば祝福された生活を送ることができ、それからはずれたときには罰が下され、しかしやがて神はその災厄から民族を救ってくださる――という旧約の循環論的な世界観から離脱し、イエスによる「人類補完」の救いで人類史は新たな段階に入ったと信じるキリスト教徒には、その「新たな段階」が、目に見え、実感できるかたちで示されほしいという渇望があったわけである。しかし、けっきょく、この「終末遅延」の問題は、終末のなかなか来ない世界で善行を行うことが「義」であるという方向に解決されていき、キリスト教には教会による信徒の組織化という志向が定着していくのである。キリスト教は、のちのどんな時代よりも、この成立直後のごく初期に著しい変化を経験した、といえるかも知れない。



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 ところで、そこらへんで聖書を引用するときには文語訳がよく使われる。WWFでも使っている。押井守作品では、『パトレイバー』(劇場版)・『パトレイバー2』ともに聖書の字句そのものは英語で示されて、それを登場人物が(あるいは字幕で)文語訳にして読んでいるというかたちを採っていた(→『パトレイバー』のお天気お姉さん)。『攻殻機動隊』でも「人形使い」も融合後の素子も文語訳を使っている。

 いっぽう、現在、ごく普通に手に入る聖書は、聖書協会の「新共同訳」をふくめて口語訳である。聖書協会は文語訳聖書も出版しているが、一般の書店では大きな書店でなければ置いていないことが多いし、値段も高い。私は酒に酔ったときにうっかりして革装のやつを買ってしまったのでさらに高かったのだが、そうでなくても新共同訳の聖書の倍ぐらいの値段がついている。なお、このほかに、フランシスコ会の翻訳や個人の翻訳による聖書も出版されているが、私はまだ参照したことがない(店頭で売っているのは見たことがあるが――異教徒なのに聖書のバリエーションを揃えたってしようがないでしょ!)。

 で、格調の点では文語訳聖書のほうがいいと考える人が多い。べつに押井守や押井ファンだけではない。また、講談社現代新書で『ユダヤ人』・『教養としてのキリスト教』を書いている村松剛氏のような、どちらかというと保守的な方だけではない。のちに牧師さんになるための学校に通うことになった私の同世代の知人も、新共同訳が出たときに、文語訳のほうがずっといいと言っていた。英語圏でも古い英語で書かれたKing James Versionいわゆる欽定訳が現在でも出版されている。私が持っているアメリカ聖書協会版も欽定訳で、巻末に「いまは使わない表現」の一覧が出ていて、現代語との意味のズレについて説明している。そのことを考えると、聖書にはわりと古さを感じさせる文体が似合っているという発想は、日本の一部だけのものでもないようだ。

 私は、いま、手許に、聖書協会の最新訳である新共同訳(「続編」つき)、文語訳、上記の英文聖書の三種類の翻訳を持っている。新約についてはこのほかに95年から刊行されている岩波書店版も、随時、参照している。

 邦訳聖書の新共同訳と文語訳を読みくらべると、たしかに「経典」らしさという点では文語訳は口語訳(新共同訳もふくむ)よりはるかに勝っていると私も思う。それは、私たちが儒学の経典を読んできたのと同じ響きをめざした翻訳だからだろう。

 ただ、それだけに、私たちには典雅に聞こえる擬古文にごまかされて、なんとなく読み過ごしてしまうという部分がある。なんか「ヘンだぞ」ってなことが書いてあっても、擬古文のリズムと「古典らしさ」にごまかされて気がつかない。

 たとえば、つぎに引用するのは、「テモテへの第一の手紙」(このタイトルは岩波版のもの)2章の後半の文章である。
 女は凡て(すべて)のこと従順にして静(しずか)に道を学ぶべし。われ女の教ふることと男の上に権を執ることとを許さず、ただ静にすべし。それアダムは前(さき)に造られ、エバは後に造られたり。アダムは惑されず、女は惑されて罪に陥りたるなり。然れど(されど)女もし慎みて信仰と愛と潔(きよき)とに居らば、子を生むことに因りて救はるべし。[文語訳]

 婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。[新共同訳]

 書いてあることは同じである。新約聖書のなかで「女は男よりも罪が深いのだからおとなしくしていろ」といちばん露骨に説教している一節だ。ことに、最後の一節は、逆に読めば「結婚もせず、子どもも産まない女は救いようがない」(「姦通」で子どもを産んだのではだめ)という意味になるし、そう解釈されてもきた。儒教に「女の最大の罪は子どもを産まないことだ」という考えがあるのをとらえて、儒教は女性差別宗教だという非難がなされる(儒教が「宗教」かどうかはここでは問題にしない)。それは否定しない。だがキリスト教だって似たようなものなのだ。

