ライヴ・アクト・チューリップ・イン・鈴蘭高原

YOU'LL FIND ANOTHER SPACE





 財津がラジオで「いつかオールナイトでコンサートをしてみたい」と言ってからすぐのことだったと思う。チューリップ初の野外コンサート「ライヴ・アクト・チューリップ・イン・鈴蘭高原」の実施が発表された。その当時の僕は片田舎の高校生で野外コンサートなど全くの未経験、おまけに「鈴蘭高原てどこ?」というような状態だった。
 それでも行きたかった!中学生のときはコンサートなんて大人の行くもので子供がいけるところじゃないと思っていたのだ。まあ高校生になったし2度ほど経験していたチューリップ・コンサートをもっともっと経験したかったのだ。
 雑誌に載っていたコンサートの問合せ先に電話してみると(こういうところに電話をするのもはじめての経験だった)、バス・ツアーがあってチケット+バス・ツアー代で東京からだと1万円位の値段だった。これなら貯金で十分間に合う。
 中学時代の同じくチューリップ・ファンの友人を誘ったところ「チューリップは卒業した」(本当は1万円という値段に恐れをなしたのだと思う)とあっさり言われてしまったため、仕方なく一人行く事に。

 ちなみに2年後の「鈴蘭2」の時はチケット+ツアー代で2万6千円位の値段になっていた。何で急にこんな値段に!?それが「鈴蘭2」に行かなかった(行けなかった)理由の1つであった。

 群馬県高崎市に住んでいた僕は当時は東京さえよく知らなかった。山手線、何それ?という状態である。もちろん上越新幹線なんてあろうはずが無い。上京するのに電車で2時間以上かけなければならなかった。
 とにかく電車を乗り継ぎ無事集合場所へ来ることが出来た。集合場所は新宿の住友生命ビルのあたりだったと思う。
 それにしても集合時間から考えると、まだ夜が明けないうちに家を出たのだと思うのだが、家から駅までどうやっていったのだろうかまったく記憶が無い。そんな時間にバスは走っていないはずなのに、不思議である。


[ツアー・バス]
 ツアー参加者にやはり男の子は少なかった。知らない女の子と仲良くなれるような度胸も根性も技術も無かったのでそんなことは全く気にならなかったが...。大してうれくもなかった?(笑)。
 バスの中ではとにかく本でも読むか寝るくらいしかすることが無かった。当時流行の「横溝正史」でも読んでいたのではないか。まだウォーク・マンも発売されていない時代であった。回りも大声で話す人は無くみんな静かなものだったと思う。後日何かの雑誌に”バスの中ではみんなで歌いながら、楽しく行った...”みたいな話が載っていたが少なくとも僕が乗ったバスではそんなことはなかったのだ。添乗員さんはいたもののバス・ガイドさんもいなかったと思う。


[バスは走る〜]
 当時も(今も)余り道路事情には詳しくないが経路としてはおそらく中央高速をひた走ったのだと思う。で、このバスがなかなかつかないのである。時期的にはちょうど夏休みということもあり渋滞に阻まれたのだろう。鈴蘭高原(スキー場)といいつつ、なかなかそれ(山)らしい風景にならない。やっと山道を上り始めているなと思ったときはもう空が赤く色づきはじめていた頃だった。
 一同に不安がよぎる。もしかした間に合わないのではないかと。とりあえず添乗員さんからこのバスが着くまでコンサートは始まらないこと、席の場所は確保してあることの説明があって乗客一同ホッとしたのだった。


[会場着]
 やっと着いたときはすでに真っ暗、休む間もなく会場に誘導されたときは前座のアレキサンダー・ラグタイム・バンド(当時はそういっていた)がちょうど「それでは最後の曲です」と言っているときだった。その最後の曲も場所に着くあわただしさでまったく覚えていない。もちろんそこに宮城伸一郎がいたことなど、当時は知るよしも無かった。
 僕の場所は左側PA前の最前列あたりで、テージを割りと近くに見ることが出来た。よく考えるとチケットにはブロック指定があっと思うのだが、バスが遅れたため全員が同じ場所に入れられたように思う。


