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高畑勲全著作 書評−3

「映画を作りながら考えたことII」

高畑勲・著(徳間書店)

文責/叶 精二

※以下の文章は「キネマ旬報/99年10月上旬号」(99年10月1日/キネマ旬報社発行)に掲載されたものです。


 高畑勲監督が方々で行った講演・対談・寄稿を集めた著述集の第二弾。前作は「太陽の王子 ホルスの大冒険」から「おもひでぽろぽろ」まで、作品毎・年代別に集成した構成で、今回も「おもひで」「平成狸合戦ぽんぽこ」「ホーホケキョ となりの山田くん」の三本が巻頭を飾る。しかし、以降は「人」「音楽」「子供のための映画について」などの章分けで、過去の作品や作品以外の言及が続く。この新構成が、監督の知られざる一面や奥深い表現の深層を照らし出す。本書の真価はこちらにある。
 高畑監督は、豊富な文化的・芸術的知識を有し、社会的・政治的立場を押し出し、常に明確な目的意識を持って作品を創作して来た。本書の内容も、都市の景観などの環境問題、宮沢賢治、ベートーヴェン、日本の子供の「自己拡張幻想」への危惧、ファンタジー批判、日本のアニメーションの現状など、実に幅広い。いずれも独自の整理・解釈がなされており興味深いが、ここでは別項の紹介にとどめたい。

 まず、「人」の章。ノルシュテイン監督交流記を除く全てがメインスタッフへの謝辞や追悼文である。
 高畑監督は、自ら絵を描かないためスタッフの力を最大限に引き出す。かつて監督は「自分は『座付き作家』だ」と語っていた。劇場専属の役者に合わせて設定を決め、得意な芝居を考慮して脚本を書くという意味だ。アニメーションでは主にアニメーターや背景美術家などが役者にあたる。監督は、東北出身の男鹿和雄氏を前提として「おもひで」の舞台を山形に設定し、故・近藤喜文氏のセンスと力量を見抜いて「赤毛のアン」のキャラクターに挑戦したことなどを記している。それらは、肩を組んで支え合い壁を乗り越えて来た《高畑組》の「新しいアニメーション」への挑戦記録でもある。 
 一方、宮崎駿監督の著述集『出発点』に寄せた「エロスの火花」は、その正確な日常描写故に、「素顔の宮崎カントク」を知らない読者を笑わせ、驚かせる。宮崎監督の対象アプローチや演出法の鋭い分析は圧巻。ここまで踏み込んだ宮崎監督論を展開出来る人は二人といない。
 中でも、「自分の極論に拮抗して弁証法を発展させる相手を欲している」という内容は、高畑・宮崎両監督の関係性に触れたようで興味深い。宮崎監督も「対立する会社なき今、自分が高畑監督の仮想敵」と語っているが、自身にとっても同義(高畑監督が仮想敵)ではないか。
 普段口もきかない二人の関係は、作品によって互いを強烈に否定して高次に至る「正−反−合」の自覚的弁証法によって成立している―と考えれば、制作から興行まで何もかも正反対であった「もののけ姫」と「山田くん」にも、必然的連続性が見えてくる。ファンとしては、いつまでも健全な弁証法的発展が持続して欲しいと願うしかない。

 また、巻末の「いつか作品にしたい企画」に収録された二つの企画書には仰天させられる。
 振り返って見れば、高畑監督が自ら申し出た企画は少ない。名作テレビシリーズは会社側の企画、「ぽんぽこ」は宮崎監督の「次は狸」の一言から、「山田くん」は鈴木敏夫プロデューサーの説得―といった具合だ。その都度、監督自身の企画は棚上げ状態となっていた。ここでは、長年温めている「幻の企画」の一部が明かにされる。
 一つは九二年の企画で、カムイユカラの短編映像化。初監督作「太陽の王子」の原作の一つでもある『小オキクルミのてがらばなし』を、神謡そのままのイメージで、アイヌ民族の正確な文化的背景を基に、民族音楽を用いて復元したいと言う。誇るべき文化遺産を次世代に引き継ぐ目的もあったようだ。
 もう一つは九六年の企画で、念願の『平家物語』断巻の映像化。ところが、何と全ての人物を『鳥獣人物戯画』の動物キャラクターで演じさせようというのだ。その名も「鳥獣平家」!
 どちらの企画も、前代未聞・大胆奇抜としか言いようのない強烈な個性を放つ。当然だが、高畑監督はセルアニメ以外の新たな表現を考えているに違いなく、その実現に至る労苦を思うと気が遠くなる。簡便なファンタジーが大半を占める日本のアニメ業界の志向とは余りにかけ離れている。だが、もし実現すれば確実に歴史に刻まれる作品となることであろう。
 巨匠の創作の泉は、まだまだ尽きることなく湧き返っているようだ。



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