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高畑勲監督作品 解説

文責/叶 精二

※以下の文章は情報サイト「au ioves ジブリ」内「かぐや姫の物語」キャンペーン特設サイト
「高畑勲展」(2013年11月7日〜2014年1月31日配信)に掲載されたものです。

「au loves ジブリ」「かぐや姫の物語」キャンペーン実施について


太陽の王子 ホルスの大冒険

 高畑勲監督が初めて演出した長篇アニメーション。
 悪魔グルンワルドの侵略から村を守るため、東の村の人間たちが起ち上がる過程を描いた作品です。村落の地形、衣食住、小道具の設定、狩猟・漁労や婚礼の儀式など、共働体の日常生活と集団労働の素晴らしさが歌と共に描かれます。スタッフの組合運動を反映して、人々が自分の意志で団結して戦う難しさも正面から扱っています。
 当時の長篇は、シナリオを元にアニメーターがアイデアを持ち寄って場面を設計し、監督が全体を調整してまとめる作り方でした。舞台設定や生活環境は曖昧で、キャラクターの演技は明解な喜怒哀楽か無表情で済まされがちでした。高畑監督は、演出がアニメーターと討議しながら全ての場面や演技の設計に深く関わる集権型を築きました。監督は、主人公ホルスと悪魔の妹ヒルダの複雑な心理的葛藤に力点を置き、矛盾した感情を内包した表情や細かな仕草にこだわりました。無名だった高畑監督を演出に指名した先輩・作画監督の大塚康生、場面設計の新人・宮崎駿、原画の森康二や小田部羊一、美術の浦田又治ら全スタッフが一丸となって、かつてない臨場感に溢れた世界で人間の内面まで描こうとした革新的アニメーションを目指したのです。今日の起点となった記念碑的作品です。


パンダコパンダ

 おばぁちゃんの留守をあずかる元気な少女ミミ子とパンダ親子との素敵な共同生活と冒険を描いた作品です。『パンタコパンダ』『パンダコパンダ 雨ふりサーカス』の2本の短篇が制作されました。優しく不思議な巨大動物と少女との暖かい交流は、宮崎駿監督の『となりのトトロ』の原点と言えるでしょう。
演出の機会に恵まれなかった高畑監督は、大塚康生の誘いで『長ぐつ下のピッピ』を作るために、宮崎駿・小田部羊一と共にAプロダクションに移籍しました。しかし、原作者の不許可によって企画は中断。その設定の一部を活かしたオリジナル企画が『パンダコパンダ』です。 当時、日中国交回復で中国から贈られたパンダブームに乗じて企画された作品でした。
 原案・脚本・画面設定は宮崎駿、作画監督は大塚康生と小田部羊一、演出が高畑勲監督。自らも子供を持ち、親となった監督たちは、「小さな子供たちを喜ばせること」を強く意識して、掃除や食事などを冒険と捉え、新しい日常表現に踏み込みました。劇場で主題歌の大合唱が起こり、スタッフ一同大きな手応えを感じたと言います。この路線は『アルプスの少女ハイジ』に受け継がれて行きます。


アルプスの少女ハイジ

 高畑勲監督初のテレビシリーズ(全話)演出作。前半はアルムの大自然を舞台におじいさんとハイジの生活、中盤はドイツの名家で足の悪い令嬢クララとの生活、後半はアルムに還ったハイジとクララの友情が描かれます。
 製作のズイヨーの計らいでテレビアニメ初のスイスとドイツのロケーション・ハンティングが行われ、キャラクターや舞台設計に活かされました。実在の場所を舞台として、普通の人々の暮らしや労働、子供たちの感情の高まりや何気ない仕草、それを包む自然環境をスローテンポで丹念に描く。それは、アニメーションが最も苦手とする飛躍のない表現への画期的な挑戦でした。 当時、日本のテレビアニメの主流は、スポーツ根性・魔法少女・巨大ロボットなどで、ドラマチックかつスピーディに展開する作品群。舞台は架空国か、地理的・環境的に曖昧な日本で、自然環境はぞんざいな扱いでした。『ハイジ』は、日常を魅力的に描くというアニメーションの新しい路線を築いたのです。
  高畑監督以下、場面設定・画面構成の宮崎駿、作画監督の小田部羊一、美術監督の井岡雅宏らたった数名の要職スタッフは、一年間不眠不休で働き続け、作品を支えました。その努力が奏功し、『ハイジ』は今なお世界各国で放映されており、世界中の子供たちから愛されています。


