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- 免責事項
- 長年の経験や記憶に基づいているものが中心で、ほとんど出典不明です。
- 客観性にかけた主観的(思い込み)な記述が多数あります。また研究的な記述もあります。
チューリップ
チューリップ(TULIP)は1972年から2008年まで活動した日本の音楽グループ。
- 概略
- 財津和夫を中心として福岡で結成された音楽グループ。ビートルズから影響を受けことやエレキ、ベース、ドラムという編成にハーモニーを生かしたサウンドからよく和製ビートルズと称された。いわゆるフォーク・ロックにジャンルされるが、当時の日本の音楽界でははば広く「ニューミュージック」と言われた。
代表曲の「心の旅」、「虹とスニーカーの頃」以外の目立ったヒット曲はないもののコンスタントにコンサート活動を続けて、活動期間は17年間(再結成を除く)の長きに渡った。ただ後期にはメンバーの脱退が相次ぎ、一回り以上も年齢の違うメンバーを補強するも急激にコンサートや観客動員数を減らし解散するに至った。解散時オリジナル・メンバーは財津和夫ただ一人という状態であった。
同時期に活動したアリス、オフ・コース、甲斐バンドなどがスタジアム級のコンサートを行うまでの人気になっていったのに比べると、中規模のコンサートを数多くこなすだけであったが、むしろ少数ながらも根強いファンの支持を得たグループといえる。解散から8年後ほぼオリジナルのメンバーで再結成、以後10年間に5回の再結成ツアーを行い、そのつど30回以上のコンサートを行っていることからもその人気の根強さが伺える。
- メンバー
- 財津和夫(ざいつかずお)
- ギター、キーボード
- デビュー〜解散、再結成メンバー
- 現在ソロ活動中
- 吉田 彰(よしだあきら)
- 安部俊幸(あべとしゆき)
- リードギター
- デビュー〜1985年脱退、再結成メンバー
- 2014年7月7日居住先のインドで逝去、64歳
- 上田雅利(うえだまさとし)
- ドラムス
- デビュー〜1979年脱退、再結成メンバー
- 現在ソロ、およびグループで活動中
- 姫野達也(ひめのたつや)
- ギター、キーボード
- デビュー〜1985年脱退、再結成メンバー
- 現在ソロ活動中
- 伊藤 薫(いとうかおる)
- ドラムス
- 1980年〜1985年脱退
- オールウェイズ脱退後、引退
- 宮城伸一郎(みやぎしんいちろう)
- ベース
- 1980年〜解散、再結成メンバー
- 現在ソロ活動中
- 松本 淳(まつもとじゅん)
- 丹野義昭(たんのよしあき)
- 高橋裕幸(たはかしひろゆき)
- キーボード
- 1987年〜解散
- 2005年41歳で逝去
-
- 第一期(財津、吉田、安部、上田、姫野)
- 第二期(財津、安部、姫野、伊藤、宮城)
- 第三期(財津、宮城、丹野、松本(途中脱退)、高橋(途中加入))
- 再結成(財津、安部、上田、姫野、宮城)
- デビュー前
- 西南学院大学の学生だった財津和夫は高校の同級生で同じ大学に通う吉田彰[1]らと「フォー・シンガーズ」を結成する。財津は他のバンドからこれはと思うメンバーを引き抜いてはそのバンドを解散させてしまうことから「バンド潰しの財津」と言われていた[2]。フォー・シンガーズは1966年の「第3回ライト・ミュージック・コンテスト」[3]に出場するも入賞すら出来ず、財津はフォー・シンガーズを解散し新たに吉田彰と、同じ大学の末広信幸、宗田慎二とともに新たに「チューリップ」を結成する。
1970年福岡市天神にライブ喫茶「照和」がオープン。毎日ステージでアマチュア・バンドの演奏が行われるこの店にチューリップも出演するようになる。チューリップはやがて地元九州ではかなり知られた存在となり、コンテストのゲストやラジオにもたびたび出演ほどの人気グループとなる[4]。
1970年、前年の雪辱を晴らすべく「第4回ライト・ミュージック・コンテスト」にチューリップとして出場、自信を持って挑戦したにもかかわらず準優勝に終わる[5]。
この頃チューリップの音楽を気に入ったスポンサーにより自主制作レコードがつくられる[6]。レコーディングのディレクターを担当したのはKBCラジオの岸川均氏[7][8]。約2000枚が製作され、岸川氏が盛んにラジオでオン・エアしたことから地元だけの販売にもかかわらず1000枚近くが売れる。
地元での人気や自主制作盤のヒットによりいくつかのレコード会社から誘いがくるがうまくいかず、結局メンバーのつてをたよりに東芝レコードと契約することになり新田和長氏が担当ディレクターとなる。メンバーは費用の工面をつけて上京、「私の小さな人生」/「コケッカキの住む沼」[9]をレコーディングする。しかし大学卒業を控え将来に不安を感じた宗田と末広は就職を決意、財津和夫に脱退を告げる。
吉田と二人だけになった財津は新たに安部俊行(リード・ギター)、姫野達也(ギター)[10]、上田雅利(ドラムス)をメンバーにして[11][12]グループをを再編成する。チューリップは閉店後の「照和」を使って猛練習を繰り返す[13]。地元でのライブ活動と練習を繰り返す中、再度レコード会社に売り込むべく「魔法の黄色い靴」のデモ・テープを作成、財津はデモ・テープを持って前回のレコーディングで知り合った新田和長氏を訪ねて上京する。デモ・テープを聴いた新田氏はすぐにレコーディングを決意、新田氏の紹介により草野昌一氏[14]が専務を勤める音楽出版社「シンコー・ミュージック」が所属事務所に決まり[15]翌年メンバー全員が上京することとなる[16]。
