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高畑勲全著作 書評−2

「十二世紀のアニメーション
−国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの−」

高畑勲・著(徳間書店)

文責/叶 精二

※「別冊COMICBOX/Vol.5『ホーホケキョ となりの山田くん』を読み解く!?」(99年8月10日/ふゅーじょんぷろだくと発行)掲載。再録に当たって若干加筆しています。 


●八〇〇年の時をブリッジする試み

 これは驚くべき労作である。
 高畑勲監督は、本書の巻頭文で「日本人はなぜ、マンガやアニメが好きなのか」という巨大な疑問に対する回答を試みている。海外を訪れる度に聞かれるこの質問に、監督は「中世の絵巻物以来の伝統だ」と応えて来たと言う。今村太平氏の『漫画映画論』(注1)をはじめ、戦前から「絵巻はマンガ的だ」という指摘はあったが、本書の白眉はそれを具体的技術的に徹底検証したことにある。
 監督は、まず前文で衝撃的な日本文化論を端的に述べて、八〇〇余年の時を越えて絵巻と現代の日本のマンガ・アニメをブリッジさせようと試みる。
 日本人は、
○1 事物を輪郭線で括り、簡単な塗り分けを施した平明な絵を好んで描き、
○2 絵と文章を併載し、時間の推移と共に物語を楽しむ「語り絵」という特異な文化に親しんで来た。「浮世絵」や「草双紙」等、その伝統は絶え間なく続いて来た。
 監督はこの「語り絵」文化が栄えた根因は、日本語の言語体系にあると説く。日本語は、視覚と音声のあいまいな二重性を楽しむ特質を持つ。オノマトペ(擬音語・擬態語)の汎用(注2)、強引なフリ仮名や当て字(注3)、文字による「絵描きうた」等々、他文化には例のない言葉遊びが異常に発達している。日本語を喋ること自体が、絵と言語を同時に楽しむマンガ・アニメ文化を必然化させて来たというのだ。(注4)
 この結論には、二重の意味で監督の独創性と作為が滲む。
 第一に、日本絵画を西欧絵画の下に見てきた従来的価値観へのカウンター・パンチ的意義。本書は、「日本絵画は世界に例がないほど独創的で面白いのだ」という趣旨に貫かれている。帯文を担当された日本美術史家・辻惟雄氏は、著書『奇想の図譜』(注5)などで豊富な拡大図を引用してこれを実証して来た。高畑監督の論旨は、これを更に発展させ言語体系と結び付けたもの。それは、総合性を欠く美術教育・美術鑑賞のあり方への実践的批判でもある。
 第二に、蔑まれてきたマンガ・アニメを国宝絵巻の継承文化と捉え、日本文化の根幹である言語体系にまで結び付けてしまうという野心(注6)。それは、無国籍ファンタジーに背を向けて、日本を舞台にしたアニメーションを撮り続けて来た監督自身のこだわり(日本人にとってアニメとは何か?)に対する検証作業でもあった筈だ。
 監督は、言語学・解剖学・歴史学等の諸説を引用した総合的仮説としてサラリと提起するに止めているが、その論旨は革新的であり、今後各学界での検証論議が望まれる。
 さらに監督は、優れた絵巻は《映画的法則性》で解釈してこそ、真意が伝わると主張。具体的には、
○1 俯瞰撮影に似た斜投象右面構図が全構図の基本とされていること、
○2 横移動だけでなく、パンからズーム、空撮まで縦横無尽のカメラワークが存在すること、
○3 建物が吹抜屋台的透視図になっていること、
○4 異時同図による巧みな時間推移の演出、
○5 複雑なカットバックや過去へのフラッシュバック、
○6 霞の枠によるによるカメラの上下運動、等々で、まさしく映画的技術(そこから展開した漫画表現を包含する)のオンパレード。何と日本人は、映画の発明より七百五十年も前に映画的技術に習熟していたのである。当時の世界を見渡しても、これほど意識的に「時間」を塗り込めた絵画芸術など、どこにも展開していないと言う。
 高畑監督は、こうした「語り絵」の特徴をマンガ・映画に連なる傾向という意味を込めて「時間的視覚芸術」と名付けている。

