Story #001: 初めての飛行機
正確を期すのならば、異国記には、そぐわないTopicかもしれない。でも(一部の)人たちは、知っているように、渡米前の私は、大の飛行機嫌いだった。生まれてから、渡米のために飛行機に乗るまで、飛行機ほど、危険な乗り物はないと、固く信じていた。もっとも、今も飛行機は好きではない。ただ、時間的、金銭的余裕のない私が、日米を行き来するために、必要に迫られて飛行機を利用している。さらに言えば(ある意味、当然の帰結なのだが)海外に行った経験も皆無だった。安全な日本に暮らし続けていた私にとって、海外は危険きわまる場所という思いが強かった。それなのに、毎年のように、長期の休みが取りやすい時期になると、海外(しかも、危険地帯へ!)へと、仕事上での義務でもないのに、旅行へ出かける人の気が知れなかった。
初めての飛行機、初めて海外・・・それは、私にとって、それまでの人生の中でも、かつてないほどの非常に大きな出来事だったし、その2つの難関?なくして、私の目的・・・というか、幻想に近い夢をかなえるすべはなかった。異国記を記せるのも、飛行機のおかげ?なので、その意味において「初めて飛行機」は、異国記に含めても、いいかもしれないと思い、最初のTopicに選んでみた。
前置きが長くなったが、とにかく、初めて飛行機に乗ることになった。2000年5月6日土曜日夕方4時、North West、成田発 San Francisco行である。何しろ初めてづくしだったので、この飛行機に乗るために、今から考えると、馬鹿馬鹿しいほどの行動をしてしまう。
まず、飛行機に乗り遅れたら困る!という気持ちが飛躍して、前日、JR成田駅から、徒歩5分ほどの所にあるビジネスホテルに宿泊することにした。でも、これは出発を前にして、たっぷりと感傷に浸る時間を持てたので、自分としては、よかったかな?と思っている。当日の朝、これまた、乗り遅れの恐怖に耐えかねて、夕方の出発だというのに、早くも昼前には、空港へと向かってしまう(苦笑)
もちろん、チェックインまでは、かなり時間があり、スーツケースと巨大なバックパックを引きずり、背負いながら、空港のショッピングモール・飲食店街をうろうろしていた。とにかく、外地(笑)へ行くので、向こうでは思うように、ものが手に入らないのでは?という思いが強く、忘れ物がないか、あるいは、今、手に入れておかねばならないものはないかという、強迫観念から意味もなく、ショッピングモールの店先をうろうろしていた。新しい刺激的なことへの第一歩を踏み出しているんだというような、Positiveな気持ちなど、全く湧いてこなかった。当時、私は、米国では、ちょっとでも、気にくわないことやトラブルがあると、すぐに暴力・・・具体的に言えば、(一般人も警察官も)銃を突きつけて、ぶっ放す!というイメージが強く、戦々恐々としていて、出発前のひとときを楽しむというような、気持ちにはならなかった。もちろん、それは全く間違ったイメージではないのだが、外国人が、日本人が毎食のように、刺身やしゃぶしゃぶ、すき焼きを食べていると勘違いしているのと同じくらいのレベルの話だ。(中には、そういう人もいるかもしれない。)
やがてチェックインできる時間になり、そそくさとチェックイン・カウンターへと向かった。チェックインカウンターの前には、長蛇の列ができていた。今でこそ何とも思わないのだが、その長蛇の列は、徹夜で順番待ちをしている、人気ゲームソフトの発売初日の行列のように思えた。どれくらい待ったかは定かではないが、ようやく自分の順番になり、チェックインカウンターへ進む。私の場合、留学するにあたって、斡旋会社に諸手続いっさいを任せていたので、出発前のことから、到着後のことまでのことを記したマニュアルを渡されていた。それを穴が開くほど読んで、これからやるべきことは、頭の中にたたき込んでおいたので、戸惑うこともなく、パスポートを出し、I-20(学校への就学許可書類)を示し、、手荷物を預けるために、チェックインカウンターの荷物を計量する台に、スーツケースを乗せた。
