Story #007:恐怖の初一人外出(1)
西暦2000年5月6日(土)に米国に到着して、どうにか、Stay先に落ち着いた。学校(ESL School)の授業が始まるまで、9日あった。それから、一週間弱の間、ほとんど家にいて、勉強ばかりしていた。出かけようとしても、周りの地理はわからないし、何よりも、コンビニエンスストアで、買い物をする度胸さえ湧いてこなかった。何しろ、英語で話すことなど、ストレスと恐怖以外に、なんと表現していいのかわからない状況だったからだ。到着して、3日目には、ESL School で、クラス分けに必要なレベルチェックのために、Placement Test(英語の実力試験で、学校のクラス分けのため)を受けにいかなければならなかったが、行きは、Jeannie、帰りは、Bernieに送り迎えをしてもらった。余談だが、自分で車を持つまでの間、時折、JeannieやBernieが、近所のスーパーや映画に連れて行ってくれたが、彼らの助けなしには何も出来ない状況に、少し苛立ちを覚えていたように思う。30歳もとうに過ぎたいい大人が、誰かの助けを借りなければ、簡単な買い物にさえ出かけられないとは、本当に情けない気持ちになった。
しかし、米国に到着して、7日目に、そんな状況を打破するような機会がやってきた。先日受けた、Placement Testの結果を聞き、どのレベルのクラス(ちなみに、12のレベルある)に入るかを確認して、教科書を買う日が来た。その前日、そのことを知っていた、Jeannieが、学校まで送ってくれるといっていたのを謝絶した。どのみち、遅かれ早かれ、自力で学校へ通わなければならなかったし、前述のような状況に、いささか嫌気がさしていたからだ。しかし、断ってみたものの、その直後から、少なからぬ後悔の念を禁じ得なかった。
米国の行くと決心する前、私は米国どころか海外へ出るなど、一生ないと堅く心に誓っていた。海外に出るなど、わざわざ自分の身を危険にさらすこと以外の何物でもないと思っていた。特に、米国など、道行く人は誰もかも、その懐にGunを隠し持っているに違いないと、半分確信めいた気持ちを持っていた。だから、そんな物騒な場所へ、これまた、物騒な乗り物(飛行機)で来るなど、夢にも考えていなかった。しかし、人生の皮肉というか、意外さというべきか、私は米国に住み、ここで日常を送っている。今にして思えば、笑うしかないほど馬鹿げたことであるが、その当時は、真剣にそう思っていた。
学校までの道程は、留学前ののレクチャーでもらった資料にもなかったので、同じ学校に通う、Shiho(Roommate)に聞いてみた。しかし、彼女は、米国に到着早々に、車を買っていたために、Light Railとバスで、学校に行ったことがなく、わからないと言った。そのかわり、私がこの家に来る前に、Homestayしていた子(Shihoの以前のRoommate)が、学校までLihgt Railとバスで通っていたので、その子を紹介してくれた。その子は、あまり物事にこだわらない質なのか、おおざっぱに、学校までの教えてくれた。道順は、Branham(家からの最寄り駅)から、Light Railに乗り、3つ目の駅で降りて、82番のバス(Hedding&17th 〜 Westgate)のバスのWestgate方面行きのバスに乗り、Winchester Blvd.の所に来たら、Burger Kingがあるので、それを過ぎたら、適当なバス停で降りれば、OKと教えてくれた。そのときは、なるほど・・・と思ったものの、実際には、もう少し親切な言い方があったのではないのか?と思うことになる。
さて、当日の朝は、損な不安と緊張のせいか、朝の5時半に目が覚めてしまった。しかし、教科書の販売は、午後2時半からである。二度寝を決め込んで、もう一度寝直して目が覚めたのが、午前7時少し前だった。さらに寝直そうかどうしようか迷ったが、せっかく目が覚めているので、無駄に眠ることもないと思い起床した。コーンフレークとトーストしていないパンにマーガリンを塗って、それを朝食として食べた。その後、不安と緊張を紛らわすように、アメリカに来て以来、ずっと続けている自習を始めた。勉強しながらも、不安は、どんどんふくらんで、不必要な想像ばかり頭の中をよぎっていった。そんな気持ちのまま、悶々と勉強を続けていたが、午後1時少し前に、いよいよ覚悟を決めて家を出た。