●新説続出の驚異的技術解説

 本書は、『信貴山縁起絵巻』『伴大納言絵詞』『彦火々出見尊絵巻』『鳥獣人物戯画』という四作の連続式絵巻物を全編カラーで掲載。加えて、詞書全文とその現代語訳も併載。それに高畑監督の緻密な技術解説が加えられている。何とも豪華な完全版である。
 以下、監督の特徴的な言及箇所を幾つか紹介したい。
 最高傑作と言われる『伴大納言絵詞』では、巻頭から応天門炎上に逃げまどう二百余の群衆がドラマチックに描き分けられており、見る者を圧倒する。監督は、これを「アニメ的な行動の連写」とし、絵画史から十六世紀の世俗画(注7)の巨匠ブリューゲルを、映画史から戦後のイタリアン・ネオレアリスモ(注8)を援用。幅広い視野から、その卓越した技術と面白さを検証して見せる。
 また、「一枚抜けている」と言われる第二シークエンスの「謎の人物」の解釈では、「すやり霞」による場面転換法から論考を進め、諸説を比較列挙した上で、推理小説さながらの大胆な筆致で新説を提起している。
 『鳥獣人物戯画』では、複数の写本を交えて豪華な復元を試みた上、「背景は後から描かれた」等の新説を展開。猿の高飛びバーの不自然な構図を指摘し、自説に基づいた左右反転修復図を提示。国宝を描き変えるという離れ技だが、実に自然で補正の正しさが一目瞭然となっている。
 他にも、西欧の写実画に先行した難しいアングルへの挑戦、異時同図による時間表現、民衆の表情や視線の活写、流線によるスピード感や音声の表現など、他の絵巻の名場面も満載。全編見所だらけであり、斬新な観点で絵巻の楽しさが満喫出来る一冊となっている。

●厳密な検証と論理的な自己同化

 余り知られていないが、著述家としての高畑勲監督は、常に謎に挑む探求者であった。本書を含め、その著作群は、推理小説顔負けの謎解きの楽しさに満ちている。
 八四年の著作「話の話」では、多くの識者が映像美以外は「難解」としか評せなかった作品を、「詩的構成である」という新解釈から出発し、ユーリー・ノルシュテイン監督の演出意図を場面単位で説きほぐして見せた。
 九〇年の訳著「木を植えた男を読む」では、既製の原作和訳の恣意的構成に異議を唱え、原文と正確な訳文を併載。微妙なニュアンスの違いから、フィクションの意義をクローズ・アップ。原作者ジャン・ジオノの創作意図、フレデリック・バック監督の演出意図を探り出した。
 一連の著作に共通するのは、対象への深い愛情と理解に根ざした飽くなき研究精神と、時間と労力を惜しまない徹底的な学習・検証である。論理のレベルで自己を作者本人に接近させていく一種の同化作業と言ってもいい。対象を《同化吸収的》に取り込むこの研究姿勢は、高畑監督の演出姿勢にもあてはまる。
 思えば、高畑作品の多くは、もともとは監督が希望する企画ではなかった。テレビの名作シリーズ「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」は制作会社の企画。「じゃりン子チエ」は大塚康生氏の誘いで、「セロ弾きのゴーシュ」はオープロダクションの強い希望により監督に就任。「おもひでぽろぽろ」は斯波重治氏の持ち込み企画、「平成狸合戦ぽんぽこ」は宮崎駿監督の「狸だ!」の一言から、「となりの山田くん」は鈴木敏夫プロデューサーの説得によるものであった。
 しかし、高畑監督は一端引き受けると、原作者の世界観を誰よりも尊重し、行間まで復元するような精密さで具象化して見せた。オリジナルの「ぽんぽこ」でさえ、都市近郊のタヌキ事情を徹底調査した上で、「これはタヌキ達を代弁する“空想的ドキュメンタリー”だ」と宣言したほどである。それは、(悪いたとえだが)名探偵が犯人捜査を進めるうち、しばしばその動機に深い精神的感応を引き起こしてしまう現象にも似ている。 
 この真摯かつ地道な研究・検証姿勢は、流行の即効性文化とは正反対に位置している。自己の直感的結論(好き・嫌い)を基準として、得意分野の知見を肉付けする“共感押し付け型”エッセイを書き散らすライター諸氏、自閉的内向的な演出を好む演出家諸氏は学ぶべきものが多々あるのではないだろうか。
 高畑作品(著作・映画)は多くの優れた創作者の発想を採り込み、無限の広がりを獲得して行く。本書もまた、中世の宮廷絵師になり代わり、その画風と技法を徹底解説しているというわけだ。

●そして研究はつづく

 高畑監督にとって本書は第一歩であるらしく、研究は今後も更に続けられる模様だ。それは、アニメーション監督である高畑氏のもう一つライフワークとなりそうだ。
 「今後は、中国、インドなども視野にいれた時間的視覚芸術の国際比較、そして十二世紀の絵巻物と現在のマンガ・アニメ文化を繋ぐ日本美術史に取り組みたい」(「文藝春秋/九九年七月号」高畑監督インタビュー)
 監督は、今後「時間的視覚芸術」の研究範囲を更に広げるらしい。本書で触れた古代中国の『清明上河図』『洛神賦図』や巻末資料『バイユーのタピスリー』(注9)の事例を、より広く深く比較検討しようというわけだ。
 一方、十二世紀以降の日本美術史とマンガ・アニメをブリッジするという構想も実に壮大である。中世末期の「御伽草子」、江戸時代から明治まで続いたとされる「草双紙(“合巻”を含む)」、江戸時代の後期の「浮世絵」、そして戦後のストーリー・マンガとアニメーション。これらの点と線を、監督がどのようなアプローチで繋ぎ合わせるのか、興味は尽きない。