 しかし、読んでみて、どうだろうか? 文語訳のほうは、いかにも明治の人が書いたような文章だし、ま、そんなもんか、で読み飛ばしてしまいそうだ。新共同訳では、現代に通用する文体のなかにこういう内容が出てくるので、「むむっ、なんだこれは!」という違和感を感じる。すくなくとも、新共同訳の文体のほうが、こういう点に注意がいきやすいのではないだろうか。

 吉本隆明は戦後すぐに「マチウ書〔マタイによる福音書〕試論」という文章を書いた。ここで、吉本隆明は、革命集団としての初期キリスト教と、それを支えた思想としての「マタイによる福音書」に注目して、イエスという人物は実在しなかったという立場からこの福音書を読み解いた。それは、戦中から戦後に亙る日本の「思想」に対する違和感を結晶させた、挑戦的な論文だった。ここで、吉本隆明は、当時は一般的だった文語訳に依拠せず、わざわざフランス語から口語訳して聖書を引用している。マタイがマチウ、イエスがジェジュになっているのもそのためだ。文語訳の美文調では、革命集団的な初期キリスト教像を描きにくかったわけである。

 ところで、明治になってキリスト教が入ってきて、いきなりいまのような文語訳ができたわけではない。最初のころは、外国人の神父さんか牧師さんかが説教するのに、Oh Lord(「主よ!」)っていうのをいきなり「オオ、ワタシノダンナサン!」とか大声で言ったもんだから、集まっていた日本人のキリスト教徒が笑いをこらえるのに必死だったというような話も伝わっている。「主」ならなんとなくありがたくてエラそうだけど、「旦那さん」じゃあねぇ――「旦那さん」のために殉教するってのもなんか軽〜い感じがして、一〇円で殺されかけたポピィくんみたいでやだな。「主よ、タネもしかけもないことをお許しください!」だったら変身できるけど、「ダンナさん、タネもしかけもないことを許してちょーだい」じゃあなんか芽美ちゃんがずっこけて捕まりそうだぞ。まりん、まりりん〜♪



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 と、いろいろ書いてきたが、じつはこんなことを知ったところで『エヴァンゲリオン』という作品について何かわかったことにはぜんぜんならないのである。死海文書や原始キリスト教についてナニを知ったところで、『エヴァンゲリオン』のナニがわかるわけでもない。ただ「もしかしたら理解するための素材として利用できるかもしれない」というだけのことだ。

 ――なんて最後に書こうと思っていたら、『アニメージュ』の四月号の特集のシメの文句に先を越されてしまった。商業誌とおんなじことを書く同人誌というのもマヌケだが、同人誌で書こうとしていたことを書く商業誌もなんだろう、ってな感じである。この特集はたしかになかなか力が入っている。「セフィロトの樹」の説明が出ているところなんてさすがは某大手出版社どぐらまぐら書房が出している雑誌である。ヒトラーがどうのこうのという話も出ているし、トンデモ本のノウハウが生きた……のかなあ――しかし『アニメージュ』に望月智充の『トンデモ本の世界』の書評が載ったことは『トンデモ本の逆襲』にも紹介されているぞ。しかし、「これが商業アニメ誌のやる特集か? こんなの同人誌にまかせておけばいいんじゃないの?」ということも同時に感じる――率直にいえば。しかし、では私たちは商業アニメ誌に何を期待しているのか? そういうこともふくめて「アニメ誌」のあり方が問われているのかもしれない。もちろん同人誌のあり方が問われているのは自明の前提としてである。同人誌のあり方が問われているからこそ、その問いへの答えとしてこういう冊子をつくっているんじゃないか(→同人誌と商業誌……あんまり期待して参照しないように(^^;)。

 『エヴァンゲリオン』についてひとつはっきりしているのは、この作品は「『エヴァンゲリオン』を語る語りかた」を要求してくる作品だということだ。そうは思わないという人がいてもいっこうにかまわない。だが私はそう信じている。『エヴァンゲリオン』は宮崎「漫画映画」や押井作品へのコンプレックスという文脈でその本質を語るのが適当な作品ではない。また『王立宇宙軍』以来のガイナックス作品の系譜からのみ語られる作品でもない。もちろんそういう文脈で『エヴァンゲリオン』に言及することは可能だ。けれども、それだけで『エヴァンゲリオン』の本質的部分にアプローチすることは不可能だ――不可能だと私は思う。多くのすぐれたアニメ作品――アニメにはかぎらないが――がそうであるように、『エヴァンゲリオン』を語るには『エヴァンゲリオン』を語る方法をまず獲得しなければならない。『エヴァンゲリオン』はそういう作品なのだ。