家を出ると、外は薄曇り。暑くも寒くもない、歩くにはちょうどいいくらいの気温。これで、何の不安もなければ、絶好の散歩日和だろう。しかし、家を一歩、また一歩と離れるたびに、不安がますます増大していった。Stayしている家は、集合住宅が数多く集まっているエリアの奥の方にあった。この集合住宅のエリアは、表通りから、道路が木の枝のように張り巡らされていた。集合住宅の中を通り抜けながら、表通りへと出て行った。表通りは、日本では高速道路と見まごうばかりの道幅の一般道路にでる。しかし、この道は、細いとは言い難いが、日本で言えば、県道か、よく言っても主要でない国道レベルだ。片側3車線の道路で、横断歩道以外は、横断禁止になっていた。もっとも、その後に頻繁に目撃するようになるが、それを無視して横断する人は多い。制限速度は、35マイル(時速56キロメートル)なので、実際は、40〜50マイル(時速64〜80キロ)で車が走っている。そばを通り過ぎる車は、日本の高速道路並みのスピードで通り過ぎていくので、慣れないうちは、かなりの恐怖を感じた。不案内な道を、横断歩道を探しながら歩いていった。住宅エリアから50メートル進むと、陸橋になっていて、その陸橋の下には、Hightway 87が走っている。このHighway 87の中央分離帯と言うべき部分に、Light Rail(路面電車)が走っている。ちなみに、この Light Rail は、VTA(Valley Transportation Authority) という会社(公社)によって運営されている。日本で言えば、市営か県営の公共交通機関であろうか。Light Rail と共に、バスもこの会社が運営している。
そんな構造のため駅はすぐに見つかったが、あいにくと私の歩いている方(Stayしている集合住宅の側)とは、反対側の方に、駅のホームへと降りる階段があった。仕方なく、さらに歩いて、陸橋を渡り終わったところに交差点があり、そこで横断歩道を見つた。今来た道を渡ると、道を戻りながら、先ほど見つけた駅の入口までたどり着いた。陸橋になっている所が駅の入口なので、ホームへは階段を下りていくようになっていた。
さて、ようやくたどり着いたものの、改札口もなければ、駅員もいない。見た目は道路から、そのまま階段が駅のホームまで続いていた。階段の脇には、黄色い自動券売機が2つ並んで設置されていたが、日本の券売機とは、少し勝手が違い、行き先案内もなく、従量課金制でもないようで、数種類の切符の種別しかないようだ。どれを買ったものか、判断に迷い、さらに、駅員らしき人物もないので、途方に暮れて、駅の階段の入口を、おろおろと歩き回っていた。やはり、家に戻って、Jeannieに、学校まで送ってもらった方がいいかな・・・と、家に帰りかけた瞬間、後ろから、不機嫌そうな声をかけられた。
びっくりして振り返ると、いかついメキシコ人風の黄色の作業着を着た中年の男が、私をにらみつけるように立っていた。一瞬、恐怖に顔が引きつったのが、自分でもわかった。その男は、私に近づいてくると、早口でまくし立てるように、何かを言ったが、スペイン語訛りが、かなりきつく(今ならば、普通に聞き取れつと思うが)ほとんど、何を言っているのかわからなかった。さらに、男は私に近づいてくる!ほとんど、頭の中が真っ白になった。しかし、弱気になって、そのままいいように何かをされてしまうのでは?と思い、思いつく限りの英語で、Light Railに乗りたい、3つ目の駅まで行きたいこと、その駅からバスに乗りたいことを言った。
すると、その男は、私の言ったことを理解しているのか、理解していないのかわからないが、「とにかく金を出せ!」というようなことを言ってきた。私は、その勢いに、すっかり萎縮してしまった。もはや、有り金全部出しても、この場を切り抜けなくては・・・と言う気持ちになっていた。それでも、有り金全部は多すぎるだろうと、間の抜けた計算(苦笑)が頭をよぎり、おずおずと財布の仲から、とりあえず、1ドル札全部を差し出し、その男に差し出した。すると、その男は、"No!"と、大きなリアクションと共に言い放ち、私を券売機の方へ誘った。そして、Bill(紙幣)の投入口を指さし、「ここに入れろ」と言う身振りで、やはり早口でまくし立てた。
私はようやく、彼の意図することを理解できた。さらに、その男は、Day Pass(一日乗車券)の方が得だから、Day Passを買うように、教えてくれた(と思う)。私が無事に、券売機でTicketを買うのを見ると、満足そうにうなづいて、笑顔を見せた。そのときになって、ようやく安心することが出来たのと同時に、アメリカに対してのイメージが、だいぶよくなった。まったく、単純と言えば単純であるが、人の心証なんて、その程度のものなのかもしれない。