母をたずねて三千里

 出稼ぎにアルゼンチンへ行ったまま消息を絶った母を求めて、単身イタリアから旅をするマルコ少年の苦難の旅路を描いた作品です。原作はデ・アミーチスの『クオーレ』の中の短編『アペニン山脈からアンデス山脈まで』ですが、作品は原作から愛国色を払拭し、群像劇として膨らませたオリジナルと言えます。
 高畑監督は、前作のハイジについて「大人の理想を反映させた良い子に過ぎる」と反省し、新たな人物設定に挑みます。主人公マルコをあえて大人に媚びない自立型の少年に設定し、周囲には善良なだけでない大人の事情を抱えた人々を配置しました。舞台は、ジェノヴァを起点に、ブエノスアイレス、ロサリオ、コルドバなどを転々、マルコは各地で様々な人種・階層の人物と出会います。高畑監督は、物語を通して社会そのものを描こうとしていたとも言えます。それには、膨大な舞台設定とキャラクター設計、幅広く繊細な演技の描き分けが不可欠でした。『ハイジ』に続き場面設定・レイアウトの宮崎駿、作画監督の小田部羊一がこれに応え、美術に椋尾篁が加わりました。制作にあたってはアルゼンチン・イタリアのロケハンも行われました。製作は日本アニメーション。
 ラストで母との再会を果たしたマルコは、帰還後「素晴らしかったんだ、ぼくの旅!」と力強く語ります。その台詞の重さは、監督以下の精鋭が一年間過酷な表現に挑み続けた努力に裏打ちされたものと言えるでしょう。


赤毛のアン

 ルーシー・モード・モンゴメリの大ベストセラー小説のアニメーション化作品。赤毛で孤児の少女アンが、グリーンゲイブルズの兄妹家庭に引きとられ、親友ダイアナらと様々な珍騒動を引き起こし、やがて聡明な美少女に成長するまでが描かれます。空想世界に遊ぶ少女のおしゃべりが、独特のユーモアと優しさを醸し出します。
高畑監督は、原作に極力忠実な演出を採用しました。冒頭ではわずか2日間の話を6話で緻密に構成。叙情に流されることのない実況風の男性ナレーションを多用し、随所に時間に忠実なドキュメンタリー的試みが行われています。
 作画は、近藤喜文が自身初のシリーズ作画監督とキャラクターデザインを務め、思春期特有の揺れる感情を、繊細な表情と演技で表現しています。レイアウトは当初宮崎駿が担当していましたが、『ルパン三世 カリオストロの城』の監督に就任した為、15話で降板し日本アニメーションを退社しました。レイアウトの後任は櫻井美知代が務め上げました。美術は『ハイジ』の井岡雅宏で、赤茶けた馬車道から、家内の小物、壁紙模様まで描き込み、存在感のある世界を創り上げています。制作前にはカナダのプリンスエドワード島ロケハンも行われました。
 高畑監督は、英語を饒舌に話す筈のキャラクターが日本語を話すことで、演技の限界と深い矛盾に呵まれ、以降は二度と外国を舞台にすることなく、全作品の舞台が日本となっています。


