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高畑勲監督作品を
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文責/叶 精二

※以下の文章は情報サイト「au ioves ジブリ」内「かぐや姫の物語」キャンペーン特設サイト
「高畑勲展」(2013年11月7日〜2014年1月31日配信)に掲載されたものです。

「au loves ジブリ」「かぐや姫の物語」キャンペーン実施について


1. 水彩画風の「アニメーション」

 日本で大変盛んな「アニメ」は、たいてい均一な線で括って平面的に塗りつぶした人物と、写実的立体的に描き込んだ背景をセットにして撮影する「セル・アニメーション」という技法で作られています。これは「アニメーション」と言う広大な映像表現の、一ジャンルに過ぎません。高畑勲監督は、常に「アニメ」の枠組みを押し広げ、「アニメーション」の可能性を追求して来ました。
高畑監督は『じゃりン子チエ』(1981年)で、既にキャラクターを塗りつぶさずに余白を活かす「非アニメ的」技法を検討していました。結局キャラクターは従来通りでしたが、背景画は漫画のカラー原稿に近いペン画風に仕上げられ、独特の世界を作り出しました。
念願が叶ったのは、『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)でした。この作品で、高畑監督は人物と背景を水彩画風に統一する新技法に挑戦しました。素描風の粗い線で描かれた4頭身のキャラクター、見せたいものを集中的に描き、背景は大胆に描き飛ばす。そして、各場面が一枚の絵のような質感を保ったまま動く。描き込み、作り込んだニセのリアリズムを捨て、描き込みを減らした線で表現することで、観客がホンモノを想像することを目指したのです。それは、世界でも類例のない長篇アニメーションでした。
『かぐや姫の物語』では、更にその技法が推し進められています。キャラクターの線の強弱や濃淡は更に生々しく、表情から仕草まで、より複雑で繊細な表現が試みられています。たとえば、揺れ動く姫の心理の表情表現、流れるような線の束で描かれた姫の長髪の動きなどは、かつてない表現と言えます。また、線描と余白を活かして透明水彩で描かれた背景は端的で美しく、どこか懐かしい日本画のようです。
 なお、このような「観客に想像させる」アニメーション技法には高畑勲監督が敬愛するカナダのアニメーション作家、フレデリック・バックの影響が見て取れます。


2. プレスコ(声の先行録音)

 日本の「アニメ」の声の演出は、たいてい作画に合わせて後から声を吹き込む「アフレコ(after recording)」が採用されています。『じゃりン子チエ』で声の出演を担った関西芸人たちのアフレコに立ち会った高畑勲監督は、「先に声を収録していればもっと良くなったのに」と思ったそうです。アフレコでは出来上がった絵にタイミングを合わせる特殊な技能が必要になる為、慣れない役者や芸人たちの演技にブレーキがかかってしまうことがあります。しかし、先に声を何パターンか録音し、そこに作画を合わせる工程なら、伸びやかな演技が可能になります。ただし、声のタイミングやアクセントに作画をシンクロさせるには、何倍も手間暇がかかってしまうのです。
 高畑監督は、 『火垂るの墓』(1988年)で「プレスコ(pre scoring)」を採用しました。当時、清太の声を演じた辰巳努君は15歳、節子を演じた白石綾乃ちゃんは5歳。役の実年齢に近い子供たちは、スタジオで本当の兄妹のように遊んだりしながら声を録音したそうです。以来、『おもひでぽろぽろ』(1991年)『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)と、全作でプレスコを導入。様々な制約で全てをプレスコ録音というわけには行かず、アフレコの追加録音も行っていますが、極力発声のニュアンスに作画を近づけようと努力を続けて来ました。
 『かぐや姫の物語』では、ほとんどがプレスコです。2012年に亡くなった地井武男さんが「竹取の翁」を演じており、「遺作」として話題になっています。しかし、それは2年も前(2011年夏)にプレスコが行われていたからなのです。