- デビュー〜解散まで
- 上京したメンバーは南青山のマンションで合宿しながらコンサートやレコーディングを続ける[17][18]。1972年6月5日「魔法の黄色い靴」でデビュー。関係者の評価は高かった[19]にもかかわらずヒットはしなかった。続く「一人の部屋」もヒットには至らず、もうあとが無いという状況に追い込まれる。次の曲ではスタッフの意見により姫野をヴォーカルとすることになり、この3枚目のシングル「心の旅」がリリースされると5ヶ月がかりでナンバー1を獲得[20]するヒットとなり、一躍人気グループとなる。その後「夏色のおもいで」、「銀の指環」をリリースするとともにアイドル的人気を博すようになる。つづく「青春の影」[21]でアイドル路線からの変換を図りその後も「サボテンの花」、「ぼくがつくった愛のうた」など初期チューリップを代表する曲を次々にリリースしていった。アルバムにおいてもオリジナル3枚目にしてトータルコンセプトの「Take Off」、ロンドン・レコーディング・アルバム「ぼくがつくった愛のうた」[22]や、ビートルズのフル・カバーアルバム「すべて君たちのせいさ」[23]などをリリースしていった。
1978年にはグループとしては初の単独野外コンサートを岐阜県御嶽鈴蘭高原スキー場で行い[24][25]、交通機関の不便さにもかかわらず8000人を動員。翌1979年には「虹とスニーカーの頃」[26]がヒット、2枚組みアルバム「Someday Somewhere」のリリースとデビュー八周年を記念してホノルル公演を含む8大都市コンサート[27]を行う。しかしこの年を最後に吉田と上田が脱退する(吉田は引退、上田は『トニー』を結成して翌年デビューする)。
翌1980年は冒頭に財津のソロ・シングル「WAKE UP」がヒット[28]、新たに宮城伸一郎(ベース)と伊藤薫(ドラム)が加入[29]して活動を再開する。夏には2年ぶりに前回と同じ鈴蘭高原において野外コンサートを開催[30][31]、雨に降られたコンサートは後々伝説のコンサートといわれるようになる。その後もヒット曲はなかったもののコンサート活動を続け[32]、1982年には1000回目となるコンサートをよみうりランドで行う[33][34]。
1984年、新田和長氏が起こした新しいレコード会社「ファン・ハウス」に移籍、第一段シングル「it WAS love」をリリース、8月には2年振りとなる野外コンサート「8.11パゴダ」を芦ノ湖畔で開催[35]、また秋から翌年初めにかけてコンサートツアーを行うが、これがこのメンバーによる最後のツアーとなる。
1985年、アルバム「I Like Party」のリリースと同時に安部・姫野・伊藤が脱退[36]、『オールウェイズ』を結成する。チューリップは新たに丹野義昭(キーボード)と松本淳(ドラムス)が加入、サポート・メンバーも加えて秋からのコンサート・ツアーをこなした。しかし、このツアーこそは30回以上の本数だったものの[37]以降コンサート回数は激減する。
1987年レコード会社の移籍とともに財津は平行してソロ活動をアルバムのリリースとソロ・コンサート・ツアーを行う。新メンバーとして高橋裕幸[38](キーボード)が加入するが、今度が松本が脱退する。
テレビ出演、タイアップを行うがファンの減少に歯止めをかけることはできず、1989年ラスト・アルバム「Well」のリリースとファイナル・ツアーを持って解散する[39]。
- 再結成
- 解散から8年経った1997年2月に突如として再結成が発表される。この年がチューリップのデビュー25周年に当たることから姫野が財津に何かしたいと電話したことがきっかけとなったと言われた。またこの当時ビートルズがアンソロジー・プロジェクトとして新曲「Free As A Bird」をリリースしていたことからビートルズに触発されてなどというのも理由とされた。再結成のメンバーは財津、安部、姫野、上田、宮城の第4期編成。
- 4月に新録音の「サボテンの花」[40]と新曲「We believe in Magic」をリリース、セルフ・カヴァーを含むアルバム2枚のリリースとともにツアーが開始された。ツアーは最後にチューリップとしては初となる武道館公演を行う[41][42]。
- その後2000年[43]、2002年、2005年にオリジナル・アルバムのリリースはないものの再結成ツアーが行われた。デビュー35周年となる2007年、最後の再結成ツアーとなることが発表されラスト・オリジナル・アルバム「run」をリリース、2008年まで続いたツアー[44]の終了とともに35年の活動に幕を閉じた[45]。
- 2012年にはデビュー40周年を記念して”再集結”メモリアル・ツアーが行われた。[48]。
- 2014年9月9日、ギターの安部俊幸が居住先のインドで2か月前の7月7日に亡くなっていたことが、所属レコード会社のビクター・エンターテイメントより発表された。死因は脳出血、64歳だった。
- 使用楽器について
- 特に関係の深い楽器について記す。
- GIBSON ES-335
