CONCERT TOUR ALL OVER JAPAN

 70’S TULIP ’94

1994年7月7日渋谷公会堂/7月30日横浜体育館





チューリップ解散後堅実に活動を続けていたと思われていたALWAYSだったがいつのまにか活動のニュースも聞かなくなってしまっていた。アルバムは最後にリリースされたのが「GENE」でその当時でもリリースから2年ほど経過していた。いつのまにか”並みの音”になっていしまったという印象で正直言って余り聞き込んだアルバムではなかった。
そんな時久々にコンサートの告知が新聞に掲載されたのだった。しかもそれは”CONCERT TOUR ALL OVER JAPAN 70’S TULIP ’94”というタイトルだった。
正直言って”とうとうチューリップの名前に頼るようになったか”と思ったものだった。ただそうは言ってもチューリップの曲が聞けるとあれば行かずにはいられない。
もちろんオールウェイズのコンサートに行きたいとは思っていたが何分その当時はまったく情報が無かったのだ。”ぴあ”にも載っていなかったと思う。後に分かったことだがホールではなくライブ・ハウス程の規模のところでは結構やっていたようだ。
コンサート告知

7月7日 渋谷公会堂
チューリップのホーム・グランドというべき渋谷公会堂。当日の天気は覚えていないが安部のMCによると雨が降っていたらしい。場内はやはり満員だったと思う。久々のコンサートだったので当時のALWAYSにどの程度の観客動員力があったかは判らないが、やはり”TULIP”という名前が影響していたのでないか。

コンサートは第2期チューリップの定番(チューリップほど”荘厳”なものではないにしろ)SEが流れメンバーが登場するというオープニグ。
1曲目はサード・アルバム「RELATIVE SPEED MUSIC」から東のヴォーカルで「海辺にて」だった。当然1曲目からチューリップ・ナンバーで始まるものと期待していたのでちょっと意外だった。
2曲目も東のヴォーカルで「夢の旅人」、3曲目はセカンド・アルバム「HOW SWEET?」から姫野のヴォーカルで「8月の熱い砂」、安部の軽い挨拶をはさんでデビュー曲の「好きさ」へと続く。「好きさ」を聞くのは久しぶりで嬉しくはあったが”70’s TULIP”のタイトルはどこへいってしまったのか?
5曲目は「NEVER」から「LOVE TIME TRIP」。改めて聞くと「WILD LIFE」の頃の、ということは結成したての頃のWings風の曲である。
そして6曲目にやっと懐かしいイントロ、「神様に感謝をしなければ」だった。
ファースト・ツアーはもちろん、サポートで参加したチューリップのファイナル・ツアーでも演奏されたている姫野・安部コンビの定番曲でる。
安部

「いま聞いていただいた曲はかれこれ17年前、僕たちがオフ・コースだったときの曲です(客席(笑))。
えー...隣の席の方が笑っていらっしゃらなかったら帰り道に説明してあげてください(笑)。

 今から17年前に出しました『WELCOME TO MY HOUSE』というアルバムの中に入っている”神様に感謝をしなければ”...(客席から「違うよ違う」、「SOMEDAY SOMEWHEREだよ」という声)。

はい?...ガッビ〜ン!客のほうが詳しい!(笑)

そ〜ですよね!!!僕はこの曲をこの場所でやろうと思ってかれこれ一ヶ月位前から決めていたんですが、それから僕は信じきっていました(客席(笑))

これから話が進まないんですが...ここで『WELCOME TO MY HOUSE』のアルバムの話をしようと思っていたんですが、話が進まないので『WELCOME TO MY HOUSE』のアルバムの話をさせてください(客席(笑))。

17年前『WELCOME TO MY HOUSE』というアルバムを出したんですがその中には入っていない”神様に感謝をしなければ”を聞いていただいたわけなんですが...
さんざんリハーサルのときもこれは『WELCOME TO MY HOUSE』の中からってメンバーに言ってたのに誰も指摘してくれなかったんですよ〜!(客席から「え〜」という声)