[ステージ]
 ステージは屋根が無く全体に照明のアーチが架けられて、背後にはコンサートのシンボルマークの描かれた幕が張られていた(幕は途中で外され花火が炊かれるという演出だった)。
 当時のチューリップはステージの上にさらに円形の台座をおいていた。側面に文字が書かれていて、前座のときは何とかかれていたのか覚えていないがステージ替えのときに「YOU’LL FIND ANOTHER SPACE」と書かれたものに張り替えられた。
 それにしても屋根が無いのは開放感があって演出上はいいかもしれないが、雨に対しては全く無防備でなぜこんな作りにしたのか今考えても不思議(現にリハーサルでは雨に降られている)。「鈴蘭2」の時も同じ作りだったようで写真で見た限りでは簡単なテントのようなもので雨をしのいでいるのみ。
 チューリップ、スタッフにとっても初めてのことでまだまだ野外コンサートに対するノウハウがなかったということか。


[鉄腕アトム]
 ステージ替えの間、PA前に張られたスクリーンで鉄腕アトムが上映された。

[コンサート開始]
 オープニングはどんな曲だったが覚えていないが結構カッコいい曲だったと記憶している(後に「テルスター」と判明)。ライヴ盤がリリースされたときもオープニングはこっちのほうが良かったと思った。
 「鈴蘭2」ではお揃いのユニフォームが作られたようだが、この日は各自バラバラ。財津がアロハ・シャツだったことだけは覚えている。
 曲紹介で始まった「二人だけの夜」はちょっと意外だった。財津のソロの曲だったからである。ここまでは財津はエレキ・ギターを弾いていたと思う。
 途中財津が「僕たちは小さな生き者...」というフレーズをみんなに歌わせることが何度かあった。このときまだ「宇宙塵」を持っていなかったか、もっていても聞いていなかったかでこれが「光の輪」の一部とは知らなかったが、何度も歌わせた理由は後で知ることになる。

 ちなみにこの頃不況でそれまでアルバムは邦楽が2200〜2300円、洋楽が2500円であったのが邦楽も2500円に値上げされ、チューリップ関係では「宇宙塵」が2500円になってからの初めてのリリースではなかったろうか。しかもこのアルバムは節約のためかジャケットがペラペラの薄い紙だった。

 一説にはこの日の観客動員数を1万人以上としていた雑誌もあったように思うが、僕の印象では”後ろは意外と近かった”。客側の背後にもPA用のスピーカーが置いてあった。


[オベイション]
 買ったばかりのアコースティック・ギターを自慢していて「これはオッペイション(財津はそう発音していたと思う)というギターで、ションなんてなんかションベンみたいで臭いそうだ...」というような内容(このネタは前からやっていたらしい)だった。そう、後に北海道で放り投げた際受けとりそこなって壊してしまったあのギターなのであった(しかも建国200年記念モデル)。
 オベイション自体当時は(今も?)かなり高価なギターで、あの頃使っていたのはあの頃大スターだった南こうせつとか限られた人だけではなかったか。



[MY LOVE]
 当時はチューリップのアルバムを全部持っていたわけではなく曲を余り知らなかったのでオリジナルより洋楽カヴァーのほうが記憶に残っていたりする。特に「MY LOVE」は当時も結構ラジオでオンエアされていて好きな曲だった。
 ふと(多分前の曲の影響もあったのだと思う)「MY LOVE」でもやらないかな..などと思っていたら本当にやったので驚いた。まさか超能力?今考えると当時の財津はもっぱらポール指向であり、この曲が当時のポールの代表曲であったことを考えると必然的な選曲と言うことになるのだろう。あれ以来チューリップの演奏するこの曲を聞いたことが無いが、是非もう一度聞いてみたいもの。
 それに比べて「DON'T LET ME DOWN」は結構情けなかった。何の曲か分からなかった程。やはり財津にジョン・レノンのこの手の曲は似合わない。チューリップ風アレンジと言うことで今聞いたらもう少し違う印象かもしれないが(最近は上田さんが歌ってたっけ?)。