じゃりン子チエ

 大阪の下町を舞台に、ホルモン焼き屋で自活する自称「日本一不幸な少女」チエと、純情ヤクザな父・テツを中心に、強力な個性の人物たちと猫たちをめぐるドラマが描かれます。父兄参観、マラソン大会、別居中の両親の和解など日常的なエピソードの積み重ねの中に、関西人の逞しさと優しさがキラリと光る異色の名編。
 原作は、はるき悦巳の人気漫画。制作は東京ムービー新社傘下のテレコム・アニメーションフィルム。まず大塚康生が宮崎駿監督に演出を打診して固辞され、高畑監督に相談。高畑監督は、原作を熟読の上で引き受け、日本アニメーション社を退社してテレコムへ移籍。原作ファンであった小田部羊一も作画監督として参加し、『太陽の王子』『パンダコパンダ』の高畑・大塚・小田部トリオが復活。これに『カリオストロの城』を支えたテレコムの若手実力派原画陣が加わり、極めて贅沢なスタッフ編成となっています。 
 監督とスタッフは大阪繁華街のロケハンを行い、木賃宿に宿泊。それを活かし、原作に極めて忠実な世界を構築しました。「全800カットにペン入れを施す」という恐るべき手間をかけた山本二三の水彩画風美術も見事でした。
 声の出演は、当時の漫才ブームを反映して、関西芸人のオールスターキャスト。芸人たちの名演・怪演に立ち会った高畑監督は、「アフレコでなければもっと良かった筈」と後悔の念を抱き、これを後続作品の糧として行きます。


セロ弾きのゴーシュ

 うだつのあがらないセロ弾きの青年ゴーシュは、深夜の練習中に動物たちとの不思議な交流を経て、少しの自信と心の糧を得ていきます。 宮沢賢治原作の著名な童話の長篇アニメーション化。 
 作画スタジオの老舗・オープロダクションが、「後世に残る作品」を目指して約5年の歳月を費やして自主制作した名作です。極少数のメインスタッフは、様々な作品の仕事の合間を縫ってコツコツと仕事を続け、文字通り手作りで完成にこぎつけました。
 オープロの演出依頼を引き受けた高畑監督は、原作の疲れた中年イメージの主人公を「数日で成長出来るのは青年期だ」という独自の解釈で、清楚な青年の成長譚に仕上げて行きました。作画の才田俊次は、監督と共同で絵コンテを描くと共に、全カットの原画をたった一人で描き切りました。背景は『母をたずねて三千里』の椋尾篁で、淡い光と影を滲ませた絵画的様式を貫き、これも全カットをほとんど一人で描き切っています。まさに、驚異的な職人根性と作品へ同化する愛情にあふれています。
音楽は『ホルスの大冒険』の間宮芳生。冒頭の「星めぐりの歌」の合唱にはじまり、賢治の愛したベートーベンの「田園」や、ユーモラスなオリジナル楽曲「インドのとらがり」などをNHKのフルオーケストラで見事に奏でています。クラシックに造詣の深い高畑監督は、音楽にセロの運指までシンクロさせる作画を徹底指導しました。日本の商業アニメーションでは極めて珍しい「音楽映画」としても成功しています。
 まさに、アニメーション制作者の良心の結晶と言うべき作品です。


柳川堀割物語

 高度経済成長下、瀕死のドブ川と化した福岡県柳川市の堀割。悪臭と汚泥を隠すために、コンクリート敷設が実行されようとした時、市長に異議を進言して立ち上がった一人の行政職員がいました。都市下水路係長(当時)広松伝。彼は、四百年続いた堀割の歴史を調べ、その機能を確信し、地道な浄化運動に取り組みました。内心誰もが水路の復活を願っており、住民は浄化運動への自主的参加を惜しまず、歳月を経てついに堀割は復活します。
 当初宮崎監督によって、高畑監督による「柳川を舞台とした青春もの」が企画されていましたが、取材の過程で高畑監督が「ドキュメンタリーにすべき」と提案。宮崎監督は『風の谷のナウシカ』のプロデューサーを引き受けてくれた高畑監督への恩返しの意図もあって、これを受諾。『ナウシカ』の版権収入が資金として投入され、自主制作のドキュメンタリーとして完成。
この作品では、水とつきあうことの喜び、そこから広がる人間関係と地域共働体の復活、歴史的に保存されて来た知恵にひそむ合理主義の再認識、世代的に受け継がれる行事や祭りの素晴らしさ、住民主導の自治意識の回復など、感動的な現実が実証的に淡々と語られています。現実をそのまま照らし出し、感情を排したナレーションでまとめるという客観主義的な作風も、ここに原点が伺えます。