 だから、「この作品を語るために、この作品の本質的部分にアプローチする方法を生み出そう」という志向を持っているか持っていないかが、『エヴァンゲリオン』に対するファンの態度を分ける重要なポイントになると思う。自分で作品に対するアプローチを開発しようとせず、世間に流布しているありあわせの論法をつなぎ合わせて、あたかも自分が作品の作者たちよりエライと思いこみ、たんなる印象に基づく悪口を作品に対する「批判」として公共の場に出すことを事とするような人たちには、『エヴァンゲリオン』は、一生涯、理解できない駄作――せいぜい「気になる駄作」にすぎない。その作品に対するアプローチのしかたを自分で開発する意思と情熱を持っている人だけが、『エヴァンゲリオン』の福音に浴することができるのである。

 『エヴァンゲリオン』では、登場人物の内面がじかに告白されてしまうことに反発を感じる「アニメファン」もいるようだ。何度も「奇跡」的な状況を設定しておいて、成功する確率がゼロに近いのに、けっきょくそのすべてをクリアしているというところに、物語づくりのあざとさを嗅ぎとる「ファン」もいるらしい。あるいは、『エヴァンゲリオン』に従来の特撮作品・アニメ作品で使われた構図や演出技術が使われていることに興ざめするという感想を持っている「ファン」もいるという話もきく。なかには、『エヴァンゲリオン』が有名声優ばかりを使っていることを捉えて、声優ブーム便乗商品のようにヒハンする「アニメファン」もいるそうである。

 白状するがこれはシトごとではない。むしろ上に挙げた感想も私は一度ぐらいは抱いているのだ。私だって、壱話を見たときには、「逃げちゃ駄目だ!」というセリフにはインパクトというより違和感を感じた。参話・四話あたりも見ていてちょっと辛かった――なんで内面をぜんぶセリフにして語っちまうんだ、って。おかげで第四使徒だけはなんか印象が薄い。

 だが、シンジの自己対話を中心にして構成された第拾六話にはまったく違和感を感じなかった。むしろ「とっても気もちいい」作品だった。これは第拾八話・第弐拾弐話などそのあとの「辛い」話も同じである。

 登場人物が自分の内面を表白することはその人物を描く時間と手間を省略するために使われるものだという思いこみが私のなかにはある。また、私は、その思いこみにはそれなりの根拠があると感じている。だから最初にシンジの内面表白的なセリフを耳にしたとき、反射的に「シンジの人物描写に手を抜いた」と私は思ってしまったのだ。「奇跡」についても同様で、起動確率0.000000001%とかきいたときには「コレってこういう作品の定石だなぁ」と感じたものである。

 けれども、これは、作品を評価する方法としてはじつは正当ではない。内面を表白すること、「奇跡」的な設定を主人公たちが毎回クリアしていくこと、あるいは既往の作品のパクリが多用されていること――そういったことが、作品のなかでどういう意味を担っているかということを考察することなしに、そういう特徴から作品の評価を決めてしまうことはできないのだ。ただ、多くの作品では、それをいちいち検討せずに、内面表白は手抜きの技術だとか、「奇跡」的な設定は作品を盛り上げる手段だとかいう思いこみをあてはめてもまちがいを起こすことがなかった。その経験がこうした思考の短絡を便法として許していたのである。

 はっきり言っておく。『エヴァンゲリオン』ではそういう思いこみは通用しない。いうまでもなく「奇跡」は本作品のテーマの一部をなしている。『エヴァ』に聖書ネタが頻発するところから考えても、あるいは『ナディア』との対照を考えても、この作品で「奇跡」というものがそう軽く扱われているわけがないではないか! 自己の内面を表白することだって、『エヴァンゲリオン』を拾何話も見ていれば、それが表現の短絡のために使われているわけではないことがわかるはずである。拾六話にしても、『エヴァンゲリオン』を「普通の良質なアニメ」に仕上げるのだったらあんな場面はむしろよけいなはずだ。物語上、シンジについてあのような設定を語る必要があったとしても、露骨にシンジの見ている幻だか啓示だかだということを露骨に示さないで流すことは十分に可能だったし、そっちのほうが手間は少なくてすんだのだ――もちろんそんなことをしたらエンディングのインパクトは半減しただろうけれど。むしろわざわざ収まりの悪いかっこうであの自己対話が取り入れられているのである。その意味とは何か?