- GIBSON社製のセミ・アコースティックのエレクトリック・ギター。色はチェリー・レッド。リードギターの安部俊幸は長年に渡ってコンサートやテレビ出演ではほぼこのギターのみを使い続けており、そのためチューリップ・ファンにとっては"チューリップの安部”を象徴するギターとなる(あえてたとえるならポール・マッカートニーのヘフナーのようなもの)。
正確にいつ頃から使い始められたかは定かではないが「心の旅」のビデオクリップでも使用されていることから、1973年頃には手にしていたものと思われる(ただし「心の旅」のレコーディング自体では使われていない)。外国人から買ったと言われている。
1980年の雨に見舞われた鈴蘭高原でのコンサートで、ぬれて音が変わってしまったなどの理由で他のギターに持ち替えることになるまで使われ続けられた。
その後、チューリップ脱退後にサポートで参加したファイナル・ツアーではアンコールで「心の旅」を演奏するときにわざわざこのギターに持ち替えたり、オールウェイズのコンサートにおいてもチューリップの曲を演奏するときにこのギターに持ち替えるなど、特に”チューリップ”を意識したような形で使われたことがある。
1997年の再結成ツアー以降は曲によって部分的に使用されもののメインで使用されることはなかったが、最後となった”run”のツアーでは再びメイン・ギターとして使用された。
過去にコンサートの搬入時にローディのミスによりネックを折ってしまったことがある。その時がたまたまエイプリル・フールだったため当初安部は信じなかったという。
- RICKENBACKER 331 LIGHT-SHOW GUITAR
- 財津和夫使用、リッケンバッカー社製のエレクトリック・ギター。アクリル板で被われたボディに電球が内蔵されており、弾くと音に反応して電球が点滅するのが特徴。ファンの間では通称”ネオン・ギター”と呼ばれているが[46]、ネオン管が内蔵されているわけではない。
ステージで使われ始めたのは1975年頃からと思われる(1975年のツアーを収めたビデオでは使用が確認できるが、1978年8月に行われた鈴蘭高原コンサートの写真集をみると既に使われていない)。電球用のトランスが内蔵されているため重たいことや、壊れたなどの理由から使われなくなり、実際にステージで使用されたのは2〜3年弱程度と思われる。しかし短い使用期間ながら他に使用したミュージシャンもほとんどいなかったことからファンにとっては財津和夫を代表する憧れのギターとなる。
その後、よみうりランドで行われた1000回記念コンサートやファイナル・ツアー、1997年の再結成コンサートで部分的に使われているが、いずれも財津和夫がギターを弾く曲という都合上、「私のアイドル」で使われている。
- SOLINA
- 弦楽音を奏でる単音の電子鍵盤楽器。70年代には盛んに使われた楽器であり、チューリップは1975年発売のアルバム「無限軌道」から導入され、特にオリジナルの「サボテンの花」では効果的に使われている。
- OVATION PATRIOT 1776
- 財津和夫使用のアコスティック・ギター。本体にピック・アップを内蔵したエレクトリック・アコーステイック・ギターで、ボディの裏が丸くグラスファイバーで出来ているのが特徴。特にこのモデルは1976年に合衆国建国200年を記念して1776本限定で生産されたもの。財津和夫をが使い始めたのは1978年頃からと思われ、わざわざステージでこのギターを紹介をした事もあった。
以前から財津和夫は曲のエンディングに合わせてギターを真上に放り投げて受け取るというパフォーマンスを行っていたが(「8.11パゴダ」のビデオで同様のパフォーマンスを見ることが出来る)、あるときこのギターでこのパフォーマンスを行った際に受け取りに失敗してギターを壊してしまった(1983年12月の札幌厚生年金会館公演での出来事)。
- ライブ喫茶「照和」
- 福岡市中央区天神二丁目に存在する、ライブ用のステージを備えた喫茶店。1970年オープン、1978年に閉店するが、1981年に再オープンしている。チューリップを初め井上陽水、海援隊、甲斐バンドなど九州出身の多くのアーティストが出演していたことからメディアでは”伝説の照和”と表現されることがある。
お客を集めるためと折からのフォーク・ブームから若者たちに演奏する場所を提供しようとしたのが始まり。多くのアマチュア・グループが集まるようになり、照和に出演することがアマチュア・グループのステイタスとなっていった。チューリップは既にかなり人気だったため、照和に出演することは単なる仕事のうちの一つとして考えられていた。しかし途中でメンバー(宗田、末広)がやめてしまったため新しいメンバーでの練習場として閉店後の店を使っていた。上京直前には照和において「旅立ちコンサート」も行われている。アマチュア時代姫野は「ライラック」、安部は「ハーズメン」、伊藤薫は「リンドン」として照和に出演したことがある。
ちなみに安部俊幸は著書の中でギャラが安いなど待遇が悪かったことなどからチューリップが照和出身といわれることに抵抗を示している[47]。
2002年7月7日にはデビュー30周年を記念して限定30名のライヴが行われた。チケットは入札方式で高額入札者上位30名が入場できるというものだった。集まった10、506、601円の入場料は福岡市に寄付された。
- 『心の旅』ジャケットについて
- シングル「心の旅」のジャケットはタイトルがB面の「夢中さ君に」と同列に書かれていて、このようなジャケットは極めてまれである。