火垂るの墓

 大戦末期の神戸。空襲で母を失い、親戚に引きとられた14歳の兄・清太と4歳の妹・節子は、隣組の規制厳しい統制下の世間に背を向けて、二人だけの穴蔵生活を営みます。二人は至福の時を過ごしますが、やがて衰弱して死んでしまいます。原作は野坂昭奴の半自伝的短編小説です。
 幼少の頃、生地岡山で大空襲を経験した高畑監督は、自らの経験と想いを込めて演出しました。『母をたずねて三千里』以来、「大人に媚びない等身大の子供」をモチーフとして来た監督は、窮地に陥っても大人に頭を垂れて頼ることが出来ない現代風の少年・清太を作り出しました。同時に作画監督の近藤喜文と共に、日本人らしい表情とリアルな日常芝居を追求しました。
 あどけなく哀れな節子に、多くの観客が感動の涙を流しました。しかし、監督は「過去の戦争の悲惨を語るのみでなく、現代の人間関係を考えてもらうこと」を目指して、幽霊となった兄妹が物語を見つめるという、原作にない二重構成を採用しました。客観主義に徹した上、ラストには「現代への橋渡し」が提示されます。子供を疎外しないために何をすべきか、子供は地域や親族とどう関係を結ぶべきか。涙で濾過出来ない問題が隠れているのです。


おもひでぽろぽろ

 都会の生活に満たされないものを感じたOL女性が、「人の手を加えて作られた田舎」とそこに生きる人々との出会いを経て、過去を反芻する自分に区切りをつけて、新たな可能性を広げていくという物語。岡本螢・刀根夕子の同名漫画が原作です。
高畑監督は、小学5年生の少女・岡島タエ子が経験した学校や家庭での出来事を瑞々しいタッチで綴った回想録風の原作をそのまま生かした「過去編(66年)」に、27歳に成長した主人公を登場させた「現在編(82年)」を加え、1エピソード完結型の原作に見事な関連性を与えるオリジナルドラマを創作しました。 監督は、「近年農村をきちんと描いた日本映画はない」と語り、地域特産品である紅花の生産・加工を丹念に描き、有機農業の理念を熱く語る青年を登場させました。そこには都会に生きる成人女性への激励や農業従事者への共感が込められていました。
現代編は初めて成人女性を主人公としたアニメーションであるため、作画の近藤喜文によって、頬骨の線や口元のしわなど、妙齢の表情表現が追求されました。また美術の男鹿和雄によって、白味を活かした水彩風の過去編と実景さながらに描き込んだ現在編の異なる二様式が使い分けられました。
 セルアニメーションで現実を刻印する高畑監督の一つの頂点と言うべき作品です。

総天然色漫画映画 平成狸合戦ぽんぽこ

 東京都下多摩ニュータウンの開発で生地を追われた狸たちが、四国から長老狸を師に招き、伝統的な変化術を駆使して人間に戦いを挑むという物語。生来お人好しの狸たちの戦いは、「妖怪大作戦」をピークに盛り上がるものの、何ともしぶとい人間たちに迷走・混沌し、果ては過激な玉砕戦法から念仏宗教まで現れます。生き残った狸たちは、あるいは人間に同化し、あるいはゴルフ場に居を移して、それでも「どっこい生きていく」ことを決断。ラストシーンでは、踊る狸たちのバックに『火垂るの墓』同様、現代東京のイルミネーションがせり上がります。
 この作品では、これまでのリアル路線から一転してファンタジックな動物キャラクターたちが登場しましたが、あくまで個々キャラクターの思い入れを拒否した群像劇となっており、「現実を照らす」高畑監督のモチーフは一貫しています。高畑監督は、制作にあたり多摩丘陵のタヌキ保護運動を綿密に取材し、生活圏を追われて事故死が頻発する狸の現状を視察。さらに、狸の生態を調べ、狸伝説を収集し、狸妖怪を描いた日本画を参考とし、あらゆる角度から日本人と狸の関係の総決算と呼べる映画を創り出しました。同時に作品は、狸と同じく、日々悪化する環境で暮らすことを強いられる現代日本人に対する優れたメタファー(隠喩)でもあります。