 高畑監督の研究意欲は止まるところを知らない。監督が手がけたアニメーション作品と同様、常人の発想をはるかに超越した探求心には、ただ驚嘆するほかはない。
 高畑作品のテーマの一つに「人づき合いの回復」が挙げられるが、監督は研究によって歴史上の人物たちとも深いつき合いを回復させているのだろう。まさに、高畑監督にしか出来ない仕事である。
 不勉強な一読者としては、本書の登場を心から喜ぶと共に、続刊を心から待ち望みたい。

(注1)本書で採り上げられた多くの絵巻物の概略的特徴は、既に『漫画映画論』(第一文芸社/三六年発行)で述べられている。現在入手出来るのは、九一年に発行された復刻版。(「岩波同時代ライブラリー」)高畑監督は、東大映画研究会時代に制作した同人誌『影繪』の寄稿文で、既に『漫画映画論』の分析を引用している。

(注2)たとえば、「雨が降る」表現のオノマトペとしては「ぽつぽつ」「しとしと」「ざあざあ」等、イメージ豊かな状態を一語を重ねて示す「畳語型」がある。英語・フランス語などには擬態語がなく、直訳不能だという。(参考/柴田武著『日本語はおもしろい』岩波新書/九五年)

(注3)フリ仮名のマンガ的展開として解剖学者・養老孟司氏の説を援用。高橋留美子著『うる星やつら』に登場した「錯乱坊(チェリー)」の「揚豚(カツ=喝)!」等。(『考えるヒト』筑摩書房/九六年)

(注4)本年四月八日に行われた「ホーホケキョ となりの山田くん」製作発表記者会見の席上、筆者は高畑監督に以下の二点を質問した。
「無国籍ファンタジーが横行する中で、監督が『じゃりン子チエ』以来、ずっと日本を舞台に撮り続けているこだわりの中身は?」
「先月『十二世紀のアニメーション』という研究書を出版されたが、絵巻の研究―あるいは日本の伝統的美術が本作に精神的・技術的に生かされている点は?」
 監督の答えは以下の要旨であった。
「私たちの世代は、戦後の日本に育って、外国に憧れて(アメリカはそうでもないですが)ヨーロッパかぶれで育って来ました。私もそうです。しかし、同時に日本人であるというこだわりからは逃れられない。その、自分たちは何者なのかという部分を曖昧にしたくないということで、ある時期から日本を舞台とした作品をずっと撮って来ました。
 十二世紀の絵巻に関しては、そこに大きな意味で連なりたいとは思います。マンガ・アニメの流行ということでは、日本語を使っていることが大きい。日本語を使う限り、マンガ・アニメ好きの人間になってしまうと思います。」

(注5)辻惟雄著『奇想の図譜 からくり・若冲・かざり』(八九年/平凡社)。辻氏は『奇想の系譜』(七〇年/美術出版社)など、一貫して日本美術の大きな特徴を「奇想」とし、様々な実例を紹介。その分析と研究に努めて来た。

(注6)ただし、この観点を今日の大量生産の結果として生まれた無数の粗悪なマンガ・アニメを免罪するものとして拡大適用するという意図ではないと思われる。また、描き込んだ断片的な静止画で物語を楽しむ絵巻の技法は、直系的にはマンガが後継文化と思われるが、動画であるアニメ(とりわけフルアニメーション)をどう今日的に位置づけるのかは今後の言及を待ちたい。
 「超リミテッド」が全盛を極める現在の日本のアニメーションが、日本人の歴史的志向に合致したものなのか、どこかで歪んだ発展形態なのか、是非とも伺いたいところである。
 
(注7)より正確には、聖書のエピソードや諺の枠組みの中に、俯瞰の構図で膨大な群衆の猥雑さを緻密に表現した。
 高畑監督は、若い時分からブリューゲルの大ファンであった。学生時代に『伴大納言絵詞』を初めて見た時、「日本にもブリューゲルのような作品があったのか」と心底驚いたと言う。(本年六月一三日NHK教育テレビ放映「新日曜美術館」での高畑監督の発言)
 本書の「あとがき」で監督は「日本伝統絵画のなかに描かれた子どもたちを集めた大判画集を編むのが夢だ」と語っているが、それはブリューゲルの傑作『子供の遊戯』にも通じるように思えてならない。

(注8)「リアリズモ」が一般的表記だが、原語に忠実な監督にならってそのまま表記した。なお、高畑監督は過去にイタリアを舞台とした『母をたずねて三千里』の演出にあたり、ネオレアリスモの名作『自転車泥棒』を参考にしている。

(注9)『バイユーのタピスリー』
高畑監督によれば、「一〇六七から八〇年頃に布に刺繍で描かれた絵巻的大作」。一〇六六年のイギリス王位継承戦争を描いたもの。物語を右から左へと時間に逆行しながら読み進める。同種の「時間的視覚芸術」は西洋の遺品にはないと言う。



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