3. 座付き作家

 高畑勲監督は「座付き作家」(特定の劇団に専任所属している劇作家・脚本家のこと)を自称されています。自身で絵を描かない高畑監督は、まず作画監督や美術監督を特定し、スタッフの持ち味・個性に従って作品の細部を設計して行くのです。よって、作品は優秀なスタッフの個性と切り離すことが出来ません。※ 註  
たとえば『火垂るの墓』は、『赤毛のアン』(1979年)でも組んだ近藤喜文さんが作画監督でなければ制作出来ないと公言。『おもひでぽろぽろ』(1991年)は秋田出身の男鹿和雄さんが美術監督を務めることから、男鹿さんの出身地である東北地方を舞台として描くことに決まったそうです。
『かぐや姫の物語』は、「子供を描きたい」という田辺修さんの要望に応え、長年温めていた「平家物語」を断念して取り組んだ企画です。里山に遊ぶ幼い姫と子供たちのシーンは、元の話にはありません。田辺さんと共同で創り上げたのだと思います。また、里山の美しい四季や満開の見事な桜が描かれますが、これは明らかに美術監督の男鹿さんの個性を前提とした設計です。男鹿さんはジブリで初めて美術監督を務めた作品が『となりのトトロ』(1988年)でした。以来、懐かしく暖かい日本の里山を描き続けてきた方なのです。

※ 註記  
高畑監督は、同じ作画監督や美術監督と何度も仕事をしています。
 作画では、『ホルス』『パンダコパンダ』『じゃりン子チエ』では大塚康生、『パンダ』『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』では宮崎駿と小田部羊一(『チエ』も)、『赤毛のアン』『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』では近藤喜文、『山田くん』『かぐや姫』では田辺修と組みました。
 美術では、『ハイジ』『アン』で井岡雅宏、『三千里』『セロ弾きのゴーシュ』で椋尾篁、『チエ』『火垂るの墓』で山本二三、『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』『かぐや姫』で男鹿和雄と組みました。


4. 「観客に見つめさせる」(長回しと固定カメラ)

 『かぐや姫の物語』の冒頭に、竹を切る翁の横で幼い姫がタケノコを運ぶカット(カメラが切り替わるまでに流れる時間)があります。真横の位置から2人の全身小さく写したカットで、カメラは全く動きません。このカットは34秒もあります。
都に出てから相模が姫をしつけるシーンで、姫が着物から抜け出して逃げてしまうカットも同じです。やはり真横でカメラは動かず、36秒もあります。まるで定点観測のようです。
 実は、このようなカットは「最近の日本のアニメ」には、ほとんどないのです。最近は、短いカットを積み重ね、激しいカメラワークが伴う「アニメ」がとても多くなっています。カットが短ければ短いほど動きの幅も狭くなり、動画の枚数も描く手間も省くことが出来ますし、カメラが派手に動けば一見スタイリッシュでカッコ良く、細部を誤魔化すことも出来ます。
 高畑監督の作品はこの真逆で、カメラはほとんど固定のまま動かず、長回し(1カットの撮影時間が長いこと)がとても多いのです。それは、たっぷりと時間をかけて、演技の起点から終点までをじっくりと観客に見せることを意図しているからだと思います。何気なくやっているように見えますが、これは誤魔化しがききませんから、大変な演技力と画力が必要な離れ業です。
 こうして、観客は知らず知らずのうちに、かぐや姫の愛らしさを観察していることになり、その積み重ねが親近感に繋がって行くのです。

★独立コラム 最大最長のカット
『平成狸合戦ぽんぽこ』(シーン59c-3/情けないオヤジ2人と背後の妖怪大作戦)について

  『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)の中盤の山場である「妖怪大作戦」をバックに、団地の屋台で飲んだくれたオヤジ二人がクダをまくカット。これは、全スタジオジブリ作品でも最大最長のカットだと思われます。カメラは屋台に座った親父たちを真正面から低位置で捉え、そのまま固定。トータル 78.5秒!
狸たちが必死で妖怪に化けていても、飲んだくれたオヤジたちは「神経のせいだろう」と、ろれつの回らない口調で意味のない会話を繰り返します。これも、高畑勲監督の「考えさせる」カットです。