だが、覚え込んだマニュアルにない事態が発生した。預けようとしたスーツケースが、重量オーバーしていたのである。パッキングの時、重量制限関しては、あまり気にもとめなかった。軽くパニックになりかけた。しかしスーツケースから、1キロくらい減らせ、いうことなので、辞書を2冊、バックパックの方へ移動しただけで事なきを得た。しかし、一度、これ以上ないほど、きっちりパッキングしたものを開けて、もう一度、詰め直したので、なんだか、パッキングの中身が崩れてしまった気がして、寂しかった。さらに、パッキングし直したせいで、もう一度、セキュリティ・チェックのために、X線照射装置を通さなくてはならない羽目になった。この時点で、すでに精神的に、かなり疲労していた。
さて、チェックインも無事終了したが、搭乗時間までは、まだ大分あった。すでに精神的に疲労していたこともあり、おとなしく、いすにでも腰掛けて待っている方がいいと思い、出発ゲートとは反対側にあった休息スペースに腰を落ち着けた。落ち着けたのはいいけれど、気持ちの方はちっとも落ち着いていなかった。そのうち、自分が浮き足立っているのか、それとも、ぼんやりしているのかわからなくなるほどだった。ふと目の前を見えると、20歳前後でセミロングのパーマヘアの女の子が、やはり、することもなく座っているのが目についた。
別に気にするほどの美人でもない子だが、何となく、気になっていた。実は、この直感?めいたものは、案外、正しい。この子は、Yちゃんという名前で、後にわかったことだが、私と同じ飛行機に乗り、San Franciscoで同じPick Upの人に拾ってもらい、同じESL学校へと通うことになる。その後も、何かと縁がある子になるとは、このときは、想像だにしなかった。
時間をもてあまし気味だったのと、いい加減、同じ場所にいるのに飽きてきたのとで、搭乗時間の1時間くらい前に出国ゲートに通った。911テロの前だったので、出国ゲート、出国手続きなどは、今よりだいぶ楽だった。出国手続きで、まっさらなパスポートの査証ページに、最初の「出国」のスタンプを押されたとき、何ともいえない感慨を覚えた。そして「もう、後戻りはできない。」と強く感じたのを覚えている。特攻攻撃をするために、飛び立った戦闘機乗りのような心情だったかもしれない。(おおげさ)
North Westの搭乗ゲートは、かなり遠かったようなに記憶している。時間に余裕を見て出国ゲートに入ったつもりだったが、搭乗時刻まで、ほとんどなくなっていた。あれほど、乗り遅れを気にしていたのに・・・結局、最後は、搭乗ゲートまで、大急ぎで駆けつける結果になってしまうとは・・・。もっとも、搭乗時刻は、あくまでも、搭乗を開始する時刻で、最初は、First Class、Business Classの人たちを乗せ始める時間の目安(しかも、時々、都合によって遅れる)というもの。当時は、そんなことなど、全く知らず、その時間前に搭乗ゲートに行かないといけないものだと思いこんでいて、搭乗ゲートの前に着いたときには、息を切らせていた(苦笑)
しかし出発がゴールデン・ウィークの後半だったせいもあって、米国行きの飛行機の座席はガラガラで、搭乗ゲートに到着して、息つく暇もなく、機内へというような状態だった。搭乗ゲートを通り抜けると、機内までのわずかな通路(名前を知らない)を歩くわけだが、わずかに揺れる足下に、生まれて初めて、地上を離れるという気分が高まってきた。それと同時に、上着のポケットに忍ばせた、地元神社のお守りがあることを確認せずにはいられなかった。
これを書きながら、ふと思い出して、出発前後の手記・・・と、言うよりメモを手帳に書き付けてあったことを思い出す。それを見ると、搭乗ゲートに到着したのが、14:55頃で、搭乗開始が15:00頃だったようだ。自分が搭乗ゲートに入ったのが、15:05頃で、15:10頃に、飛行機の座席に落ち着いたようだ。何という無駄のない進行具合(笑)今でも、もっと間延びしている。