『WELCOME TO MY HOUSE』はデビューアルバム『魔法の黄色い靴』から数えまして8作目17年前の作品なんですが、22年前に僕は生まれて初めてアルバムをレコーディングするという経験を『魔法の黄色い靴』というアルバムでしたんですけどね、それはただの田舎のビートルズ小僧だった僕にとって、メンバーみんなにとってもそうなんですけど、自分達で好きで音楽を作ろうという人間にとって実に夢のような出来事だったんですけどね、この『魔法の黄色い靴』から数えて22年間現在に至るまでの間に数え切れないくらいのアルバムを作ってしまったんですけどね、どのアルバムが何番目かっていう話になると、ベストとかライヴを入れるとか入れないとかっていう話になるともう全然自分たちでその枚数を認識できていないわけなんですが、中に入ってる曲を間違うくらいですからね...(客席(笑))。

最近、最近といっても去年なんですけど僕達の昔の作品が全部CD化されましてCDとして発売されたわけなんですけど、CD化をされるということはCD化する意味があったからされたわけでありまして、自分達の昔の作品が現在に至ってもまだ意味を失っていないということはすごく感動的な事であったりするわけですけどね...

そのCD化された『WELCOME TO MY HOUSE』の帯に、昔はレコードだったので帯だったんですが最近はCDになって帯とは呼びにくいんですが昔のレコード時代の名残で帯という風に呼ばれているみたいですが...
帯といえば昔アルバムのジャケットで僕が一番端っこに写ってたんでちょうど帯に隠れてしまったんですけど、僕は隠れても全然気にならなかったんですけどレコード会社の担当の人が気を使ってくれて帯にもジャケットと同じ僕の写真を載せてくれてですね、帯をするっと抜くと”僕だけ〜”みたいなそういうジャケット(*1)があったりしたんですが(笑)...
それはどうでもいいですけど、その『WELCOME TO MY HOUSE』のCDの帯に『WELCOME TO MY HOUSE』は8作目の作品であると書いてあるもんで、ああそうかと思っていってるだけなんでありますけど...
まあ自分たちで数え切れないくらいのアルバムを作れるアーティストはそう沢山はいない訳で実にうれしいことではあるんですけど、その『WELCOME TO MY HOUSE』は17年前夏に出したアルバムなんですけど僕が27歳であいつが25の夏に二人でつくった曲が『WELCOME TO MY HOUSE』に入ってます、聞いてください。」
もちろんその曲とはつい最近の再結成ツアーでも演奏された「博多っ子純情」である。


(*1)わざわざ言うまでのこともないとおもうが、アルバム「MELODY」のこと。
安部

「ありがとうございます。僕達の田舎は博多なんですけど、ちょうど今山笠の真っ最中でありまして町中が異様な雰囲気で盛り上げっていたりするんで機会があれば一度お出かけになればという感じなんですけどね...
もう1曲これは...入ってるぞ〜『WELCOME TO MY HOUSE』の中からもう1曲聞いてください。」
今ではほとんど歌わなくなってしまった安部のヴォーカルによる「夏に別れを」で、安部も当時はまだ歌っていたのだ。ただし、サビの部分はバックにお任せの手抜きヴァージョン(笑)。
続いてちょうど一年前にオールウェイズ自身のシングルとして発売された「夏色のおもいで」。こういうのもセルフ・カヴァーというのか?キー・ボードでオリジナルを忠実に再現しながらも、エンディングのギターでオリジナルとの違いを聞かせてくれる。
安部

「えー、私事なんですけど、僕は22歳になる少し前にメンバーと一緒に東京へ出てきたんですけどね、東京生まれで東京にいる人にはチョットわからないかも知れないですけど田舎を出てきて東京で暮らしている人間にとって田舎で暮らしてた時間と同じだけの時間が東京で流れて、22歳の誕生日のチョット前だった僕は22年経って今年34になるんですけど(笑)、別に恥ずかしい年じゃないぞ〜

この東京での22年間の間に音楽をやっていなければ絶対経験できなかったようなすばらしい経験を沢山することが出来たんですけどね、それはやっぱり僕が音楽に出会っていなければ、博多から東京に出てきていなければ、今は亡き財津和夫に出会っていなければ、財津和夫が別のアマチュア・バンドでギターを弾いている僕に興味を持って一緒に東京へ行こうって言わなければ、そしてもちろんメンバーに出会わなければ出来ないような経験なんですけどね...

