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高畑勲全著作 書評−4
アニメーション                    
「漫画映画の志 『やぶにらみの暴君』と『王と鳥』
高畑 勲 著


岩波書店
■体裁=A5判・292ページ
■定価 2,625円
■2007年5月30日発行
ISBN978-4-00-022037-8 C0074

文責/叶 精二

岩波書店の公式データ(著者からのメッセージ、本文抜粋など)

※この書評は共同通信社文化部の依頼により2007年6月に執筆し、6月30日から7月中旬まで全国の各地方新聞の書評欄に掲載されたものです。掲載紙と記事名は確認されている範囲では下記の通りです。

 2007年6月30日付「福島民報」「書評」欄「漫画映画の志 「考えさせる」へ決意」
 2007年6月30日付「岩手日報」「読書」欄「漫画映画の志 2作品の魅力検証」
 2007年7月1日付「秋田さきがけ」「読書」欄「漫画映画の志 考えさせる作風尊ぶ」
 2007年7月1日付「南日本新聞」「読書」欄「漫画映画の志 旧作・改作の意義を検証」
 2007年7月1日付「北日本新聞」「読書」欄「漫画映画の志 「考えさせる」作品へ決意」
 2007年7月1日付「徳島新聞」「読書」欄「漫画映画の志 考えさせる映画への決意」
 2007年7月6日付「下野新聞」「読書」欄「漫画映画の志 考えさせる映画への決意」
 2007年7月7日付「四國新聞」「読書」欄「漫画映画の志 考えさせる映画づくり」
 2007年7月8日付「熊本日日新聞」「読書 books」欄「漫画映画の志 「考えさせる」創作への決意」
 2007年7月8日付「神戸新聞」「読書」欄「漫画映画の志 考えさせる映画への決意」
 2007年7月8日付「愛媛新聞」「読書」欄「漫画映画の志 仏の革新的長編アニメ検証」
 2007年7月8日付「宮崎日日新聞」「読書」欄「漫画映画の志 決意と創意深さ物語る」
 2007年7月15日付「中國新聞」「書評」欄「漫画映画の志 アニメ制作 自己総括」
 2007年7月15日付「京都新聞」「読書」欄「漫画映画の志 「考えさせる」映画への決意」


 
▲ 2007年7月8日付「熊本日日新聞」「読書 books」欄


▲ 2007年7月1日付「秋田さきがけ」「読書」欄

▲ 2007年7月7日付「四國新聞」「読書」欄


◎書評本文

 今から半世紀以上前の1953年にフランスで公開され、奔放なイメージの中に格差社会や戦争の隠喩を散りばめた革新的な長編アニメーション「やぶにらみの暴君」。実は監督のグリモーと脚本のプレヴェールの意に反した未完成版で、曲折を経て79年に再編集と新作が追加された改作「王と鳥」が完成する。グリモーは旧作を封印したが、日本では改作は不評で、非合法の旧作こそ名作と評価はねじれた。
 しかし、昨夏スタジオジブリの提供によって単館公開された「王と鳥」は、新たな観客に歓迎されヒットを記録。27年前の改作も訴求力を失っていないことが証明された。
 本書は旧作・改作のそれぞれの魅力と意義を、緻密な対比と膨大な検証によって明らかにしているが、謎解き的経過ドキュメントでは終わらず、タイトル通り、グリモーが示した「漫画映画の志」の検証へと論は進む。それは、学生時代から「やぶにらみの暴君」を指標と仰ぎなから進んで来た著者の自己総括でもある。
 著者は宮崎駿らとともに、存在感のある生活空間、奥行きのある縦の構図、社会性に長じたテーマ、複雑な心理描写などに挑み、日本のアニメーションをけん引して来た。
 しかし、それだけではグリモーの一面しか継承していないという。日本の最大の問題は、主人公の主観に寄り添って世界を見失う「考えさせない」作風の大流行で、これは距離を於いて「考えさせる」グリモーとは容いれない。「キリクと魔女」のミッシェル・オスロ監督こそ、継承者ではないかと。
 中盤に客観的で冷静な著者らしからぬ唐突な一文がある。グリモーに、「(旧作も)あなたの作品」だから復活させて欲しいと呼びかけくだりだ。亡き創作者との架空の対話は、「王と鳥」公開に奔走し、ねじれの正常化の重責を負い続けた著者がたどり着いた重く苦い結論である。それは同時に、「今後もグリモーを目指し、もっと考えさせる映画をつくる」という監督・高畑勲の決意と創意の深さを物語っていてすがすがしい。