メモによると、15:45に、出発準備完了とのアナウンスが日英両国語でアナウンスがあって、15:47分に、ターミナルを離れたようだ。飛行時間は、8時間14分を予定しているとアナウンスあり。成田空港は、無理無理に作った空港で、未だに計画的な拡張・完成ができない空港なので、誘導路などが変な入り組んでいて、離陸滑走路までは距離がある。メモによると、離陸滑走路では、飛行機が渋滞していたようだ。数機が、順番待ちをしているのが見えた。結局、16:10に、離陸をした模様である。この離陸までの間、私は、さらに精神的に疲労していった(==)
当時、いかに飛行機を恐れていたのが、このメモを見ると、ありありとわかる。飛行機のちょっとした挙動を時刻入りで、逐一、メモしてある。ただし、この飛行は、安定飛行していなかったのは、事実で、実際、何度か乱気流に遭遇して、飛行機は揺れること揺れること・・・。離陸してから1時間後くらいと、San Francisco 到着1時間前くらいに、食事が出てきたが、食事の前後・最中ともに、揺れっぱなしだった。特に、到着の3時間くらい前の1時間は相当揺れた。頻繁に気流に流されて、飛行機が、ちょうど旋回しているような姿勢になり、右へ左へと10〜15度くらい傾いて、しばらくして姿勢を戻す、というようなことが頻繁にあった。そのたびに上着のポケットに入ったお守りを、上着の上から押さえながら「神様、神様・・・どうか、安全にSan Franciscoまで到着させてください〜」(泣)と繰り返していた。最近は、飛行機が少々揺れても、ワインなんかを飲んで、酔っぱらって(上空では、よく酔える)気持ちよく眠っていることも多い(笑)
飛行機が揺れたこともさることながら、いよいよ、英語。出発前から、"Beef or Chiken?" だの、"Would you like something to drink?" の聞き取りと答え方を念仏のように繰り返していた。出発後すぐに、その機会が来た。"Would you like something to drink?" 来たっ!・・・あれだけ、丁寧な言い回しをシュミレーションしたのに、出てきた言葉は・・・「こ、こぉく・・・・・・・・・ふ、ふりぃず。」大失敗だ(==)シュミレートした言葉を言えなかったばかりか、"Please"を、"Freeze"(フリーズ=氷が張る、凍らせる、動きを止めるの意味)で言ってしまったようだ。一瞬、フライトアテンダントが、「んっ?!」という感じで、止まった後、"Coke?"と聞き返されて、缶コーラをくれた。渡米したばかりの頃は、頻繁に、"L" と、"R"の発音がひっくり返るという得意技を持っていて、特に、緊張すると、それが顕著に出ていた。それにしても、"Freese"はないだろう?"Freezed Cake"って、凍らせたコーラ?そりゃあ、上空1万メートルだったら、マイナス20度くらいになるから、凍らせることも可能だけどね(==;)もっとも、当時は、そんなことすら気がついてなかったし。最初の英会話が、どうにか成り立ったようなので(笑)ちょっと安心した。食事の時も、"Beefu"や、"woter"など、珍単語を連発していたに違いない(赤面)
食事と飲み物を配るとき以外、飛行機の中には、エンジンの音が響くだけだったが、私は、飛行機の墜落もさることながら、他のことにも緊張していた。何しろ、日本を離陸した飛行機の中とはいえ、ここは日本ではない。当然のことながら、日本では、常識的に思えることも通用しないであろう・・・と。そのために、手荷物として機内に持ち込んだバックパックを、頭の上の収納棚に入れることが不安で、足の下に置いていた。こうしておけば、常に目の届くから、少し安心した。だが、このこと自体、私のいらぬ葛藤を生じさせる結果になった。