たとえばロンドンのアビーロード・スタジオって皆さんご存知だと思いますけど、あすこのアビーロード・スタジオで僕たちがレコーディングしたのもすばらしい経験のひとつなんですけど、あのビートルズが「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」、「シー・ラヴズ・ユー」、「ラバー・ソウル」、「リボルバー」、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」そしてあの「アビーロード」をつくったそのスタジオでレコーディングするというのを喜ばないミュージシャンはおそらく世界中に一人もいないというくらい、音楽をやっている人間にとってすごくうれしい出来事だったんですけどね、そんなすばらしい出来事を、音楽をやっていなければ出会えなかった出来事に自分が出会った運命のそれぞれに自分が感謝をしたい気持ちで一杯なんですけどね...
そのアビーロード・スタジオでとったアルバムの中に入っている曲を聞いてください。」
そのアルバムから「ぼくがつくった愛のうた」から「悲しきレイン・トレイン」へと続く。オールウェズの演奏するチューリップ・ナンバーのほうが再結成チューリップよりも”元祖チューリップ”の雰囲気を出していると思う。

「悲しきレイン・トレイン」の後雷のようなSEが流れそのまま次の曲へ入るつもりだったらしいが何かのトラブルが発生、安部が「ストップ」と声をかけSEが中断してしまった。
しばしの間があき上田のカウントで次の「僕の宝物」へ。前年シングルのカップリングとしてリリースされていたらしい。僕はシングルを持っていなかったのでこの時はじめて聞いたことになる。ライヴで聞くとまんざらでもないのだがアルバムはやはり「GENE」と同じく”並みの音”という印象で、特にこの曲などはAOR風というかへたなオフ・コースという感じ。
オールウェイズ・コンサートの定番「サ・イ・ク」「My soul town」と続く。
安部

「どうもありがとうございます。たぶん昨日だと思うんですけど我々オールウェイズのデビュー・アルバム『魔法の黄色い靴』から数えて数え切れない判らない枚目の新しいアルバムが、昨日?..お客さんに聞いてしまおう、昨日ですかね?お客さんのほうが詳しいって事が良くわかってしまったんで...
昨日出たんですけどこれはオムニバス・アルバムなんですが『PRESSED FLOWERS』というタイトルなんですけど、決してコンサート会場限定発売というわけではないですが町のレコード屋には余り置いてなかったりするわけで(客席(笑))
レコード屋さんも商売ですから限られたスペースにはどんなにいい作品であっても売れないものは置かれない、そんな事情があったっりするわけで、今日あのロビーのほうで絶賛発売してたりなんかするわけでありまして是非帰りにお買い求めになっていただくと嬉しいなと..
皆さんに買って頂いて無くなってしまって暴動が起きて怪我人が出たかなんかいという話になりますと明日の「ヤジ馬ワイド」のスポーツ・芸能コーナーにでたりするとすごく人気あるアーティストのような気がして..
まあそれは冗談ですが、雨の日も晴れの日も昼も夜も皆さんのバック・グランドとしてぴったりフィットする大好きなアルバムだと思うんで是非..(客席(拍手))
さていよいよ後半戦です。盛り上がっていきたいと思います。」
一気に「ソィスケイティッド硬派」「Hi! Hi! Hi!」「Count down to Ecstasy」と続く。
安部