「心の旅」の評価について、歌謡曲ぽいとか売れ線狙いという意見がある。曲自体「夢中さ君に」が先にライブで演奏されており、スタッフの間では評判が良かったようだが、当時はヒットを出すことが命題であり「心の旅」が作られたという経緯がある。おそらくグループとしてはあからさまに売れ線をねらった「心の旅」よりも、あくまでもチューリップらしい「夢中さ君に」のほうに期待をかけており、それがジャケットに現れたのではないかと考えられる。財津和夫は「心の旅」演奏の際に「ヒット曲ですが好きな曲です」と言い訳とも思える発言もしている。「心の旅」が数年でコンサートのセット・リストから消えてしまったのにもかかわらず「夢中さ君に」の方は解散に至る最後まで演奏され続けていることからもそれが伺える(ちなみに10種類あるチューリップのライブ・アルバムすべてに収録されている唯一の曲でもある)。
前作「一人の部屋」がわざとらしい笑顔のジャケットだったのに対して、疲れ果てた表情の「心の旅」のジャケット写真が当時のメンバーの正直な気持ちだったのではないかと思える。
- エピソード
- デビュー曲「魔法の黄色い靴」のレコーディングは当時としては異例の16時間を要した。安部が使用しているのはエレキ・ギターではなくアコースティック・ギターにピック・アップを付けたもの。
- デビュー当時はグループ・サウンズの影響なのか、メンバーにニックネームが付いていた。財津(カズ)、吉田(アキラ)、安部(シュン)、上田(ガーリー)、姫野(タッチー)というベタなもの。ちなみにガーリーというのは”雅利”を音読みにしたもの。
- デビュー当時はとにかくお金が無く、衣装にも事欠くほどだった。見かねたサディスティック・ミカ・バンドのミカが(当時サディスティック・ミカ・バンドとチューリップは同じレコード会社だった)衣装を分けてくれたそうで、「チューリップ・ビデオ・クリップス」で姫野が着ている黄色いシャツはまさにそのときのもので、見ると確か右前の女性用。
- 1974年の始め頃、姫野達也が過労でダウン。しばらくは財津和夫が姫野の曲も歌う形でテレビ出演やコンサートをこなしていった。後に5人そろった形でのコンサートの再演を願って署名運動が行われたところもあった。
- 当初「青春の影」をシングル発売することに反対であったシンコーミュージック専務の草野昌一氏であったが、亡くなったとき自らの墓石に自分の好きな曲の1つとして、邦楽として唯一この曲の名前を刻んでいる(2009年6月19日放送の「A−Studio」より)。
- アルバム「すべて君たちのせいさ」レコーディングの際英語指導を担当したのは当時シンコー・ミュージックの社員だったピーター・バラカン氏。「Hey Jude」のコーラスにも参加している。当時の写真を見ると髭にサングラスという今とは比べ物にならない格好だった。
- アルバムのCD化について
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時代がアナログLPからコンパクト・ディスクに移行する際、たとえば同じレコード会社のオフ・コースや甲斐バンドのアルバムが1985年頃には全てCD化されていたにもかかわらず、様様なオムニバス・アルバムで1、2曲ごとにCD化されたことはあったものの、アルバム全てがCD化されるには1993年まで待たなければならなかった。しかしその後チューリップのアルバムはさまざまな形で再リリースが繰り返され、現在ではオフ・コースや甲斐バンド以上に再リリースの多い状態になっている(例えば一番リリースの多い「心の旅/チューリップ・ベスト」は9回もリリースが繰り返されている)。レコード会社の移籍ということがあるにせよ、これほどリリースが繰り返されているアーティストは他にはない。
売れるからこそのリリースなのか、あるいはリリースに関してグループの無関心、または権利が無いとも考えられる。
1985年11月「魔法の黄色い靴」、「心の旅」、「ぼくがつくった愛のうた」、「THE 10TH ODYSSEY」の4枚が初めてCD化される。当時の価格は1枚3200円。またLPとCDが平行されて発売されるようになったのは1983年リリースの「Halo」から。当時はまだCDのリリースはLPの数ヶ月後、値段もLPが2800円に対してCDは3500円という価格設定だった。LPジャケットの裏面はジャケット・インデックスカードの裏面で再現されているが、CDケースの裏は全て同じデザインで曲名が記載されているのみ。
12月にはシングルA面を中心とした16曲収録のコンピレーション・アルバム「BEST NOW」がリリースされる。
1986年9月に「チューリップ・ライヴ・1000TH」が初めてCD化される。
1987年、長渕剛、ヒカシューらとともにオリジナル・ツイン・シリーズ・ザ・名盤として「心の旅」と「ぼくがつくった愛のうた」の2枚をセットにしたものが10月にリリースされた。更に「MELODY」と「WELCOME TO MY HOUSE」のセットが12月にリリースされた。「MELODY」と「WELCOME TO MY HOUSE」はこの時点で初CD化。パッケージはいずれも紙ジャケならぬ紙箱であった。
1989年、極東ロック・コレクションとしてビートルズ・カバー・アルバム「ALL BECAUSE OF YOU GUYS/すべて君たちのせいさ」が初CD化される。またシングルA面を中心した2枚組コンピレーション・アルバム「33 STATION」がリリースされたが、時期的にチューリップの解散にあわせたものと思われる。