◎書評の初稿

※以下の文章は書評執筆に際してまとめた初稿(メモ)です。文字数制限が厳しい為、この内容を元に1/3程度に圧縮しました。

 今から半世紀以上前の1953年にフランスで公開され、2年後の日本公開時に若者が熱烈に支持した長編アニメーション映画があった。架空の王国の高層に住む暴君の王と、自由を求める鳥と絵の中から抜け出した恋人たちとの闘争を軸に、奔放なイメージの中に格差社会や戦争など「現代史をまるごと隠喩」(著者)した《観客に考えさせる》タイプの革新的な傑作。その映画の日本版タイトルは「やぶにらみの暴君」であった。
 しかし、この映画は監督のポール・グリモーと脚本のジャック・プレヴェールの意に反して、プロデューサーが強引に公開した未完成版であった。その後、映画の権利は数奇な運命をたどって監督の手に戻り、1979年に旧作の再編集と新作カットの追加によってリメイクされた完全版「王と鳥」が完成する。グリモーは旧作を封印し、フィルムを回収しては破棄した。一方、「王と鳥」の日本試写は不評で、「公認の改作は不出来、もはや観ることが叶わぬ旧作こそ不朽の名作」という評価のねじれが発生した。そんな経緯もあってか、「王と鳥」は日本ではビデオ・DVD発売にとどまり、劇場公開されずにいたが、昨年夏、ようやくスタジオジブリの提供によって東京・渋谷で単館公開された。結果は旧作ファンの不安をよそに、連日満席の大ヒットで、作品は新たな若い観客を魅了した。
 周知のように、著者の高畑勲は日本を代表するアニメーション監督である。著者は、東大在学中に「やぶにらみの暴君」と出会って強い衝撃を受け、漫画映画(アニメーション)の道へと進む決意をした。以来、著者は「やぶにらみの暴君」を指標と仰ぎなから、宮崎駿らと共に、存在感のある生活空間の創出、奥行きのある縦の構図、社会風刺を孕む深いテーマと思想、善玉悪玉の類別不能の複雑なキャラクターの創出などに取り組み、幾多の作品で日本のアニメーションを刷新した。
 しかし、著者も「王と鳥」には失望し、グリモーの意図を量りかねた。「王と鳥」はメッセージがより直裁で、旧作から多くの優れた要素がそぎ落とされ、新旧カットの美術・作画・演出などの様式も不統一であった。1992年、渡仏した著者は憧れのグリモーに出逢い、「王と鳥」の感想を聞かれて戸惑う。これを契機に「王と鳥」の長い検証作業が始まった。著者の結論は、2作とも本質的なテーマは同じであり、各々優れた作品として別個に語るべきというものだった。テーマが鮮明化された改作は、アメリカの「9・11」テロを経て、より訴求力を増しており、その意味ではグリモーの意図は全く正しかったのだと。
 ここ数年、著者はプレヴェールの詩集を翻訳・解説した2冊の単行本やプレヴェール作詞の楽曲集CDを世に送り、「王と鳥」の字幕を手がけ、「ポール・グリモー展」開催などの宣伝展開を担い、まさにグリモー/プレヴェール作品の紹介に尽力して来た。本書は、そうした諸活動の成果から生み落とされた労作である。
 これまでも著者は、「話の話」「木を植えた男を読む」「十二世紀のアニメーション」などの著書で、名作アニメーションから中世の絵巻まで、幅広い作品の論理的な分析を試みて来た。その映像作家ならではの斬新な視点と調査の徹底ぶりは、一般読者はもとより専門分野の研究者をも唸らせて来た。本書に於いても、誰一人語れなかった「改作の謎」に正面から向き合い、詳細緻密な解析によって実像を浮かび上がらせている。フランス側の作品論評や研究の検証に始まり、グリモーや関係者のインタビュー記事、さらには現地のスタッフ取材まで、的確な引用によって証拠が積み上げられて行く。その収集・検討の労力を思うと気が遠くなる。
 しかし、本書は単に「名作の顛末」を検証したドキュメントではない。タイトル通り、グリモーが提示した「漫画映画の志」とは一体何だったのかが、本旨である。高畑や宮崎が牽引して来た日本のアニメーションは、果たしてグリモーを引き継いでいたと言えるのか。リアルで存在感のある作品世界の構築には影響を生かせたかも知れない。しかし、主人公の主観に寄り添って世界を見失う「考えさせない」作風一辺倒の日本の現状は、距離を置いて「考えさせる」グリモーとはほど遠いと警鐘を鳴らす。むしろ、「キリクと魔女」「アズールとアスマール」(いずれも高畑が日本語版字幕と吹替版監督を担当)のミッシェル・オスロ監督こそ「考えさせる」「世の中の役に立つ」アニメーションの正統な継承者ではないかと。それは深刻な問題提起と苦い自己総括でもある。
 本書の終盤、検証を終えた著者は、いつもの客観的で冷静な筆致をふり捨て、突然今は亡きグリモーに「やぶにらみの暴君」上映の復活を熱く呼びかける。「どちらもあなたの作品なのだから、残すべきだ」と。それは、ファンの度を超した感傷でも、ないものねだりでもない。むしろ、自らの原点を力強く肯定し、ねじれを正常に戻し、旧作・改作双方に流れるグリモーの志を引き継ごうという前進の宣言である。そこに戸惑いは微塵も感じられない。
 「まことにアニメーション映画の可能性は無限」という苦々しくも清々しい結語は、そのまま著者の次回作への意気込みではないか。
(2007.6.26.)


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