ホーホケキョ となりの山田くん

いしいひさいちが新聞紙上に長期連載を続けている4コマ漫画(現在は『ののちゃん』と改題)が原作。高畑監督は、細々とした家族の日常を活写した89の短編をつなぎ合わせて長篇アニメーションに仕上げました。スタジオジブリの前作『もののけ姫』(1997年)と対照的に、ぐうたらで憎めない日本人家族の生活標本を提示しました。ドラチックな緊張感もなく、近未来も魔法も喋る動物も登場しない、まさにアンチ・ファンタジーの実験的革新的作品です。
高畑監督は、キャラクターを塗りつぶし、背景との質的統一を欠く「セル・アニメーション」様式との離別を決断。複雑な物語や絵の密度で見せる従来路線から遠ざかり、簡素なキャラクターで生々しい演技を描き出し、芝居で観客を魅了することを目指しました。技術的には、途切れた鉛筆線をそのまま生かし、にじみや塗り残しを活かした水彩画風画面で統一する新様式を開発。このため、作画1枚につき、元絵・彩色部と白の塗り分け用・白地が透けない為のシルエットの3枚の動画が必要となり、膨大な動画枚数が必要となりました。一方、背景は細部の描き込みを徹底的に減らし、線描を水彩でざっと塗り分ける程度。はじめから緻密な空間を描いて配置するのではなく、キャラクターの芝居に伴って事物や空間が立ち現れるという、印象的再現が目指されました。いずれも前代未聞の劇的な技術転換でした。
 それまでの高畑監督単独演出でなく、日常的エピソード全般の演出を田辺修が、冒頭の昔話や海中のイメージやラストの町中の大俯瞰などデジタル中心のシーンの演出を百瀬義行が担当しました。
 この作品以降、高畑監督は長篇制作から遠ざかっていました。


かぐや姫の物語

日本最古の物語の長篇アニメーション化作品。竹から生まれたかぐや姫が、翁と媼に育てられ、美少女に成長。5人の貴族と帝の求婚を退け、月に帰って行くまでが描かれます。ほぼ原典に忠実でありながら、里山での幼少期、都への引越としつけ、帝との対話など、多くの展開に独自の解釈と膨らみが加えられており、オリジナルのキャラクターも多数登場。枠組みは高畑監督が嫌う「美少女ファンタジー」ですが、美しいことも月の住人というファンタジックな設定も、幸福に繋がりません。むしろ、姫と周囲の心理的葛藤を描くことで、のどかな昔話のイメージを払拭し、新しく現代的な物語に昇華されています。
高畑監督は、東映動画の新人時代に「かぐや姫」の企画書を記したことがあり、実に50年越しの企画となりました。前作『となりの山田くん』の技法を更に発展させ、より高度な水彩画風技法に挑んでいます。制作に際しては、スタジオジブリ本社とは別にスタジオが設けられ、精鋭のフリー・アニメーターが集められました。人物造型・作画設計などの指揮は田辺修で、線描を増やした上で、大胆かつ繊細な演技設計が成されています。美術監督は『もののけ姫』以来となる男鹿和雄で、描き込みを減らしてなお、豊かで美しい日本の四季を描き出しています。高畑監督は、安直な時代劇風の世界を避け、平安時代の風土、建築様式、機織り操作や琴演奏、化粧やお歯黒などの習俗まで分析的に再現しています。
その執着、技術的達成、スケールとテーマ、8年の制作期間、全てに於いて桁外れです。総決算的な快作と言えるでしょう。

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