1990年、デビューからファンハウス時代までの全24枚シングルのAB両面を収録した3枚組コンピレーション・アルバム「チューリップ・シングルス24<1972〜1984>」がリリースされる。同様のセットが1994年と1998年にもリリースされている。シングル盤のみの音源が全て収録されているのはこのシリーズのみ。
音蔵シリーズ
1992年から1993年にかけて音蔵シリーズとして東芝EMIのアイドル、フォーク、ニューミュージック系のアルバムが大量にCD化された。チューリップのアルバムも「魔法の黄色い靴」から「I dream」までのライヴ、ベスト・アルバムを含む全アルバム24枚がCD化される。同時に財津和夫のソロ2枚、ライヴ1枚も初めてCD化された。同シリーズの特徴は1枚1800円(2枚組み3000円)と安価なこととLP時代の歌詞カードが原寸で再現されていること。基本的にLPサイズの歌詞カードを4つ折にして挿入されている。ただし歌詞カードの原版が既に存在していなかったと見られ、LPのものをカラーコピーして再現したと思われ、若干不鮮明な印刷に仕上がっている。
また「ぼくがつくった愛のうた」に添付されていた全16頁のストーリー・ブックは14頁分をLPサイズ2頁分に縮小して再現され、「ライヴ!アクト・チューリップVol.2」付属のブックレットはCDサイズに縮小した形で再現された。カセット・テープでのみのリリースだった「ライヴ・アクト・チューリップ・イン・鈴蘭2」はジャケットはカセット・ケースを撮影したもの、歌詞カードはカセット・サイズのものがそのまま再現され添付された。この「ライヴ・アクト・チューリップ・イン・鈴蘭2」がCD化されたのは2010年現在でこのシリーズのみである。
ちなみにオールウェイズは1994年に「70’S TULIP ’94」というチューリップ・リバイバル的なコンサート・ツアーを行っている。安部も当時CD化について触れており、当時オールウェイズが東芝EMIに所属していたことを考えるとCDのプロモーション的意味合いのツアーだったのではないかと思われる。
ソング・ライター・ルネッサンス・シリーズ
1993年、6月TRIAD時代の3枚「PRIMARY COLORS」、「そんなとき女をすきになる」、「Well」がソングライター・ルネッサンス・シリーズとして1枚2000円で再リリース、ファン・ハウス時代の3枚も1枚1800円で再リリースされた。4月には「FINAL TOUR Well」も3500円で再リリースされている。
1994年、1990年と同様にデビューからファンハウスまでの全シングルを集めた「The Singles 25/1971〜1984」がリリースされる。今回はデビュー前の「私の小さな人生/コケッカキの住む沼」が始めてCD化され収録された。1998年リリースの「TULIP Singles」も同内容。
CD選書Q盤
1995年、ファンハウス時代の「NEW TUNE」、「I LIKE PARTY」、「Jack is a boy」の3枚がCD選書Q盤の廉価版として再リリース。1枚1500円でケースはCDシングルに見られる薄型ケース仕様だった。以後ファンハウス時代のこの3枚は2010年現在再リリースされていない。
音蔵クールプライス・シリーズ
1997年、音蔵クールプライス・シリーズとして「魔法の黄色い靴」から「I dream」までのアルバム、財津和夫のソロ2枚とライヴ1枚が音蔵シリーズの廉価版として再リリースされた。ただし、「ライヴ・アクト・チューリップ」以外のライヴ盤はリリースされていない。1枚1500円、2枚組み2500円の薄型ケース仕様で、CDはCD−EXTRA仕様で同シリーズでリリースされるCDの一覧が収録されている。
このシリーズではオフ・コース、アリスはリリースされたが甲斐バンドはリリースされていない。
BOXシリーズ
1998年にオフ・コース、アリス、チューリップの3組のみアルバムをスチール缶に納めたBOXシリーズがリリースされた。チューリップのアルバムは「ライヴ!アクト・チューリップ」以外のライブとベスト・アルバムを除いた「魔法の黄色い靴」〜「I dream」までの18枚セット。ケースは薄型仕様でHSB2088(ハイ・サンプリング・レコーディング・システム)20ビット88.2KHZリマスタリング。
ちなみにオフ・コースは13枚組み、アリスは11枚組みでリリースされた。
リマスタリング・シリーズ
2001年から2002年にかけて4回にわたってExMF SERIES(Extended Musical Fidelity)としてデジタル・リマスタリングで再リリース。リリースされたのはライブ、ベストを除く「魔法の黄色い靴」〜「THE LOVE MAP SHOP」までの12枚。このシリーズで初めてケース裏側にLPジャケットの裏側が再現されるようになった。
必聴名盤シリーズ
2003年9月、ザ・フォーク・クルセダーズ、ザ・ゴールデン・カップスらのライヴ盤の1枚として「ライヴ!アクト・チューリップ」が紙ジャケットでリリースされた。
紙ジャケシリーズ
2005年、6月と8月の2回に渡って「魔法の黄色い靴」から「I dream」までの23枚と財津和夫のソロ3枚(オリジナル2枚+ライブ)が紙ジャケットでリリースされた。LPリリース当時の帯は再現されておらずこのシリーズ共通のもの。財津ソロを除く23枚全てを購入すると抽選で収納BOXが貰えた。