[新婚旅行は...]
 生ギターコーナーでは安部がしつこく「あの、僕歌っていいですか?」といいつつ「ぼくのお嫁さん」の替え歌を歌った。
  −新婚旅行は熱海の温泉−
  −新妻そっちのけでストリップ見物...
 という歌いだしで何パターンかあった。何度も繰り返すうち会場中、しかも大部分が女の子という状態で”〜新妻そっちのけでストリップ見物〜”という大合唱になったのだった。


セットリスト

 「青春の影」は名曲ではあったが、当時はまだ”特別な曲”ではなかったと思う。「夕陽を追いかけて」はこの時点での最新シングル。ラストは財津のソロから「光の輪」、ここで初めて”練習”の意味がわかった。当時の財津の”宇宙症”はまだまだ微々たるもの。
 ちなみに財津の場合、まず思想・テーマとして「宇宙」があったのではなく、色々な楽器を使う方法としてそのための適当な題材として宇宙があったと思えるのだがいかがなものか。


[アンコール1]
 アンコール第1部はカヴァー中心。しかしここでPAから音が出なくなるハプニング。ちょうど自分のいたそばにケーブルを通していたためにスタッフが大慌てで走り回っていた。モニタースピーカーを客席に向けるなどしたがそんなものが効果あるわけがない。それでも観客一同、もともと英語の歌詞なので正確にはわかっていないにもかかわらず、かすかにしか聞こえない演奏にあわせて大合唱となった。
 結局PA回復後全曲やり直しとなったので2度楽しめたのだった。


[アンコール2]
 当時の僕にとってはこっちの曲のほうが馴染みが薄いのであった。「私のアイドル」と「歌は生きている」が同じ曲というのも知らなかった。とにかく「夢中さ君に」でコンサートが終わると言うのが70年代チューリップの”お約束事”。「心の旅」も「サボテンの花」も「魔法の黄色い靴」の大合唱が無くても納得していた時代。

 コンサートはあっというまに終わったような気がする。冒頭の財津の発言と当時嬬恋のフォーク・コンサートがオール・ナイトで行われ、そのこともあってか本当にオールナイトかと思っていた。それに当時はまだチューリップに対して新鮮な気持ちだったせいもあったと思う。
 帰り際「田園コロシアム」でのコンサートの受付(前売り)をやっていた。そのときはそれがどこにあるかも全くわからなかったので行きたいとか考えもしなかったのだが今考えるとここ(鈴蘭)よりはるかに近いところだったのに(残念)。
 グッズなどの販売もいろいろあったのだろうが多分見ても買わなかったと思う。お金の問題というのもあるだろうけど当時はそういうものには全く興味が無かったのである。同時の男の子のファンはそんな風ではなかっただろうか。興味はあくまでも”音楽”ということ。


[帰路]
 夜中の終了ということもあって帰りはただ寝るだけ。しかし明け方ふと窓の外に海が広がるのが見えた。来るときには見えなかった光景だ。と言うことは行きは中央高速、帰りは東名高速を走ってきたのだろうか?
 朝もどこに着いたのか全く覚えていない。結局家に着いたのは昼過ぎ頃でそれから考えると早朝には東京に着いたのだと思う。当時は東京で遊んで帰ろうなどとは全く思いもしなかったので到着後すぐ帰りの電車に乗って帰った。
 ちなみ前日家を出てから翌日家へ帰るまでに食べたものは会場で食べたハンバーガーと帰るとき駅で食べたそばだけ(今は無理です(笑))。


[一ヶ月前]
 20年経ってAltstadtさんのホームページで一ヶ月前の中野サンプラザで行われたコンサートがほぼ同じ構成で行われていたことが判った。鈴蘭に備えてのリハーサル的意味合いがあったのかもしれないが、これを見ていた人はちょっとガッカリというか期待はずれだったのでは?

[ライヴ盤]
 この日のコンサートがライヴ・アルバムになると知ってすっごく楽しみにしていた。自分の行ったコンサートがレコードになるなんてそう経験できることではない。しかし発売されてみると大部分が田園コロシアムでのライヴであり、鈴蘭の分は1面位しかなくちょっとガッカリであった。

 自分にとってもチューリップにとっても初の野外、それも遠く離れた鈴蘭高原まで見に行ったと言うことを含めて思い出に残る体験・コンサートであった。その割にはほとんど覚えていないのはどういうことかって?...(笑)