 私は過去のアニメや特撮の場面や演出までこまかに覚えてはいないので、「パクリ」の件については残念ながらあまりコメントできない。が、それを単なる「ガイナの悪癖の表出」と見るのは単純すぎるのではないかと思う。福音書や新約の黙示録は旧約聖書の預言書のパクリで満ちている。だからといって、それを福音書や黙示録の著者のおたく的悪癖と片づけることはできないはずだ。むしろ、新約で旧約のどの預言や律法を引いているかを検証することが、新約の意味を理解するためには不可欠なものとして研究されているのである。

 声優についても、たんに声優人気にあやかる作品なのであれば、林原めぐみをあんな寡黙な役にあてたりはしない。だいいち人気のある声優を使ってどこがいけないのか。声優人気によりかかって安易な作品を売ろうという姿勢があるならば、私はやはりそれには強い疑問を感じる。だが、逆に、人気声優をたくさん使っているからといって、それが声優人気で売ろうとしている安易な作品だということにはならない。「英雄、色を好む」ということわざが、万一、真だったとしても、「色を好むから英雄だ」ということはいえないのだ。

 「アニメファン」は、庵野監督やガイナが「自分の好みだけで作品を作っている」と批評するまえに――私も参話とか四話とかのあたりではそんなことも言ったもんだったが――、自分が「自分の好みだけで作品を批評して」はいないかを厳しく問うべきであると私は思っている。もちろん「そんな必要なんかない!」とこれを読んでいる貴殿が思われたなら、それはそれでひとつの立場として私は尊重したいと思うが。

 私から見れば、自分の持っている「こういう作品はこうだ」という思いこみを、作品そのものに照らして「その作品への批評」に変えていこうとせず、ただガイナや庵野監督を非難する「アニメファン」は、形式的律法にこだわるあまり、安息日には病人を治してはいけないとか麦の穂を積んではいけないとか主張して、安息日が存在することの意味を見失った、福音書に出てくるパリサイ人のように思える。福音書に登場するパリサイ人たちは、すぐそこに「福音」に接する機会があるのに、それに気づかないばかりか、それをみずから遠ざけようとするのだ。

 率直に言って、私にとって、『新世紀エヴァンゲリオン』はミョーに「シンクロ率」の高い、とっても気もちのいいアニメだった。放映当初、私は「よくもまあ、こんなハズカシイ作品を……!」と感じて、庵野監督をはじめとするスタッフに脱帽した。念のために書くと、この「ハズカシイ」というのは最大限の賛辞のつもりである(これは『WWF13』の後記にも書いた)。で、そう思っていたら、サントラ一枚めのコメントを読んで、これは庵野監督自身が強く意識していたことだったというのが判明した。

 また、伍・六話(なんで「六」が「陸」になんねぇんだ?)の「レイ」前後編とそれにつづくアスカ登場のエピソードのあたりでは、レイがシンジの「母」の役を受け持ち、「外」からやってきて同居しているアスカはさしづめシンジの配偶者ってことになるんだろうなどと思っていた(これに対するへーげる奥田氏の批判がWWFのホームページに出ているのでご参照を)。ところが、その後、レイがシンジの「母」と濃い関連があることは明示的に明らかにされてしまった。またミサト・シンジ・アスカが家族を「演じて」いたこともセリフに出てきた。

 こういう「シンクロ率」のよさは、私が『エヴァンゲリオン』に対して効率的に戦えているということの証にはならない。逆だ。対使徒決戦兵器が使徒と完全にシンクロしてしまったら、いかに気もちがよくても負けである。同じように、批評者としての私が作品と完全にシンクロしてしまったら、それ自体は心地よいことであっても、批評者としては敗けなのだ。

 あるいは、「作者の意図」を見抜き、それを解説することが批評の役割だと考えている批評者の方もいらっしゃるかもしれない。それだと作品と「シンクロ」することが批評の役割だということになる。だが私はそのような立場をとらない。自分が「この作品をこういうふうに見てやろう」と思って自分で開発したアプローチが、じつは作者によって最初から仕組まれているものだと判明したら、ゲームでトラップに落ちたような悔しさを感じるのである。もちろん、私はこのような感じかたを他の批評者に押しつけるつもりはない。

 そんなわけで、私は、いま、『エヴァンゲリオン』に勝つための批評の方法を見つけようとしているところだ。
 ――私たちに神のご加護がありますように!



 この文章は「WWFメーリングリスト」に発表した文章を手直しし、まとめたものである。メーリングリスト参加者各位、ことに、聖書をめぐるさまざまな知識を伝授してくださったミカエル荻野先生と、私のアーティクルにつねづねていねいな批評を寄せてくださるへーげる奥田先生には、心から感謝を申し上げるしだいである。もちろんこの文章に対する責任は全面的に私が負うべきものである。

 また、死海文書・キリスト教関係については、ここで用いた以外にも資料を集めたが、目を通している時間がなかった。とくに死海文書関係文献で公式の国際研究グループに批判的な立場の文献はまだじっくり読んではいない。お許し願うしだいである。キリスト教については、『エヴァンゲリオン』を見始めてから興味を抱いたようなしだいなので、初歩的なミスやまちがいもあろうかと思う。お気づきになった方はご指摘いただければ幸いである。

                         ― 終 ―


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