ビクター・エンターテイメント版
2007年1月、デビューから再結成にいたる全シングル盤をジャケットとともに再現した21枚組みCD「The Complete Single Box」がリリース。ビクター・エンターテイメント版でシングル盤のみの音源は現在はこのセットのみ。ただし、「私の小さな人生/コケッカキの住む沼」はレプリカのEP盤が付属しているものの、CDとしては収録されていないので、ビクーター・エンターテイメント版でこの2曲は現在のところCD化されていない。
5月には東芝EMI時代の「魔法の黄色い靴」から「I dream」までの17枚とファンハウス時代の3枚を含む20枚がビクター・エンターテイメントから期間限定でリリースされた。財津和夫の東芝EMI時代のものはリリースされなかった。
2008年8月前年と同様チューリップの全20枚が再びビクター・エンターテイメントより再リリースされた。
また6月には「FINAL TOUR Well」を含むTRIAD時代の4枚がコロンビア・ミュージックからリリースされた。
2010年1月財津和夫の東芝EMI時代の3枚がSHM−CD仕様でビクター・エンターテイメントよりリリースされた。
ライブ・アルバム「8.11パゴダ」と「コンサートはチューリップ」の二組(いずれもLP2枚組み)は今日に至るまでCD化されていない。
- 脚注
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財津は一浪して大学に入学したため、大学では吉田と同級ではない。入学金を吉田に借りて入学した。
- ^
NHKで放送された「同窓会紀行」によると、メンバーの実力が思ったほどでは無かったときの追い出し方も陰険な方法であったことが語られている。
- ^
「第3回全日本ライト・ミュージック・コンテスト・グランプリ1969」でフォー・シンガーズの演奏「金比羅舟々」を聞くことができる。ちなみにこのときの優勝は「赤い鳥」、2位はオフ・コースの前身の「ジ・オフ・コース」。
- ^
KBC「歌え若者」というアマチュア・バンドの紹介番組に出演。同じくKBCの「パンチ・ヤング・フクオカ」には準レギュラーで出演していた。
- ^
「第4回全日本ライト・ミュージック・コンテスト・グランプリ1970」でチューリップの演奏「柱時計が10時半」を聞くことができる。優勝したグループの曲がコンテストの基準を満たさない曲だったのにもかかわらず優勝したことから、財津和夫は新聞社に抗議したそうである。
- ^
財津の友人の出資により製作された。福岡のキングレコードでプレスされた。収録曲は「柱時計が10時半」(Vo:末広)、「ええとこの子のバラード」(Vo:宗田)、「鼻毛の唄」(Vo:財津)、「ママがパパを愛したように」(Vo:財津)。「鼻毛の唄」は吉田のヴォーカルで「ライヴ!!アクト・チューリップVol.2」に「君の鼻毛は長い」というタイトルで収録されている。
- ^
九州朝日放送(KBC)のディレクター。当時「歌え若者」でアマチュア・バンドを積極的に出演させ、後に多くのグループがデビューした。1998年に定年退職を記念して「伝説ライヴ」が行われチューリップ、山下達郎、甲斐バンド、さだまさし、南こうせつなどが出演した。2006年11月17日69歳で逝去。
- ^
レコーディングはKBCラジオのスタジオで行われたが、AM放送ゆえスタジオにはステレオ録音の設備が無く、遠く離れたステレオ録音機器とケーブルで繋ぎ、岸川氏が両方を何度も往復しながら行われた。録音日は1970年12月25日。
- ^
1971年7月5日発売(LTP-2478)。現在は「TULIP singles」(TOCT-10256〜8)で聞くことが出来る。「The Complete Single Box」(VIZL-221)にはレプリカのアナログEP盤が付いている。
- ^
当時姫野はまだ十代だったため、財津はメンバーにするにあたって両親のところへ挨拶に行っている。このことが後2002年に行われたミュージカル「魔法の黄色い靴」(主演:山本耕史)のモチーフになっている。
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安部・姫野は別のグループ、上田は海援隊のサポートメンバーだったが、3人を引き抜いたことによりそれぞれのグループを解散させてしまうことになったためしばらく「傷心楽団」(ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のパロディ)と名乗って活動していた。メンバーが変わってしまったため「私の小さな人生」はレコード・ジャケットにサインをして顔がわからないようにして売っていた。
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初期チューリップはアコースティック・ギター中心のフォーク・グループだったのでビートルズのような編成にしようと考えたため。
- ^
この頃の演奏はベスト・アルバム「Sincerely Yours」(VICL-60916〜7)のボーナス・トラックで聞くことができる(「おいらの気楽な商売」、「白い雪そんな雪が私は好き」、「魔法の黄色い靴」、「私の小さな人生」)。