私は、どちらかというと、非常にトイレを我慢することに強い。だから、8時間くらいの飛行ならば、トイレに行かずとも、だいじょうぶかと思った。実際、過去に36時間、旅行中に、トイレに行かなかった記録?もある。しかし、無料だという安心感と、緊張しているせいでのどが渇くため、コーラやら、水などを、頻繁に口にしていた。本を読むとか、音楽を聴くとか、映画を見るとか、そういったことをしなかったので、それは、ますます加速した。当然の結果として、トイレに行きたくなった(笑)しかし・・・荷物をここに置いて、トイレにいくことは、非常に勇気のいることだ。トイレに行っている間に、誰かに盗まれるかもしれない・・・。(当時は、本気で、そう心配した。)
どうしよう・・・私は、高まってくる尿意と荷物を置きっぱなしにする不安感の間で、葛藤し続けた。やがて、就寝時間?らしい時間帯に突入した。周りの人たちも、じっとして眠っているようだ。私の尿意もかなり限界に達していた。意を決すると、力一杯、バックパックを座席の下に押し込み、容易に取り出せないようにすると、シートベルト外して、トイレへと向かった。そして、できる限り大急ぎで用を足すと、一目散に自分の座席に戻ってきた。・・・よかった、荷物は無事だ!安堵感と、尿意を解消した爽快感で、思わず微笑んでしまった。←馬鹿
論理的に考えてみれば、仮に、私の荷物が盗難にあっても、着陸前にそれが発覚すれば、犯人を見つけたり、荷物を取り返すことは、普通以上に可能性が高い。だから、そんなリスクを冒してまでも、それほどの価値のあるわけでもない、私のバックパックに手をかける方が馬鹿らしい。もっとも、今だから、笑い話にもなるが、当時は、あきれるほど警戒しまくっていた。現在の私は、バックパックなどは、頭の上の荷物入れに入れ、必要なもの(本とか、ポータブルCDプレーヤ、ノートPCなど)だけを手元に置いている。トイレに行くときは、もちろん、そのまんま、ほったらかし(笑)
さて、私が、英語と乱気流、盗難の恐怖(笑)に翻弄されながらも、飛行機は休むことなく(休まれて、たまるかっ)、一路、San Francisco International Airportを目指し、飛行を続け、ついに到着の時を迎えることになる。以前より、航空機事故のほとんどは、離陸と着陸の時に集中しているという、よけいな知識があったので、着陸が近づくにつれて、どんどん落ち込んでいった。しかも機内アナウンスで、「まもなく到着します。」と流れてから、やけに長く感じられた。実際、高度を落とすとき、微妙に細かく落としていた。何度か、飛行機に乗った経験から言っても、高度の落とし方は、かなり、ゆっくりだったと思える。まあ、空港の着陸のスケジュールとか、離陸・着陸などで、上空待機のためだったのかもしれない。余談だが、前回の里帰りの時、いつも使うSan Jose - 成田路線のAmerican Airlineではなく、San Francisco - 成田のJALを使ったので、久しぶりに、San Franciscoへの着陸を体験したのだが、JALのパイロットは、ものすごい勢いで、高度を落としていったように思える(^^;)
飛行機は、なかなか着陸態勢に移らず、私にとってみれば、恐怖の時間が無制限に延長されているとしかか思えなかった。何度も、何度も繰り返される微妙な降下の合間に、大きく高度を落とす時もある。そうの時は、あのジェットコースターの下り坂の何倍もの無情力感を感じた。それと同時に、このまま、墜落?とさえ思えた。やがて、飛行機は、意を決したかのように、一定のリズムで降下を開始して、やがて、見えなくてもわかるほど、地上を感じる位の高さまで来た。そして、ついに着陸の瞬間を迎えた。”ズシン、ゴーン、ゴ、ゴ、ゴ、ガリガリガリガリ、ゴーーーーッ”という振動を感じるとまもなく、”ヒュゴォー”という、逆噴射の音が聞こえた。もう、そのときは、意識が遠くなりそうなくらい緊張していて、到着の感動も感慨も何も感じなかった。ただただ、怖くて、叫び出しそうになるのを押さえるのに、精一杯だったと思う。
しばらく、滑走路を走り続けた飛行機は、徐々に速度を落とし、やっと気を抜けるくらいまでになった。窓の外には、初めて見る米国の風景が広がっていた。これが米国。とにもかくにも、無事に、到着することができた。一瞬だけ、意識の高揚感を感じたが、すぐに、これから始まる悪戦苦闘を思い出し、緊張感の中に身を沈めていった。