「えー、どうもありがとうございます。最後になってしまいましたがメンバーの紹介を今更ながらさせてください.....」
安部によるメンバー紹介の後、最後の曲は今まで1曲もヴォーカルの無かった上田の「僕のRevolution」。上田の歌がコンサートのエンディングというのも珍しい。聞いたとき余り聞き覚えのない曲だったのでニュー・アルバムの曲かと思っていたら「GENE」に入ってた(笑)。いかに「GENE」を聞き込んでいなかったかがわかる(笑)。
私は上田の”ロケンローなヴォーカル”よりこういうちょっと切ないヴォーカルのほうが何倍もいいと思っている(だからチューリップの上田のヴォーカルで一番お気に入りなのは「甲子園」だったりする)。
アンコール1
アンコール1曲目はハードに「ここはどこ」。このときの姫野のヴォーカルは今一絶好調とはいえなかったようだ。
続いて上田のロケンローなヴォーカルで「早くおいで」。ちょっと内田裕也が入っているのが気になるところ(笑)。この当時既に「ガチャメ」のところは歌詞が変えられていた。
3曲目に「心の旅」、やっぱりこの曲もオールウェイズのほうが再結成チューリップでは表せなかったかつての雰囲気があるように思える。
アンコール2
安部

「えーありがとうございます。次回はいつになるか分かりませんが是非お越しください。我々オールウェイズの曲だけでなくオフ・コースの曲も演奏できるように練習してきたと思います。」
そこまで言わなくても...(笑)
最後はおなじみのドラムのリズムで始まる「銀の指環」
オールウェイズの演奏するチューリップ・ナンバーはまさしくツアー・タイトル通りかつての’70年代チューリップを思い起こさせるものだった。それは過去2回の再結成チューリップでも出せなかった”あの頃”の音だったと思う(再結成チューリップがはたして70年代の音を再現しようとしていたのかという問題はある)。
しかしながらオールウェイズは既にチューリップとは決別したはずだったのではなかったか?この日の安部の話し方はチューリップとオールウェイズを全く区別なしに考えていたようだ。当然といえば当然なのかもしれないが、風祭の立場はどうなる?(笑)。そのくせ”チューリップ”とは唯の一言も口にしなかったのが気になるところではあった。

7月30日 横浜体育館
前回の渋谷から約1月後、この日は天気のいい土曜日の午後だった。
会場に行ってまず目に付いたのが「チューリップ再結成であるかのような誤解を与えたことをお詫びします」という張り紙であった。同様のアナウンスも何度も行われていた。
オールウェイズの事を知らずに広告だけを見たのだったらそういうこともあるだろうか。かつてメンバーの脱退を内緒にしてチケットを売りさばいていたグループの関係者としては良心的な対応なのかもしれない。もしかしたら財津サイドからクレームがあったということも考えられなくは無いか?(かつての”YES”のように(*2)

場内はオールウェイズとしてはちょっと広すぎたためか満員とは行かなかった。場所が体育館なので本来はここが客席だと思われる2階の部分には全く人影が見えず1階席も3分の2程度の入りであった。

私が直接話したわけではないが、私の隣にいたカップルに盛んに話し掛けていたおじさんがいて、”こんなおじさんがオールウェイズ?(失礼)”と思ってしまうような感じの人であったが、話を聞いているとどうも以前はチューリップのコンサート・スタッフだったようで、コンサート中も終始盛り上がっていた。私と同じく渋谷のコンサートも見ていたようで「”銀の指環”をやるまでは(アンコールに)何回でも出てきますから」と言っていた(トホホ..)。実際アンコールの「心の旅」が終わっても「まだまだ!」と叫んでいたのであった。

この日のコンサートは曲目も前回の渋谷のときと同じ内容で進んでいった。MCもほとんど同じ内容だ。


(*2)イギリスのプログレッシブ・ロック・バンド「YES」のこと。”YES”を脱退したメンバーが「YES」を名乗ろうとしが”YES”のメンバーからクレームが付いたため、別の名前を名乗らざるを得なくなった。
盛り上がらなかった335
チューリップの曲を演奏するとき安部が持ち出したのがあの”335”だった(実は渋谷のときに使っていたのかどうか今となってはまったく覚えていないのだけど、おそらく使っていたと思う)。もちろん言うまでも無くチューリップ時代の安部を象徴するギターだ。
80年以降は使われなくなってしまい、最後に使ったのはサポートで参加したチューリップのファイナル・ツアーのときだけだった。そのときはアンコールで「心の旅」を演奏するときという象徴的な使われかただった。
このギターは使うのはそのとき以来で、もちろん私などは”おおー”という気持ちだった(恥ずかしいので声は上げなかったが)のだけど、ところが回りは全然盛り上がらないのだった(笑)。
「安部さんはもう完全にオールウェイズのギタリストなんだから今更昔いたバンドの時使っていたギターを持ち出したからって騒ぐことないじゃない」とでもいうことなのだろうか?
安部