- ^
漣健児(さざなみけんじ)のペンネームで多くのポップスの訳詩を手掛ける。2005年6月6日逝去。チューリップも参加のトリビュート・アルバム(「Together and Forever」(MTCH-1118))もリリースされている。
- ^
プロダクションの所属アーティスト第一号となる。甲斐バンドやプリンセス・プリンセスも所属していたことがある。
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チューリップには有名な”上京時を撮影した映像”が存在する。空港からモノレールに乗ろうとしている5人の姿を、デザーナーで当時多摩美術大学の学生だった大野拓家氏らが卒業制作の一環として撮影したもの。ただしメンバーの記憶ではバラバラに上京したとか言う話もある。
- ^
当時の生活について、「A−Studio」では(一日)50円と答えているが、「スイートJAM」では朝50円、昼100円、夜100円の一日250円と答えている。事務所から支給されたわけではなく前借ということになっていたようだ。
- ^
この頃映画「戦争を知らない子供たち」に出演、「どこまでもどこまでも」を演奏している。映画はシュールなストーリーであるが、曲は「TULIP IN VISION」(TOCT-25213)で聞くことが出来る。詞・曲にメンバーがかかわらない唯一の曲。
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シングルとアルバムが同時発売。同時期に同じレコード会社のアリス、オフ・コースのファースト・アルバムのリリースがデビューから半年近くたってからだったことを考えるといかに破格の扱いであったかが伺われる。
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これ以後、財津は姫野に頭が上がらなくなったというのがよくネタにされる話である。
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それまでアップ・テンポな曲でヒットを続けていたため、スローなバラードのこの曲のリリースには周囲からの反対が多かった。結果として今ではおそらく”チューリップ・ファンにとっては一番好きな曲”となる。
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ビートルズでなじみのロンドン・アビーロード・スタジオでレコーディング。ロンドンでの様子はDVD「ロンドンの大休日」で見ることが出来る。
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当時所属事務所のシンコーミュージックがビートルズの版権を持っていたことから企画されたらしい。
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コンサートの模様はDVD「ライヴ・アクト・チューリップ・イン鈴蘭高原」とライヴ・アルバム「鈴蘭&田園ライヴ!!/ライヴ・アクト・チューリップVol.3」で確認できる(ただしライヴ・アルバムは実際はほとんどが田園ライヴでの音源)。
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このコンサートでオープニング・アクトを務めたのは当時事務所の後輩だった「アレキサーダー・ラグタイム・バンド」(のちのARB)。このときベースを弾いていたのは後にチューリップのメンバーとなる宮城伸一郎。
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既にメンバーの脱退が決まっていたようで、脱退するメンバーのため(お金を残すという意味で)にもヒットを意識して作ったと財津和夫は語っている。TBSテレビ「ザ・ベストテン」でも数週間チャート・インしたことがある。
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このツアーの模様はDVD「Someday Somewhere」で確認できる。
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セイコー時計とのタイアップで財津がCMにも出演した。同社の前年のタイアップは甲斐バンドの「HERO〜ヒーローになるとき、それは今」で甲斐バンドが大ブレークするきっかけになったが「WAKE UP」はそれほどの大ブレークにはならなかった。
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宮城は前年からサポート・メンバーとしてツアーに参加していた(要するに引継ぎであったと考えられる)。伊藤は上田の推薦による。
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DVD「ライヴ・アクト・チューリップ・イン鈴蘭2」で確認できる。ライヴ・アルバムは当時カセット・テープでのみリリースされ、「ライヴ・アクト・チューリップ・イン鈴蘭2」として1度だけCD化されている。