★統計資料 スタジオジブリ作品 歴代長回しカット ベストテン

順位/ 作 品 名 /カットナンバー/シーン説明 /秒数

1.『平成狸合戦ぽんほこ』 59c-3 屋台のオヤジ2人  78.5秒
2.『火垂るの墓』6-108  清太がスイカを置いて横穴を出る「節子はそのまま目をさまさなかった」 52秒
3.『火垂るの墓』1-14 冒頭、死亡した清太を発見した駅員の会話 42秒
4.『ホーホケキョ となりの山田くん』5-9-8 室内にカメラをセットしようとするたかし 40秒
5.『かぐや姫の物語』10-63 かぐや姫に求婚の口上を述べる貴族 39秒
6.『おもひでぽろぽろ』19-4 迎えに来たトシオとタエ子の車中会話 37秒
6.『ホーホケキョ となりの山田くん』1-1 月〜しげがポチの散歩まで(最初のカット) 37秒
7.『平成狸合戦ぽんほこ』59e-3 団地入口での主婦の立話 36秒
7.『ホーホケキョ となりの山田くん』8-4-2 病室での眼鏡の女としげの会話 36秒
7.『かぐや姫の物語』6-1 相模のしつけから抜け出すかぐや姫 36秒
8. 『ホーホケキョ となりの山田くん』10-3-5 どら焼きとバナナ〜たばこを吸おうとするたかしと灰皿とマグカップを持って来るまつ子 35秒
9. 『火垂るの墓』5-77 留守中に横穴にやって来た悪ガキたち 34.5秒
9.『かくや姫の物語』10-76 かぐや姫に求婚の口上を述べる貴族 34.5秒
10. 『火垂るの墓』6-71 窓口で金を受け取り敗戦を知る清太 34秒
10.『ホーホケキョ となりの山田くん』3-2-16車内での一家4人の言い争い 34秒
10.『ホーホケキョ となりの山田くん』7-3-6しげ「ビーフのストロノガフガフ」 34秒
10.『かくや姫の物語』2D-2 タケノコを運ぶ幼い姫 34秒

番外 『天空の城ラピュタ』ラストカット(トメ絵)大気圏外に漂うラピュタ 165秒

※参考までに宮崎駿監督作品の長回しカットのベストワンは、『もののけ姫』オープニング雲と山々をバックとした文字スーパーのカットで23秒でした。


5. ファンタジーはきらい

 『かぐや姫の物語』は、物語の枠組みは荒唐無稽で、主人公のかぐや姫自身が「竹から生まれた」ファンタジックな存在です。しかし、その存在は逆に現実から浮き上がり、多くの不幸をもたらします。かぐや姫も、育ての親の翁と媼も、嘘つきの求婚者たちも、それぞれに苦い結末を迎えることになるのです。登場人物たちは、まるでファンタジーと現実の狭間に翻弄される現代人のようです。
 高畑監督は、心地よい架空世界の冒険を描くことで、現実を濾過してしまうファンタジーが巷に溢れていることに警鐘を鳴らしてきました。よくあるファンタジーでは、主人公の心情に寄り添い、主観的に切り取られた世界しか描かれず、背景の社会構成や客観的情勢などは視界の外に追いやられてしまいます。主に愛や勇気や超能力を発揮すれば乗り越えられる問題が提示され、解決不能の絶望的現実や報われない努力などは余り提示されません。
  『平成狸合戦ぽんぽこ』は一見狸たちの奮戦を描いたファンタジーのように見えますが、実は多摩丘陵で実際に進行中の苦い現実を直視した(監督曰く)「空想的ドキュメンタリー」。実際に全国の狸たちは、今も住処を追われ続けています。
 ほのぼのとした 『ホーホケキョ となりの山田くん』でもラスト近くのエピソードに、原作漫画とは異なる苦い結末が追加されています。ファンタジー世界のヒーロー・月光仮面を夢想しながら、現実では暴走族に注意一つもまともに言えずに、公園のブランコで独り落ち込む父・たかし。そこには、「空想では対応出来ない現実を一体どうするのか」という監督の強い主張が込められていたと思います。