「どうもありがとうございます。最後になってしまいましたけど我々オールウェイズのメンバーを紹介させてください。皆さんから向かって一番左側にいる男なんですけど我々メンバーの中で一番年が若い男なんですけど、年が若いといっても相対的に若いって言うだけでありましてそんなに若くは無いですけど、左ぎっちょでベースを弾いています風祭東です、どうぞよろしく。」
風祭

「どーも、こんばんは。えー、横浜はホントに久しぶりでちょうど10年位前二十歳くらいのとき、家も近いせいもあってよく横浜のほうに遊びに来てたんですけど、このところ最近は横浜のほうに余り来ることが無くて今日久々に来て見てああずいぶん変わったななどと思いましが、横浜は港の町ですごく景色がいいところで、ゆっくりとまた遊びに来たいなとおもってますが、また横浜にきたときはよろしくお願いします。今日はホントにありがとうございました。」
安部

「続いて紹介しますのは一段高いところにおりますが、別に偉いから高いところにいるわけでは決して無いんですけど、ドラムを担当しておりますけど見てくれはハードボイルドのいかつい感じのやつなんですけど我々のメンバーの中ではもしかしたら一番気の優しいやつかもしれません、その昔”ガーリー”なんて呼ばれてましたけど、こわ面ての顔をしてますが気の優しいやつなんで町で見かけたときは”ガーリー”と一声声をかけてやっていただくと本人喜ぶかなー...ドラムスト担当しています上田雅利です、どうぞよろしく」
上田

「文化体育館に来たのはだいぶ前なんですけどアントニオ猪木対..泣いて帰ったのを覚えてますけど、その前にはいろいろコンサートには来たんですけどそれから久しぶりでしてね、楽屋に座椅子があったんですけど最初は何だ座椅子かと思ったんですけどひょっとしたら猪木が座ったかななどとさっき座ってみて感触を確かめたんですけど..なかなか思いで深いこの会場でやれるのは非常に幸せに思ってます。また横浜に来たときには皆さんお越しになってください。」
最近ではすっかり芸風も変わり(笑)俗に”タモリー上田”(*3)と言われている上田であったが、この当時はまだ渋さの感じられる落ち着いた話し振りであった。


(*3)芸風があの人にソックリなことからこう呼ばれている。
安部

「えー、続いて紹介したいと思いますが真ん中にいる男なんですけどね..(客席から「姫野さーん」の声)えー、ありがとうございます。あの紹介してからひとつその...そういう段取りでお願いします(笑)。
えー、それでは紹介したいと思います。いまギターを背負ってますけど、アコースティクギターを弾いたりエレキギターを弾いたりコーラスしたり歌を歌ったりいろんなことしてますけど、思いっきりなんか沢山担当してますけど僕とはずいぶん古い付き合いになりましてかれこれ25年はあいつとは付き合ってきたんですけど、ほとんど四半世紀もやつとともに過ごしてしまったという...
出会った頃はあいつは18歳だったんですけど、ホントに体重が40キロに満たないようなおもいっきりやせっぽちの青年だったんですけどそれから20数年たちましておもいっきり立派な中年になりました、紹介したいと思います、姫野達也です、どうぞよろしく。」
姫野