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まだ野外コンサートに対するノウハウがなかったためなのか、ステージには照明用の大きなアーチはあるものの屋根は一切無く、雨に対してまったくの無防備でメンバー個々に小さなテントをたてて雨をしのぐようなステージ・セットだった。
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財津和夫は、ある時期からさっぱりレコードが売れなくなり生活のためにコンサートを続けざるを得なかったと語っている。
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当時上映会も行われたコンサートを撮影したフィルムが、長い間紛失しており幻の映像となっていたがその後フィルムが発見され2007年に「TULIP THE FILMS 2」のBOXセットの1枚として「ライブ・アクト・チューリップ・ザ・1000TH」で見ることが出来る。ライブ盤は「チューリップ・ライヴ・ザ・1000TH」がリリースされている。
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2年前の雨に懲りたのか今回はステージ全体を大きなテントが多い尽くすステージ・セットだった。これは2年後の芦ノ湖畔でのコンサートでも同様。
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湖畔にパゴダ(塔)を建て演出も意表をつくというか意味不明なものだった。DVD「チューリップ・イン芦ノ湖」は初の本格的なライヴ・ビデオ。ライヴ・アルバム「チューリップ8.11パゴダ」もリリースされたが現在に至るまでCD化されていない。
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アルバムには姫野の曲が収録されてはいるものの、ほぼ安部・姫野・伊藤は参加していないと思われる。
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そもそもこの最初のツアーはメンバー脱退発表前にチケットが売られていたという事情がある。
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雑誌にオーディションでギタリストを募集と告知していたが、加入したのはキーボード担当の高橋だった。レコード会社の意向だったよう。
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ファイナル・ツアーにはオールウェイズの安部と姫野が参加しファイナル・ツアーをサポート、おかげでそれなりの回数と動員が出来たと考えられる。
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テレビ・ドラマ「ひとつ屋根の下」のパート2の主題歌としてのタイアップ。4年前の前シリーズも財津和夫のソロによる「サボテンの花」でタイアップしヒットした。
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今まで武道館公演をしたことが無かった理由として、昔は音響に問題があり問題が解消されたときには武道館を一杯にできる程の人気が無かったためと財津は語っている。
ちなみにチューリップとして過去に2回武道館のステージに立っている。1度目は1973年の「日本歌謡大賞」ノミネートのとき、2度目は「ラヴ・ジェネレーション」ツアーの一環として武道館のステージに立っている。
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DVD「チューリップ・マジカル・ヒストリー・ツアー」で見ることが出来る。またBS−NHKでも放送された。
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ライブ・アルバム「ライヴ・アクト・チューリップ2001年心の旅」がリリースされた。
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DVD「ライヴ・アクト・チューリップ2007−2008〜run〜」がリリースされた。
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そうは言ってもチューリップの発表にはとかく『大本営発表』的なものが多いので注意が必要(笑)。
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雑誌「チューリップ’77」でこの表現が使われたことからこれが浸透したものと思われる。
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安部俊幸著「ティータイム・トーキング」において。しいて言うなら同時期に同じように出演していた「アメリカン」の方であると書いている。
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やっぱり「大本営発表」だった(笑)。
- 参考文献
- 『謎の財津和夫』/財津和夫
- 『照和伝説』/富澤一誠
- 『チューリップ’77』
- 秘本『アンソロジー2』
- 『THE TULIP COMPLETE SINCE 1972』
- etc...
- 関連項目