6. 人間を描く

かぐや姫は様々な表情を見せます。里山で無邪気に遊ぶ少女の顔、名付け親の秋田を一目でまいらせる絶世の美貌、十二単をかなぐり捨てて疾走する夜叉のごとき憤怒の顔。綺麗なだけでも、可愛いだけでもない、情況と感情に応じた深い感情を秘めた様々な顔が描かれるのです。
 高畑勲監督は『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)以来、ずっと人間の深い心理を描こうと努めて来ました。この作品の中盤、ヒロインのヒルダは自分を理解しようとすらせず、「話してしまうんだ」と促す主人公ホルスを嗤って(あざわらって)「なんて? いまにあたしがあなたをこの手で殺すんだって?」と言います。ヒルダは眉をしかめ眼は苦悩で歪み、口は嗤っています。こんな複雑な表情は、それまでのアニメーションにはありませんでした。
『アルプスの少女ハイジ』(1974年)では、叔母に連れられて着ぶくれた無表情なハイジが、山で服を脱ぎ捨て開放的な明るさを取り戻す様子が、表情の段階的変化で描き出されました。フランクフルトで郷愁を押し込めて陰る表情、また山へ戻って明るさを取り戻すハイジ。いずれも、深く繊細な表情への挑戦であったと思います。
 都で男たちの好奇の眼にさらされ、翁と媼の愛情に背を向けて月に帰るかぐや姫には、台詞には出来ない、計り知れない内面の苦悩が隠れている筈なのです。高畑監督は、それを時に荒々しく、時に静かに丁寧に描き出しています。
高畑勲監督の言葉を引用します。
「アニメーションで非常に現実的なことなどやる必要がない、向いていない、とよく言われます。しかし、僕はそうは思いません。アニメーションは優れた演者による落語の表現と同じ力も本来持っている。よく知っていると思いこんで、関心も払わなければ、その魅力に気付きもせずに過していることがらを、ああ、人はこうして生きているんだなァ、という感動とともに再刻印させる力があるはずなのです」
(『とんぼの本 アニメの世界』新潮社 1988年)

7. 考えさせる結末

『火垂るの墓』のラストは赤い幽霊のような兄妹が、丘上から現代神戸のイルミネーションを見つめているというシーンでした。不幸な時代の可哀想な兄妹を描いた反戦映画という評価が多かったのですが、監督は、現代に至ってなお成仏出来ずに彷徨う「疎外された子供をどうすべきなのか」、「これは過去の問題ではない」という極めて現代的な問いかけを発していたと思われます。
 『おもひでぽろぽろ』のラストは、タエ子が嫁になる決意で農家へ戻るという解釈が多いようですが、実はその後に独り残された10歳のタエ子が黒バックに解けて消えていくというカットが本当の最後です。現在の決断の為に過去が呼び出され、役目が終われば消滅してしまうのですが、「それでいいのだろうか」という後味の悪さが残ります。
 『平成狸合戦ぽんぽこ』は、彼方の新宿副都心のネオンをバックにゴルフ場で踊る狸たちで終わりますが、これも「果たして、こんな結末で良かったのか」と考えざるを得ません。
 『となりの山田くん』の暴走族注意の挿話も同じです。
 『かぐや姫の物語』のラストは、皆さんがご存知の通り、「翁と媼の住む地球を捨てて月に還る」という展開ですが、やはり「それでいいのだろうか」という深い余韻を残すものとなっています。
 こうした「考えさせる結末」は、元をたどれは、高畑勲監督が指標と仰ぐフランスの長篇アニメーション『やぶにらみの暴君』(1952年)とその改作版『王と鳥』(1980年)の影響と言えるでしょう。

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