「えー、僕が生まれ育った博多という町はすごくやっぱり横浜みたいに海が近くて、町全体に海の匂いが漂ってるようなそんな町なんですけど、僕は日本中いろんな町に機会があっていくんですけど、やっぱりこういう海がそばにあって海の匂いがする町が好きです。そして何故好きかというとやっぱり落ち着くんですね、なんとなく。自分が生まれ育った町を思い出すような、そういうところって僕はすごく好きなんですけど、今日は夏のツアー最後の日がこの横浜でやれてすごく嬉しく思っています。
えー、この体育館でやるって聞いたときは大丈夫なんだろうか、すごく心配したんですけどなんとなく端の方にお客さんが見えたんで安心しました。
えー、そんなことなんですけど最後までどうもありがとうございました。また会える日を楽しみにしてます。どうも..」
安部

「続いて紹介するのはまるで私の背後霊のようにいる男なんですけど彼は我々のメンバーではなくて準構成員なんですけどね、コンサートをやるたびに、ライヴをやるたびに駆け付けてくれるサポート・ミュージシャンなんですけど、彼は茨城県の水戸の出身なんですけど学生時代チューリップのコピー・バンドをやっていたらしくて、それで現在はスタジオ・ミュージシャンなんですけどもチューリップの音楽についてディテイルまでこうやけに詳しくてですね、リハーサルでチューリップの曲をやろうとしてちょっとでも違うことをやったりなんかすると”そこはそうじゃなくてこうです”なんて冷静につっこんだりするやつなんですけど、紹介したいと思います。サポートキーボードは小泉君です、どうぞよろしく」
小泉

「小泉と申します、よろしく。みなさんももうホントにチューリップのファンの方が多いと思いますが、XXすごいファンでした。たまたまこういう仕事をするようになって、今から3年ぐらい前ですけどある仕事で安部さんがゲストでギターを弾きに来てくれまして、335を持ってきたときに、おおーっとすごい思いまして、それで何とか印象付けたいと思いまして何をしたかというとリハーサルの途中休憩時間にすごいちっちゃな音で安部さんに聞こえるか聞こえないかぐらいのヴォルームでチューリップの曲をちょっと弾いたんですけど、そしたら安部さんが反応しまして(客席(笑))、”今度ライヴやるんだけど電話番号教えてくれない”とか言われて...やった!..チューリップのファンの方なら判ると思いますが..ホントに鯛を釣ったという感じで、ものすごく嬉しくて、それからお付き合いさせて頂いてます。僕が一番長くてすいません..」
安部

「最後になりましたけど思い切り下手なおしゃべりとギターを担当しています、安部俊幸と申します、どうぞよろしく。
デビューしてから25年の歳月が流れて気分的には昔と全然変わっていないんでが最近どうも朝顔を洗っていると手の振幅の幅がちょっと上のほうまで行くかな..まあ天辺からくるよりましかななんて...そういえば今日オールウェイズとしてはじめてきていただいた方も沢山いると思いますが、まあこんなんですが今後ともひとつよろしくお見知りおきの程をお願いします。冒頭にも言いましたけど本当にクソ暑い中足を運んで頂いて心からお礼申し上げます。本当に今日はどうもありがとうございました。
いよいよ最後の曲です。本当にどうもありがとうございました。」
エンディング、アンコールも前回と同じ、例のおじさんの言うとおり「銀の指環」で幕を閉じた。
久々のオールウェイズのコンサートで、内容に不満は無いがチューリップ云々というよりはオールウェイズの集大成ライヴという気がした。実際この後いくつかの小規模なライブを行っただけでアルバムのリリースも無いまま自然消滅状態になってしまったことを考えると、もしかしたら”ラスト・ツアー”のような意味があったのかもしれない。
タイトルにわざわざ”チューリップ”と付けるほどでも無かったと思う。もともとチューリップの曲は時々やっていたのだし、財津和夫だってほとんどチューリップの曲ばかりでソロ・コンサートを行っているのだから。
観客動員数を増やすためにチューリップの名前に頼ったと言うことも考えられなくはないが、オールウェイズとしてのプライドの微塵も感じられないこのようなツアー・タイトルになってしまったそもそもの理由は、前年にチューリップのオリジナル・アルバムが一斉にCD化されたことと、当時のオールウェイズがその発売元である東芝EMIに所属していたことと無関係ではないような気がするのだが、勘ぐり過ぎというものだろうか?